第53話 国家戦略論(食料供給)
秋季課程の国家戦略論。
この授業が始まってから、俺は以前よりも教室へ入る時に考えることが増えていた。春から夏にかけて学んできたのは、部隊をどう動かすかという話が中心だった。だが秋になってからは、その部隊そのものを国家がどうやって維持するのか、戦争を始めたとして、そもそも何年戦えるのか、そして戦争をするために国家が何を犠牲にしなければならないのかまで考えさせられる。
そのため、国家戦略論の授業では、教官が最初から答えを示すことはほとんどない。
今日も教室へ入ると、黒板にはまだ何も書かれていなかった。
すでに何人かの候補生は席についており、俺も指定された席へ向かう。校長の判断で同じ班になることが多い8人――俺、ティア、リア、ルリウス、コリウス、ホリウス、ボリウス、ポリウス――も、少しずつ集まっていた。主専門はそれぞれ違う。指揮・戦術、兵站、情報、兵科運用。それでも国家戦略論では、むしろその違いが重要らしい。
「起立!」
当直候補生の号令が響く。
全員が立ち上がる。
「礼!」
一斉に頭を下げる。
「着席」
候補生たちが席へ戻ったところで、教官が教壇の前へ立った。
「諸君。前回の授業では、国家資源について扱った。その際、金銭だけを国家資源として考えるな、と説明した」
「はい、教官」
何人かが返事をする。
「今日は、その中でも特に重要なものを扱う」
教官が黒板へ向かった。
そして、一言だけ書く。
食料。
「国家は兵士だけでは維持できない。当然だな」
「はい」
「では質問する。アンティクイランド王国は、農業国家か?」
教室が少し静かになった。
教官はすぐに答えを求めなかった。
「挙手」
俺は手を上げた。
「殿下」
「はい、教官。私は農業国家ではないと考えます」
「理由を述べてみろ」
「北部は軍馬と荷役馬の生産が中心です。中部は葡萄とオリーブが中心で、南部は都市部と港湾、そして王都レクィエリアへ人口と商業が集中しています。そのため、国土を穀物生産の最大化に使っている国家とは言いにくいかと」
「よろしい」
教官が頷く。
「他にあるか」
ティアが手を上げた。
「教官、アンティクイランド王国は不足する食料を交易によって補っているため、農業生産そのものより、特産品の生産と交易によって富を得る構造の国家だと思います」
「その通りだ」
教官は黒板へ線を引いた。
北部。
中部。
南部。
「もう一度確認する。北部は?」
「軍馬と荷役馬の生産地です」
「中部は?」
「葡萄とオリーブの生産地です」
「南部は?」
「都市です」
リアが答えた。
「その南部には何が集中している?」
「王都レクィエリアを中心に、商業、行政、港湾、人口が集中しています」
「よろしい」
教官が黒板の端に王都を書き込む。
王国人口:約1,200,000人
王都人口:約150,000人
地方人口:約1,050,000人
「現在の王国人口は約120万人。王都には約15万人がいる。では、この15万人をどうやって養っている?」
コリウスが手を上げた。
「地方から食料を輸送しています」
「その通り。しかし、それだけか?」
「……国外からの輸入です」
「よろしい」
教官は頷いた。
「ここで注意してほしい。今日の授業では、『国内で食料を作っているか』ではなく、『国家全体として必要な食料をどう確保しているか』を考える」
そして、地図上の南西部へ指を移す。
「ガルディシア」
「フレトゥム海峡の補給港ですね」
「そうだ。ガルディシアへは国内各地から食料が集まる。そして、それは国内の都市へ運ばれるだけではない」
「船舶へも販売します」
俺が答えた。
「その通り」
教官は頷いた。
「つまり、ガルディシアに入ってくる食料の全てが国内で消費されるわけではない。海峡を往来する船舶へ販売する場合もある。さらに海外交易へ回ることもある」
ボリウスが資料を見た。
「では、食料が足りない国が食料を売るのは矛盾しませんか?」
「良い質問だ」
教官が少し笑う。
