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氷の奇公子 ~変人王子の生存術~  作者: 岸田減税
最終章 第二次ルイーナエ大戦
362/415

幕間 新帝国

話はおよそ4年前に遡る。


シルウァニア王国との戦争が始まった頃、東方に広がるアエテリア帝国では、西方の戦場とは別の意味で歴史を大きく変える改革が始まっていた。


 それまでの帝国は、五百年以上にわたって複数の構成国を抱える巨大国家として存在していた。皇帝は帝国全体の君主ではあったものの、各構成国にはそれぞれの君主や領主が存在し、地方行政も軍事も多くの部分が地域ごとに委ねられていた。元老院は帝国の政治に強い影響力を持ち、皇帝選出にも関わっていたため、皇帝が何かを決定したとしても、それが帝国全土へ同じ速度で伝わり、そのまま実行されるとは限らない。構成国の軍隊も帝国軍とは別の指揮系統を持っており、平時にはそれぞれが自国の事情を優先し、戦時になれば皇帝の命令と自国の領主の命令が衝突することすらあった。


 その仕組みは、長い間なんとか機能してきた。帝国という巨大な国家を維持するために、地方の事情を地方へ任せることにも意味があったからだ。しかし、先の帝国内戦によって、その分権的な構造が持つ危険性が一気に表面化した。


 誰を皇帝として認めるのか。


 どの構成国がどちらの陣営につくのか。


 どの軍がどの命令に従うのか。


 それらが同時に争われた結果、帝国そのものが分裂しかねない事態にまで発展した。


 だからこそ、皇帝ホスティス・インペラトル・ポテンス・アエテリアは決断した。


 帝国を変える。


 しかも、一部だけを変えるのではない。


 政治、軍事、行政、徴税、徴兵、その全てを繋ぎ直し、帝国を一つの国家として機能させる。


 その改革を実務面から支えていたのが、帝国軍元帥マギステル・エクィス・ミリトゥムだった。


 帝都インペリア中央宮殿。


 皇帝執務室に隣接する大会議室には、この日、帝国の主要人物が集められていた。


 各地の旧構成国を代表する貴族。


 中央政府の高級官僚。


 財政を担当する役人。


 地方行政を担当する者。


 そして帝国軍の将校たち。


 長机の中央には帝国全土の地図が広げられており、そこにはこれまでの構成国ごとの境界線が細かく記されていた。国境線だけではない。それぞれの地域に存在する軍港、街道、主要都市、穀倉地帯、鉱山、兵舎、軍需工房まで、可能な限り書き込まれている。


 ホスティスは地図の前に立ち、その隣にはマギステル元帥が立っていた。


「今日決めることは多い」


 皇帝が口を開く。


「だが、一つ一つを別の問題として扱うつもりはない。軍を変えるなら徴兵を変えなければならない。徴兵を変えるなら地方行政を変えなければならない。軍需を変えるなら財政を変えなければならない。全て繋がっている」


