第39話 絶望
19歳の冬の終わり。
王都レクィエリアでは、戦争のための準備が少しずつ本格化していた。
西方評議会へ警告が送られてから、各国は完全に何もしなかったわけではない。むしろ、それまでより明らかに多くの時間と資金を軍備へ回していた。帝国で何が起きているのかを正確には把握できなくても、異常な軍事活動が続いている以上、何かが起こる可能性だけは無視できなかったからだ。
エクィトゥムでは、各地の要塞が点検され、既存部隊の配置が見直されていた。徴兵計画も前倒しされ、軍需工房では武器や防具の生産量を増やすための準備が進められている。軍馬や荷役馬も優先的に確保され、主要街道については大軍を移動させる場合に備えて状態が調べられていた。
カヴィーレスターンでも、港湾と交易路を中心に警備が強化されていた。フレイトゥム内海を行き交う商船が多い以上、戦争に備えて港を閉鎖すれば自国経済が先に打撃を受ける。そのため、商業を維持しながら軍事的な警戒を強めるという、難しい両立を迫られていた。
シルウァニアでは山岳地帯の監視所が増やされ、主要街道や峠の警戒が強化された。セプテントリアの26ヶ国でも、それぞれ予備兵の名簿確認、要塞の点検、食料備蓄、軍馬の調達などが急がれている。
そしてアンティクイランドでも、以前から進めていた軍備増強計画がさらに前へ進められていた。
常備兵力は9,500人。
第1軍団1,000人、第2軍団から第5軍団まで各500人、第6軍団1,000人、第7軍団1,500人、第8軍団500人、第9軍団500人、そして諸侯軍3,000人。
戦時には、さらに20,200人を追加する計画になっている。諸侯軍7,500人、士官候補生1,100人、中央軍4,600人、第6軍団の増強分500人、第7軍団の戦時編制500人を合わせ、基本的な戦時兵力は29,700人まで引き上げる。
必要になれば、追加で約7,000人の傭兵を契約することも可能だった。
それらは、帝国がいつ戦争を始めるのか分からない中でも、アンティクイランドが自分たちにできる範囲で整えてきたものだった。
「装備の納入予定は?」
王宮の会議室で、俺はアトラシート伯爵へ尋ねた。
「予定通り進んでおります。既存軍団の補充用武具に加え、第8軍団、第9軍団の装備も順次揃っております」
「徴兵は?」
「前倒しした分まで含め、現在の予定を維持できます。ただ、これ以上早めるとなると訓練と農村の労働力へ影響が出ます」
「軍馬は?」
「必要数は確保できています。荷役馬についても、以前より余裕があります」
俺は頷いた。
ちゃんと準備している。
以前の俺なら、ここまで整っていれば十分だと思っていたかもしれない。
「西方評議会の共同軍召集については?」
「軍事理事会で手順の確認を続けています。緊急時には各加盟国へ同時に召集要請を送り、それぞれの国で動員を開始する仕組みです」
「なら、今の段階では問題ないな」
「はい」
そう答えたアトラシート伯爵だったが、その表情には完全な安心はなかった。
俺も同じだった。
準備は進んでいる。
だが、帝国軍が何をしているのかが分からない。
だから、この準備が十分なのかどうかを判断できない。
敵が10万人規模なら、今の準備でも対応できるかもしれない。
30万人なら、話が変わる。
50万人なら、さらに違う。
それ以上なら――。
俺はそこで考えるのをやめた。
まだ確定した情報がない。
今は、自分たちの準備を進めるしかない。
その頃、西方評議会本部でも同じような話し合いが繰り返されていた。
軍事理事会へ持ち込まれる資料は、以前よりはるかに増えている。各国の警戒態勢、徴兵状況、備蓄量、要塞の修繕、艦隊の整備状況などが順次報告されていた。
しかし、その中央に置かれている帝国関連の資料だけは、相変わらず不完全だった。
「北で師団の移動を確認」
「南でも軍用輸送の増加を確認」
「港では艦艇の整備が続いている」
「帝都周辺では新兵の入営が増えている」
そこまでなら分かる。
だが、
「何個師団が動いているのか」
「どこへ向かうのか」
