第55話 国家戦略論終了
秋季課程も終わりに近づいていた。
国家戦略論の授業も、今日を含めて残りわずかになっている。これまで俺たちは、国家収支、戦費、国家貯蓄といった財政の基礎から始め、そこから軍馬や武具、食料、輸送、交易、外交へと少しずつ話を広げてきた。一見すると別々の問題に思えるものでも、実際には互いに繋がっている。軍隊を増やせば食料が必要になり、食料を輸入すれば交易路が必要になる。交易路を守るには軍が必要で、軍を維持するには財政が必要になる。秋になってからの授業は、毎回そんなことを考えさせられるものだった。
教室へ入ると、すでに多くの候補生が席についている。俺たち8人の班もいつもの位置に集まっていたが、もちろん教室にいるのは俺たちだけではない。周囲では別の班の候補生たちも資料を眺めたり、前回の授業について話し合ったりしている。指揮・戦術を得意とする者、兵站を重視する者、情報分析に関心を持つ者。それぞれの専門が違うせいか、同じ授業なのに班ごとに議論の方向もかなり違っていた。
始業の鐘が鳴る。
「起立!」
当直候補生の号令に、教室中の候補生が一斉に立ち上がる。
「礼!」
「着席」
教官が教壇へ立った。
「諸君。本日の講義をもって、秋季課程の国家戦略論は大きな区切りを迎える」
教官は黒板へ向かい、これまでの授業で扱った言葉を並べていく。
財政。資源。食料。輸送。外交。軍事。
「これまで何度も見てきた言葉だな」
「はい、教官」
「では今日は、これらを個別に扱うのではなく、実際の一つの国家の中でどう繋がっているのかを考えてもらう」
黒板へアンティクイランド王国の地図が描かれた。
「まず、諸君らが最初に考えるべきなのは何だと思う?」
しばらく沈黙が続く。
教官が一人の候補生を指名した。
「土地です、教官」
「なぜだ?」
「国家が何を生産できるかは、土地の条件に大きく左右されるからです」
「よろしい」
教官は北部を示した。
「ではアンティクイランド北部は?」
「軍馬と荷役馬の生産が盛んな地域です、教官」
ホリウスが答える。
「中部」
「葡萄とオリーブです、教官」
ティアが答えた。
「南部」
「都市です、教官。王都レクィエリアを中心に人口と商業が集中しています」
リアが答える。
「その通り」
教官は頷いた。
「では、なぜこの国は北部を大穀倉地帯にしない?」
ホリウスが答える。
「馬が必要だからです。軍馬だけではなく、荷役馬も国家の輸送能力を支えています。北部を大規模に穀物生産へ転換すれば、食料は増えても輸送能力が落ちる可能性があります」
「よろしい」
「中部も同じですね」
ティアが続ける。
「葡萄やオリーブを減らして穀物を増やせば、ワインやオリーブ関連の交易品が減ります。結果として、食料を輸入するための収入まで減る可能性があります」
「よろしい」
俺はその話を聞きながら、以前の授業を思い出していた。
結局、ここでも同じだ。
一つの問題を解決しようとすると、別の場所に影響が出る。
「では人口を考える」
教官が黒板へ数字を書く。
王国総人口:約120万人
王都レクィエリア:約15万人
「王都人口は全人口の何%だ?」
ルリウスが答える。
「12.5%です、教官」
「その通り。では、その15万人をどうやって養う?」
「地方から運ぶ」
前方の候補生が答える。
「国外から輸入する」
別の候補生が続ける。
教官はどちらも否定しなかった。
「どちらも正しい。アンティクイランド王国では、国内生産だけで全需要を満たすのではなく、不足分を交易によって補っている」
教官が資料を配る。
「年間穀物需要を480,000トンとする。国内生産は144,000トン。残り336,000トンを輸入している」
教室のあちこちで計算する音が聞こえる。
「自給率は30%です、教官」
ルリウスが答えた。
「正しい」