「その通りです」


 元帥が頷いた。


「だから、軍事改革だけ先に決めるのではなく、帝国全体の制度として同時に進める必要があります」


 その言葉に、旧構成国の大公の一人が手を上げた。


「元帥閣下。しかし、あまりに急ぎすぎではありませんか。五百年以上続いてきた制度です。軍だけでも相当な調整が必要になるでしょう」


「急ぐ必要があります」


 元帥は即答した。


「先の内戦が終わったからゆっくりやればいい、という話ではありません。あの内戦が起きた原因の一つが、まさにこの制度の分散にあったからです」


 大公が口を開こうとしたが、ホスティスが先に言った。


「君の領地から軍を取り上げるつもりはない」


 会議室の視線が皇帝へ集まる。


「だが、帝国全体の防衛を一つの国家として行う以上、軍事力についてだけは例外にできない」


「それでは、我々の軍はどうなるのですか」


「帝国軍になる」


 短い答えだったが、その意味は重かった。


「これまで君たちが自分たちの領地のために保有していた軍を、帝国軍の正式な部隊へ編入する。兵士を減らすのではない。別の軍へ作り変える」


 別の領主が資料を手に取る。


「つまり、兵士そのものは残る」


「原則としてはな」


 ホスティスが答えた。


「だが、旗と命令系統は変わる」


 その瞬間、会議室が静かになった。


 それは単純な軍制改革ではない。


 領主の軍を、皇帝の軍へ変えるということだった。


「まず、指揮系統を統一します」


 マギステル元帥が新しい資料を広げる。


「帝国軍は今後、分隊、小隊、中隊、大隊、連隊、旅団、師団、軍という編制へ統一します。これまで各構成国で異なっていた部隊規模や名称は、順次整理します」


「階級制度は?」


「それも統一します」


 元帥が黒板へ新しい階級名を書いた。


「等兵、尉、佐、将。旧来の構成国独自の階級は原則として廃止します」


 古参の将軍が眉を寄せた。


「我が国には何百年も使ってきた階級名があります。それまで消すのですか」


「帝国軍として運用するなら、同じ名前は同じ権限を意味しなければなりません」


 元帥の声は穏やかだった。


「ある国の大隊長と、別の国の大隊長で権限が違えば、共同作戦では混乱します。同じ階級、同じ編制、同じ規則。そうしなければ、帝国軍は一つの軍にはなれません」


 ホスティスも頷く。


「君たちが何百年も守ってきた伝統を否定したいわけではない。だが、帝国が帝国として生き残るために必要なものと、各家や各国の習慣は分けて考えるべきだ」


 その言葉には、皇帝としての強い意思があった。


 だが、それだけではなかった。


 ここでホスティスが理解していたのは、伝統を一気に壊せば反発によって改革そのものが止まるという政治的な現実だった。


「名前を変えることより、軍が動けることの方が重要だ」


 皇帝が続ける。


「古い階級名を捨てることが耐えられない者はいるだろう。だが、命令が届かず、兵士が別々の旗の下で争うことを、私はもう許さない」


 会議室の誰も反論しなかった。


「次に、軍団長の任命です」


 元帥が資料をめくる。


「今後、軍団長は原則として中央政府と帝国軍が任命します。出身国は問いません。貴族でも平民でも、必要な軍歴と能力があれば昇進させる」


「家柄は?」


「考慮します」


 元帥は即答した。


「ただし、それだけでは決めない」


 何人かの貴族が顔を見合わせた。


「軍事的な能力を持つ貴族まで排除する理由はありません。しかし、『この軍はこの家の軍だから、この家の者が指揮する』という仕組みは終わります」


「軍団長は帝国軍人として任命される」


「その下に、中央から教育を受けた将校を置く」


「そして各地の軍人も、必要なら帝都へ呼び寄せて再教育する」


 それまで自国の軍事制度だけを学んできた将校たちにとっては、非常に大きな変化だった。


 しかし、その変化を支えるものも用意されていた。


 帝都に中央士官学校を設け、各地の将校を集める。


 戦術。


