第18話 次世代へ
西方評議会の設立準備や戦後の軍制改革が進められる一方で、王都レクィエリアでは、表には出ていない別の問題が少しずつ動き始めていた。
きっかけは、アウレリウス王自身だった。
シルウァニア戦争が終わってから、国王の執務量はむしろ増えていた。戦争前よりも広がった国際関係、再編される王国軍、諸侯との調整、西方評議会への対応、さらに今後の財政計画まで、王の机から書類が消える日はない。
四十一歳。
まだ王として若い年齢ではある。
しかしアウレリウス自身は、自分の身体が以前ほど軽くないことを感じ始めていた。
食事の量を減らしているわけではない。
運動を積極的にしているわけでもない。
王族として恵まれた食生活を送りながら、長年の政務による疲労を蓄積させてきた身体は、少しずつ確実に変化している。
それを最初に指摘したのは、王の侍医だった。
「陛下。今すぐ危険というわけではありません」
「なら、問題ないではないか」
「はい。現時点では」
侍医は慎重に言葉を選んだ。
「ですが、今までと同じ生活を続ければ、十年後、二十年後に問題が大きくなる可能性があります」
アウレリウスは笑わなかった。
「十年後か」
「はい」
「……その頃には、レノが二十代だな」
侍医は何も答えなかった。
その日からしばらくして、アウレリウスはごく少数の重臣だけを自室へ呼び出した。
軍務卿アトラシート伯爵。
財務卿ペクーニア伯爵。
内務卿。
法務卿。
そして王家の政務を長く支えてきた数名の側近。
誰も他言しないことを条件に集められた者たちだった。
「今日、集まってもらったのは通常の政務ではない」
アウレリウスは静かに切り出した。
「私は将来的な退位を考えている」
誰もすぐには口を開かなかった。
「退位……ですか?」
アトラシート伯爵が確認する。
「ああ」
「いつ頃をお考えでしょう」
「四十五歳になった時を、一つの検討時期とする」
ペクーニア伯爵が眉を寄せる。
「あと四年です」
「そうだ」
「かなり早いようにも思えます」
「だからこそ、今のうちに話しておく必要がある」
アウレリウスは椅子へ身体を預けた。
「四十五歳になれば必ず退位する、という意味ではない。レノの準備が整っていなければ、その時点で先延ばしにする」
法務卿が確認する。
「つまり、年齢は条件の一つに過ぎないと」
「ああ」
アウレリウスは指を折るようにして続けた。
「私が四十五歳以上であること。レノが二十一歳以上になっていること。レノが一人で重大な国政を処理できること。軍事、財政、外交、国内政治が一定以上安定していること」
そして、最後に少しだけ間を置いた。
「それと、レノの後を継げる者が必要だ」
室内の空気が変わった。
「……次代の継承者ですか」
ペクーニア伯爵が尋ねる。
「ああ」
アウレリウスは頷いた。
「私がレノへ王位を譲れば、次の王はレノになる。だが、そのレノに次の王位継承者がいなければ、その次の継承順位が不安定になる」
アウレリウスは息を吐いた。
「エドは重要な存在だ。だが、私は彼に宰相としての道を歩ませたい。エドリアン公爵家もすでに始まっている」
「つまり、レノの次の王を担う存在が必要になる」
「そうだ」
誰もその言葉を否定しなかった。
「理想を言えば、レノに子がいることだ」
それは命令ではない。
あくまで、王位継承を長期的に安定させるための政治上の条件だった。
「もちろん、レノとティアに強制するつもりはない」
アウレリウスは明確に言った。
「二人の人生まで王家が決めるべきではない」
「しかし、王国の制度として考えれば、次の継承者が存在する方が安定する」
「その通りです」
アトラシート伯爵が頷いた。
「問題は、これが知られれば、周囲が勝手に動き始めることです」
アウレリウスは黙った。
そこだった。
この話を公表すれば、単なる王位継承の話では済まなくなる。
王太子の後継者。
つまり、将来の王の子。
その存在を巡って、貴族たちがそれぞれの思惑を持ち始める。
誰と縁を深めるのか。
どの家が王太子夫妻を支えるのか。
誰が次の王家に近い位置へ入るのか。
その全てが政治になる。
「だから、まだ公表しない」
アウレリウスが言った。
「現時点では、この場にいる者だけが知っていればいい」
