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氷の奇公子 ~変人王子の生存術~  作者: 佐藤湊
第5章 シルウァニア戦争
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第52話 作戦成功

 南西部では、シルウァニア王国軍の主力が足止めされていた。エクィトゥム王国軍は9万人規模の戦力を展開し、シルウァニア軍が南部方面へ兵力を移すことを許さなかった。正面から無理に決戦を求めるのではなく、防御線を維持しながら敵の進路を塞ぎ、複数の地点へ圧力をかけ続けることで、その主力を南西部へ拘束している。そのため、シルウァニア側は北西部で状況が急速に悪化していることを把握しても、十分な兵力を移すことができなかった。


 一方、その間に北西部では、これまでとは全く異なる戦いが始まっていた。ルペリウス戦線では、エクィトゥム王国軍が「竜の祝福」の再編時点から計画していた森林焼却作戦を、本格的に実行していたのである。シルウァニア軍にとって森林は単なる自然環境ではなかった。森の奥には細い山道があり、部隊を隠すことができ、夜間に移動すれば大軍の目をかいくぐって別の地点へ姿を現すこともできた。街道を通る補給隊を襲い、偵察隊を追い返し、エクィトゥム軍が追撃すれば森の奥へ消える。その戦法によって、シルウァニア軍は少ない兵力でも大軍を相手にし続けてきた。


 だからこそ、フィリウスは兵士を森へ送り込む方法を選ばなかった。森へ何千人、何万人と兵を入れれば、待ち伏せによってこちらが損害を受ける。敵を追って奥へ進めば補給路が伸び、別の場所が手薄になる。戦争を止めることができない以上、自国兵の死傷者をできるだけ減らしながら勝ち続ける必要がある。フィリウスにとって森林焼却は、敵への憎悪から生まれたものではなく、エクィトゥム兵を森の中で一人ずつ死なせないための、最も冷徹で合理的な選択だった。


「第1焼却区域、作戦開始を確認しました」


 北西部方面軍司令部へ報告が入る。フィリウスは地図を見ながら、森林を示す広い緑色の範囲を指先でなぞった。赤い印はこれまでシルウァニア軍の活動が確認された地域を示している。森から森へ繋がっていたはずの経路を切断し、その中に存在する部隊を孤立させる。そのために、焼却区域は1つずつではなく、複数の地点から同時に広げられていた。


「第2区域も火が入りました」


「予定通り進めろ」


 フィリウスの声には、怒りも高揚もなかった。


「敵が森を使うなら、その森を失わせる。森を残したまま何万人もの兵を送り込むより、我が軍の損害は少ない」


 それだけを告げると、フィリウスは次の報告へ目を向けた。


 最初に異変を感じたのは、森林の奥にいたシルウァニア軍だった。煙を見つけた時には、まだ別の森へ移ればいいと思っていた。だが、移動を始めた先でも遠くに煙が上がっている。さらに西へ向かえば、今度はそこでも炎が見える。昨日までなら森の中には無数の選択肢があった。今日は、その選択肢が1つずつ消えていた。


「東はもう通れない!」


「なら西へ回れ!」


「西も燃えている!」


 兵士たちが叫びながら進む。道を知っているはずの兵士が、何度も周囲を見回しながら立ち止まる。目印だった巨木は燃え、分岐に使っていた小道には倒木が横たわり、煙が濃くなれば数歩先にいる仲間の姿さえ見えなくなる。誰かが後ろから来ているのか確認するために振り返っても、そこにいるのは煙と灰ばかりだった。


 ゲリラ部隊は、敵兵に追いつかれて壊滅していたわけではない。自分たちが最も得意としていた環境そのものが消えることで、戦うための条件を失っていた。森に隠れることができない。部隊を分散しても再集結する場所がない。補給を受ける村へ行こうとしても、その村自体が安全ではない。さらに、今までなら森の中を通じて届いていた命令も届かなくなっていた。


 ある部隊は北へ向かった。別の部隊は南へ向かった。そして、互いがどちらへ進んだのかすら分からなくなった。隊列が崩れるにつれて、部隊の中には武器を捨てて走る者も現れた。逆に、森を出れば敵に発見されると判断して、炎が近づいていることを承知で森林の奥へ残る者もいた。だが、どちらの選択にも安全な答えはなかった。


