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氷の奇公子 ~変人王子の生存術~  作者: 岸田減税
最終章 第二次ルイーナエ大戦
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第20話 政治

王立士官学校を卒業してから、数か月が過ぎていた。


 十八歳になった俺の生活は、卒業前とは大きく変わっていた。学校に通っていた頃は、朝になれば教室へ向かい、授業と訓練を終えれば王太子宮へ戻るという生活だったが、今は朝から王城へ入り、軍務省や財務省、内務省、外務省から届く大量の書類へ目を通し、それぞれについて自分なりの判断を下した上で、必要なものだけを父上へ回している。これまでも王太子として国家運営へ関わってはいたが、あくまで父上が決定した政策について意見を述べたり、任された案件を処理したりする立場だった。ところが最近では、父上が最初に目を通していた資料が、そのまま俺のところへ届くことが増え、王国軍の年度編成案、軍団長や主要士官の人事候補、次年度予算案、諸侯軍の動員計画、地方行政官の人事、そして西方評議会に対するアンティクイランド王国の基本的な外交方針まで、最初に俺が内容を確認する案件が明らかに増えていた。


 もちろん、最終的な決定権まで移ったわけではない。王国にとって極めて重大な問題や、国家全体を大きく動かす案件については、今も父上の決裁が必要だったし、俺自身も勝手に国王の権限を使おうとは考えていなかった。それでも、最初に資料を読み、担当者へ質問し、複数の選択肢を比較し、自分の判断をまとめ、その上で父上へ持っていくという流れが定着し始めている。父上は、俺へ単純に仕事を押しつけているわけではない。俺が将来王になった時、一人で国家を動かせるのかどうかを、今のうちから実際の仕事を通して確かめているのだろう。そう考えると、最近になって増えた仕事の一つ一つが、ただ忙しいだけの政務ではなく、王になるための訓練そのものに見えてきた。


 その日の午前中も、軍務省から年度編成案を持った官僚が訪れていた。


「王太子殿下、今年度の王国軍再編案と、次年度の予算試算をお持ちしました」


「ありがとうございます。こちらへ」


 俺は差し出された資料を受け取り、机へ広げた。そこには戦争によって受けた損害、その後の再編状況、新たに設置された第六軍団と第七軍団の維持費、士官学校の規模拡大、追加で編入された傭兵の給与、各軍団の装備更新予定などが細かく記されている。シルウァニア戦争が終わったことで戦時中ほどの臨時支出は必要なくなったものの、戦争によって失った兵力を再構築しようとすれば、軍事費をすぐ平時の水準まで戻すこともできない。さらに西方評議会が成立したことで、今後は共同防衛を想定した軍備や訓練も必要になる。戦争が終わったからといって軍を縮小すればいいわけでもなく、かといって戦時体制をそのまま維持し続ければ財政の負担が大きくなる。どこまで残し、どこを削り、何を後回しにするのか。その判断こそ、今の俺に求められていることだった。


「第六軍団の維持費が昨年度より増えているな」


「はい。ガルディシア防衛軍を再編して新設された軍団ですので、兵舎、武具、馬具、輸送設備など、初期整備に相当な費用が必要になります」


「第七軍団は?」


「モンタヌス派遣軍です。占領地の治安維持や行政施設の警備を担当していますので、当面はこちらの規模を維持する必要があります」


「この二つを削るつもりはない」


 そう答えながら、俺は資料の次のページへ進んだ。そこには各地方の軍事施設に対する改修費が並んでいる。その中でも目に止まったのが、帝国国境に近い地域にある訓練場の大規模改修だった。


「この施設の改修費はかなり大きいな」


「帝国方面を警戒する地域ですので、王国軍と諸侯軍の合同訓練に使用する予定です。今回の軍制改革後は、諸侯軍も戦時には王国軍総司令部の指揮下へ入りますから、平時から共同訓練を行っておく必要があります」