「承知しました」
ところが、秘密というものは、完全には密閉できない。
数週間後。
王宮内部では、わずかな変化が見え始めていた。
「最近、陛下が王太子殿下と二人で話す時間が増えたな」
「以前より長いらしい」
「軍務だけの話ではないそうだ」
それだけなら、珍しいことではない。
だが、アウレリウスが財務卿と長時間会談している。
法務卿が王家の継承法を確認している。
内務卿が王族の記録を調べている。
そうした小さな動きが、別々の人間の目に入っていく。
そして、王宮の人間は噂を作る。
「陛下は王太子へ何か大きな役目を譲ろうとしているのではないか」
「王太子が近く国政の中心へ入るのでは」
「あるいは、陛下が体調を崩されているのではないか」
誰も「退位」という言葉を口にはしない。
まだ確証がないからだ。
しかし、変化を感じ取る者は確実に増えていた。
そして、その噂を最初に政治へ結びつけたのは、古くから王家と付き合いのある法衣貴族だった。
「王太子殿下の時代が、予定より早く来るかもしれませんな」
ある夜の私的な会合。
数人の貴族が酒を傾けながら話していた。
「まだ陛下は四十一だろう」
「そうです。しかし、四十代前半から退位を考える王もいる」
「では、問題はその次か」
「そういうことです」
その言葉に、別の貴族が顔を上げた。
「王太子殿下の次の王位継承者ですな」
誰もすぐには否定しなかった。
「エドリアン殿下はどうだ?」
「次期宰相として公爵家を与えられた方だ。王位継承より、あちらの道が本命でしょう」
「ならば、王太子殿下のお子に期待することになる」
そこから先は、誰も大きな声では話さなかった。
だが、一度生まれた考えは消えない。
王太子の子供。
その存在が、将来の政治秩序を決める可能性がある。
「そうなると……」
一人の貴族が呟いた。
「誰の家が王太子夫妻に近いのかが、今まで以上に重要になる」
同じ頃。
王宮では、別の動きも起きていた。
「最近、王太子妃殿下へ茶会の誘いが増えています」
エリシアが報告する。
ティアは少し首を傾げた。
「前から多かったでしょう?」
「以前とは少し違います」
「どう違うの?」
「特定の家からの招待が増えています。それも、夫人だけではありません。娘を伴った茶会への招待が目立ちます」
ティアはしばらく黙った。
その意味を、完全に理解できないわけではない。
「……そういうことか」
「殿下もお気づきですか?」
「たぶん」
ティアは苦笑した。
「まだ何も決まってないのに」
けれど、周囲はそう考えていない。
王太子の時代が近づく。
王太子の後継者問題が近づく。
ならば今のうちに、王太子夫妻との関係を強くしておくべきだ。
ある家は、ティアへ頻繁に招待状を送る。
別の家は、レノへ軍務関係の意見書を届ける。
また別の家は、王太子夫妻の政策を支持する姿勢を明確にする。
どれも、単独で見れば不自然ではない。
しかし、同じ方向へ動く家が少しずつ増えていくと、それは一つの政治的な流れになる。
レノ自身も、その変化に気づいていた。
「最近、妙に誘いが多いな」
執務室で書類を整理しながら、俺は呟いた。
「そう?」
ティアが答える。
「ああ。俺への提案書も増えてる」
「軍事関係?」
「それだけじゃない」
領地経営。
教育政策。
交易。
西方評議会。
貴族の人事。
それまでなら自家の利益に直結する範囲だけを伝えてきた貴族たちが、急に「王国全体の将来」という言葉を使うようになっていた。
「何か、おかしくない?」
「おかしい」
ティアは即答した。
「みんな、レノのことを前より気にしてる」
「俺も感じてる」
俺は少し考えた。
「父上が何か話してるのかもしれない」
「何かって?」
「まだ分からない」
その時、扉が開いた。
「殿下」
グラフィルだった。
「父上から呼び出しです」
「分かった」
王の私室。
部屋へ入ると、アウレリウスが一人で待っていた。
「来たか、レノ」
「はい、父上」
「座れ」
俺は椅子へ座る。
「最近、周囲の動きに気づいているか?」
「はい」
俺は正直に答えた。
「急に俺とティアへの接触が増えています」
アウレリウスが少しだけ目を細めた。
「やはり気づいたか」
