第38話 猶予
アンティクイランドから西方評議会へ警告が送られてから、しばらくの時間が経っていた。
帝国で何かが起きている。
それだけは、加盟国の多くが感じていた。
各地で軍馬の調達量が増え、軍需工房では武器や防具の生産が以前より活発になっている。主要街道の一部では修繕が急に進み、港では艦艇の整備が続いているという報告もあった。地方によっては新兵の入営数が増え、穀物や軍需物資が倉庫へ集められているとの情報まで届いている。
しかし、その一つ一つだけを見れば、帝国が以前から進めている軍制改革によって説明できてしまう。
構成国軍の統合。
徴兵制度の統一。
地方行政の中央集約。
軍需生産の整備。
帝国ではここ数年、これまでの国家制度そのものを変える改革が続いていた。だからこそ、西方評議会の情報部門にとっては、どこまでが通常の改革で、どこからが戦争準備なのかを判断することが難しかった。
帝国が実際に何をしようとしているのか。
それを示す確定的な情報は、まだどこからも届いていなかった。
それでも、何もしないわけにはいかなかった。
だから各国は、それぞれの事情に合わせて準備を始めた。
最初に大きく動いたのは、エクィトゥムだった。
王都から各地へ報告が送られ、国境要塞の防御設備、備蓄、武具、軍馬、輸送能力などが改めて確認されていく。
「帝国が何をするつもりなのかは分からない」
軍事担当者が地図を前にして言った。
「だからこそ、どの方向から来ても最低限は対応できるようにしておく」
ただし、エクィトゥムも大規模な戦時動員へは踏み切らなかった。
帝国の目的が分からないまま軍を一方向へ集中させれば、逆に別の方面が手薄になる。だから各方面の兵力を確認し、要塞を点検し、必要な物資を補充する。
それ以上はしない。
少なくとも、まだその段階だった。
カヴィーレスターンでも警戒が強まった。
この国にとって、軍事と交易は切り離せない。
フレイトゥム内海を通る商船。
各港へ運ばれる商品。
そこから砂漠を越えて運ばれる香辛料、染料、織物、金属、宝石、塩、家畜。
それらの流れが止まれば、商人だけではなく国家財政まで影響を受ける。
そこで主要港では警備が増やされ、商船の護衛も強化された。一方で、過剰に商船を止めれば自国の交易そのものが損なわれるため、港湾当局は慎重に対応していた。
「帝国艦隊の動きは?」
担当者が尋ねる。
「一部港で整備が増えていることは確認しています。しかし、行き先までは分かりません」
「陸軍は?」
「それも同じです」
やはり、確定したことは何もない。
シルウァニアも警戒を強めた。
山道の監視所に交代要員を増やし、主要な峠や街道の状態を確認する。
ただし、シルウァニアは大国ではない。
今ある兵力を一方向へ集めれば、別の場所に穴ができる。
そのため、西方評議会への情報共有が何より重要になった。
「何か見つけたら、すぐ報告する」
「はい」
「ただし、帝国軍の動向について確定した情報があるわけではない」
「承知しています」
シルウァニア側も、まだ警戒段階から先へは進めなかった。
セプテントリアの26ヶ国では、それぞれ事情が違った。
大国のように大量の兵を動員できる国もなければ、要塞の修繕費を十分に用意できない小国もある。
それでも、アンティクイランドからの警告を受けて、各国は自分たちにできる範囲の準備を始めた。
予備兵の名簿を確認する。
古い要塞を点検する。
食料と武器の備蓄を確認する。
軍馬の数を調べる。
隣国へ援軍を送る場合の経路を確認する。
どれも、まだ戦争を前提とした動きではない。
しかし、万一に備えるには必要な作業だった。
西方評議会本部でも、軍事理事会の臨時協議が何度も開かれるようになった。
各国が持ち寄る報告書は増えている。
しかし、報告を積み重ねても、肝心な部分だけは分からない。
「帝国軍の総兵力は?」
「正確には不明です」
「西方へ移動している師団数は?」
「確認できていません」
「艦隊の行き先は?」
「分かりません」
「では、帝国は何をしようとしている?」
その質問にも、明確な答えはなかった。
帝国各地で軍事活動が活発になっている。
それは事実だ。
ただ、それが一つの作戦として繋がっているのか。
あるいは単なる大規模な軍制再編なのか。
西方側には判断材料がない。
「ならば、警戒態勢を維持するしかない」
最後には、いつも同じ結論へ戻ってくる。
各国の国境警備を強化する。
共同軍の召集手順を確認する。