 説明を聞けば、必要性は理解できる。しかし、その年の予算全体を見れば、同じ地域に別の訓練施設が存在し、最低限の訓練機能を維持することだけなら、ここまで大規模な改修は必要ではないように思えた。戦争で受けた損害を考えれば、限られた資金を優先順位の低い設備へ投入するより、兵士の装備や輸送、負傷兵の治療、新兵の訓練へ回した方が効果が大きい。


「改修規模を半分にできないか?」


 官僚は資料へ視線を落とした。


「機能を限定すれば可能です。ただ、計画されていた設備の一部を後回しにする必要があります」


「最低限の訓練機能が残るなら、それでいい」


「承知しました」


 その後も俺は同じように各項目を確認し、戦後になって不要になった臨時支出を整理し、他の施設と機能が重複する設備を縮小し、装備更新についても緊急性の低いものを一部延期した。全てを合わせれば、今年度だけで大金貨二百枚前後を節約できる計算になる。軍の再編を妨げるほどの削減ではなく、むしろ無駄を減らして必要な場所へ資金を回すための、ごく合理的な整理だと思っていた。


 その日の午後、俺は修正した資料を持って父上の執務室へ向かった。


「父上、年度編成案について確認しました」


「どうだった?」


「いくつか削りました」


 俺は修正案を差し出した。父上は受け取ると、一ページ目から静かに読み始める。


「第六軍団と第七軍団は維持。装備更新の一部を一年延期して、地方訓練施設の改修を縮小する。それで大金貨二百枚程度を浮かせるわけか」


「はい。戦後の軍を再編しながら、必要以上の支出は避けた方がいいと判断しました」


 父上は資料を読み終えるまで何も言わなかった。そして最後のページを閉じると、俺へ視線を向けた。


「数字だけなら、問題ない」


「数字だけなら?」


 その言い方が気になり、俺は聞き返した。


 父上は少しだけ笑った。


「そのうち分かる」


 それ以上、説明するつもりはないらしい。俺は少し不思議に思ったものの、修正案そのものについては承認を得られたため、そのまま執務室を後にした。あの時の俺は、父上が何を見ているのか、まだ理解していなかった。


 数日後、その意味を知ることになる。


 内務官が一通の書状を持って王太子宮へやってきた。


「王太子殿下、先日決定された地方軍事施設の予算変更について、現地領主から正式な意見書が届いております」


「意見書?」


「はい。実質的には抗議に近い内容です」


 俺は書状を受け取って読み始めた。そこには、今回の改修縮小によって予定されていた設備の一部が整備されず、王国軍と諸侯軍の合同訓練にも影響が出るという指摘が並んでいた。さらに、帝国国境に近い自分たちの地域の軍事的価値を王都が軽視しているのではないか、中央が他地域を優先して自分たちの安全を後回しにしているのではないか、という不満まで書かれている。


「……安全を軽視したつもりはないんだがな」


 思わずそう呟くと、内務官が慎重に答えた。


「殿下、領主側も改修費の削減そのものだけを問題にしているわけではないようです」


「では、何を問題にしている?」


「自分たちの地域が、王都からどのように評価されているのか、という点です。帝国国境に近い地域ですので、軍事施設は単なる建物ではなく、住民と領主にとって安全の象徴でもあります。そこを大幅に縮小されたことで、『王都から重要視されていない』という受け止め方につながったのでしょう」


 俺は黙った。


 改修を半分にした。


 代替施設もある。


 合同訓練も中止していない。


 最低限の機能も残している。


 数字だけを見れば、何も問題はない。


 しかし、俺が見落としていたのは、その決定を受け取る側の感情だった。


 俺にとっては二百枚の予算削減。


 領主にとっては、自分の領地が王国にとってどれほど重要なのかを示す一つの象徴。


 同じ決定でも、立場が違えば意味そのものが変わる。


 その日の夕方、王太子宮へ戻ると、ティアが俺の顔を見るなり首を傾げた。


「どうしたの? 難しい顔してる」


「ああ。少し失敗した」


「珍しいね」


「笑うなよ」


「笑ってないよ」


 ティアはそう言いながら、俺の向かいへ座った。俺は地方軍事施設の予算を削ったことと、それに対して領主から抗議が届いたことを話した。ティアは最後まで黙って聞き、それから少し考えるように視線を落とす。