「矛盾する場合もある。だが、必ずしも矛盾ではない。食料を売れば金になる。その金で、別の場所から必要な食料を購入できる。また、ガルディシアでの販売が海峡交易全体を支えるなら、それによって関税収入や商業活動も維持できる」
ティアが言った。
「つまり、食料は消費するだけの資源ではなく、交易を成立させる資源でもあるんですね」
「その通りだ」
教官は黒板へ書く。
食料=生活資源+軍事資源+交易資源
「そして、ここからが今日の探究だ」
教官は教室全体を見渡した。
「諸君らがよく使う言葉に、『食料自給率』というものがある」
候補生たちが資料へ目を落とす。
「だが、その数字を高くすれば国家は必ず強くなると思うか?」
「……必ず、ではないと思います」
ルリウスが答えた。
「理由は?」
「輸入へ依存していても、輸入先が安定していて、交易路が複数あれば食料を確保できます。逆に自給率が高くても、生産地域が戦場になれば食料を得られなくなる可能性があります」
「その通り」
教官は満足そうに頷いた。
「では、アンティクイランド王国について考える」
黒板に3つの項目が書かれる。
国内生産
輸入
物流
「まず、諸君らに配る資料を見てほしい」
資料が各机へ配られる。
そこには、王国内の食料生産地域、穀物輸入の供給先、主要街道、セパラーティオ川、ガルディシア、レクィエリアが記されていた。
「ここには1つ、意図的に数字を入れていない項目がある」
教官が言った。
「食料自給率だ」
教室に少しざわめきが起こる。
「なぜ入れていないのでしょうか」
ポリウスが尋ねる。
「数字だけ渡して考えさせたら、地理と矛盾した結論を出す者がいるからだ」
「……」
「国家戦略では、数字が先ではない。まず現実を理解し、その現実を数字にする。これを忘れるな」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ姿勢を正した。
まさに、この授業の考え方だった。
「では、諸君ら自身で仮説を立ててもらう」
教官が言った。
「アンティクイランド王国は、北部を馬、中部を葡萄とオリーブ、南部を都市へ大きく分けている。それでも国家人口120万人を維持している。では、食料供給を成立させている要素は何か」
今度はすぐに議論が始まった。
「まず輸入」
コリウスが言う。
「穀物はアエテリア帝国、エクィトゥム王国、カヴィーレスターンから入る。1つだけに依存していないのが重要です」
「国内輸送も必要」
ルリウスが続ける。
「生産地から都市へ運ばないといけない。セパラーティオ川と主要街道が重要になる」
「馬もですね」
ホリウスが言った。
「食料を運ぶ荷役馬が必要だ。北部の馬産地が食料そのものを作っていなくても、食料供給の一部を支えている」
「ガルディシアも大きい」
リアが地図を見る。
「海峡から入ってくる物資を集められる。しかも船に食料を売れるなら、食料を金へ変えて、その金で別の物資を買える」
「でも、海峡が封鎖されたら全部が危なくなる」
ポリウスが言った。
「カヴィーレスターンからの輸入だけじゃなく、船舶との取引も止まる。ガルディシアの重要性はかなり高い」
俺は皆の話を聞きながら、地図へ視線を落とした。
「もう1つある」
全員がこちらを見る。
「人口配置だ」
「人口配置?」
ティアが尋ねる。
「王都が15万人も抱えている。食料生産地と消費地がかなり離れているから、輸送そのものが国家機能になる」
コリウスが頷く。
「なるほど。王都が大きいから、食料問題が単なる農業問題じゃなくなる」
「そう」
俺は答えた。
「そして、王都がさらに成長すれば、食料需要も増える」
教官がこちらを見ていた。
「よろしい」
そこで、ようやく教官は新しい数字を黒板へ書いた。
授業用仮定:王国全体の年間穀物需要を100とする
「ここから先は、実際の王国統計ではなく、構造を理解するための授業用モデルだ」
教室が少し引き締まる。
「国内生産を30、輸入を70と仮定する」
コリウスがすぐに計算する。
「食料自給率は30%ですね」
「そう」
教官が頷く。
