第54話 国家戦略論(食料安全保障探究)
教室へ入った俺は、黒板にまだ何も書かれていないことに少し意外なものを感じた。前回までの授業では、教官が開始前にその日の主題を示していることが多かったからだ。教室にはすでにかなりの数の候補生が集まっており、1学年300人の中から同じ授業を受ける者たちが、それぞれ指定された班の席についている。俺の班にもティア、リア、ルリウス、コリウス、ホリウス、ボリウス、ポリウスが揃っていた。校長の判断で俺と関係の深い候補生を中心にまとめられているが、もちろん俺たち8人だけで授業を受けるわけではない。周囲には他の候補生たちがいて、指揮課程の者と兵站課程の者では、同じ資料を見ても考える方向が違うことがよくある。
鐘が鳴った。
「起立!」
当直候補生の声に合わせて、教室中の候補生が立ち上がる。
「礼!」
「着席」
教官が教壇の前へ立った。
「諸君。前回、私は食料自給率について話した。その時、ある数字だけを見て国家の強弱を判断するな、と伝えたな」
「はい、教官」
候補生たちが一斉に返事をする。
「今日は、その続きをする。ただし、前回とは少しやり方を変える」
教官は黒板へ向かった。
そして、最初にアンティクイランド王国の地図を描く。
「まず、自国の地理を確認する。諸君らにとっては知っている話だろう。だが、知識として知っていることと、国家戦略の条件として理解することは違う」
北部へ線を引く。
「北部」
「馬の生産地です、教官」
ホリウスが答える。
「軍馬と荷役馬の生産が盛んな地域です」
「その通り。では中部」
ティアが手を上げる。
「葡萄とオリーブの生産地域です。ワインやオリーブ関連の産品が主要な交易品になっています」
「よろしい。南部は?」
今度はリアが答えた。
「都市部です。王都レクィエリアを中心に、人口、商業、行政、港湾機能が集中しています」
「その通りだ」
教官は地図の南側へ大きく円を描いた。
「つまり、アンティクイランド王国は、国土全体を穀物生産へ最適化している国家ではない。土地ごとに役割が違う」
黒板の横へ、
北部=馬
中部=葡萄・オリーブ
南部=都市・交易
と書かれる。
「ここを忘れると、今日の議論は全て間違う」
俺はその言葉を聞きながら頷いた。
国家の問題を考える時、数字だけを見てはいけない。
数字が生まれている理由を見る必要がある。
「では人口だ。アンティクイランド王国の総人口は?」
「約120万人です、教官」
「王都は?」
「約15万人です」
「地方は?」
「約105万人です」
別の候補生が答える。
教官は数字を黒板へ書き込んだ。
総人口:約1,200,000人
王都:約150,000人
地方:約1,050,000人
「王都人口は全人口の何%だ?」
「12.5%です、教官」
「よろしい」
教官はそこで一度、候補生たちを見回した。
「では質問する。王都人口が15万人も存在する場合、その15万人を王都周辺だけの食料生産で維持できると思うか?」
教室の何人かが顔を見合わせる。
「難しいと思います」
コリウスが答えた。
「理由は?」
「南部は都市化が進んでいて、人口に対して十分な穀物生産をする土地が少ないからです。また、北部と中部も、それぞれ馬や葡萄、オリーブに土地を使っています」
「その通り」
教官は頷いた。
「つまり、アンティクイランドは食料を必要としている。しかし、その土地を全て食料生産へ転換することはできない」
そこで、黒板へ一つの言葉を書く。
交易。
「この国では、不足する食料を交易によって確保している。主要な供給先はアエテリア帝国、エクィトゥム王国、カヴィーレスターン・スルタン国だ」
ポリウスが手を挙げる。
「教官、3ヶ国に分散しているということは、1ヶ国に依存するより安全ということでしょうか」
「平時なら、その考え方には合理性がある。ただし、『3ヶ国あるから安全』とまでは言えない」
「輸送路が同じなら?」
「そうだ」
教官が答えた。
「供給元を分散しても、その先が1本しかなければ、その1本を失った時に同時に止まる」
ルリウスが資料へ目を落とす。
「すると、輸入先だけではなく輸送路も分散する必要がある」
「その通りだ」
教官が初めて少し笑った。
「諸君らが今見ているのは食料の授業だが、もう外交と兵站が出てきているな」
教室の何人かから小さな笑いが漏れる。
俺も思わず口元を緩めた。
国家戦略論は、いつもそうだ。
一つの問題を考えているはずなのに、別の問題が入り込んでくる。
「では、数字を出す」
教官は資料を掲げた。
「アンティクイランド王国の年間穀物需要を、現在の統計から480,000トンとする」
黒板へ書かれる。
年間需要:480,000トン
「国内生産は144,000トン」
