第26話 平和
シルウァニア戦争が終結してから、二年が経っていた。
王立士官学校を卒業してからも、俺たちの生活が止まることはなかった。軍制改革、財政、外交、西方評議会、商業政策、南東部に編入された旧シルウァニア領の行政、新しく整備された軍団の運用。王太子として俺が関わらなければならない問題は、士官学校にいた頃とは比べものにならないほど増えている。
それでも、二年前とは明らかに違っていた。
戦争が終わった直後の王都には、戦場から戻ってきた兵士や負傷者が溢れ、各地の損害を整理するための官僚たちが走り回り、新しく獲得した領土の統治方法を決めるための会議が連日続いていた。街道や港湾、倉庫、要塞などの修復や再編も行われ、王都に暮らす人々も戦争の余韻から完全に離れることができなかった。
だが、あれから二年。
王都レクィエリアでは、戦争はすでに「過去の大きな出来事」になりつつあった。
もちろん、完全に忘れられたわけではない。戦死した兵士の家族には今も記憶が残っているし、南東部やモンタヌス周辺では行政制度の再編や長期的な復旧事業も続いている。それでも、少なくとも王都の大通りを歩く人々は、戦争そのものより今日の仕事や明日の商売について話すようになっていた。
そんな変化を、俺はある日の午後、ティアと一緒に実際の街を歩きながら感じていた。
王太子と王太子妃が王都の大通りを歩く以上、当然ながら護衛はついている。俺たちの前後には王太子夫妻付きの護衛兵が分散して配置され、少し離れた場所にも別の護衛がいる。人目につきすぎないよう隊列は広げていないものの、通りを横切る馬車や荷車、こちらへ近づいてくる人間には常に注意が向けられていた。
王太子夫妻の身辺警護としては十分な人数だ。
ただし、戦時中のように何十人もの兵士が剣を抜いた状態で周囲を固めるわけではない。二年の間に王都の治安は安定し、俺たち自身も街を歩ける程度には日常が戻っていた。
「前より品物が増えたね」
ティアが店先を眺めながら言った。
「ああ」
俺も足を止める。
以前にはあまり見かけなかった色鮮やかな布が、店の外まで並べられている。細かな模様が織り込まれたものや、鮮やかな染料を使ったものまで種類が多い。
「カヴィーレスターンのものだな」
「分かるの?」
「前に資料で見たことがある。あの模様は向こうの織物によく使われる」
「へえ……」
ティアが布へ近づいていく。
そのすぐ後ろでは、護衛兵の一人が周囲を確認している。店の客に怪しい動きがないかを見る者、通りの先を確認する者、さらに少し離れた場所から俺たちの周囲を監視する者。それぞれが自然な位置を取っているため、街を歩く人々から見ても大袈裟な警護には見えない。
「こっちは?」
ティアが別の布を指差す。
「セプテントリアの方だろうな」
「同じ布でも結構違うね」
「ああ。カヴィーレスターンは染料の使い方が特徴的だ。セプテントリアの方は、細かい織りや模様そのものに重点がある」
「レノ、本当にこういうところだけ詳しいよね」
「歴史や経済の資料を読むのは好きだからな」
ティアが笑う。
「でも、こうして実際に見ると分かりやすいね」
「そうだな」
俺は改めて通りを見渡した。
人が多い。
けれど、二年前とは違う。
戦争直後には軍用馬車や物資輸送の荷車が多かった。兵士の家族が戦地から戻ることを待っていたり、負傷兵を運んでいたり、役所へ書類を届ける人間が行き交っていた。
今は商人の荷車が多い。
店先には客がいる。
職人たちは仕事をしている。
子供たちが通りの端を走っている。
人々が、それぞれ自分の生活をしている。
「戦争が終わったって、こういうところで分かるんだな」
俺が呟くと、ティアがこちらを見る。
「うん。二年前は、街全体が戦争の話をしてたもんね」
「ああ」
俺は頷いた。
講和条件。
戦死者。
負傷者。
新領土。
税制。
軍の再編。
どこへ行っても、そんな話ばかりだった。
今では、それらの話は王都の日常から少しずつ遠ざかっている。
代わりに、
今日は何を売るか。
どこから商品を仕入れるか。
新しい工房を開くにはどうするか。
今度の祭りはいつなのか。
そんな話が街を占めている。
「平和って、こういうことなのかもしれないな」
「どういうこと?」
「戦争がないことを、いちいち意識しなくなることだ」
ティアが少し考える。
「なるほど」
「戦争が終わった直後は、『戦争が終わった』ことが大きな出来事だった。でも今は、みんな普通に生活してる。だから、戦争がないことそのものを考えなくなる」
「それなら、いいことだね」
「ああ」
俺はそう答えた。
本当に、そう思った。
大通りをさらに進むと、以前より大きくなった商店街へ出た。
ここでは、カヴィーレスターンだけではなく、各地から運ばれてきた商品が並んでいる。
セプテントリアの織物。
カヴィーレスターンの香辛料や染料。
エクィトゥムの金属製品。
アンティクイランド国内の農産物。
さらに西方評議会の加盟国から運ばれてきた、これまで王都では珍しかった商品まで並んでいる。
「これ、前からあった?」
ティアが小さな瓶を手に取る。
「いや。たぶん最近入ってきたものだ」
店員がこちらに気づいて頭を下げる。
「カヴィーレスターンから仕入れております」
「へえ」