 やがて、ルペリウス戦線の各地から聞こえていた戦闘音が少なくなった。シルウァニア軍の襲撃が減ったからではない。襲撃を行う部隊そのものが、組織だった行動を取れなくなっていったからだった。


 森林の周辺では、村々も同じ状況に巻き込まれていた。


「軍事作戦区域だ。ここから退去しろ!」


 エクィトゥム兵が住民へ告げる。しかし、住民にとってそこは単なる軍事拠点ではない。森は狩りの場所であり、薪を手に入れる場所であり、食料を探す場所だった。家があり、家族がいて、祖先から受け継いだ土地がある。突然そこから離れろと言われても、すぐに受け入れられるものではなかった。


「ここは俺たちの村だ!」


「どこへ行けというんだ!」


 老人が声を上げ、女性たちが子供を引き寄せる。若い男の多くは軍へ出ているか、別の場所へ行っているため、村に残っているのは老人、女性、子供が中心になっている場所も少なくない。それでも、退去命令そのものを拒否する者はいた。やがて一部の住民が弓や斧を手に取り、エクィトゥム兵へ向けて抵抗を始める。


 エクィトゥム側の兵士たちは、これを単なる抗議ではなく、軍事作戦への抵抗として受け取った。森の近くで武器を持つ住民がいる。ゲリラへの協力者がいる可能性がある。そこへ森林焼却が重なったことで、村は急速に戦場へ変わっていった。


 煙が村へ入り込む。家々の中へ逃げる者もいれば、子供を連れて外へ走る者もいる。誰かが家族を呼び、別の誰かが老人を支えながら歩く。しかし、煙が濃くなるにつれて互いの姿が見えなくなり、通り慣れたはずの村の中でも人々は方向を失っていった。


 炎が森林から村へ届き始める。


 木造の家屋へ火が移り、屋根から煙が上がる。荷物を持ち出そうとしていた者はそれを途中で落とし、子供を探している者は何度も同じ名前を呼び続ける。それでも答えが返ってこない。村の外へ出られた者たちも、誰が逃げられたのか、誰がまだ中に残っているのかを確認する余裕がない。


 夜が来ても、そこには以前の村の灯りは戻らなかった。


 ルペリウス戦線司令部では、その頃になってようやく事態が決定的に悪化していることが明らかになっていた。


「東部隊、応答ありません!」


「西部隊もです!」


「補給路が完全に使えなくなっています!」


 カエルス・アル・ルペリウスは地図を見ていた。赤い線が広がり、これまで使っていた道路が次々に失われていく。その赤の向こう側には、シルウァニア軍の部隊がいるはずだった。しかし、報告はもう届かない。


