第40話 第二次ルイナーエ大戦開戦
帝国が正式に宣戦を布告した、その日。
西方評議会の各国政府は、ようやく一つの事実を理解した。
これまで各地から届いていた師団移動の報告も、軍馬の大量調達も、軍需工房の増産も、街道の修繕も、港湾で続いていた艦艇の整備も、全てが一つの目的へ向けられていた。
戦争だった。
しかも、まだ西方側が軍を集め始めたばかりの段階で、帝国軍はすでに国境を越えていた。
宣戦布告と侵攻開始は、ほとんど同時だった。
後世の歴史家は、この戦争を「第二次ルイナーエ大戦」と呼ぶことになる。しかし開戦当初、西方の人々が耳にしたのは、そのような名前ではない。
ただ、東から届く一つ一つの報告だけだった。
帝国軍が来た。
国境を越えた。
要塞へ向かっている。
別の場所でも軍が動いた。
海軍も出港した。
そして、次の報告が届くより早く、別の戦線が崩れた。
アエテリア帝国軍は、開戦と同時に複数方面へ大軍を送り込んだ。
総戦時兵力は九十万人規模。
その中から、最初に北方へ向けて投入されたのが十万人だった。
目標はノルディア大公国。
シルウァニアとセプテントリア諸国を結ぶ北方の要衝であり、セプテントリア側から見れば大陸西部への重要な連絡路でもある。
ノルディアが生きている限り、セプテントリア諸国は北東側から相互に兵力や物資を送り合うことができる。
逆に言えば、そこを失えばセプテントリアの二十六ヶ国は互いに分断される。
帝国軍は、その意味を最初から理解していた。
十万人の大軍がノルディア大公国へ殺到した。
ノルディア側も抵抗した。
大公国軍は小国の中では比較的大きく、城塞と街道の防衛についても十分な備えがあった。だが、帝国軍は最初から守備軍だけを相手にしていたわけではない。
複数の街道から同時に部隊が進み、先行部隊が防衛線へ圧力を加える一方、その後ろから別の部隊が回り込む。輜重隊は前線の進展を待つのではなく、あらかじめ定められた宿駅や集積地へ向かい、軍馬の交換や物資の補給も止めなかった。
ノルディア側が一つの道を守れば、別の道へ帝国軍が現れる。
ある城塞へ兵を集めれば、その間に別の都市が包囲される。
大公国軍が救援へ向かえば、その移動そのものを狙われる。
そして何より、帝国軍は大軍でありながら、進撃速度を落とさなかった。
数日。
それだけの時間で、ノルディア大公国の主要都市と軍事拠点が相次いで陥落した。
最後に大公都が包囲される。
大公国軍はなおも抵抗したが、援軍を送れる周辺国は存在せず、後方との連絡も次第に途絶えていった。
やがてノルディア大公国は降伏した。
その知らせがセプテントリア諸国へ届いた時、まだノルディアの陥落を信じられない国もあった。
しかし、その直後。
別の報告が届いた。
帝国軍が、セプテントリア諸国の国境へ展開していた五万人を動かし始めた。
セプテントリアの各国は、正式な西方評議会への加盟を果たしたばかりだった。
そのため、それぞれが独自の国軍を持っている。
だが、その軍の規模は決して大きくない。
帝国軍が国境へ展開するまでの短い時間で、各国は召集を急いだ。
伝令が街道を走る。
城門が閉ざされる。
倉庫の食料が運び出される。
武器庫が開かれる。
農村から兵士が呼び集められる。
それでも、間に合わなかった。
帝国軍はすでに攻撃を開始していた。
最初に狙われたのは、アルビオン公国だった。
アルビオン軍は街道を封鎖しようとしたが、帝国軍は正面から押し通ろうとはしなかった。山道へ別働隊を送り、その部隊が後方へ回り込む。
公国軍がそこへ兵を移せば、今度は中央街道へ別の帝国軍が現れる。
どこを守っても、別の場所が空く。
その結果、アルビオン公国は短期間のうちに防衛線を失った。
