第19話 権限移譲開始
これまでレノは、王太子として軍事、外交、財政、国内政治の一部に関わってきた。しかし、それはあくまで「王を補佐する王太子」という立場だった。最終的な決定権を持っているのは、今も父上――アウレリウス王である。
ところが、最近になってレノへ直接回される案件が明らかに増えていた。
各軍団からの報告。
諸侯の軍事報告。
西方評議会に関するアンティクイランド側の方針。
国家予算の一部。
外交文書の確認。
そして、王国軍の人事案。
以前なら、まず国王へ提出され、そこから王太子へ回ってきた書類が、今では最初からレノのところへ届くことさえある。
「最近、かなり書類が増えたね」
王太子宮の執務室で、ティアが机の上を見ながら言った。
「ああ」
俺は書類を一枚ずつ確認していた。
「父上が、少しずつ俺へ回してるみたいだ」
「軍事だけじゃないよね」
「そうだな。財政も外交も増えた」
ティアは書類の束を見る。
「それって、退位の準備なのかな?」
俺は少し黙った。
「たぶん」
数日前、父上から直接聞かされていた。
四十五歳。
それが一つの判断時期になる。
今の父上は四十一歳だから、まだ四年ある。
しかし、四年後にいきなり王位を渡されたのでは、俺自身が準備できているか分からない。
だから、その前から少しずつ権限を渡す。
俺が実際に国家を動かせるのか。
重要な決断を一人で下せるのか。
失敗した時に修正できるのか。
そして――。
王になった後も国を維持できるのか。
それを父上は見ているのだろう。
その週の終わり。
俺は王城へ呼ばれた。
父上の執務室へ入ると、そこには軍務卿アトラシート伯爵と財務卿ペクーニア伯爵がいた。
「来たか」
「はい、父上」
「座れ」
俺が席につく。
父上は机の上に一枚の書類を置いた。
「今後、王国軍の人事については、原則としてお前が最初に確認する」
「人事ですか?」
「ああ」
アトラシート伯爵が補足する。
「軍団長、将軍、主要な司令官の任免候補について、軍務卿が案をまとめた後、まず王太子殿下へ提出します」
「最終決定は父上?」
「当面はそうだ」
父上が答える。
「ただし、お前の判断を優先的に採用する」
俺は書類を見る。
これはかなり大きい。
軍の人事は、単なる人選ではない。
誰がどの軍団を率いるのか。
誰を信用するのか。
どの家と結びつくのか。
それによって、王国軍そのものの方向が変わる。
「財政も同じだ」
今度はペクーニア伯爵が口を開いた。
「年間予算案のうち、一定額以下の案件については、財務卿から王太子殿下へ直接報告し、承認を受けた上で執行できる制度へ変更します」
「一定額以下?」
「王国全体の財政を揺るがす規模の案件は、これまで通り陛下の決裁が必要です。しかし、個別の軍備、公共事業、教育、行政施設などについては、王太子殿下へ判断権を委譲します」
俺は少し考えた。
これも、実質的な権限移譲だ。
今までなら、王が全ての案件に目を通さなければならなかった。
だが、国家が大きくなり、西方評議会のような国際機構まで生まれれば、それでは処理できない。
「外交は?」
俺が尋ねる。
「すでに一部が移っています」
父上が答えた。
「西方評議会との通常連絡については、お前が王国代表として判断していい」
「重要条約や宣戦布告などについては陛下の決裁が必要ですが、日常的な外交交渉や代表者との調整は、王太子殿下に委任する方針です」
俺はしばらく黙った。
父上は、まだ王だ。
退位も決まっていない。
それでも、少しずつ王太子へ国家運営の実権を渡している。
「父上」
「何だ?」
「ここまで移す理由は?」
アウレリウス王は少しだけ笑った。
「お前が将来、王になるからだ」
それだけだった。
「四十五歳になった時、私が退位するかどうかはまだ決まっていない」
「だが、退位する可能性がある以上、その時になってから準備を始めるのでは遅い」
父上は続ける。
「今から渡しておけば、お前が向いていなければ分かる」
「失敗するなら、私がまだ王である今の方が修正できる」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ息を吐いた。
なるほど。
父上が俺へ権限を渡しているのは、信頼しているからだけではない。
俺が本当に王として使える人間なのかを、実際の国家運営で試している。
「分かりました」
俺は頷いた。
「受けます」
「そうか」
父上も頷いた。
「なら、これから忙しくなるぞ」
「もう十分忙しいですけど」