 作戦。


 兵站。


 軍法。


 地図の読み方。


 部隊運用。


 全てを帝国軍共通の教育として教える。


 しかも、教育を受けた将校が各地へ戻り、そこで新しい制度をさらに教える。


 一度制度を作って終わりではない。


 制度を教える人間そのものを増やす。


 それによって改革を加速させる。


「新しい軍隊を作るなら、新しい軍人も作らなければなりません」


 元帥が言う。


「だから私は、軍の編制と同時に将校教育を変えます」


「旧来の経験も捨てません」


 ホスティスが補足する。


「経験豊富な将軍には、その経験を帝国軍へ持ち込んでもらう。ただし、その経験を帝国全体で共有できるようにする」


 古参将軍はしばらく黙っていた。


 やがて静かに頭を下げた。


「承知しました」


 改革の次の議題は、徴兵だった。


「帝国軍を統合するだけでは、長期的な軍事力にはなりません」


 元帥が言った。


「新しい兵士を継続的に育てる必要があります」


「現在、帝国全土から徴募できる人数は地域によって違います」


 中央政府の官僚が報告する。


「人口、農業生産、都市人口、各地の労働力などを考えると、一律に同じ人数を徴兵することはできません」


「だから中央で決める」


 ホスティスが言う。


「帝国全体で何人必要なのかを計算し、その人数を地方へ配分する」


「地方には?」


「代官を置く」


 今度は行政制度の話へ移った。


「これまで領主が直接管理していた地域に、帝国中央政府から代官を派遣する。税を集め、人口を把握し、治安を維持し、中央政府からの命令を伝え、徴兵対象者を確認する」


「領主は?」


「帝都へ来てもらう」


 ざわめきが起こる。


 ホスティスは続けた。


「領主たちを全て失脚させるわけではない。帝都で政治、行政、外交、軍事の仕事を担ってもらう。帝国の中央を強くするために必要な人材として使う」


 これによって、地方の実権は代官へ移される。


 一方で、旧領主たちは帝都へ集められ、中央政府の官僚、外交官、将軍、行政官などへ再配置される。


 地方から権力を奪うだけではない。


 その権力を中央へ集め、人材として再利用する。


 ホスティスが考えていたのは、まさにそういう制度だった。


 会議が進むにつれて、帝国の姿は少しずつ変わっていった。


「では、徴兵された者はどこで教育する?」


「各地方の初期訓練所で基礎教育を行い、その後、帝国軍の正式な訓練所へ送ります」


「兵士はどこから来たかで部隊を分けるのか?」


「原則として分けません」


 元帥が答えた。


「農村出身者も都市出身者も、旧構成国軍出身者も、最終的には混成する」


「理由は?」


「自分たちは〇〇国の軍人だという意識を薄めるためです」


 その言葉に、ホスティスが小さく頷く。


「帝国軍に所属しているという意識を作る。それが大事だ」


 これまでなら、兵士たちは自分がどこの構成国出身なのかによって違う軍服を着ていたかもしれない。


 これからは違う。


 帝国軍の制服。


 帝国軍の階級章。


 帝国軍の規律。


 帝国軍の旗。


 そして帝国軍の命令。


 出身地が違っても、軍人としての所属は一つになる。


 その夜。


 会議が終わった後も、ホスティスとマギステル元帥は皇帝執務室に残っていた。


 机には新しい軍制案が積まれている。


「かなり無茶な計画だ」


 ホスティスが椅子へ腰を下ろしながら言う。


 元帥は向かいの椅子へ座る。


「陛下が『内戦を二度と起こさない帝国軍を作れ』とおっしゃったので」


「そこまで言ったか?」


「言いました」


「そうだったか」


 ホスティスは苦笑した。


「君は本当に、人の言ったことを覚えているな」


「元帥ですから」


「そういう問題か?」


 二人は少し笑った。


 会議中の厳しい表情とは違う。


 互いに率直な言葉を交わせる間柄だった。


「でも、正直に言うと」


 元帥の声が少し低くなる。


「私も怖いです」


