第25話 外交摩擦
19歳になってから、まだそれほど日が経っていなかった。
俺の生活そのものは18歳の頃と大きく変わっていない。朝になれば王宮へ向かい、各省庁から届いた書類へ目を通し、軍務や財政、内政に関する報告を確認し、必要な案件について担当者と話し合う。その合間には西方評議会関連の資料も入ってくるし、モンタヌスの行政についても確認しなければならない。19歳になったからといって急に仕事が軽くなるはずもなく、むしろ18歳の頃よりも「王太子として最初に判断する」案件が増えていた。
そんな中で、数日前に俺が出した穀物流通に関する提案が、思いがけない形で問題になっていた。
西方評議会の経済理事会では、カヴィーレスターン・スルタン国から流入する安価な穀物によって、一部の加盟国の農家が価格競争に苦しんでいることが議題になっていた。特に農業への依存度が高いオルセリア侯国では、その影響が大きいとされている。俺は資料を見た上で、輸入制限を一年間だけ認め、その間に農業支援策を整えればいいと考えた。理屈としては悪くないと思っていたし、国内産業を守りながら共同市場の原則を壊さないための暫定措置として、それなりに現実的な案だと思っていた。
ただし、俺は一つだけ大きな勘違いをしていた。
その案が、まだ「俺の中の案」に過ぎないと思っていたことだ。
実際には違った。
王太子である俺が正式な資料へ意見を書き、その内容が外務卿のもとへ渡れば、それは単なる個人的な思いつきではなく、「アンティクイランド王国の有力な政策案」として扱われる。さらに王太子の意見を受けた担当者が、カヴィーレスターン側へ非公式の調整文書を送ったことで、問題は一気に外交の領域へ入り込んでしまった。
そして、その結果が届いたのが、その日の朝だった。
「殿下」
グラフィルが、いつもより慎重な表情で書状を差し出す。
「外務卿から緊急の連絡です」
「何かあったのか?」
「カヴィーレスターン・スルタン国の代表から、抗議が入っています」
俺は書状を受け取った。
「抗議?」
「はい」
封を切り、内容へ目を通す。
そこに並んでいたのは、思っていた以上に強い言葉だった。
アンティクイランド王国王太子から示された穀物輸入制限案について、カヴィーレスターン政府は重大な懸念を表明する。
西方評議会の共同市場制度は、加盟国全体の合意によって運営されるべきものであり、一加盟国の王太子が独自に輸入制限を提案し、それを前提として他国との調整を進めることは、評議会の共同原則を損なう恐れがある。
さらに、カヴィーレスターンの商会がすでに締結している長期契約について、アンティクイランド側が十分な確認を行わないまま市場への制限を検討していることについても、強く遺憾の意を表する。
最後の一文を読んだところで、俺の手が止まった。
「……そこまで行ったのか」
グラフィルが静かに頷く。
「外務卿からは、すぐに王太子殿下へ報告するようにとのことでした」
俺は書状を机へ置いた。
「俺は、輸入制限を実施すると決めたわけじゃない」
「はい」
「ただ案を出しただけだ」
「カヴィーレスターン側は、そう受け取らなかったのでしょう」
その言葉に、俺は黙った。
確かにそうだ。
俺が王太子である以上、俺の発言は個人の意見では済まない。正式決定ではなくても、王国政府がどの方向へ動こうとしているのかを示すものとして受け止められる。
しかも今回は、西方評議会という別の組織が舞台だった。
アンティクイランド王国一国の国内政策ではない。
複数の国家が共同で作った市場の話だ。
そこへ俺が、自国の立場から一つの案を出した。
それだけなら問題はなかったのかもしれない。
だが、その案をもとに担当者がカヴィーレスターン側へ話を進めたことで、「アンティクイランドはすでに輸入制限へ動いている」と見られてしまった。
「……まずいな」
俺が呟いた、その時。
「だから言ったでしょう?」
聞き慣れた声がした。
俺が顔を上げると、ティアが立っていた。
