第51話 シルウァニア大森林焼却
エクィトゥム王国北西部。
ルペリウス戦線では、開戦から時間が経っても戦況が思うように動いていなかった。
国境防衛城壁を突破し、ルペリウス城を陥落させたところまでは計画通りだった。だが、その先へ進もうとすると、シルウァニア軍は正面決戦を避けて森や山へ散開し、補給路や街道、偵察隊を狙って繰り返し攻撃を仕掛けてくる。
追えば消える。
追わなければ別の場所へ現れる。
エクィトゥム王国軍は大軍を投入しているにもかかわらず、少しずつ戦力を削られていた。
そして、これはフィリウス王太子にとって、すでに想定外の事態ではなかった。
以前の作戦会議。
再編された「竜の祝福」の作戦計画書には、北西部のゲリラ戦への対策として、すでに一つの項目が記されていた。
――森林焼却。
シルウァニア軍が森林へ潜伏するなら、森林そのものを軍事的に利用できなくする。
それが計画の基本だった。
「予定されていた森林焼却の実施時期が近づいています」
北西部方面軍司令部。
参謀がフィリウスへ報告した。
「対象地域は?」
「現在のルペリウス戦線東側から南東側にかけての森林地帯です。補給路への襲撃が多く、ゲリラ部隊の活動も確認されています」
フィリウスは地図へ目を向けた。
広大な森林が描かれている。
そこには敵軍の位置を示す印よりも、敵が潜伏している可能性のある地域を示す印の方が多かった。
「実施すれば、どの程度の効果が期待できる?」
「森林内での敵の潜伏能力は大きく低下します。補給路や街道への襲撃も減少する可能性があります」
「こちらの損害は?」
「森林内へ大規模な捜索部隊を投入する必要が減ります。したがって、長期的にはかなりの兵力を節約できるでしょう」
フィリウスは頷いた。
それが、彼にとって最も重要な点だった。
シルウァニア人が何人死ぬかではない。
森がどれだけ失われるかでもない。
自国の兵士が何人死なずに済むか。
それだけが、判断の中心にあった。
「住民はどうする?」
「対象地域の村落には退去を命じます」
「期限は?」
「可能な限り事前に通告します」
別の参謀が口を開く。
「ただし、シルウァニアの村落では退去を拒否する可能性があります」
「理由は?」
「彼らにとって森と村は生活そのものです。狩猟や採集に利用していますし、祖先から受け継いだ土地を放棄することを嫌がる者も多いようです」
「抵抗する可能性は?」
「高いでしょう」
フィリウスは少しだけ考えた。
「ならば、その可能性も計画に含めておけ」
「……はい」
「森林焼却は中止しない」
フィリウスは淡々と言った。
「我々は、この戦争を止めることができない」
参謀たちが静かに聞いている。
「エクィトゥム王国はシルウァニア攻略を望んでいる。ここまで兵を出し、これだけの犠牲を払った以上、私が『もう戦うべきではない』と言ったところで、戦争そのものが終わるわけではない」
フィリウスは地図を指でなぞる。
「ならば、終わらせるために必要なことをする」
そして、続けた。
「森を残せば、我が軍は森の中で戦い続けなければならない」
「大軍を入れれば、待ち伏せを受ける」
「補給路を守るために兵力を割く」
「さらに死傷者が増える」
フィリウスの声に怒りも興奮もなかった。
「それよりも森林を失わせた方が、我が軍の損害は少ない」
「たとえ、住民が巻き込まれるとしても?」
参謀の一人が慎重に尋ねた。
フィリウスは、その人物を見る。
「だから退去を命じる」
「それでも残る者は?」
「抵抗するなら敵だ」
即答だった。
「私は、エクィトゥム兵を森へ送り込み続けて死なせるつもりはない」
それが、フィリウスの答えだった。
数日後。
森林焼却作戦が開始された。
エクィトゥム王国軍は複数の地点から森林へ入り、予定されていた地域へ火を放っていく。
煙が山々の間へ広がる。
森の奥から、シルウァニア兵が姿を現す。
「敵兵を確認!」
「射撃!」
エクィトゥム軍が対応する。