「レノの判断自体は、おかしくないと思う」


「ああ。俺もそう思う」


「でも、たぶん『何を決めたか』より、『どう受け取られたか』が問題なんじゃないかな」


「……父上にも、数字だけなら問題ないと言われた」


 ティアは少し驚いたように瞬きをして、それから小さく笑った。


「やっぱり、お父様も分かってたんだ」


「そうらしい」


「レノって、必要か必要じゃないかを考える時、まず全体を見て決めるでしょう?」


「ああ」


「でも、その地域の人たちは、自分たちの安全を『全体の一項目』としては見てないよ。自分たちが暮らしている場所だから」


 その言葉は妙に腑に落ちた。


「つまり、俺が見ていたのは国家全体で、その領主たちは自分たちの地域から国家を見ていた」


「そういうことだと思う」


 ティアは穏やかに頷く。


「それなら、同じ国の中でも見えているものが違う。だから、正しい数字だけで決めても、相手が納得するとは限らないよ」


 俺はしばらく黙っていた。


 戦場なら、兵力が多い方が有利になる。財政なら、収入と支出を比較すれば余裕があるかどうか判断できる。軍制なら、指揮系統を統一すれば効率は上がる。


 俺はそうやって、これまで多くの問題を数字と合理性で考えてきた。


 だが、国家は数字だけでは動かない。


 領主には領主の立場がある。


 兵士には兵士の感情がある。


 商人には商人の利益がある。


 住民には住民の不安がある。


 そして王都から見れば合理的な政策でも、地方から見れば自分たちが軽視された証拠になることがある。


「国家って、面倒だな」


 思わず口から漏れた。


 ティアが笑う。


「今さら?」


「ああ。戦争より面倒かもしれない」


「それはさすがに言いすぎじゃない?」


「でも、戦争なら敵がいる」


 俺は苦笑した。


「国家運営では、味方の中にも、それぞれ違う考えを持っている人間がいる」


「だから王様は一人じゃできないんじゃない?」


 ティアの言葉に、俺は少しだけ顔を上げた。


「……なるほどな」


 翌日。


 俺は改めて父上の執務室へ向かった。


「父上」


「どうした?」


「先日の地方軍事施設の件ですが、対応を変えたいと思います」


「予算を戻すのか?」


「いいえ」


 父上が少しだけ目を細める。


「では?」


「改修規模は予定通り縮小します。ただし、現地の領主と軍司令官へ直接説明する場を設けたいと思います」


 俺は続けた。


「今回の削減が帝国国境を軽視したものではないことを説明する。残す機能と削る機能を明確にして、合同訓練についても代替施設を使って継続する。さらに、現地側から『この設備がないと困る』という意見があるなら、実際の運用状況を聞いた上で再検討する」


「つまり、判断そのものは維持する」


「はい」


「しかし、説明と調整を加える」


「その方がいいと考えました」


 父上はしばらく俺を見ていた。


「なぜ、そう考えた?」


 俺は少し考えてから答えた。


「俺は、正しい判断をすれば、それで国家は動くと思っていました」


 父上は黙って聞いている。


「でも違う。国家では、正しいかどうかだけじゃなく、その決定を受ける人間がどう感じ、どう動くのかまで考えなければならない」


 父上の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「ようやく分かったか」


「ああ」


「それが政治だ」


 その言葉は、前より重く感じられた。


 俺はこれまで、政治というものを派閥や外交、交渉の技術だと思っていた。もちろん、それも政治の一部だ。だが、それだけではない。何かを決めることだけではなく、その決定によって生じる人間の反応を読み、必要なら自分の説明や進め方を変え、それでも最終的な目的を維持する。国家を動かすというのは、そういう作業の積み重ねなのだ。