「どこから聞いた?」
「外務卿から」
「早いな」
「私も王太子妃だからね」
ティアはそう言って、机の向かいへ腰を下ろした。
「資料、見せて」
俺は書状を渡した。
ティアは黙って最後まで読んだ。
「……結構怒ってるね」
「ああ」
「レノは、輸入制限を命令したつもりだった?」
「してない」
「じゃあ、どうしてこうなったと思う?」
俺は答えられなかった。
ティアは書状を机へ戻した。
「たぶん、また同じことだよ」
「同じこと?」
「昨日までのレノと一緒」
俺は黙ってティアを見る。
「数字を見て、制度を考えて、これなら両方助かると思った。でも、その制度が実際に誰の生活を変えるのか、その人たちがどう感じるのかを考える前に、答えを出しちゃった」
「……」
「オルセリアの農家を助けたい。それは分かるよ。でも、カヴィーレスターンの商人から見たら、自分たちが何年もかけて作った取引を突然制限される話になる。しかも、その話を自分たちと十分に相談する前に、アンティクイランド側から出された」
「……俺が逆の立場なら怒るな」
「でしょう?」
ティアが少し笑う。
「それに、今回は前より大きいよ」
「分かってる」
「前は国内の領主だった。でも今回は、相手は別の国」
その言葉が、胸に刺さった。
国内の予算を削るのと、外国の商人が関わる市場へ制限をかけるのでは、同じ「数字を変えること」でも意味が全く違う。
俺は椅子へ深く座り直した。
「……また数字だけ見てたか」
「うん」
ティアは否定しなかった。
「でも、今回はまだ直せるよ」
「どうすればいい?」
「まず、自分の案を通そうとするんじゃなくて、カヴィーレスターンが何を困るのか聞く。それからオルセリアが何を困っているのかも聞く」
「両方を聞いてから、案を作り直す」
「そう」
「でも、それだと時間がかかる」
「うん」
ティアが頷いた。
「でも、外交ってそういうものじゃない?」
俺は返事をしなかった。
たぶん、その通りだった。
その日の午後、王宮では急きょ、非公式の外交協議が開かれた。
出席したのは、アンティクイランド側の俺と外務卿、それからカヴィーレスターン・スルタン国の常駐代表と、その随員だった。西方評議会そのものの正式会議ではない。だから、まだ議事録へ残るような決定をする場でもない。ただ、これ以上問題が大きくなる前に、双方の考えを直接確認するための席だった。
「今回の件について、まず私から謝罪します」
俺は席へ座ったまま、カヴィーレスターンの代表へ頭を下げた。
「こちらから出した案について、貴国との十分な協議を経る前に話が進んでしまったことは、私の配慮不足でした」
代表はしばらく俺を見ていた。
「王太子殿下」
「はい」
「我が国は、オルセリア侯国の農家が置かれている状況を理解していないわけではありません」
「……はい」
「価格競争が発生していることも、我々は把握しております」
代表は一枚の資料を机へ置いた。
「しかし、問題なのは穀物だけではありません」
俺は資料を見る。
「カヴィーレスターンの穀物商人は、単に商品を売っているわけではありません。穀物を輸送する隊商、倉庫、港湾、金融業者、保険的な契約、長期売買契約など、様々な商業活動が一つに繋がっています」
「オルセリアへの輸出を制限すれば、その周辺の商業まで影響する」
「はい」
代表が頷く。
「さらに、すでに契約済みの取引があります。明日から一方的に数量を減らせと言われても、商人たちは簡単には対応できません」
「契約違反になるからか」
「それだけではありません。カヴィーレスターンの商会は、西方評議会が共同市場を守るという前提で、今後の輸送計画を組んでいます」
そこで代表は俺をまっすぐ見た。
「今回の話が出たことで、商人たちの間には『西方評議会に加盟すると、政治判断一つで契約を変えられるのではないか』という不安まで生まれています」
俺は息を呑んだ。
そこまでは考えていなかった。
俺が考えていたのは、オルセリアの農家を助けることだった。
