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氷の奇公子 ~変人王子の生存術~  作者: 岸田減税
最終章 第二次ルイーナエ大戦
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第36話 異変

19歳の冬に入った頃、王都レクィエリアの暮らしは、それまでと大きく変わっていなかった。王宮では朝から官僚や貴族が行き交い、西方評議会本部には各国の大使や書記官が集まり、経済理事会では関税や交易についての協議が続き、軍事理事会では共同防衛に関する議題が淡々と処理されている。戦争が終わってから時間が経ったこともあり、街で暮らす人々の関心も軍事より商売や仕事へ移っていた。だからこそ、東方に広がるアエテリア帝国についても、以前なら「大国なのだから多少軍隊が増えることもあるだろう」と考えて済ませられたのだと思う。


 しかし、その頃から帝国に関する報告の内容が、少しずつ変わり始めていた。


「殿下、新しい報告がございます」


 王太子宮の執務室で、グラフィルが数枚の資料を机へ置いた。俺は一番上の紙を取り上げ、書かれている数字を確認する。


「帝国北部で軍馬の購入量が増えている?」


「はい。しかも一つの地域だけではありません。複数の軍事都市で、前年の同時期より明らかに多い数が買い集められています」


「軍制改革の影響じゃないのか?」


「その可能性は高いです」


 グラフィルは慎重に答えた。


「帝国軍はここ数年で大きく改編されています。構成国軍の中央編入、新しい徴兵制度、階級と編制の統一、それに伴う新兵訓練の拡大まで進めていますから、騎兵が増えれば軍馬も必要になります」


「武具については?」


「同じ傾向です。北部と東部の複数都市で、剣や槍、防具、馬具などの生産量が前年より増えています。ただし、こちらも軍制改革による需要増として説明できます」


 俺はさらに資料をめくった。


「食料は?」


「穀物の集積量も増えています。ただ、軍用備蓄なのか、冬季に備えた民間市場向けなのかまでは分かりません」


「つまり、どれも気になるけど、それ単体では何も証明できない」


「その通りです」


 俺は資料を机へ戻した。


 帝国が以前より軍事に力を入れていること自体は、今さら驚くような話ではない。中央集権化が進めば、軍も行政も以前より整備される。兵士が増えれば武器が必要になり、騎兵が増えれば馬が必要になる。人口が約2,500万人もいる大国なのだから、その程度の変化なら当然とも言える。


 ところが、それから数日もしないうちに、別の報告が届いた。


「今度は師団の移動です」


 グラフィルが新しい資料を差し出す。


「帝国北部の軍都から、複数の師団が駐屯地を離れています」


「行き先は?」


「不明です」


「演習では?」


「その可能性もあります。ただ、複数の地域でほぼ同じ時期に移動が確認されているため、通常の演習だけでは説明しにくいという意見も出ています」


「海軍は?」


「いくつかの港で艦艇の整備が増えています。新造艦なのか修理なのかも完全には確認できていませんが、以前より造船所や港湾施設の動きが活発です」


 また一つ、気になる材料が増えた。


 それでも、確定情報ではない。


 俺は資料を眺めながら考えた。帝国の中央集権化が進めば、師団の再配置も、港湾の整備も、軍需生産の増加も起こり得る。徴兵が続いているのも新制度の定着過程として説明できる。問題は、そうした現象が別々に起きているのか、それとも一つの目的へ向けて組み合わされているのかということだった。


 そして、その答えを判断できるだけの情報が、こちらにはなかった。


 同じ頃、西方評議会本部でも帝国の動きについて協議が行われていた。


 31の加盟国・政治主体から集まった軍事担当者と情報担当者が、各国から届いた断片的な報告を持ち寄っている。エクィトゥムからは帝国北部の軍都における師団移動、カヴィーレスターンからは港湾での艦艇整備、セプテントリアのいくつかの国からは国境沿いの軍馬輸送についての情報が出されたが、それらを一つの作戦として結び付けられる者はいなかった。


「帝国軍が以前より活発に動いていることは間違いないでしょう」


 情報担当の官僚がそう説明する。


「しかし、戦争準備だと判断するには証拠が不足しています。軍の再配置、制度改革、冬季備蓄、演習、このどれでも説明できる情報が多すぎるのです」


 アンティクイランド側の代表が尋ねる。


「亡命政府は何か掴んでいないのですか?」


「旧帝国の人脈から情報を集めていますが、現在の帝国中央軍の内部へ直接入り込めているわけではありません。旧構成国の政治家や軍人から得られる情報も、断片的なものに留まっています」