教官は頷いた。
「では、30%という数字だけを見て、この国は食料面で弱いと言えるか?」
今度はすぐに答えが出なかった。
俺も少し考えてから手を挙げる。
「教官、数字だけでは判断できないと思います」
「理由を」
「輸入先と輸送路が安定しているか、備蓄がどれだけあるか、港と街道が機能しているかによって、同じ30%でも危険度が変わるからです」
「よろしい」
教官がガルディシアを示した。
「では、ここでガルディシアを考える」
「ガルディシアはフレトゥム海峡補給港です」
コリウスが答える。
「国内から食料が集まり、国内の都市へ送られるだけでなく、海峡を通る船舶へ販売することもあります」
「その通り」
教官が資料へ数字を示す。
年間食料取扱量:約140,000トン
「この数字は、生産量ではない。集まって、仕分けされ、送り出される量だ。では、そのうち国内向けだけを残し、船舶への販売を完全にやめるとどうなる?」
ボリウスが手を挙げる。
「国内で使える食料は増えます」
「その代わり?」
「交易収入が減る可能性があります、教官」
ティアが答えた。
「しかも、ガルディシアの交易そのものが縮小すれば、関税収入にも影響が出るでしょう」
「その通り」
教官は頷いた。
「つまり、食料を国内へ回すことだけが正解ではない。食料を売って得た金が、別の食料や物資を確保する力になる場合もある」
俺はガルディシアの位置を見ながら考えていた。
ここでは食料が、そのまま国家の経済活動に組み込まれている。
食べるための食料。
売るための食料。
その両方が存在する。
「ここから、もう一段進める」
教官が言った。
「戦争が始まったとする」
黒板に新しい数字が書かれる。
戦時需要:約540,000トン
「軍隊が増えれば、兵士も馬も食料を必要とする。そこで平時の需要より60,000トン増えると仮定する」
教官は続ける。
「さらに、アエテリア帝国との交易が止まった。フレトゥム海峡も封鎖された」
輸入336,000トンのうち、大きな部分が消える。
「残る主要な輸入はエクィトゥム王国からのみ。仮に96,000トンとする」
黒板には、
国内生産144,000トン+輸入96,000トン=240,000トン
と書かれた。
「540,000トン必要なのに、240,000トンしかない。不足は?」
「300,000トンです、教官」
コリウスが答える。
「では、国家備蓄300,000トンを使えば、1年間は理論上耐えられる」
教官は一度黒板から離れた。
「しかし、2年目は?」
「備蓄がなくなります」
ルリウスが答える。
「そうだ」
教官は頷いた。
「では諸君。ここでようやく、国家戦略の問題になる」
教室が静かになった。
「自給率を上げるか」
「輸入先を増やすか」
「備蓄を増やすか」
「輸送力を上げるか」
「外交で交易路を守るか」
「軍事力を増やして重要拠点を守るか」
黒板へ、次々と書き込まれていく。
「だが、全部はできない」
候補生たちが資料を見る。
「国家予算には限界がある。土地にも限界がある。人にも限界がある。だから、何を優先するのかを決めなければならない」
俺たちの班でも議論が始まった。
「私は輸入先の分散を優先したいと思います」
ルリウスが言う。
「食料自給率を急激に上げるより、複数の供給先を確保した方が、今の土地利用を大きく変えずに済みます」
「でも、それだけでは戦争になった時に弱い」
リアが答える。
「輸入先を増やしても、海路や街道を止められたら同じです」
「ならば輸送だな」
コリウスが言う。
「北部の荷役馬を維持して、ガルディシアやレクィエリアへの輸送路を強化する」
ホリウスも頷く。
「馬産地を守るのも必要だ」
ポリウスが資料を見る。
「敵がどこを狙うのか分からなければ、どの輸送路を守るべきか決められません。情報も必要です」