俺が苦笑すると、アトラシート伯爵が小さく笑った。
「王太子殿下。それでも、今までよりは増えるでしょう」
俺は思わず天井を見上げた。
それから数週間。
レノの仕事は明らかに変わった。
軍団長候補の人事資料を見る。
諸侯から提出された軍備報告を確認する。
財務省から上がってくる予算案へ意見をつける。
外国使節から届いた書状を確認する。
西方評議会の最高評議会代表から報告を受ける。
以前なら「王太子として参加する会議」だったものが、「自分が判断を下す会議」へ変わっていた。
「この道路工事については、今年度ではなく来年度へ回す」
俺が資料へ書き込む。
「理由は?」
財務官が尋ねる。
「軍の再編費用が増えている。それに冬季の備蓄を減らしたくない」
「承知しました」
別の案件。
「この軍団長候補は却下する」
「理由を伺っても?」
「軍歴は十分だが、複数の部隊を統合して運用した経験が少ない」
「分かりました」
さらに外交文書。
「この条項なら受け入れていい。ただし、この一文だけ修正してくれ」
「はい」
少しずつ。
本当に少しずつ。
国家の決定が、俺の判断によって動くようになっていった。
そして父上は、それを遠くから見ていた。
そんなある日。
王城へ、一つの重要な報告が届いた。
「殿下」
アトラシート伯爵が書類を持って入ってくる。
「アエテリア帝国について、新たな情報が入りました」
「中央集権化の件ですか?」
「はい」
俺は書類を受け取った。
これまでにも、帝国が構成国の軍事権、外交権、財政権を中央へ集めていることは分かっていた。
だが、今回の報告はその先だった。
「まず、帝国軍についてです」
伯爵が説明する。
「帝国軍の再編が完了に近づいています」
「以前のような構成国ごとの軍ではなく?」
「はい。各構成国が独自に保有していた軍事組織は、大部分が帝国軍へ編入されました」
「各地の部隊は?」
「帝国軍の中央指揮系統へ接続されています。地方司令部も、各構成国ではなく帝国中央から任命された軍人が指揮する制度へ変わりつつあります」
俺は眉を寄せた。
それだけではない。
「さらに、帝国の徴税制度も変更されています」
財務担当官が続ける。
「これまで構成国ごとに徴収されていた税のかなりの部分が、帝国中央へ直接集められる制度へ移行しています」
「つまり、地方政府を通さず中央へ?」
「はい」
「軍だけじゃない」
俺が呟いた。
「金まで直接集めている」
「その通りです」
伯爵が答える。
「帝国の領域についても、新しい情報があります」
地図が広げられる。
「現在、アエテリア帝国の旧構成国の約三分の二は、実質的に帝国中央の直轄地域となっています」
俺は地図を見る。
大陸の東側。
その広大な領域が、一つの色で塗られていた。
「残りの三分の一については、従来の国号や自治組織を維持していますが、軍事権と外交権は中央へ移されています」
「なら、名前だけが残っているようなものか」
「かなり近い認識です」
伯爵は頷く。
「地方の法律や文化については一定の裁量が残されているものの、国家として独自に軍を持つことや、帝国外へ独自の外交を行うことは大幅に制限されています」
俺は地図を見たまま黙っていた。
帝国は壊れているのではない。
むしろ逆だ。
昔の帝国から余計なものを切り離しながら、一つの国家へ作り替えている。
「皇帝の権限は?」
「さらに強くなっています」
法務担当者が答えた。
「元老院の政治的権限はすでに大きく縮小しています。皇帝による主要官職の任命権も強化され、現在では帝国中央が地方行政官を直接任命する事例が増えています」
「皇帝の後継者選出については?」
俺が尋ねる。
「旧来の選挙制度は廃止されています」
その言葉に、部屋が静かになった。
「今後はポテンス家による世襲です」
「つまり――」
「皇帝を選ぶ制度そのものがなくなった」
俺は目を閉じた。
以前から聞いていた。
だが、実際の制度としてほぼ完成に近づいていると知ると、その意味は全く違った。
旧アエテリア帝国は、巨大ではあった。
だが、その巨大さゆえに構成国、元老院、各派閥、地方軍などが強い影響力を持っていた。
今の帝国は違う。
領土。
軍。
税。
外交。
官僚。
そして皇帝の後継まで。
一つの中央政府へ集まりつつある。
「帝国軍の兵力については?」
俺が尋ねる。
「平時の常備軍は約三十万人」
「戦時動員時には?」
「最大で約七十万人規模まで動員可能と推定されています」
俺は地図から視線を上げた。
三十万人。
七十万人。