 カヴィーレスターン側の代表が腕を組む。


「つまり、帝国が何か大きなことをしている可能性はあるが、何をしているのかは分からない」


「はい」


「それなら、今は監視を続けるしかないでしょう」


 結論は、それだった。


 西方評議会は急激な軍事動員を行わなかった。確定した脅威がない以上、加盟国が一斉に軍を国境へ集めれば、それだけで帝国との緊張を高める危険がある。しかも西方評議会は巨大な共同体になったとはいえ、加盟国ごとに政府も軍も別である以上、慎重に合意を取らなければ大規模な行動には移れない。


 だから、その時点では「警戒」という言葉が限界だった。


 アンティクイランド王国も、その判断自体は理解していた。


 それでも俺は、届く報告を読み続けていた。


 帝国北部では軍馬の購入が増えている。


 東部では軍需工房が以前より忙しい。


 複数の都市で穀物の搬入が増えている。


 軍都では師団の移動が確認されている。


 港では艦艇の整備が進んでいる。


 そして帝国各地で、新制度による徴兵が継続している。


 一つ一つなら、全部理由を説明できる。しかし、数が増えれば増えるほど、「本当に全部が偶然なのか」という疑問は大きくなる。


「父上」


 ある日の午後、俺はアウレリウス王の執務室を訪れた。


「帝国について相談があります」


「何か掴んだのか?」


「いえ、逆です」


 俺は持ってきた資料を机の上へ並べた。


「何も掴めていません。ただ、軍馬、軍需生産、食料、師団、艦艇、徴兵の動きが、以前より目立つようになっています。どれも単独なら軍制改革で説明できますが、こうして重なると無視するのも危険だと思います」


 父上はしばらく資料を読んでいた。


「お前は、戦争になると思っているのか?」


「そこまでは言えません」


 俺は首を横に振った。


「戦争準備だと断定できる証拠がありません。ただ、帝国の動きが以前とは違う。それだけは間違いないと思います」


「では、どうする?」


「西方評議会へ警告を出します」


 父上はすぐには答えなかった。やがて資料を机へ置き、俺を見る。


「確定情報がない以上、警告の内容は慎重にしなければならないな」


「はい。帝国が開戦を決めたとは伝えません。軍事活動が以前より活発になっているため、各国で警戒を強めてほしい、とだけ伝えます」


「具体的には?」


「国境警備の確認、要塞や監視所の点検、徴兵計画の見直し、軍需物資と食料備蓄の確認。必要なら、予定していた徴兵を少し前倒しする程度です」


 父上は頷いた。


「こちらから軍を大きく動かして帝国を刺激するな」


「分かっています」


「それなら、警告を送れ」


「承知しました」


 その日のうちに、アンティクイランド王国から西方評議会へ正式な警告が送られた。


 その内容は、帝国軍の動きが通常の軍制改革だけでは説明しにくくなっているという懸念と、それでも戦争準備だと断定できる情報は得られていないという留保を両立させたものだった。


 警告を受けた西方評議会加盟国も、ほぼ同じような対応を取った。エクィトゥムでは国境巡回を増やし、カヴィーレスターンでは主要交易路と港の警戒を強め、シルウィア公国では山岳部の監視所を再確認する。セプテントリアの各国でも、それぞれの事情に合わせて警戒態勢を整え、いくつかの国では徴兵予定を前倒しした。


 しかし、どの国も全面動員には踏み切らなかった。


 確定した情報がないからだ。


 帝国軍の一個師団が移動した。


 別の地域では軍需生産が増えた。


 港では艦艇が整備された。


 徴兵が続いている。


 そこまでは確認できる。


 それでも、その先にあるものが見えない。


 それから時間が経っても、帝国の異変は収まらなかった。


 むしろ、少しずつ報告の数だけが増えていった。


「また師団移動の情報です」


「今回はどこだ?」


「帝国西部寄りの軍都です。ただし、行き先は分かりません」


「海軍は?」


「複数の港で整備が続いています」


「徴兵は?」


「継続しています」


 同じような報告を何度も受け取った。


 しかし、どこにも「西方を攻撃する」という情報はない。


 どこにも「統一戦争のために軍を集めている」という証拠はない。


 亡命政府も確定的な情報を得られていない。


 西方評議会の各国情報部門も、帝国の内部まで深く入り込むことができていない。


 だから、警戒しながら待つしかなかった。


 それでも、以前より違うのは、アンティクイランド王国がすでに準備を始めていたことだった。


 徴兵計画は前倒しされている。


 国境警備も増強されている。


 軍需物資と食料の備蓄も確認済みだ。


 王国軍の軍備増強計画も、止めずに進めている。


 確定情報がない以上、それ以上のことはできない。


 だからこそ、俺はただ毎日資料を読み続けていた。


 帝国が何をしようとしているのかを、誰も知らないまま。


 そして、この時の俺たちはまだ知らなかった。


 すでに帝国では、改革を終えた先の新しい軍事体制が動き始めており、その巨大な軍勢が実際に動く時期が、少しずつ近づいていることを。

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