「ここで重要なのは、この30%という数字そのものではない。この数字だけを見て、諸君らは『アンティクイランドは危険な食料不足国家だ』と判断できるか?」
「できません」
リアが答えた。
「輸入先と交易路が安定しているか、国家備蓄がどの程度あるか、国内輸送が維持できるか分からないからです」
「よろしい」
「では、逆に自給率を50%へ上げるために、北部の馬産地の一部を穀物畑へ転換するとする」
ホリウスが即座に反応した。
「馬が減る」
「そして?」
「軍馬だけじゃなく、荷役馬も減る。輸送能力が落ちます」
「さらに?」
ティアが続ける。
「中部の葡萄やオリーブを減らして穀物を作れば、ワインやオリーブ関連の交易収入が落ちる可能性があります」
「その通り」
教官が頷く。
「つまり、自給率を30%から50%へ引き上げること自体はできても、そのために国家の別の能力を失えば意味がない」
俺は資料へ目を落とした。
これは、前回の財政の授業と同じだった。
数字を1つ良くすることと、国家を強くすることは同じではない。
「では、最後に討論する」
教官が言った。
「議題は、『アンティクイランド王国は食料自給率を引き上げるべきか』だ」
教室の空気が変わる。
「賛成派も反対派も、感情ではなく国家戦略として論じろ。さらに、『その政策によって何を得るか』だけではなく、『何を失うか』まで説明しろ」
俺たちの班でも意見が分かれた。
「私は、一定程度は引き上げるべきだと思います」
リアが言う。
「30%という低さは、輸入が止まった時の危険が大きすぎます」
「私は、率そのものを目標にするべきではないと思います」
ティアが続ける。
「必要なのは、戦争や封鎖が起きても王都と軍へ食料を届けられることです。輸入先を分散し、備蓄を持ち、ガルディシアと主要街道を守る方が効率的かもしれません」
「私は両方必要だと思います」
コリウスが言った。
「国内生産を少し増やしながら、輸入と備蓄を維持する」
「じゃあ、どこまで?」
ホリウスが尋ねる。
コリウスは答えなかった。
「そこを決めるのが国家戦略なんだろ」
ポリウスが言った。
その言葉に、何人かが笑った。
教官も少しだけ口元を緩めた。
「その通りだ」
教官が前へ出る。
「国家戦略に、都合のいい万能な数字はない。20%が正しいとも、40%が正しいとも言えない。国家の地理、人口、産業、外交、財政、輸送能力によって変わる」
教官は黒板へ最後の式を書いた。
食料安全保障=国内生産+輸入+備蓄+輸送+外交
「そして軍事国家でないアンティクイランドにとっては、さらに交易が重要になる」
ガルディシアへ線を引く。
「食料を生産する地域」
「食料を輸入する地域」
「食料を消費する都市」
「食料を集め、販売する港」
「それらを繋ぐ街道と河川」
「全部が一つの系統として動かなければならない」
俺はその言葉をノートへ書き込んだ。
国家戦略論。
以前は、戦争をどうすれば勝てるのかを考える授業だと思っていた。
だが、違う。
戦争を始める前から、国家はすでに戦っている。
どこで馬を作るのか。
どこで食料を作るのか。
何を輸入するのか。
どこへ運ぶのか。
どの交易路を守るのか。
何を守るために、何を諦めるのか。
その積み重ねの先に、軍隊がある。
「次回は、今日の議論をさらに進める」
教官が言った。
「仮想国家が戦争状態へ入り、アエテリア帝国との交易が停止する。さらにフレトゥム海峡も一時的に封鎖される」
候補生たちが一斉に資料を見る。
「その時、国内生産、備蓄、輸送、外交、軍事をどう組み合わせるか。具体的な数値を与えるから、自分たちで国家を動かしてもらう」
「以上。解散」
「ありがとうございました、教官!」
候補生たちが一斉に礼をする。
授業が終わった後、俺たちは資料を持ったまま教室を出た。
「次、かなり面倒そうだね」
ティアが言う。
「面倒だから面白いんだろ」
俺が答えると、ティアが笑った。
「レノらしい」
国家戦略論は、少しずつ「知識を覚える授業」から「国家を実際に動かす授業」へ変わり始めていた。