 ホスティスが顔を上げる。


「怖い?」


「ここまで一気に変えれば、戻れなくなる」


「それは分かっている」


「なら、なぜ進めるのです?」


 ホスティスはしばらく黙っていた。


「先の内戦で、帝国がどれだけ簡単に割れるのかを見たからだ」


「私は皇帝だった」


「それなのに、命令が帝国全土へ同時には届かなかった」


「軍が一つではなかった」


「各地の領主が、それぞれ別の判断で動いた」


 ホスティスは机の上の軍制案へ手を置いた。


「その状態で、もう一度大規模な内戦が起きたら、本当に帝国は終わる」


「だから、一つにする」


「そうだ」


 元帥は頷いた。


「では、私がやることは一つですね」


「何だ?」


「陛下が作った国家を、実際に動く軍へ変えることです」


「頼む」


「その代わり」


 元帥が笑った。


「陛下も寝てください」


「君にだけは言われたくない」


「では、お互い様ということで」


 ホスティスが笑う。


 その二人の関係が、帝国改革を支えていた。


 そして、改革は会議室の中だけでは終わらなかった。


 数ヶ月後。


 帝都から遠く離れた旧構成国の軍都では、兵舎の前に大量の兵士が集められていた。


 そこにはかつて、この地域の領主が持っていた軍旗が立っていた。


 兵士たちは、その旗を見ながら黙っている。


 何十年も。


 何百年も。


 この土地の兵士たちは、その旗の下で戦ってきた。


 ところが、その日。


 一人の帝国軍将校が前へ出た。


「本日をもって、この部隊は帝国軍へ編入される」


 ざわめきが起こる。


「旧来の部隊名は廃止する」


「今後は帝国軍第十二連隊として編制する」


 兵士たちの顔には戸惑いが浮かんでいた。


 将校は新しい軍旗を受け取る。


 帝国の紋章が描かれた旗だった。


「これまでの諸君の軍歴を無かったことにするつもりはない」


「だが、今日から諸君は領主の軍ではない」


「帝国軍の兵士だ」


 それから、旧軍旗がゆっくりと降ろされる。


 代わりに帝国軍旗が掲げられた。


 風を受けて、新しい旗が揺れる。


 古参兵の一人が、隣の若い兵士へ小さな声で言った。


「本当に変わったな」


「何がです?」


「俺たちが、どこの軍なのかだ」


 若い兵士は新しい旗を見る。


「帝国軍ですよ」


「そうだな」


 古参兵は少しだけ笑った。


「なら、これから覚えればいい」


 別の地域では、騎兵隊の再編が行われていた。


 かつては構成国の誇りだった騎兵部隊が、今では帝国軍騎兵連隊へ組み込まれている。


 ノマデース弓騎兵のように、民族そのものと結び付いた兵力まで例外ではなかった。


「今までと違って、平時から帝国軍として勤務する」


「家へ戻れる時期は?」


「以前より少なくなる」


 兵士たちの間に不満が広がる。


 それでも軍の側からすれば、帝国全体の軍事力を一つにするためには必要な措置だった。


 旧構成国軍の兵士。


 帝都直属軍の兵士。


 民族部隊の兵士。


 それぞれが同じ帝国軍の制度へ入っていく。


 服装も変わる。


 階級章も変わる。


 部隊名も変わる。


 そして、最も大きく変わるのは、誰の命令で動くのかという部分だった。


 新兵訓練所では、さらに多くの若者が集められていた。


 農村から来た者。


 都市から来た者。


 工房で働いていた者。


 商人の家の出身者。


 旧構成国軍にいた者。


 様々な背景を持つ者が同じ訓練場へ並んでいる。


 教官が前へ出る。


「帝国軍歩兵隊、整列!」


 一斉に兵士が並ぶ。


「右向け!」


 列が動く。


 最初は揃わない。


 誰かが遅れ、別の者が早い。


 だが、教官は怒鳴り続けるのではなく、何度もやり直させた。


「もう一度」


「今度は隣と合わせろ」


「自分だけ正しくても意味がない」


「全員が同じ動きをする」


 やがて、隊列が揃う。


 それは小さな変化に見える。