「森林を焼かれている以上、こちらから追いかけることはできません」


 副官が言う。


「分かっている」


 カエルスは短く答えた。


「ならば、残った部隊を西へ集める」


 だが、その西側からも煙が上がっている。


 カエルスは言葉を失った。


 自分が守ってきた土地。


 ルペリウス族が何代にもわたって暮らしてきた森林。


 そこが、今は自分たちの退路を塞ぐ炎に変わっている。


「……司令部を移す」


「どこへ?」


 カエルスは地図を見る。


 答えがない。


 北にはエクィトゥム軍。


 南には南西部へ向かう街道。


 西には焼却地域。


 東もすでに炎が広がっている。


 昨日までなら、森のどこかへ移ればよかった。


 今日は、森そのものが敵になっている。


「とにかく、西へ向かう。残っている部隊と合流する」


 命令が出される。


 地図をまとめる。


 伝令を出す。


 負傷した兵士を支える。


 司令部にいた者たちが、一斉に動き始めた。


 しかし、外へ出た瞬間に状況はさらに悪化した。


「火が近い!」


「こちらへ!」


「その道は駄目だ!」


 複数の声が飛び交う。


 誰かが別の道を示す。


 別の兵士がそれを否定する。


 煙で見えない。


 道も分からない。


 カエルスは部下をまとめながら、どうにか炎の切れ目を探した。


「まだ動ける者は先へ!」


 しかし、返事が少ない。


 周囲を見回しても、さっきまでいた部下の数が減っている。


 逃げたのか。


 はぐれたのか。


 倒れたのか。


 それすら分からない。


 司令官であるカエルス自身が、全体の状況を把握できなくなっていた。


「族長!」


 副官の声が聞こえる。


 カエルスが振り向く。


 だが、煙の向こうに姿はない。


「どこだ!」


 叫んでも返事はない。


 その瞬間、カエルスはようやく理解した。


 自分の周囲には、もうほとんど誰もいない。


 森の中で敵を追い、敵から逃れ、部隊をまとめてきた男が、今は誰にも命令を届けられない。


 前方には炎。


 後方にも煙。


 左右にも逃げ道がない。


 カエルスはそれでも歩こうとした。


 しかし、煙の中では方向すら定まらず、数歩進むだけで足が止まる。


 遠くから、誰かの叫び声が聞こえた。


「族長!」


 カエルスはそちらへ向かおうとした。


 だが、次の瞬間には、その声も消えた。


 炎と煙に包まれた森林の中で、カエルス・アル・ルペリウスは命を落とした。


 誰にも看取られることはなかった。


 最後に出した命令が全軍へ伝わることもなかった。


 彼の死を、その場にいた兵士たちがすぐに確認することさえできなかった。


 ただ、長くルペリウス戦線を指揮していた男が突然いなくなり、その事実だけが時間を置いて少しずつ部隊へ伝わっていった。


 カエルスの死によって、ルペリウス戦線は急速に崩れ始めた。


「司令部と連絡が取れない!」


「族長は西へ向かったらしい!」


「いや、北へ移動したという話だ!」


「誰の命令だ!」


 まとまった答えを返せる者はいない。


 シルウァニア軍は、これまで「森」という巨大な情報網によって繋がっていた。斥候が別の部隊へ伝令を届け、村人が敵の動きを知らせ、山道を使って補給が行われる。だが、その全てが焼却によって寸断されていた。


 ゲリラ部隊は、もうゲリラとして戦えない。


 森林内のどこへ移動してもエクィトゥム軍に発見される可能性が高く、以前のように姿を消すこともできない。さらに、各部隊が互いの位置を把握できないため、連携した攻撃もできない。戦える兵士が残っていたとしても、それを一つの軍として使うことができなくなっていた。


 ある部隊はエクィトゥム軍を見つけると、最後まで抵抗した。


 別の部隊は、これ以上戦えば全員が失われると判断して逃げた。


 また別の部隊は、逃げ道を探すうちに仲間とはぐれ、そのまま行方が分からなくなった。


 同じシルウァニア軍なのに、同じ命令を受けていない。


 同じ戦場にいるのに、同じ戦争をしているとは思えないほど、それぞれの部隊が孤立していった。


 やがて、エクィトゥム王国軍が前進を開始した。


「ルペリウス戦線中央部、組織的抵抗が確認できません」


「東側も同様です」


「敵ゲリラ部隊は?」


「大部分が壊滅したものと推定されます」


 報告を受けたフィリウスは、地図を見る。


 これまでエクィトゥム軍の前進を止めていた赤い印が、ほとんど消えている。


「進め」


 短い命令が出る。


 エクィトゥム兵が街道へ入り、北西部のさらに奥へ進んでいく。


 以前なら、街道を進む兵士には常に緊張があった。森の奥から矢が飛んでくるかもしれない。夜になれば敵の斥候が接近してくるかもしれない。だが、今は違う。街道の左右には焼けた森林が広がり、遠くにはまだ煙が残っている。敵の姿は見えない。


 その先に村がある。


 しかし、そこも以前の姿ではなかった。


 焼けた家屋。


 崩れた柵。


 途中で放棄された荷車。


 道端に残された生活用品。


 エクィトゥム兵たちは、それらを見ながら進んでいく。


 村の外には、生き残った住民たちがいる。


 老人を支える者。


 子供の手を握る者。


 何も持たずに歩く者。


 誰もエクィトゥム兵へ向かっていくことはない。


 ただ、黙って見ている。


 昨日まで自分たちの生活があった場所を、異国の軍隊が通過していく。


 その光景だけが、静かに残っている。


 そしてエクィトゥム軍は、その横を通り過ぎ、さらに北西へ進んでいった。


 ルペリウス戦線は崩壊した。


 森林を利用して戦っていたゲリラ部隊も、もはや組織として存在できない。


 司令官カエルス・アル・ルペリウスも失われた。


 北西部を守っていたシルウァニア軍は、その土地を支えていた森そのものを失ったことで、エクィトゥム軍の前進を止めることができなくなっていた。


 フィリウスが望んでいた通り、エクィトゥム軍は森の中で大量の兵を失うことなく、北西部をさらに奥へ進むことができるようになっていた。

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