しかし実際には、その決定が一つの国の商人の信用へまで影響する。
信用が崩れれば、商人は契約を結ぶこと自体を避ける。
そうなれば、西方評議会の共同市場にも影響が出る。
「……分かりました」
俺は資料を閉じた。
「輸入制限案は、いったん撤回します」
外務卿がこちらを見る。
「殿下」
「正式に撤回して、別の案を作り直す」
カヴィーレスターン代表が少しだけ表情を緩めた。
「ありがとうございます」
「ただし、オルセリア側の問題も放置しない」
「それについては?」
「農家への直接支援、農業生産性の改善、それから余剰穀物を共同市場で吸収する仕組みを考える」
俺は続けた。
「カヴィーレスターンから入ってくる穀物を無理に止めるのではなく、オルセリアの農家が価格競争の中でも生き残れるようにする」
「その方針なら、我が国としても協力できます」
代表が答えた。
「我が国の商会にも、長期契約の調整や流通先の拡大について相談できるよう働きかけましょう」
俺は少し驚いた。
「そこまで協力してもらえるのか?」
「共同市場を維持することは、我が国にとっても利益です」
その言葉を聞いて、俺はようやく理解した。
最初から敵対していたわけではない。
自分の国の利益を守りたかっただけだ。
オルセリアも同じだ。
農家を守りたい。
カヴィーレスターンも同じだ。
自国の商業を守りたい。
どちらも間違っていない。
だからこそ、片方を守るためにもう片方を切り捨てるのではなく、双方が受け入れられる形を探さなければならない。
協議が終わって王太子宮へ戻ると、ティアが待っていた。
「どうだった?」
「輸入制限は撤回した」
「うん」
「その代わり、農家への支援策を考える」
「カヴィーレスターンも協力してくれるって?」
「ああ」
ティアが嬉しそうに笑った。
「よかったね」
「……ああ」
俺は椅子へ腰を下ろした。
「また失敗した」
「うん」
「そこは否定してくれよ」
「だって失敗したでしょう?」
「まあな」
ティアが笑う。
「でも、前と違うところもあるよ」
「何だ?」
「レノ、自分の案を守らなかった」
俺は少し黙った。
「相手の話を聞いて、間違ってると思ったら変えた」
「ああ」
「それなら、ちゃんと成長してる」
俺は苦笑した。
「19歳になって最初の日から外交問題を起こして、そこから成長したと言われてもな」
「でも、19歳ってそういう一年にすればいいんじゃない?」
「そういう一年?」
「失敗して、直して、少しずつ上手くなる一年」
ティアはそう言って、俺の隣へ座った。
「18歳の時は、戦争から帰ってきて国の仕事を始めたでしょう?」
「ああ」
「19歳では、その仕事をちゃんと自分のものにしていく」
「……なるほど」
「だから、今回のことも無駄じゃないよ」
俺は少し考えてから、頷いた。
「ああ」
窓の外を見る。
王都の灯りが夜の中へ並んでいる。
19歳になった。
王太子としての仕事は、18歳の時より重くなった。
でも、その分だけ自分一人で答えを出す必要もなくなっているのかもしれない。
見えていないものがあれば、誰かに教えてもらえばいい。
間違えたなら、修正すればいい。
相手が敵ではなく、別の事情を抱えた人間なら、その事情を聞けばいい。
「ありがとう、ティア」
「どういたしまして」
「今年も頼ることになりそうだ」
「もう頼るって決めてるでしょう?」
「ああ」
ティアが笑う。
「じゃあ、私も頼るね」
「もちろん」
19歳の最初の数日は、思っていたより少し慌ただしい始まりになった。
それでも、その失敗のおかげで俺は一つだけ学んだ。
国家を動かす時に見るべきものは、数字だけではない。
その数字によって動かされる人間と、その人間が抱えている事情まで見なければ、本当に正しい答えには届かない。
そして19歳という一年は、そうしたことを一つずつ覚えていく一年になっていくのだろう。
王太子としても。
夫としても。
俺はまだ、学んでいる途中だった。




