第24話 失敗
翌朝、目が覚めた時、俺はもう19歳になっていた。
昨夜までとは何も変わっていない。王都レクィエリアも、王宮も、俺の部屋もそのままだし、王太子としての立場が突然変わるわけでもない。それでも、時計が日付を越えたことで、18歳という一年が終わり、今日から19歳として生きるのだと思うと、ほんの少しだけ不思議な気分になった。
隣を見ると、ティアはまだ眠っていた。昨夜は遅くまで話していたから、もう少し寝かせておこうと思ったが、俺が起き上がった気配でティアがゆっくり目を開けた。
「……もう朝?」
「ああ」
「そっか……」
ティアはまだ眠そうな顔でこちらを見ると、少しだけ笑った。
「19歳、おめでとう」
「ありがとう」
「昨日も言ったけど、なんか変な感じだね」
「俺もそう思う」
「でも、ちゃんと19歳になったね」
「ああ」
ティアはしばらく俺を見つめてから、小さな声で言った。
「……湊」
「ん?」
「呼んでみたかった」
その呼び方に、昨日の夜のことが蘇る。
「美咲」
「ふふ」
ティアが嬉しそうに笑った。
「今日は19歳の最初の日だよ」
「そうだな」
「だから、昨日の約束も継続ね」
「何の?」
「ちゃんと頼ってくれること」
「分かってる」
「本当かな」
「本当だって」
ティアは少しだけ満足そうに頷く。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
「今日は一緒に行くんだろ?」
「そうだった」
二人で笑う。
昨日までとは違う一年が始まる。
その時の俺は、まだ知らなかった。
19歳になった最初の数日で、自分が18歳の時には見落としていたものを、いきなり突きつけられることになるとは。
王宮へ入ると、19歳になったことを祝う挨拶を何人もの官僚や貴族から受けた。王太子ともなれば誕生日一つでも簡単には終わらないらしい。形式的な祝いの言葉へ礼を返し、いくつかの贈答品を受け取った後、俺はいつもの執務室へ入った。
そこには、昨日までと変わらず大量の資料が待っていた。
「19歳の初日からこれか」
俺が苦笑すると、グラフィルも少しだけ笑った。
「昨日から積み上がっていたものです」
「片づけておいてくれればよかったのに」
「王太子殿下が昨日、『今日は仕事を終わらせる』と仰っていたので」
「……それは俺だな」
最初の資料は軍務省だった。第1軍団から第5軍団の再編状況、第6軍団のガルディシア防衛、第7軍団のモンタヌス派遣、傭兵の再訓練、各領地から提出される兵力報告。そのほとんどは大きな問題もなく進んでいる。俺は必要な箇所へ印を付け、来年度へ持ち越すものを分けていった。
次に財務。国家収入と支出に大きな変化はなく、今のところ来年度予算も予定通り進んでいる。モンタヌスの税収についても想定内だった。
つまり、問題はなかった。
19歳初日だからといって何か大きな事件が起こるわけでもない。
そんな気分になりかけたところで、グラフィルが一通の書状を持ってきた。
「こちらは外務卿からです」
「西方評議会?」
「はい。経済理事会に関する案件です」
俺は書状を受け取った。
内容は、カヴィーレスターン・スルタン国から西方評議会へ提出された穀物流通に関する要望だった。
西方評議会発足後、加盟国間の関税が引き下げられたことで、カヴィーレスターンから大量の穀物が流入するようになっている。それによって、オルセリア侯国をはじめとする一部の加盟国では国内の穀物価格が下落し、農家の収入が減少していた。
すでに経済理事会でも議論されている。
対策として、農家への補助を行う案。
共同市場から一定の調整金を出す案。
そして、一定期間だけ穀物の輸入量を制限する案。
複数の意見が出ていた。
俺は資料を読み終えた。
「輸入制限案は?」
「小国側からかなり強い支持があります」
「カヴィーレスターンは?」
「反対です」
「理由は?」
「共同市場の原則を損なうこと、それから商業契約への影響です」
俺は少し考えた。
理屈としては分かる。
関税を下げる。
交易を増やす。
安価な穀物が入ってくる。
消費者には利益がある。
だが、国内の農家には負担になる。
そこで輸入量を制限すれば、農家は守れる。
しかし、共同市場の理念そのものと衝突する。
「なら、輸入制限を一年間だけ認める案でいいんじゃないか」
俺は言った。
「その間に国内農家への支援策を整える。それなら恒久的な関税障壁にもならない」
「合理的だと思います」
グラフィルが答えた。
俺自身も、それでいいと思っていた。
問題を見つける。
期限を決める。
その間に別の制度を整える。
かなり合理的な案だ。
だから、そのまま外務卿へ返そうとした。
その時だった。
「ちょっと待って」
ティアの声がした。
「何だ?」
ティアは俺の机の上の資料を覗き込んでいた。
「この案、本当にカヴィーレスターンは納得するかな?」
「共同市場全体のためだろ」
「うん。でも、カヴィーレスターンの中では、これによって困る人たちがいるんでしょう?」
「当然だろうな」
「じゃあ、その人たちのことは?」
「……」
俺は資料へ目を戻した。
「商人だろう」
「商人だけじゃないよ」
ティアは指で資料の一部を示した。