ボリウスが少し困った顔をする。
「結局、全部必要じゃないか?」
ティアが笑った。
「だから難しいんでしょう」
俺も少し笑う。
そして、資料の上に指を置いた。
「でも、全部を同時に最大化する必要はない」
全員がこちらを見る。
「例えば国内生産。今の土地利用を大きく変える必要はない。少しずつ効率を上げればいい。その代わり、輸入と輸送を維持する」
「つまり、何か一つを極端に強くするんじゃなくて、全体を崩さないようにする?」
ティアが言う。
「ああ」
俺は頷いた。
「国家戦略なら、その方が合理的だと思う」
ティアは少し考えてから、穏やかに答えた。
「じゃあ、私は外交の方を考える」
「具体的には?」
「今の輸入先との関係を強めるだけじゃなくて、相手がこちらとの交易を続けた方が得になる状況を作る。そうすれば、戦争になっても完全に輸出を止められにくくなる」
リアがティアを見る。
「それは外交であり、経済政策でもあるわけですね」
「うん」
ティアが頷く。
俺はそのやり取りを聞きながら、ティアらしいと思った。
正面から相手を動かそうとするのではなく、相手が自分でその選択をしたくなる状況を作る。
国家間でも、やることは変わらないらしい。
やがて討論が終わり、各班の発表が始まった。
最初の班は国内生産の増強を主張した。
「食料自給率を30%から40%へ引き上げます」
「その10ポイントをどこから作る?」
教官が尋ねる。
「……中部の一部を農地へ転換します」
「葡萄とオリーブは?」
「減少します」
「それによる交易収入への影響は?」
発表した候補生は資料を見ながら黙り込んだ。
別の班は備蓄を優先した。
「国家備蓄をさらに増やします」
「費用は?」
「……」
次の班は輸送路の整備を主張した。
「主要街道を改修します」
「その街道を守る軍は?」
「……」
教室のあちこちで、同じようなやり取りが続く。
教官は、どの班に対しても結論を否定することはなかった。ただ、その結論によって次に何が起こるのかを問い続ける。
それを見ているうちに、俺はこの授業の意味を改めて理解した。
国家戦略論は、正解を覚えるための授業ではない。
自分で決める。
そして、その決定によって発生する次の問題まで考える。
それを繰り返す授業だ。
最後に、教官が教壇へ戻った。
「本日の講義で、秋季課程の国家戦略論は終了する」
候補生たちが少しだけ姿勢を正す。
「諸君らはこの秋、財政から始めて、国家資源、食料、兵站、外交、軍事を学んだ」
教官は黒板を見た。
「そして、最後まで一つの答えを示さなかった」
何人かの候補生が笑う。
「それでいい」
教官も少しだけ笑った。
「国家を運営する上で、最初から正解が分かっている問題などほとんどない。条件を確認し、数字を見て、問題を見つけ、選択肢を比較し、それぞれの結果を考える。その繰り返しが国家戦略だ」
「諸君らの秋季課程はここで終わる。よく考え、よく議論した」
「ありがとうございました、教官!」
教室中から声が返る。
「次の授業まで、研究発表の準備を進めておけ」
「承知しました、教官!」
鐘が鳴った。
候補生たちが席を立つ。
教室のあちこちで、さっそく研究発表の話が始まっていた。
「もうテーマ決めた?」
「まだだよ」
「俺は戦費について調べる」
「私は外交かな」
俺たちも資料をまとめる。
「レノは何にするの?」
ティアが聞いた。
「まだ考え中」
「珍しいね」
「全部面白かったからな」
ティアが笑った。
「じゃあ、帰りながら考えよう」
「ああ」
俺たちは他の候補生たちに混じって教室を出た。
リアたちもその後ろへ続く。
廊下はいつものように騒がしい。
授業が終われば、次の予定がある。
秋季課程は終わった。
それだけのことだった。
俺たちは話しながら、そのまま校舎の廊下を歩いていった。