「主力はどこにいるのか」
「海軍は何を目的としているのか」
「いつ攻撃が始まるのか」
その答えは、どこにもなかった。
だから、西方評議会は戦争準備をしているのに、戦争そのものを具体的には想定できなかった。
東側から来る可能性もある。
北から来る可能性もある。
南から来る可能性もある。
海から上陸する可能性だってある。
それら全てへ同時に十分な兵力を置くことなどできない。
そのため各国は、国境線全体を薄くするように警備を増やし、危険が現れた場所へ増援を送れるよう予備兵力を残すしかなかった。
それは合理的な判断だった。
だが、その合理性そのものが、後になって大きな問題になる。
冬の終わりが近づくにつれ、アンティクイランド王宮では人々の動きも目に見えて変化していた。
以前より頻繁に伝令が出入りする。
各軍団からの報告が届く。
内務関係者は徴兵対象者の名簿を確認し、財務担当者は軍備費と備蓄費の増加を計算する。外務関係者は西方評議会の各国へ連絡を取り、帝国に関する情報が何か掴めていないかを確認する。
それでも、答えは出ない。
「帝国軍の移動について、新しい報告です」
グラフィルが書状を差し出した。
「北方で軍用輸送が増加しているとのことです」
「北方だけか?」
「いえ。南方でも同様の報告があります」
「艦隊は?」
「複数の港で出港準備が進んでいるとの情報があります。ただし、どの艦隊なのか、どこへ向かうのかは分かっていません」
俺は書状を読みながら眉を寄せた。
まただ。
北。
南。
海。
それぞれで帝国軍が動いている。
しかし、一つに繋がらない。
「西方評議会では?」
「まだ、確定情報はないそうです」
「エクィトゥムは?」
「同じです」
「カヴィーレスターンも?」
「はい」
俺は机へ書状を置いた。
「……何なんだ、本当に」
ティアが隣で黙ってこちらを見ていた。
「レノ」
「何だ?」
「やっぱり、怖い?」
俺は少しだけ考えた。
「怖いというより、焦る」
「焦る?」
「準備してるだろ」
「ああ」
「みんな準備してる。兵も集めてる。武器も作ってる。食料も蓄えてる。西方評議会の共同軍も召集できるようにしてる」
「うん」
「それなのに、帝国がどこへ来るのか分からない」
俺は窓の外へ目を向けた。
「もし、こっちがあと数週間あれば十分だと考えてる間に、帝国がもう攻められる状態になっていたら……」
ティアはすぐには答えなかった。
代わりに、静かに俺の横へ立つ。
「まだ、何も決まってないよ」
「分かってる」
俺も頷いた。
「だから準備を続ける」
それしかなかった。
そして、19歳の冬の終わり。
朝早く。
王宮の外が騒がしくなった。
いつもなら落ち着いている時間だったが、その日は明らかに違う。伝令が次々と王宮へ駆け込み、警備兵が持ち場を離れず周囲を確認している。
グラフィルが息を切らして執務室へ入ってきた。
「殿下!」
「何だ?」
「帝国国境方面から緊急報告です」
俺は立ち上がった。
「何があった?」
「帝国軍の大規模な移動を確認しました」
「どの程度だ?」
「分かりません」
「方向は?」
「それも不明です」
「なら、何が分かっている?」
グラフィルは一瞬言葉に詰まり、それから答えた。
「これまでとは比較にならない規模で、帝国軍が移動しています」
俺は黙った。
「師団でしょうか?」
「ああ」
「何個くらい?」
「正確には分かりません。ただ、複数の街道を同時に軍用部隊が移動していることは確認されています」
「海軍は?」
「それも、同じです。複数の港から艦艇が出港したとの報告があります」
俺は机の上へ広げられた地図を見る。
帝国の国境。
西方評議会。
その間には、いくつもの国家がある。
だが、そのどこへ帝国軍が向かっているのかが見えない。
「西方評議会へは?」
「すでに報告を送っています」
「各国は?」
「それぞれ対応を始めているようです」
その瞬間、王宮の外から別の伝令の声が響いた。
「帝国軍、さらに西へ移動中!」
「別方面でも大軍の移動を確認!」
「港から艦隊が出港しています!」