 しかし、帝国軍にとっては非常に重要な変化だった。


 兵士個人が強いかどうかだけではない。


 隣の兵士と同じ動きをする。


 その後ろの部隊と同じ命令を聞く。


 中隊、大隊、連隊、師団と、上位の指揮系統へ同じように繋がる。


 それによって、一人の兵士の行動が帝国軍全体の動きへ連結される。


 将校たちも同じだった。


 帝都中央士官学校では、各地から集められた旧構成国軍の将校が机を並べていた。


「敵が側面から攻撃してきた場合、まず何をする?」


 教官が尋ねる。


「隣接部隊へ援護を要請します」


「その間に?」


「予備部隊を配置します」


「なぜ?」


「正面の戦力を維持したまま、側面突破を防ぐためです」


「では、その判断を中隊長が独断で行っていいか?」


 少し考えてから、一人の将校が答える。


「上位指揮官へ報告し、事前に定められた規則に従います」


「正解だ」


 旧構成国軍では、指揮官個人の判断へ委ねられることも多かった。


 新しい帝国軍では、個人の判断だけに依存しない。


 誰が指揮しても一定の水準で軍が動くようにする。


 それが、新しい参謀制度の目的だった。


 改革が進むにつれ、帝都へ送られてくる報告書の量も増えていった。


 人口。


 徴兵人数。


 農業生産量。


 穀物備蓄。


 軍需工房の生産数。


 軍馬。


 道路。


 橋。


 倉庫。


 兵舎。


 艦艇。


 全てが数字になり、中央政府へ集まってくる。


 ホスティスは、それを毎日のように確認していた。


「この地域の徴兵数が多い」


「農業生産への影響は?」


「問題ありません。収穫後に徴兵しています」


「この地域の備蓄は?」


「予定を上回っています」


「なら、別地域へ回せ」


「承知しました」


 以前なら、これほど細かく帝国全体を見ることは難しかった。


 地方ごとに報告形式が違い、数字そのものが存在しない地域もあったからだ。


 今は違う。


 同じ書式。


 同じ期間。


 同じ基準。


 だから比較できる。


 不足が見える。


 余剰も見える。


 そして、中央政府が判断できる。


 国家が巨大であっても、それを一つの行政機構として把握できるようになっていく。


 海軍でも改革は進んでいた。


「現在の常備戦闘艦は?」


 元帥が海軍担当者へ尋ねる。


「約二百六十隻です」


「輸送、補給艦は?」


「約二百隻」


「合わせて四百六十隻前後」


「はい」


 ホスティスが資料を見た。


「船を増やすだけでは意味がない」


 元帥が答える。


「造船所を統一し、部品や資材の規格を揃え、船員を中央教育する必要があります。港湾の補給施設も、帝国軍全体の計画と繋げなければならない」


「つまり海軍も陸軍と同じだな」


「そうです」


 帝国各地に散らばっていた造船所や港湾施設を中央政府が把握し、帝国軍として必要な艦艇を計画的に整備する。


 艦隊だけではない。


 港。


 造船所。


 水兵。


 士官。


 補給。


 全てを一つに繋ぐ。


 農業地帯でも同じだった。


 帝国には巨大な穀倉地帯が一つしかないわけではない。


 複数の地域で大量の穀物が生産され、それぞれが都市と軍事拠点へ食料を供給している。


 収穫された穀物は、市場へ送られる分と国家備蓄へ回される分に分けられ、その一部は軍用備蓄として専用倉庫へ運ばれる。


「今年の収穫量は?」


「予定を上回っています」


「帝都向けを増やせ」


「軍用備蓄はどうします?」


「まず必要量を確保し、それ以上を民間市場へ」


 ここでも、中央政府が帝国全体の状況を見て配分している。


 農民の生活を守らずに徴収を増やせば、翌年の生産そのものが落ちる。


 だから、必要量と余剰を計算する。


 軍が強くても、食料がなくなれば戦争はできない。


 ホスティスも元帥も、それを理解していた。


「帝国軍九十万人という数字だけを見ているわけではない」


