↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷の奇公子 ~変人王子の生存術~  作者: 岸田減税
最終章 第二次ルイーナエ大戦
357/415

第23話 名前

王都レクィエリアの王宮は、昼間とは別の場所のように静かだった。官僚や貴族が行き交い、王太子宮にも次々と仕事が持ち込まれていた昼間とは違い、夜が深くなった今は、廊下を歩く人影も少ない。窓の外には王都の灯りが広がり、遠くでは夜間警備を続ける兵士たちの足音が、ときおり静かな王宮へ響いていた。


 俺は今日の仕事をすべて終え、王太子宮のテラスに出ていた。机の上に残っていた書類も片づけた。明日の予定も確認してある。だから今夜くらいは、仕事のことを考えなくてもいいはずだった。


 それでも、18歳最後の日という区切りを意識すると、この一年に起きたことが自然と頭へ浮かんでくる。王立士官学校を卒業した。シルウァニア戦争を経験した。南部戦線では軍を率いて撤退し、森の中で追撃を受けながら生き延びた。戦争が終わってからは、王太子として王宮の仕事へ本格的に関わり、軍制改革や財政、モンタヌスの行政、西方評議会の制度作りまで考えるようになった。そして、そのすぐ隣ではティアも王太子妃として自分の役割を広げていた。


 学校にいた頃とは、何もかも変わっている。


 そう思っていたところで、背後から声がした。


「やっぱり、ここにいた」


 振り返ると、ティアが立っていた。


「探したのか?」


「うん。部屋にもいなかったから」


「今日はもう仕事は終わったぞ」


「明日の予定を確認してたりしない?」


「……少しだけ」


「ほら」


 ティアが呆れたように笑う。


「やっぱり仕事してる」


「明日の予定くらいは仕方ないだろ」


「まあ、それくらいなら許してあげる」


「随分と偉くなったな」


「王太子妃だからね」


 そう言って、ティアは俺の隣まで歩いてきた。人の目がないことを確認するような素振りもなく、いつものように自然に俺の腕へ自分の腕を絡める。


 夫婦になってから、こうして二人でいることは珍しくない。


「今日で18歳最後なんだね」


「ああ」


「明日から19歳かあ」


「一年って早いな」


「それ、去年も言ってたよ」


「また?」


「また」


 ティアが楽しそうに笑う。


「でも、本当に早いよ。18歳になったばかりの頃は、まだ士官学校の卒業も先だったのに」


「今じゃ卒業して一年近く経つ」


「それだけじゃない」


 ティアは少しだけ笑みを弱めた。


「戦争もあった」


「……ああ」


 その一言で、二人の間に少しだけ沈黙が落ちた。


 一年も前のことなのに、あの戦場は今でも鮮明に思い出せる。敵に追われ、味方が崩れ、護衛が減っていく中で、それでも後ろを振り返る余裕すらなく走り続けた。あの時の自分は、何度も大丈夫だと言っていた。だが本当は、自分自身にも言い聞かせていたのだと思う。


「あの時、私ね」


 ティアが口を開く。


「何だ?」


「敵に追われてたことより、レノが倒れることの方が怖かった」


 俺は横目でティアを見る。


「そこまでだったか?」


「そこまでだよ」


 ティアは少しだけ頬を膨らませた。


「レノ、全然大丈夫じゃなかったのに大丈夫って言うんだもん」


「止まったら追いつかれてたからな」


「だからって無理しすぎ」


「悪かった」


「……ちゃんと反省してる?」


「ああ」


「ならいいけど」


 ティアが小さく笑う。


「でも、あの砦が見えた時は、本当に安心した」


「俺もだ」


「どうして?」


「ティアが一緒だったから」


「……」


 ティアが少しだけ俺を見上げる。


「そういうこと、前より普通に言うようになったね」


「そうか?」


「うん」


「今まで言わなかっただけかもしれない」


「じゃあ、もっと言って」


「考えておく」


「そこは『分かった』でしょ」


「分かった」


 二人で笑った。


 その後もしばらく、他愛のない話が続いた。学校にいた頃のこと。今では変わってしまった王都のこと。卒業したばかりの後輩たちのこと。そうした話をしているうちに、気づけば二人とも、少しだけ昔のことへ意識を向けていた。


「……ねえ、レノ」


「何だ?」


「前世のこと、最近よく思い出すんだ」


「俺も」


「昔の学校とか」


「ああ」


「帰り道とか」


「覚えてる」


「寄り道もしたよね」


「お前がよく勝手に寄り道してたな」


「でも、湊もついてきてたじゃん」


 その瞬間、俺はティアを見る。


 ティアも、自分の口から出た名前に気づいたらしい。


「……今」


「うん」


「湊って言ったよな」


「言った」


 ティアは少しだけ困ったように笑った。


「なんか、口に出た」


「俺も、今聞いてちょっと驚いた」


「嫌?」


「違う」


 俺は首を横に振る。


「むしろ、懐かしい」


「……よかった」


 ティアは小さく息を吐いた。


「もう一回、呼んでもいい?」


「ああ」


 ティアは少しだけ俺の顔を見つめ、それから静かに口を開く。


「湊」


 今度は、はっきりと。


 たった二文字だった。


 それなのに、不思議なほど胸の奥へ響いた。


 学校帰りの道が浮かぶ。隣を歩いていた少女の姿が浮かぶ。何でもない話で笑ったこと。少し喧嘩したこと。彼女が何かに怒って頬を膨らませていたこと。そして、まだ何者でもなかった自分が、彼女へ想いを伝えたこと。