声が重なっていく。
王宮の中が、一気に騒がしくなった。
それから数時間。
状況は、悪くなる一方だった。
帝国軍の移動を示す報告が、次々と届く。
北。
南。
海上。
別の街道。
さらに別の街道。
しかし、どの報告にも共通していることがあった。
帝国軍の目的地が分からない。
俺たちが把握できるのは、帝国軍が動いていることだけ。
西方評議会の軍事理事会でも同じだった。
「こちらへ向かっている可能性があります!」
「どこからだ?」
「分かりません!」
「では予備軍をどこへ送る?」
「それも判断できません!」
「海軍は?」
「行き先不明です!」
「敵の主力は?」
「確認できません!」
報告する者も、聞く者も、次第に声が大きくなっていく。
それでも情報は増えない。
ただ、帝国軍の動きだけが速くなっていく。
西方各国は、必死に準備を進めていた。
徴兵を前倒しする。
兵舎を増やす。
武器を作る。
軍馬を集める。
食料を備蓄する。
要塞を修理する。
艦隊を整える。
西方評議会連合軍の召集準備を進める。
誰も怠けていなかった。
誰も危機を無視していなかった。
それでも――。
間に合わない。
その言葉が、少しずつ王宮の中へ広がっていった。
アンティクイランド王宮。
夕方になっても、誰も帰ろうとはしなかった。
会議室では各方面から届く報告書が積み重なり、地図には新しい印が次々と書き加えられている。
「北側の部隊は?」
「現在、移動中です」
「南側の予備は?」
「まだ召集途中です」
「第6軍団は?」
「ガルディシアから移動準備中です」
「第7軍団は?」
「モンタヌスから、すぐには動かせません」
「諸侯軍は?」
「召集命令を出していますが、全軍が集まるまで時間が必要です」
「王立士官学校の候補生は?」
「候補生についても配置を検討していますが、まだ全員を集める段階には至っていません」
俺は目の前の資料を握りしめた。
準備してきた。
本当に準備してきた。
軍備増強も始めていた。
徴兵も始めていた。
国境の警戒も続けていた。
西方評議会へ警告も出した。
それでも、敵の動きが速すぎる。
「あと、どれくらいかかる?」
俺が尋ねる。
アトラシート伯爵は答えに詰まった。
「完全な戦時編制までなら、数週間は必要です」
「数週間……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が重くなった。
「帝国軍は?」
「……すでに、かなり前へ進んでいるようです」
誰も、それ以上言わなかった。
準備に数週間。
敵は、すでに動いている。
そして、どこへ向かっているのかすら分からない。
それが、今の西方だった。
その夜。
王太子宮でも、まだ灯りが消えていなかった。
俺は机の前に座ったまま、今日届いた報告書を読み返していた。
同じことが書いてある。
帝国軍が動いた。
艦隊が出港した。
軍用輸送が増えている。
だが、目的は不明。
主力も不明。
開戦時期も不明。
俺は資料を閉じた。
「……本当に、間に合わないかもしれないな」
ティアが静かに頷いた。
「でも、まだ準備するんでしょう?」
「ああ」
俺は立ち上がった。
「準備してなかったわけじゃない」
「うん」
「だから、できることを全部やる」
それしかない。
敵の計画を知らない。
敵の規模も正確には知らない。
それでも、自分たちの兵士を集める。
武器を作る。
食料を蓄える。
要塞を守る。
西方評議会の仲間と連絡を取る。
その全てを、できるだけ早く進める。
だが、その時の俺たちはまだ知らなかった。
帝国軍は、すでにこちらが想定していたよりはるか遠くまで進出している。
そして、その巨大な軍勢が、これほどの速度で動けるようになった理由そのものを、西方の誰一人として理解していなかった。
19歳の冬の終わり。
王宮を支配していたのは、戦争そのものではなかった。
間に合わないかもしれないという焦りだった。
その焦りは、やがて混乱へ変わり、そして誰も口にしたくなかった一つの感情へと変わっていった。
――絶望だった。