続いて、
国内生産:144,000トン
「国外からの調達は336,000トン」
さらに、
輸入:336,000トン
教室がざわめいた。
リアが小さく数字を計算している。
「自給率は30%です、教官」
「その通り」
教官が頷く。
「では聞く。30%という数字を見て、諸君らはどう評価する?」
「低いと思います」
前方の候補生が答える。
「戦争には弱いのではないでしょうか」
「私は、一概には言えないと思います」
別の候補生が反論した。
「輸入が安定しているなら、30%でも国家は成立します」
「では、アンティクイランドはなぜ30%でも成立している?」
教官が問い返す。
その瞬間、教室が静かになった。
俺は少し考えてから手を挙げる。
「教官、交易で不足分を補えるからです」
「具体的に」
「アンティクイランドは葡萄やオリーブ、ワインなどの特産品を生産しています。それらを交易して得た利益を使って、必要な穀物を購入する。だから国内の土地を全て穀物生産へ変えなくても国家を維持できる」
「よろしい」
教官は黒板へ線を引いた。
特産品生産 → 交易収入 → 食料調達
「これがアンティクイランドの経済構造の一つだ」
ティアが資料を見ながら静かに言う。
「だから、食料自給率を上げるために葡萄やオリーブの土地を穀物畑に変えれば、食料は増えても、その食料を買うための交易収入が減る可能性があるんですね」
「その通り」
教官が答える。
「さらに北部を穀物畑に変えれば、軍馬と荷役馬が減る。荷役馬が減れば輸送能力が落ちる」
ホリウスが頷く。
「食料を作るために、食料を運ぶ力を失う可能性があるわけですか」
「そうだ」
教官は言った。
「国家資源とは、そういうものだ」
教官は次の資料を配った。
「ここからが本日の探究課題だ」
紙にはガルディシアの文字が大きく記されている。
「南西部のガルディシアは、フレトゥム海峡の補給港だ。国内各地から集めた食料を王国内へ流すだけでなく、海峡を往来する船舶へ販売することもある」
数字が記されていた。
年間食料取扱量:約140,000トン
「このうち、約95,000トンが王国内へ向かい、約45,000トンは船舶や海外向けの販売へ回る」
コリウスが資料を見つめる。
「国内で食料が足りないのに、国外へも売っている」
「その点をどう考える?」
教官が尋ねる。
ボリウスが答えようとして、途中で止まった。
「売らない方がいい……とは、簡単には言えないですね」
「なぜ?」
「食料を売れば金になる。その金で別の食料を買えるかもしれない。それに、ガルディシアの交易自体を維持する意味もある」
「よろしい」
教官は頷いた。
「つまり、食料45,000トンを国内へ回せば良い、と単純には言えない。何を優先するかによって答えが変わる」
ティアが資料の端を指差す。
「教官。この場合、食料の45,000トンを国内へ回すことで短期的には食料不足を軽減できても、交易収入が落ち、その結果として将来の輸入能力まで落ちる可能性がありますよね?」
「その通りだ」
「だとすると、目の前の不足量だけで政策を決めるのは危険ですね」
「非常に良い」
教官が答える。
俺はティアを見る。
こういうところがティアらしい。
与えられた数字をそのまま処理するのではなく、その数字が他の数字へどう影響するかを考えている。
そして、おそらく彼女はもう一つ考えている。
「食料を全部国内へ回すべきだ」という意見が出た時、そこにどう反論すれば相手自身に考え直させられるか。
表情だけでは分からない。
でも、俺にはなんとなく分かる。
「では、戦時条件を追加する」
教官が黒板へ新しい数字を書く。
戦時需要:約540,000トン
「軍隊が増えれば、兵士だけでなく軍馬や荷役馬の飼料も必要になる。平時より需要が増えると考える」
「国内生産は?」
ルリウスが尋ねる。
「短期間で大きく増えるわけではない。現在の144,000トンを基準に考える」
「では不足は?」
コリウスが計算する。
「396,000トンです」
「そうだ」
教官が頷く。
「ここから先は、輸入で補う必要がある」
教官は供給先を書き並べた。
アエテリア帝国:140,000トン
エクィトゥム王国:96,000トン
カヴィーレスターン:100,000トン
「合計336,000トン」
教室の何人かが気づく。
リアが先に口を開いた。
「平時の輸入量と同じですね」
「そうだ。だが、ここでさらに条件を変える」
教官は帝国の数字を消した。
アエテリア帝国:0トン
「東方との交易が停止した」
続いてカヴィーレスターンの数字も消す。
カヴィーレスターン:0トン
「そしてフレトゥム海峡が封鎖された」
黒板に残るのは、
国内生産:144,000トン