逃げるシルウァニア兵。
別の場所では抵抗する部隊。
しかし、これまでと違う。
森そのものが安全ではなくなっていく。
潜伏できる場所が失われる。
移動経路が減る。
待ち伏せに使える場所も消えていく。
作戦開始からしばらくすると、補給路への襲撃件数が目に見えて減少し始めた。
「敵の活動が低下しています」
司令部へ報告が入る。
「予想通りだな」
フィリウスは静かに答えた。
計画は機能している。
だが、問題は森林だけではなかった。
ある村では、退去命令を伝えたエクィトゥム兵に対して、住民が抵抗した。
「ここから出ていけ!」
「これは我々の土地だ!」
村に残っていたのは、老人や女性、子供が中心だった。
若い男の多くはすでに軍へ参加している。
それでも、住民の一部は弓や斧、古い槍を手に取った。
「武器を捨てろ!」
エクィトゥム兵が警告する。
しかし、村人たちは退かなかった。
「ここを渡すくらいなら戦う!」
現地指揮官は、受け取っていた命令を思い出した。
退去。
抵抗する者は敵として扱う。
戦闘が始まった。
その周囲では、森林が燃えている。
火と煙が村へ近づく。
エクィトゥム兵も、住民も、戦闘を止めることができない。
やがて炎は村の一部へ広がり、家々が次々と失われていった。
別の村でも同じことが起きた。
森の近くにある。
退去を拒む。
一部が武器を取る。
軍事作戦が始まる。
そして、森林焼却と村落への戦闘が重なる。
結果として、村そのものが焼失する。
報告は次々と司令部へ届いた。
「森林焼却地域、拡大しています」
「ゲリラ活動は?」
「大幅に減少しています」
「補給路への襲撃は?」
「以前と比較して明確に減っています」
「我が軍の損害は?」
「森林内での戦闘が減少したため、今後は減少すると予測されます」
軍事的には、成功だった。
しかし、その下には別の報告がある。
「村落の焼失が複数確認されています」
「住民の被害は?」
「正確には把握できていません」
フィリウスは報告書を閉じた。
「作戦は継続する」
「承知しました」
その一言で終わった。
彼にとって、それは迷うべき問題ではなかった。
エクィトゥム軍の損害を減らせる。
ならば実施する。
その過程でシルウァニアの村が失われるとしても、自軍の兵士を大量に森林へ送り込んで死なせるよりはましだった。
やがて、森林焼却は北西部の広い地域へ広がっていった。
森林は少しずつ消えていく。
ゲリラ部隊の行動範囲も狭くなる。
エクィトゥム軍の補給路は以前より安定し、前線での損害も減少していった。
だが、シルウァニア人の側から見れば、話は全く違う。
森を奪われた。
村を失った。
故郷を失った。
それまで戦場から距離を置いていた者まで、エクィトゥム王国への憎悪を抱くようになった。
老人も。
女性も。
そして、戦争を知らなかった子供たちも。
エクィトゥム軍が森を焼いたという事実だけが、人々の間へ残った。
結果として、ゲリラ活動は一時的に減少した。
しかし、その一方でシルウァニア国内では新たな抵抗の芽が生まれていた。
これまで戦う理由を持たなかった者たちまで、エクィトゥム軍を敵と認識するようになったからだ。
フィリウスは、その可能性を理解していた。
それでも止めなかった。
「戦争を止めることはできない」
司令部で、彼は静かに言った。
「ならば、我が国の兵士をできるだけ死なせない」
それが、フィリウスの考える最優先事項だった。
彼はシルウァニア人を憎んでいるわけではない。
森を燃やすことに快感を覚えているわけでもない。
ただ、終わらせなければならない戦争の中で、最も自国の損害が少ないと判断した方法を選んだだけだった。
その判断が、シルウァニアの大地に何を残すことになるのか。
フィリウスは理解していた。
それでも――。
自軍の損害を抑えるためなら、他にどれほど大きな犠牲が生じようとも構わない。
それが、エクィトゥム王国王太子フィリウスの冷徹な戦争観だった。