続いてグランディス公国。
そしてレグナリア公国。
さらにオルセリア侯国、カルディア侯国、ネヴァリア侯国、マルティア侯国、フェリオ侯国、グレシア侯国、ヴァレンティア侯国。
それぞれの国境へ帝国軍が入り込み、都市と街道を押さえていく。
セプテントリア側では、各国が単独で帝国軍を止めようとする。
しかし、帝国軍は一つの国だけを相手にしているわけではない。
アルビオンを攻めている間にも、別の部隊がグランディスへ向かう。
グランディスが援軍を求めても、その援軍が到着する頃にはレグナリアの街道が塞がれている。
さらに、後方から新たな部隊が進んでくる。
そのため、一国が抵抗するたびに、その国だけでなく周囲の国々まで戦力を分けなければならなくなった。
次第に、降伏する国が現れ始めた。
最初の降伏は、ある意味では軍事的敗北よりも政治的な意味を持っていた。
隣国が降伏した。
ならば自国も、同じように包囲される可能性がある。
援軍を求めても、帝国軍に街道を押さえられている。
そして西方評議会の共同軍も、まだ完全な形では到着していない。
その結果、降伏は一つで終わらなかった。
続けて一つ。
また一つ。
そしてさらに一つ。
こうしてセプテントリア諸国は次々と降伏していった。
だが、降伏した国々の軍まで、全てが武器を置いたわけではなかった。
公爵が降伏する。
侯爵が降伏する。
伯爵が降伏する。
それでも、森や山へ逃げた兵士たちは戦いを続けた。
もともと小国の軍は、それぞれの土地と深く結び付いていた。
国軍の兵士が故郷へ戻る。
騎士が自分の領地へ戻る。
農村の兵士が村へ帰る。
そして、それぞれが小さな部隊を作り直す。
帝国軍の大軍と正面から戦えるわけではない。
だからこそ、戦い方を変えた。
街道を夜中に襲う。
小さな輜重隊を狙う。
見張り台へ近づく。
森へ逃げる。
追撃されれば別の場所へ移動する。
帝国軍が都市を占領したからといって、その周囲が完全に安全になるわけではなかった。
セプテントリア諸国では、国そのものは次々に消えていく。
しかし、軍は消えなかった。
それぞれの旧国軍は分散し、さらに小さな部隊へ分かれていく。
帝国軍にとって、これは想定外の負担になった。
都市を占領する。
街道を確保する。
倉庫を守る。
駐屯兵を置く。
その背後で、別の小部隊が現れる。
帝国軍が一つの地域へ兵力を集中させれば、別の場所で小規模な攻撃が起きる。
そのため、セプテントリアでは降伏した国々が地図から消えていく一方で、戦闘そのものは簡単には終わらなかった。
そして、帝国軍の別の十万人が南へ向かった。
目標はシルウァニアだった。
シルウァニア王国は、すでに一度の大戦争を経験している。
武王ヴァレリウス。
第一王女ビュルニア。
多くの族長。
そして、三十万人規模の軍。
それらをほとんど失っている。
北東部に成立したシルウァニア公国には、以前のような巨大な軍事力は残っていなかった。
それでも山岳民族の戦士たちは抵抗した。
峠を守る。
街道を塞ぐ。
森へ潜む。
帝国軍が進めば、その側面へ現れる。
しかし、今回は以前とは違う。
帝国軍には、すでに統一された指揮系統がある。
山道で一つの部隊が止まれば、別の部隊が進む。
前方の部隊が戦えば、後方から予備が入る。
補給も続く。
それでも、シルウァニア側が完全に崩れたわけではなかった。
帝国軍十万人のうち、七万人がシルウァニアへ本格的に進軍した。
残る部隊は後方と連絡路を確保する。
シルウァニア側は必死に抵抗したが、先の戦争ですでに国力と軍事力のほぼ全てを失っていた。
戦える兵士が足りない。
食料も足りない。
武器も足りない。
何より、王国を一つにまとめる中心そのものが失われている。