 ある夜、元帥が言った。


「九十万人を養える農業」


「九十万人へ武器を供給できる工房」


「九十万人へ命令を届ける行政」


「九十万人を前線へ送り続ける輸送」


「そこまで揃って、初めて戦時最大九十万人という数字に意味が生まれます」


 ホスティスは頷いた。


「国家そのものが軍になるわけか」


「正確には、国家全体が軍を支える仕組みになるのです」


「なるほど」


 改革が始まってから数年が経った頃。


 再び皇帝執務室で、ホスティスと元帥が最新の報告を確認していた。


「中央編入は?」


「完了しています」


「新兵教育は?」


「全地域で新制度へ移行しています」


「階級制度は?」


「統一済みです」


「編制は?」


「統一済み」


「徴兵制度は?」


「帝国全土で運用されています」


「代官制は?」


「ほぼ全主要地域で稼働しています」


「海軍は?」


「常備戦闘艦約二百六十隻を維持し、新造艦も継続しています」


 ホスティスは報告書を閉じた。


「速いな」


「速いです」


 元帥も苦笑する。


「旧制度なら、これだけの改革を進めるだけで十年以上かかったでしょう」


「各構成国の承認」


「元老院での審議」


「領主との交渉」


「地方軍との調整」


「全部必要だった」


「今は?」


 ホスティスが聞く。


 元帥は笑った。


「帝都で決める」


「地方へ送る」


「代官が実行する」


「軍が従う」


「だから速い」


 ホスティスも笑った。


「やはり、中央集権化が一番大きかったな」


「はい」


「制度そのものより、制度を同時に変えられることが大きい」


「その通りです」


 やがて、皇帝は現在の帝国軍の資料へ目を落とした。


 そこには、現在の軍の全体像が書かれていた。


 帝国人口、約二千五百万人。


 常備軍、約四十万人。


 戦時最大兵力、約九十万人。


 常備戦闘艦、約二百六十隻。


 そして、その数字の下には、徴兵対象者数、予備役、新兵訓練所、軍用倉庫、穀物備蓄、軍需工房、造船所など、さらに無数の数字が並んでいる。


 ホスティスは、それらをしばらく見ていた。


「元帥」


「はい」


「旧帝国より、強くなったと思うか?」


 元帥は少し考えてから答えた。


「軍だけなら、すでに強いでしょう」


「国家全体で見ても?」


「おそらく」


「おそらく?」


「まだ新制度が完全に定着したわけではありません」


 元帥は静かに言った。


「しかし、新制度で育った新兵が増えるほど、旧制度へ戻る理由は減ります」


「つまり、時間が味方する」


「はい」


 ホスティスは窓の外を見る。


 帝都の街では、今日も新しい官僚が役所へ入り、新兵が兵舎へ向かい、地方から届いた荷車が物資を運び込んでいる。


 帝国は、毎日少しずつ変わっていた。


「これで、少なくとも同じ内戦は起こしにくくなった」


「そのために始めた改革ですから」


 だが、その夜。


 ホスティスが帝都の灯りを眺めていると、隣へ来た元帥が静かに言った。


「一つだけ、陛下へ申し上げたいことがあります」


「何だ?」


「今の帝国は、以前よりずっと強い」


「それは分かっている」


「だからこそ、以前より慎重である必要があります」


 ホスティスが元帥を見る。


「中央集権化は、全てを速く動かすことができます」


「軍も」


「徴兵も」


「税も」


「補給も」


「行政も」


「しかし逆に言えば、帝都からの命令が止まれば、それだけ多くの場所が同時に影響を受ける」


 ホスティスは黙って聞いている。


「旧帝国は分散していました。帝都で混乱しても、地方が動く余地があった」


「今は?」


「今は一つに繋がっている」


「その強さが、弱点にもなる」


 ホスティスはしばらく考えた。


「それでも、私はやる」


「分かっています」


「先の内戦を繰り返すよりはいい」


「はい」