エクィトゥム:96,000トン
合計240,000トン。
「戦時需要540,000トンに対して、300,000トン不足する」
俺は備蓄の数字を思い出した。
「国家備蓄が300,000トンなら、1年間は理論上耐えられます」
「その通り、殿下」
教官が答えた。
「だが、2年目は?」
俺は答えを口にしながら、嫌な感覚を覚えた。
「備蓄がなくなります」
「そうだ」
教官は黒板へ、
1年目=耐えられる
2年目=危険
と書いた。
「ここで問題なのは、1年目を耐えられるかではない。戦争が2年続いた時に国家がどうなるかだ」
教室の空気が変わっていた。
最初は「食料自給率30%は低い」という話だった。
今では、国家の生産構造、輸入先、海峡、備蓄、戦争期間まで繋がっている。
「では諸君らに問う」
教官が教室全体を見る。
「アンティクイランド王国は、食料自給率を上げるべきか?」
何人もの候補生が手を挙げた。
「賛成」
「条件付きで賛成」
「輸入先の分散を優先すべき」
「備蓄を増やすべき」
「輸送力の強化が先」
様々な意見が出る。
教官は黒板へ一つずつ書き込んでいく。
「では班で討論しろ」
「ただし、今日は『賛成か反対か』だけでは足りない。自分の案を採用した結果、何が悪化する可能性があるかまで述べろ」
俺たちは資料を囲んだ。
「私は、30%を少し引き上げるべきだと思います」
リアが言った。
「戦争になって輸入が止まった場合の脆弱性が大きすぎます」
「私は、率そのものを追いかけすぎない方がいいと思う」
ティアが答える。
「アンティクイランドは特産品と交易によって成り立っている。自給率を上げるために土地利用を壊したら、別の弱点が生まれる」
「では備蓄か?」
ポリウスが尋ねる。
「備蓄は時間を買える。でも、永続的な解決じゃない」
「街道」
コリウスが言う。
「輸送力を上げれば、国内生産の144,000トンをより効率よく配分できる」
「その街道を守る軍がいる」
ホリウスが返した。
「結局、軍備にも金が要る」
そこで俺は少し考えた。
「俺なら、優先順位をこうする」
7人がこちらを見る。
「まず輸入先の維持と分散。その次に主要輸送路。備蓄は一定量を確保する。そして国内生産の増加は、北部や中部の土地利用を大きく変えない範囲で行う」
「自給率は?」
リアが尋ねる。
「上げる。ただし、それ自体を最終目標にはしない」
俺は資料を見る。
「国家を食料自給率100%にすることより、輸入が止まっても一定期間耐えられ、交易が復活すればすぐに元へ戻せる構造を作る方が重要だと思う」
ティアが静かに頷く。
「私も、その方が現実的だと思う」
「でも、それだと外交が重要になるね」
「なる」
俺は答えた。
リアが資料を閉じる。
「次は外交の話になりそうですね」
ちょうどその時、教官が教壇から声をかけた。
「最後に、一つだけ覚えて帰れ」
候補生たちが前を向く。
「食料自給率は、国家の強さを示す一つの指標にすぎない」
教官は黒板を指した。
「アンティクイランド王国は、自国で全てを作る国家ではない。馬を作る地域があり、葡萄とオリーブを作る地域があり、都市と交易を担う地域がある。それらを輸送と交易によって繋ぐことで国家が成立している」
そしてガルディシアへ線を引く。
「ならば、その繋がりを守ることも食料安全保障だ」
「国内生産を増やすのか、輸入を増やすのか、備蓄するのか、港や街道を守るのか。その答えは、国家の地理と経済によって変わる」
教官が資料を閉じた。
「本日の授業はここまで」
「ありがとうございました、教官!」
教室中から声が返る。
候補生たちが一斉に立ち上がる。
周囲では、まだ議論が続いていた。
「30%じゃ低すぎるだろ」
「でもどこから農地を作るんだよ」
「備蓄が一番安全じゃないか?」
「輸送の方が大事だって」
様々な意見が飛び交っている。
俺も資料をまとめる。
今日の授業で印象に残ったのは、30%という数字ではなかった。
その30%がなぜ30%なのか、ということだった。
北部を馬に使う。
中部を葡萄とオリーブに使う。
南部へ人と商業が集まる。
足りない穀物を海外から買う。
ガルディシアへ食料を集め、国内へ運び、時には船へ売る。
その全てが繋がっている。
「レノ」
ティアが隣に来た。
「次の授業、やっぱり外交かな?」
「たぶんな」
俺が答える。
その時、教官の机の上に残されていた次回資料が目に入った。
表紙には、まだ細い文字でしか書かれていない。
国家戦略論・次回講義――交易と外交。
その下には、いくつかの国名が記されていた。
俺はその中の一つを見て、足を止めた。
アエテリア帝国。
今この国で起きている戦争と、決して無関係ではない国だった。