数日間にわたって抵抗した後、シルウァニア側は降伏を選んだ。
帝国軍七万人の進撃は止まった。
しかし、そこで戦線が崩れたわけでもなかった。
シルウァニア方面へ帝国軍が向かえば、その隣のセプテントリア側では別の戦いが起きる。
そして西方評議会側からも、エクィトゥム軍が対処に入った。
アンティクイランドから派遣された第七軍団も、モンタヌス方面を中心に防衛に加わった。
帝国軍は進んでいる。
しかし、シルウァニアをさらに深く攻めれば、その分だけ北方や西方で別の問題が生まれる。
その結果、シルウァニア方面は次第に膠着した。
南西のカヴィーレスターンでも、帝国軍の大軍が動いていた。
十五万人。
砂漠と山岳の境界を越え、カヴィーレスターン領内へ進む。
カヴィーレスターンは、広大な砂漠を支配する国だった。
その土地を守るため、長距離移動に慣れた騎兵や砂漠戦に適した兵士たちが各地から集められる。
帝国軍は都市を押さえ、街道を確保しようとする。
しかし、カヴィーレスターン側は正面から全軍をぶつけるだけではなかった。
砂漠を利用する。
夜間に移動する。
帝国軍の補給路を狙う。
水の少ない地域で進軍を遅らせる。
そして、帝国軍が大きく前へ出た場所へ集中して反撃する。
帝国軍十五万人は大規模だった。
だが、カヴィーレスターンも決死の抵抗を続けた。
都市の一つを失っても、次の都市で抵抗する。
街道を押さえられても、別の道を使う。
帝国軍が追撃へ移れば、砂漠へ兵を引く。
それでも帝国軍は前へ進み続ける。
戦場は次第に、どちらも決定的な勝利を得られない消耗戦へ変わっていった。
帝国軍は大軍であるからこそ、広大な砂漠全体を同時に制圧することが難しい。
カヴィーレスターン側は兵力で劣るからこそ、全ての都市を守ることができない。
それでも、互いに相手を完全に崩せない。
ここでも戦線は膠着した。
そして、その間に帝国軍の本命が動き始めた。
アンティクイランド。
西方評議会本部が置かれている国。
エクィトゥムとカヴィーレスターンを、地理的にも外交的にも繋ぎ止めている国。
西方の主要国が、それぞれ自国の軍事力を維持しながら共同体として機能できている理由の一つが、アンティクイランドの存在だった。
帝国はそこへ目を向けていた。
「ここを落とせば、評議会は崩れる」
帝国軍の司令部で、そう判断されていた。
西方評議会は、多くの国が集まっている。
しかし、それらを繋ぐ場所まで失えば、共同軍の召集も、物資の輸送も、各国間の連絡も難しくなる。
特にアンティクイランドには西方評議会本部がある。
そこを失えば、政治的にも象徴的にも大きな打撃になる。
そこで帝国軍は、セパラーティオ川を渡った。
渡河作戦には海軍から五個艦隊が動員された。
川幅の広い地点では船を並べ、兵士と物資を対岸へ運ぶ。
川沿いでは、帝国軍の弓兵と弩兵が対岸を警戒し、工兵が渡河地点を整えていく。
海軍艦艇が川へ入り、輸送船を護衛する。
陸軍だけではない。
海軍も含めた帝国の軍事力そのものが、一つの作戦のために動いていた。
アンティクイランド北部。
そこへ五万人が投入される。
北側の街道と防衛拠点を押さえ、王都レクィエリアへ向かう北方の連絡路を圧迫するためだった。
そして南部。
王都方面へ二十万人。
帝国軍は、そこへ巨大な戦力を集中させた。
これまでの戦線とは違う。
ノルディアを落とす。
セプテントリアを分断する。
シルウァニアを降伏させる。
カヴィーレスターンを足止めする。
その全てが、最終的にここへ繋がっていた。
アンティクイランドを落とす。
西方評議会本部を奪う。
そして、エクィトゥムとカヴィーレスターンを地理的にも外交的にも分断する。