「では、そのように進めてみろ」


「はい」


「私にも結果を報告してくれ」


「分かりました」


 俺は父上の執務室を出た。


 その瞬間、昨日までとは少しだけ違うものが見えていた。


 数日後、俺は帝国国境に近い地方の領主と軍司令官たちを王城へ呼んだ。


「このたびの予算変更について、まず私から説明します」


 集まった領主たちは静かにこちらを見ている。


「今回、訓練施設の改修規模を縮小したのは、帝国国境を軽視したからではありません。戦後の王国軍再編によって必要となった支出を優先し、同じ地域にある複数の訓練施設の役割を見直した結果です」


 誰も口を挟まない。


「合同訓練そのものは継続します。縮小した施設だけで不足する機能については、近隣の訓練場を王国軍から開放します。また、実際に運用してみて問題が出た場合は、来年度予算を含めて改めて検討します」


 そこで、領主の一人が手を挙げた。


「王太子殿下、一つ伺いたい」


「どうぞ」


「我々の地域が帝国との国境に近いことを、王都は今後も重要な問題として考えていただけるのでしょうか」


「もちろんです」


 俺は迷わず答えた。


「むしろ、帝国が中央集権化を進めている今だからこそ、国境地域の安全は以前以上に重要だと考えています」


 その言葉に、領主たちの表情が少し変わった。


「今回削ったのは、その重要性を否定するためではありません。王国全体の財政と軍事力を考えた上で、限られた資金をより効果的に使うためです」


 領主の一人が頷いた。


「それならば、理解できます」


 別の領主も続く。


「我々としても、訓練そのものが維持されるのであれば異存ありません」


 その後、実際に現地の訓練計画について話を聞くと、当初の改修案には、実際にはほとんど使われていない設備も含まれていることが分かった。その一方で、別の設備については、予算上は小さな項目だったものの、現地の兵士たちにとって重要な機能を持っていることも判明した。俺はその場で担当官へ確認を命じ、一部の設備については削減対象から外すことにした。


 総額としては、最初に予定していた二百枚前後の節約額から大きく変わらない。それでも、その地域にとって本当に必要なものを残し、不要なものを削るという形に修正できたことで、領主たちの不満は収まっていった。


 会談を終えて王城へ戻る道で、俺は一人で考えていた。


 最初の判断は、完全に間違っていたわけではない。


 けれど、正しい判断を一度出したからといって、それを一方的に押し通せばいいわけでもない。


 重要なのは、国家全体の利益を守りながら、各地の人間がどう受け止めるのかを考えることだ。


 それができなければ、数字上は効率的な政策でも、別の場所で反発や不信を生む。


 そして不信が積み重なれば、やがて政策そのものが機能しなくなる。


 その夜。


 アウレリウスは執務室で、レノから提出された報告書を読み終えていた。


 地方領主との会談。


 改修計画の再確認。


 必要な設備の維持。


 予算全体としての削減額。


 そして、地域側の理解を得られたこと。


 国王は書類を閉じる。


「少しずつだな」


 王太子は軍事に強い。


 数字も読める。


 決断も早い。


 しかし、それだけでは王にはなれない。


 誰かを説得する必要がある。


 誰かの不安を取り除かなければならない。


 地方の立場を理解しなければならない。


 そして、自分が正しいと思ったことを、そのまま押し通すのではなく、目的を守るために方法を変えなければならない。


 四十五歳を最初の判断時期として考えているとはいえ、それはまだ先の話だ。


 レノはまだ十八歳。


 これから何度も失敗するだろう。


 何度も判断を誤るだろう。


 その度に学び、修正できるなら、それでいい。


 アウレリウスは窓の外へ目を向けた。


 王位を譲るかどうかを決める日が来るまで、まだ時間はある。


 だからこそ、今は任せる。


 少しずつ。


 一つずつ。


 そしてレノ自身が、自分の判断で国を動かせるようになるまで。


 権限移譲は、今日も静かに進んでいた。

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