「なら、中央集権化の弱点も理解した上で帝国を運用する」


 元帥は少し笑った。


「それなら安心しました」


「君は、私に反対するときだけ妙に嬉しそうだな」


「陛下が私の話を聞いてくださるからです」


「聞かなければ?」


「もっとしつこく言います」


 ホスティスが笑う。


「本当に君は面倒な男だ」


「陛下ほどではありません」


「まだ言うか」


 二人は顔を見合わせ、また笑った。


 皇帝と元帥。


 政治と軍事。


 国家を作る者と、それを動く軍へ変える者。


 その二人が支えることで、アエテリア帝国はかつてとはまるで違う国家へ変わりつつあった。


 翌朝。


 帝国各地へ、同じ形式の命令書が届けられる。


 新年度の徴兵計画。


 地方人口の報告。


 農業生産量。


 穀物備蓄。


 軍馬の登録。


 軍需工房の生産量。


 軍用倉庫の在庫。


 道路と橋の修繕計画。


 港湾施設の整備計画。


 造船所の生産予定。


 士官候補者の推薦。


 帝国軍各部隊の再編予定。


 地方では代官が命令書を受け取り、行政官が帳簿を開き、徴兵対象者の名簿が作られていく。農村では収穫量が集計され、工房では軍需品の生産予定が組まれ、港では常備艦の整備が始まり、訓練所では新兵が同じ規則の下で教育される。そして、それらの数字と報告は、やがて帝都へ戻ってくる。


 国家全体が、命令と報告によって結ばれている。


 旧帝国では、それぞれの歯車が別々の方向を向いていた。


 今は違う。


 同じ方向へ回る。


 帝国軍は、かつて各地に存在していた別々の軍隊ではなくなった。皇帝直属軍も構成国軍も民族部隊も、同じ階級、同じ編制、同じ教育、同じ命令系統の中へ組み込まれている。新しく徴兵された兵士たちは、旧制度を知らないまま新しい帝国軍の兵士として育っていく。地方には代官が置かれ、旧来の領主たちは帝都へ集まり、中央政府と軍を支える側へ回っていく。農業、徴税、軍需、生産、輸送、造船までが少しずつ同じ行政機構へ繋がり、帝国全体が一つの国家として動く能力を高めていく。


 そして、その中心には皇帝ホスティスとマギステル・エクィス・ミリトゥムがいた。


 ホスティスが、何を変えるべきかを決める。


 マギステルが、それを実際に動く制度へ落とし込む。


 互いに遠慮なく意見を言い、時には冗談まで交わしながら、それでも国家に対する責任だけは決して手放さない。


 その結果として生まれたのが、かつてのアエテリア帝国とは違う、新しい帝国だった。


 人口約二千五百万人。


 常備軍約四十万人。


 戦時最大約九十万人。


 常備戦闘艦約二百六十隻。


 しかし、本当に変わったのは数字ではない。


 国家そのものが、一つの軍事・行政・財政機構として動き始めたことだった。


 シルウァニア戦争が始まった時、これはまだ改革の途中だった。


 今では、帝国の隅々にまでその変化が届いている。


 だからこそ、改革の速度は異常なほど速かった。


 中央集権化によって、一つの決定を帝国全土へ同時に伝えられるようになった。


 一つの制度を、帝国全土へ同時に導入できるようになった。


 そして一度導入された制度の中で、新しい兵士と新しい官僚と新しい将校が育っていく。


 旧帝国を知る者が減り、新しい帝国を知る者が増える。


 その変化は、もう止まらない。


 帝都インペリアの朝。


 新兵たちが訓練場へ向かう。


 官僚たちが役所へ入る。


 地方へ向かう代官が馬車へ乗る。


 大貴族たちは中央政府の会議室へ集まる。


 港では常備艦が整備される。


 穀倉地帯では国家備蓄が積み上げられる。


 軍需工房では新しい装備が作られる。


 そして皇帝の机には、今日も次の改革案が置かれている。


 アエテリア帝国は、かつてより強くなっていた。


 そしてその強さを作った二人――ホスティス皇帝とマギステル元帥は、まだ改革の途中にいた。

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