それだけの軍隊が、一つの命令系統で動く。
「……厄介だな」
それ以外の言葉が出なかった。
その報告を受けてから、俺は西方評議会について考える時間が増えた。
これまで西方評議会は、帝国への警戒を共有するための仕組みだった。
しかし、それだけでは足りない。
相手が強くなっているなら、こちらも変わらなければならない。
そして、その問題は西方評議会内部でも既に意識され始めていた。
数日後。
西方評議会本部の最高評議会では、加盟国の常駐代表による会議が開かれていた。
議題は、アエテリア帝国に対する今後の外交方針。
ここでも、国家元首は出てこない。
各国の外交官と全権代表が席についている。
「現在、帝国では中央集権化がさらに進んでいます」
事務局が報告する。
「帝国軍の統合」
「中央税制の拡大」
「地方行政官の中央任命」
「構成国の軍事権縮小」
「旧来の皇帝選出制度の廃止」
「ポテンス家による世襲」
報告が一つずつ読み上げられていく。
「つまり、帝国はこれまでより迅速に軍事力を集中できる可能性がある」
エクィトゥム代表が言う。
「はい」
「ならば、軍事理事会としても評価を変更する必要がある」
軍事担当代表が資料を開いた。
「帝国の軍備増強そのものが確認されたわけではありません。しかし、同じ兵力でも一元化された指揮系統の方が動員と運用の効率は高くなります」
「それは、今後の共同防衛計画へ影響します」
アンティクイランド代表が答えた。
だが、ここで別の国から意見が出た。
「だからといって、我々から帝国へ敵対的な軍備増強を要求しているように見えるのは避けるべきです」
「外交上の問題か」
「はい」
アエテリア帝国は、すでに西方評議会を警戒している。
ここで西方評議会側が帝国を明確な仮想敵として扱えば、相手の警戒もさらに強まる。
「ならば、軍事的な準備は防御目的に限定する」
「具体的には?」
「加盟国の共同演習を増やす」
「情報共有も必要です」
「国境地域の兵力把握」
「補給計画」
「共同通信網」
「軍事理事会による定期的な戦力評価」
次々と案が出る。
そして最後に、外交担当の代表が言った。
「帝国との外交関係は維持する」
「亡命政府についても、現在の取り扱いを変更しない」
「ただし、帝国との交渉内容については加盟国間で共有する」
「帝国の軍事動向、経済動向、政治改革についても共同で情報を収集する」
それは、以前とは少し違っていた。
西方評議会は、単に「帝国が怖い」と言い合うだけではなくなった。
帝国について継続的に情報を集める。
各国が持つ情報を共有する。
共同防衛の準備を進める。
しかし、先に敵対行動を取ることはしない。
「つまり、警戒しながらも、こちらから対立を決定的なものにはしない」
アンティクイランド代表がまとめる。
「そういうことです」
事務局が答えた。
会議が終わった後。
俺は西方評議会本部を離れ、王太子宮へ戻った。
ティアが待っている。
「どうだった?」
「帝国の中央集権化について、評議会全体で情報共有することになった」
「かなり進んでるんでしょう?」
「ああ」
俺は答えた。
「これまで以上に、一つの国家として動きやすくなってる」
「じゃあ、西方評議会も大変だね」
「ああ」
俺は少し考えた。
でも、以前とは違う。
「ただ、前よりはマシだ」
「どうして?」
「昔なら、帝国が何か変わっても、それを知るのはそれぞれの国が別々だった」
俺は窓の外を見る。
「今は違う。帝国で何か起きれば、評議会の中で共有できる」
「それだけでも違う?」
「ああ」
国際組織の意味は、軍隊を一つにすることだけではない。
情報を一つにする。
危険を共有する。
判断を一人で行わなくていいようにする。
それもまた、共同体の力なのだろう。
「父上から権限を移され始めてる今の俺にも、ちょうど必要なものかもしれない」
ティアが笑った。
「じゃあ、ちゃんと勉強しないとね」
「ああ」
俺も笑った。
王太子への権限移譲は、始まったばかりだった。
帝国の中央集権化も、完成したわけではない。
そして西方評議会も、まだ十分に成熟していない。
それでも、三つの変化は同時に進んでいる。
アンティクイランド王国では、次の王へ向けて権限が移され始める。
アエテリア帝国では、皇帝へ権力が集まり続ける。
そして西方評議会では、その強大化を警戒するために、情報と共同防衛の仕組みが整えられていく。
まだ、誰も戦争を望んではいない。
それでも――。
大陸の東と西で、それぞれが次の時代へ向けた準備を始めていた。