「カヴィーレスターンでは、穀物をただ国内で消費してるんじゃない。砂漠の都市や隊商路へ運んで、そこからさらに他の地域へ流してるでしょう?」
「ああ」
「それなら、オルセリアへの輸出量を制限されたら、カヴィーレスターンの商人は別の場所へ流通経路を変えないといけない。それに、もう契約してる取引もあるかもしれない」
俺は黙った。
資料には、輸入量と価格、関税、農家への影響は載っている。
しかし、その裏にある商人同士の契約までは書かれていない。
「……そういうことか」
「うん」
「俺は市場価格と国家制度だけ見てた」
「たぶん」
ティアが少しだけ笑った。
「19歳になったばっかりだからって、急に全部できるようになるわけじゃないよ」
「痛いところを突くな」
「だって本当だもん」
二人で少し笑った。
俺は資料をもう一度読み直した。
輸入制限をした場合、オルセリア農家は助かる。
しかしカヴィーレスターン側では、商人だけではなく、輸送業者、港湾関係者、隊商の宿営地、倉庫業者、穀物を扱う市場などにも影響が出る。
さらに、すでに結ばれている長期契約があるなら、その履行にも問題が出る。
数字だけなら一年間の輸入制限で済む。
だが、人間が関わっている以上、それだけでは終わらない。
「外務卿に返す」
「どうするの?」
「輸入制限案は一旦保留。まず、カヴィーレスターン側の契約状況を確認する。それからオルセリアを含む農業地域の被害状況も改めて調べる」
「うん」
「その上で、両方を補う案を作る」
「それがいいと思う」
ティアは満足そうに頷いた。
「レノ、少し成長したね」
「まだ初日に失敗しただけだけどな」
「でも、失敗したままにしなかったでしょう?」
「まあ、それはそうだな」
午後になり、俺は外務卿とカヴィーレスターン側の代表を交えた非公式の協議に参加した。
そこで初めて、先ほどまで見えていなかった事情がいくつも出てきた。
カヴィーレスターンの商人たちは、オルセリア侯国へ穀物を輸出するだけではなく、その先の複数地域へ商品を流す契約を結んでいる。オルセリアで受け取られた穀物の一部は、さらに別の市場へ再び流通している。そのため、オルセリア向け輸入量だけを一律に制限すると、単純にカヴィーレスターンの輸出が減るだけではなく、長く続いてきた複数の商業契約そのものへ影響する可能性があった。
一方、オルセリア側にも事情がある。農家は穀物価格の下落によって収入が減っているが、だからといって輸入穀物を完全に止めれば、都市部の消費者や低所得者層の負担が増える可能性がある。しかも農家の中には、安い輸入穀物を飼料として購入している者もおり、単純な輸入制限が必ずしも全ての農家に利益をもたらすわけではない。
俺はその話を聞きながら、少しだけ頭が痛くなった。
朝の資料には、そんなことは書かれていなかった。
「……最初の案、撤回して正解だったな」
俺が呟くと、外務卿が苦笑した。
「王太子殿下なら、数字だけで決めることはないと思っておりました」
「期待が重いな」
隣でティアが小さく笑った。
「でも、今回は私も役に立ったでしょう?」
「ああ。かなり」
それを聞いたティアは、少しだけ嬉しそうにした。
18歳最後の夜に話したことが、そのまま現実の仕事になっている。
俺一人で全部を見る必要はない。
見えないものを、ティアが見つけてくれる。
それは思っていた以上に大きかった。
その日の夕方。
俺は再び執務室へ戻り、今日の協議で分かったことを整理した。
結局、輸入制限そのものを一律に導入するのではなく、農業への構造調整支援を行いながら、特定品目についてだけ短期間の調整措置を検討する方針になった。カヴィーレスターン側には既存契約への配慮を求め、オルセリア側には農家への直接支援を行う。その費用については経済理事会で共同負担の可能性を検討する。
朝の案よりは複雑になった。
しかし、その方が現実には近い。
俺は最後に今日のメモへ一行だけ書いた。
数字だけで決めない。
そして、その下へもう一行。
相手にも、その国の事情がある。
ペンを置いたところで、扉が開いた。
「レノ」
ティアが入ってくる。
「終わった?」
「ああ」
「どうだった?」
「疲れた」
俺が答えると、ティアが笑った。
「でしょうね」
「でも、勉強になった」
「ならよかった」
ティアは俺の机の端へ腰を下ろした。
「19歳初日から失敗するなんて思わなかった」
「俺もだ」
「でも、18歳の時に同じことやってたら、もっと頑固だったかも」
「……否定できない」
「でしょ?」
ティアが笑う。
俺も笑った。
「なあ、ティア」
「何?」
「今年も、頼らせてくれ」
「うん」
返事は迷いがなかった。
「私もレノを頼るから、お互いさまね」
「ああ」
もう夜になっていた。
19歳の最初の日は、華やかな誕生日の思い出よりも、一つの失敗と、その失敗を直すために二人で考えたことの方が強く残った。
それでいいのだと思う。
国を動かす仕事も、いきなり完璧になるわけではない。
間違えたら、見直す。
自分に見えていなかったものを、誰かに教えてもらう。
そして次は、少しだけ上手くやる。
そんなことを繰り返しながら、俺は19歳になったばかりの一年を始めていく。
翌週には、また別の仕事が待っている。
王太子としての生活は、18歳の時より少しだけ忙しくなっていた。