徴兵計画を見直す。
必要な物資を確保する。
それだけだった。
そしてアンティクイランドでは、以前から進めていた軍備増強計画も継続していた。
常備軍を少しずつ増やす。
戦時の追加動員を整える。
諸侯軍の兵力を確認する。
士官学校の候補生を増やす。
武器、防具、軍馬、輸送用の荷車を準備する。
必要なら傭兵を契約できるよう、傭兵団との関係も維持する。
これらは帝国への警戒だけを理由として始まったものではなかった。
それ以前から、王国の軍制そのものを見直すために進められていた計画だった。
ただ、帝国の動きが目立つようになったことで、その進行を少しずつ前倒しする必要が出てきていた。
「王太子殿下」
アトラシート伯爵が資料を差し出す。
「徴兵計画について、前倒し可能な部分を整理しました」
俺は数字を見る。
「どこまで進められる?」
「大幅な前倒しは難しいでしょう。新兵を増やせば、訓練施設、教官、武具、食料まで同時に増やす必要があります。それに、農村から人を取りすぎれば、今度は生産に影響が出ます」
「分かっている」
俺は頷いた。
軍は人数だけでは作れない。
兵士がいる。
それを訓練する人間がいる。
武器がいる。
食料がいる。
輸送がいる。
そして時間がいる。
だからこそ、以前から少しずつ増強を続けてきた。
「今まで通り進めよう」
「承知しました」
帝国の意図が分からなくても、こちらにできることはある。
自国の軍を整える。
それだけだった。
冬が深まるにつれて、帝国の活動はさらに増えているように見えた。
だが、西方側で手に入る情報は相変わらず断片的だった。
ある地域では師団が移動する。
別の地域では新兵が増える。
港では艦艇が整備される。
別の街道では軍用の荷車が増える。
それぞれの報告書は確かなものだった。
けれど、そこから帝国全体の計画を読み取ることはできない。
西方評議会の情報担当者たちは、帝国軍の意図を探り続けた。
商人から情報を集める。
旅人の話を確認する。
港湾から出入りする船を調べる。
国境監視所から報告を受ける。
それでも、明確な答えは出ない。
帝国は何をしているのか。
何を準備しているのか。
どこへ軍を動かすのか。
誰も知らない。
だからこそ、西方評議会加盟国は、それぞれ自分たちの準備を続けた。
エクィトゥムは要塞と兵力を確認する。
カヴィーレスターンは港と交易路を警戒する。
シルウァニアは山道を監視する。
セプテントリアの26ヶ国は、それぞれ予備兵と備蓄を確認する。
アンティクイランドは徴兵と軍備増強を続ける。
それでも、誰も本当の意味で戦争の準備ができているわけではなかった。
敵がどこから来るのか分からないからだ。
北から来るなら北を守らなければならない。
西なら西。
南なら南。
海なら港を守る必要がある。
しかし、全てを同時に強化できるほどの兵力を持つ国はない。
西方評議会そのものも同じだった。
一つの巨大な軍隊を作るには、各加盟国の兵力を召集しなければならない。
だが、そのためには敵がどこを狙っているのか、ある程度予測する必要がある。
予測できない。
だから、召集にも踏み切れない。
結果として、西方評議会は「いつ戦争が始まっても対応できるようにする」という準備しかできなかった。
19歳の冬に入った頃。
俺は王宮の執務室で、また帝国についての報告書を読んでいた。
新しい情報は、以前より増えている。
しかし、答えは増えていない。
「……分からないな」
思わず、そう呟いた。
ティアが向かいからこちらを見る。
「まだ分からない?」
「ああ。帝国軍が動いていることは分かる。でも、その理由が分からない」
「警戒だけは続ける?」
「それしかないな」
ティアも頷いた。
「帝国が本当に何かを始めるなら、もっと大きな動きが見えるかもしれないし」
「そうだな」
俺は書類を閉じた。
この時の俺たちは、まだそう考えていた。
大きな軍事行動が始まるなら、その前には必ず何か分かりやすい兆候がある。
大規模な動員。
国境への兵力集中。
明確な艦隊移動。
そうしたものを確認してからでも、対応する時間はある。
少なくとも、そう思っていた。
だからこそ、この後に起きることを、まだ誰も予想していなかった。
西方評議会は、帝国軍の全体像を掴めないまま、それぞれに戦争準備を進めていた。
そしてその準備は、確かに以前より早くなっていた。
だが――。
それでも、帝国がすでに戦争へ向けて整えていた速度には、到底追いついていなかった。