「何か理由があるんですか?」
しばらく沈黙があった。
そして、アウレリウスは慎重に口を開いた。
「まだ公表するつもりはなかった」
「何をです?」
「私は将来的な退位を考えている」
俺は黙った。
「いつ?」
「四十五歳になった時を、一つの判断時期として考えている」
「四十五……」
俺の頭の中で数字を整理する。
あと四年。
「必ず?」
「違う」
アウレリウスは首を振った。
「その時のお前を見て決める」
「軍事も、財政も、外交も、国内政治も一人で扱えるようになっているか。それを見て判断する」
俺はしばらく黙った。
「……それなら、分かりました」
父上が続ける。
「ただ、もう一つ条件がある」
「次の継承者ですね」
俺が先に言うと、アウレリウスが少し驚いた顔をした。
「ああ」
「周囲も、それに気づき始めている」
「そのようだ」
父上は苦笑した。
「まだ何も決めていないのに、貴族たちは勝手に動く」
「当然でしょう」
俺は答えた。
「王太子の次の王が誰になるかは、王国の未来そのものだから」
「そうだな」
アウレリウスは少しだけ真剣な表情になった。
「だが、私はお前とティアに無理をさせるつもりはない」
「子を作れ、などと命じるつもりもない」
「それは二人の人生の問題だ」
俺はその言葉を聞いて、少しだけ安心した。
父上は王として継承を考えている。
だが、それを理由に俺たちの人生まで縛ろうとしているわけではない。
「でも」
アウレリウスは続けた。
「王国の側としては、いずれ考えなければならない」
「それも分かっています」
俺は頷いた。
その日の夜。
王太子宮へ戻ると、ティアが待っていた。
「どうだった?」
「父上から聞いた」
「何を?」
「退位の話」
ティアは少し目を見開いた。
「退位?」
「ああ。父上は四十五歳を最初の判断時期として考えてるらしい」
「四年後……」
「そうなる」
ティアは少し考えた。
「じゃあ、その頃にはレノは二十一歳だね」
「ああ」
「随分先の話みたいだけど、意外とすぐかも」
「俺もそう思う」
しばらく静かな時間が流れる。
「それで……」
ティアが少しだけ言いにくそうに続ける。
「次の王の話も?」
「ああ」
「子供のこと?」
「そうだ」
ティアは少し黙った。
「……やっぱり、みんな気にするよね」
「王国の継承に関わるからな」
俺は答えた。
「でも、父上は俺たちに命令するつもりはない」
「そうなんだ」
「ただ、政治的には安定要因になる」
ティアはしばらく考えた後、小さく頷いた。
「分かった」
「ティア?」
「大丈夫」
ティアは笑った。
「私たちは私たちのことを考える。それでいいんでしょう?」
「ああ」
「だったら、それでいい」
その言葉に、俺も頷いた。
今すぐ答えを出す必要はない。
王国の事情は王国の事情。
自分たちの人生は自分たちの人生。
それを混同しないことが、今の俺には重要だった。
しかし、その一方で。
王都の貴族たちは、すでに動き始めていた。
第三王子派の一部は、将来の王太子政権との協調をさらに強めようとしている。
旧第二王子派系の家々も、過去の敵対関係を少しずつ整理し、王太子宮との距離を縮め始める。
軍務に強い家は、レノへの意見書を増やす。
商業に強い家は、ティアの交流会へ顔を出す。
法衣貴族たちは、王太子の将来を見据えた議論を始める。
そして一部の家では、まだ存在すらしない「次の王太子」を想定した人脈作りまで始まっていた。
今はまだ、露骨な派閥争いではない。
誰も「次の王を巡る争い」などと口にはしない。
ただ、少しずつ自分たちの位置を決めていく。
誰の近くにいるのか。
誰を支えるのか。
誰と手を組むのか。
王太子が王になる日を想定しながら。
そして、その次の時代まで考えながら。
王家の中でも、少しずつ未来が意識され始めていた。
アウレリウスはまだ王である。
退位するかどうかすら、四年後にならなければ分からない。
レノもまだ王太子だ。
ティアも王太子妃だ。
だから、全てはまだ先の話だった。
それでも、王国にとって「その先」は、今から準備を始めなければならない未来でもある。
そしてその未来を巡る政治的な駆け引きは、まだ誰にも見えないほど静かな形で、すでに始まっていた。