それが帝国軍の本当の目的だった。
その頃、アンティクイランド王宮では、ようやく帝国軍の大規模侵攻に関する報告がまとまり始めていた。
「ノルディア陥落」
「セプテントリア諸国が降伏」
「シルウァニア降伏」
「カヴィーレスターン戦線膠着」
報告が一つずつ並べられる。
そして最後に――。
「アンティクイランド北部へ五万人」
その言葉に、会議室が静かになった。
「南部、王都方面へ二十万人」
俺は地図を見つめる。
北。
南。
そしてセパラーティオ川。
これまで分からなかった帝国軍の狙いが、初めて一つの形になった。
「……俺たちが本命か」
ティアがこちらを見る。
「そうみたい」
アトラシート伯爵も地図へ目を落とした。
「帝国は、我が国を落とすことで西方評議会そのものを崩そうとしているのでしょう」
「ああ」
俺は頷いた。
これまで帝国は、北にも南にも軍を送っていた。
だから西方側は、どこが本命なのか判断できなかった。
だが違った。
ノルディアを落としたのも。
セプテントリアを攻めたのも。
シルウァニアへ七万人を送り込んだのも。
カヴィーレスターンへ十五万人を向けたのも。
全てが、アンティクイランドへ圧力を集中させるための動きだった。
そして、その本命戦線へ、帝国軍二十五万人が姿を現した。
その日から、アンティクイランド全土で緊急動員が始まった。
王都へ向かう街道を、兵士と荷馬車が行き交う。
各軍団から兵士が集められる。
諸侯軍にも召集がかかる。
城塞では食料と武器が運び込まれる。
王国軍の第七軍団はモンタヌス方面から移動を開始する。
王立士官学校からも、候補生たちが後方支援と伝令の任務へ回される。
だが、それでも遅い。
帝国軍は、すでにセパラーティオ川の向こう側から進んでいる。
こちらが五万人を集める。
その間に帝国軍は前へ進む。
こちらが南部の防衛線を整える。
帝国軍は別の街道から現れる。
西方評議会へ援軍要請を送る。
だが、各国もまた戦っている。
ノルディアは落ちた。
セプテントリアでは各国が降伏しながらもゲリラ戦を続けている。
シルウァニアは降伏した。
カヴィーレスターンは十五万人の帝国軍を相手に戦線を維持している。
だから、アンティクイランドを救うために、すぐに大軍を集められるわけではない。
西方評議会は巨大だった。
それでも、一つの国家ではなかった。
その弱点を、帝国は最初から理解していた。
俺は王宮の地図を見つめた。
東から帝国軍が来ている。
北から五万人。
南から二十万人。
そしてセパラーティオ川では、五個艦隊まで動いている。
「……本当に、準備する時間を与えるつもりがないんだな」
俺が呟く。
ティアが静かに頷いた。
「うん」
これまで俺たちは、帝国の動きを見ながら準備していた。
だが、今度は違う。
帝国の軍が、準備そのものを追い越して進んでいる。
そして俺は理解し始めていた。
これは単なる国境戦争ではない。
帝国は、西方評議会を一国ずつ倒そうとしているわけではない。
北で国を落とす。
南で別の国を拘束する。
海と陸から同時に動く。
降伏した国の軍がゲリラ戦を始めても、その処理を最低限に抑えて先へ進む。
そして最後に、本命のアンティクイランドへ最大級の兵力を集中する。
まるで帝国そのものが、一つの意思で動いているようだった。
それこそが、ホスティス皇帝が中央集権化を進めた結果だった。
俺たちは、ようやくその本当の意味を知った。
帝国は強い。
しかし、本当に恐ろしいのは、その強さではない。
巨大な国家が、一つの意思で動いていることだった。
そして、その大軍は今、俺たちの国を目指して進んでいた。
第二次ルイナーエ大戦は、ここから本当の意味で始まろうとしていた。