「西方評議会によって関税が引き下げられましたので、以前よりかなり仕入れやすくなりました」
ティアが俺を見る。
「やっぱり変わってる」
「ああ」
「前より安くなった商品もあるの?」
「種類によるな。ただ、関税が下がれば最終的な価格を抑えやすくなる」
「つまり、こういうところまで制度の影響が出てるんだ」
「そういうことだ」
俺は店内の商品を眺めた。
西方評議会を作った時、俺が考えていたのはもっと大きな話だった。
戦争を防ぐ。
加盟国同士で争わない。
外敵が現れた時には共同で戦う。
交易を活発にする。
共通通貨を使う。
そんなことばかり考えていた。
でも、本当に制度が働いているのかを判断するなら、こういう店を見る方が分かりやすい。
関税が下がった。
商品が増えた。
商人が新しい仕入先を持った。
客が買い物をする。
それだけのことだ。
けれど、その「それだけ」が積み重なって、国同士の距離そのものを縮めていく。
「ティア」
「なに?」
「最初に西方評議会の話をした時、こんな風になると思ってたか?」
「全然」
ティアは即答した。
「だって、最初は戦争の後にみんなで協力するための組織だったんでしょう?」
「ああ」
「それが今じゃ、商人も軍人も外交官も、普通に同じ建物へ行くようになった」
「俺も驚いてる」
「でも、いいことだよ」
ティアは微笑んだ。
「戦争が終わったから、こういうものが作れたんだもん」
「そうだな」
俺も頷いた。
さらに歩いていくと、フレトゥム海峡を通って運ばれてきた商品を扱う商人たちが集まる区画へ出た。
以前から海峡交易は王国財政を支える重要な収入源だったが、今ではその重要性がさらに増している。
ガルディシアが王領になったことで、王国が直接受け取る海峡関税は以前より大きくなった。さらに西方評議会による関税引き下げや、加盟国間の交易制度の整備も進んだことで、海峡を通る商品の種類そのものが増えている。
「人、多いね」
ティアが言う。
「ああ」
商人たちが荷物を運び、帳簿を確認し、別の商人と話をしている。
以前は、交易といっても国境ごとに関税を払い、それぞれの貨幣を使い、契約方法も国ごとに違っていた。
今は違う。
共通通貨が使われている。
加盟国間の関税も下がった。
もちろん、全てが統一されたわけではない。
国ごとに法律は違う。
商習慣も違う。
けれど、以前より取引は簡単になっている。
「リアが忙しくしてるのも分かるな」
俺が言うと、ティアが笑った。
「商工組合連合会?」
「ああ」
リアは今、へーロース商会の仕事だけでなく、商工組合連合会の運営にも関わっている。
各業種や地域ごとの組合をまとめ、商取引のルールや品質基準、契約慣行などについて商人側で調整する。
政府が全ての商店や工房を直接監督するのではなく、商人自身が一定のルールを作り、問題を発見すれば組合を通して行政へ報告する。
商業が大きくなれば、それだけ行政が直接扱う情報も増える。
だからこそ、商工組合連合会のような中間組織が重要になる。
「今度、リアにも会いたいな」
「たぶん、会えばすぐ仕事の話になるよ」
「それはありそうだ」
二人で笑った。
王宮へ戻る頃には、日が少し傾き始めていた。
王太子夫妻のための馬車へ乗り込む。
護衛兵たちもそれぞれの位置へつき、馬車の前後を固めていく。
王宮へ向かう車列は、戦時中ほど大きくない。
それでも、王太子と王太子妃を乗せた馬車として必要な護衛は確保されている。
「今日は楽しかった」
馬車の中でティアが窓の外を眺めながら言う。
「そうか?」
「うん。こういう普通の日って、好き」
「俺もだ」
「学校の頃も、もっとこういう時間があればよかったのにね」
「その頃は戦争やら訓練やらで忙しかったからな」
「今も忙しいけどね」
「それは否定できない」
ティアが笑う。
しばらく二人とも、何も言わず窓の外を見ていた。
夕方の王都。
店を閉める準備をする商人。
仕事を終えて帰る職人。
市場から荷物を運ぶ人々。
夕食の材料を買って帰る家族。
どこにでもある、普通の暮らし。
それが王都に戻ってきている。
「レノ」
「何だ?」
「この平和、続くといいね」
俺はすぐには答えなかった。
東にはアエテリア帝国がある。
ホスティス皇帝は中央集権化を進めている。
西方評議会も拡大し、その存在は帝国から警戒されている。
それでも、今この瞬間の王都には戦争の気配がない。
目の前の人々は、明日の戦いではなく明日の仕事を考えている。
「……ああ」
俺は静かに答えた。
「続いてほしいな」
ティアが微笑む。
「うん」
馬車は、そのまま王太子宮へ向かっていく。
戦争が終わって二年。
王都では、もう「戦争が終わった」ということ自体が毎日の話題ではなくなっていた。
街には商品が増えた。
遠くの国から商人がやってくる。
新しい制度の中で働く人々がいる。
そして、普通の生活が続いている。
俺はその光景を思い返しながら、静かに思った。
平和とは、何も起きないことではない。
誰かが店を開き、誰かが働き、誰かが買い物をして、家へ帰る。
そんな何でもない一日が、何度も繰り返されていくこと。
それが二年前、戦争を経験した俺が知った平和だった。
そして、その平和を守るために、俺にはまだやるべきことがある。