 その続きを聞くことなく、前世の人生は終わった。


「……美咲」


 俺も、その名前を口にした。


 ティアの目が少しだけ見開かれる。


「……うん」


「久しぶり」


 その一言を言っただけなのに、ティアの表情が少し変わった。


「本当に久しぶりだね」


「ああ」


「なんか……変な感じ」


「俺もだ」


「レノなのに、今は湊に見える」


「ティアなのに、美咲に見える」


「ふふ」


 ティアは笑った。


「そう思う?」


「ああ」


「私も、今ちょうど同じこと考えてた」


 それからティアは、少しだけ俺の腕へ寄りかかった。


「こうして名前を呼ぶと、前世のことが急に近くなるね」


「今まで忘れてたわけじゃないのにな」


「うん。でも、覚えているのと、声に出して呼ぶのって違うんだね」


「そうだな」


「湊」


「何だ、美咲」


「……」


「どうした?」


「もう一回、呼んでくれない?」


「美咲?」


「うん」


 俺は少し笑った。


「美咲」


「……うん」


 ティアも笑う。


「なんか、嬉しい」


「そんなにか?」


「うん。ずっとレノとティアだったから」


「それが普通だったからな」


「でも、私たちはそれだけじゃないんだね」


「ああ」


「美咲だった私が、今のティアになった」


「湊だった俺が、今のレノになった」


「だから、昔の名前を呼んでも、昔へ戻るわけじゃない」


「今の俺たちに繋がってるってことだろ」


 ティアが頷いた。


「うん。そういう感じがする」


 しばらくして、ティアの表情が少しだけ変わった。


「ねえ、湊」


「何だ?」


「前世の時……私、ちゃんと返事できなかったよね」


「ああ」


「ずっと気になってた」


「俺も」


「でも、今なら言える」


 ティアは少しだけ緊張したように俺を見る。


「私、あの時から湊のことが好きだった」


 俺は黙って聞いた。


「今も好き」


「……俺も」


「知ってる」


「そうか」


「幼馴染だもん」


 ティアが笑う。


「でも、今の私は幼馴染だけじゃないよ」


「ああ」


「今の私はレノのお嫁さんだよ!」


「そうだな」


「だから、昔の美咲が好きだったから今のティアが好きなんじゃなくて……今の私だから好きって言ってほしい」


 その言葉に、俺は少しだけ考えた。


「今のティアが好きだ」


 迷いなく言う。


「美咲だった頃の思い出も大切だ。でも、今までティアとして一緒に過ごしてきた時間を含めて、今のティアを好きになった」


 ティアはしばらく俺を見ていた。


 やがて、柔らかく笑う。


「……うん」


「これでいいか?」


「十分」


 ティアはそのまま俺の肩へ軽く寄りかかった。


「じゃあ、もう一つだけ」


「何だ?」


「今日、18歳最後だから」


「またそれか」


「だって最後なんだもん」


 ティアは少しだけ笑って、俺を見る。


「今夜、もう少しだけ一緒にいたい」


「いいぞ」


「仕事の話はなし」


「分かった」


「明日の予定も考えない」


「それは難しいな」


「だめ」


「分かったよ」


 二人で笑った。


 それから、しばらく何も言わずに並んでいた。昔なら、これだけ近くにいれば何かくだらない話を始めていたかもしれない。けれど今は、沈黙もそれほど気にならない。


 ティアがふと顔を上げる。


「……レノ」


「ん?」


「こっち見て」


 俺が視線を向ける。


 ティアは少しだけ照れたように笑った。


「今日だけじゃないけど……これからもよろしくね」


「ああ」


「19歳になっても」


「もちろん」


「その先も」


「ずっとだ」


 ティアは安心したように笑った。


 そして、そのまま自然に顔を近づける。


 俺も同じように応じた。


 唇が軽く触れ合う。


 短いキスだった。


 けれど、離れた後のティアは少し頬を赤くしていた。


「……やっぱり、ちょっと恥ずかしい」


「さっきまであれだけ普通に話してたのにな」


「それとこれとは別なの」


「そうか」


「でも、嫌じゃないでしょう?」


「ああ」


「私も」


 ティアはそう言って、また俺の肩へ寄りかかった。


「ねえ、湊」


「何だ?」


「もう一回呼んで」


「好きだな」


「だって今日しか、こんな気分にならないかもしれないし」


「そうか?」


「分からないけど」


 ティアが笑う。


「でも、今は呼びたい」


「じゃあ、美咲」


「うん、湊」


 今度は、どちらからともなく笑った。


 昔の名前を呼び合ったからといって、過去へ戻るわけではない。湊と美咲として過ごした時間は、もう終わった時間だ。それでも、その時間が消えたわけではない。今のレノとティアの中に残り続け、二人がこれから生きていくための記憶になっている。


 18歳の一年は、士官学校を卒業し、戦争を経験し、王太子として国を動かし始めた一年だった。ティアも王太子妃として自分の役割を見つけ、互いに一人では抱えきれないものを少しずつ分け合うようになった。


 そして18歳最後の夜、俺たちは久しぶりに前世の名前を呼び合った。


 明日から19歳になる。


 これから先に何が待っているのかは、まだ分からない。


 ただ、昔から俺の隣にいた幼馴染も、今の人生を共に生きる妻も、同じ一人の女性だった。


 俺はそのことを改めて感じながら、隣のティアを見る。


「おやすみ、美咲」


「おやすみ、湊」


 少しして、いつもの名前に戻る。


「おやすみ、レノ」


「おやすみ、ティア」


 18歳最後の夜は、静かに過ぎていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。