第50話 2人だけの夜
その夜。
王城は静まり返っていた。昼間なら、廊下には侍従や侍女、近衛兵、官僚たちが絶えず行き交っている。王族がどこへ向かうのか、誰と会うのか、何を話したのか。その一つ一つに誰かの目が向けられ、何気ない発言さえ政治的な意味を持つことがある。王族という立場に生まれた時点で、完全な私生活など存在しない。
けれど、夜の寝室だけは少し違った。もちろん、扉の外には近衛兵がいるし、完全に誰の気配もないわけではない。それでも、この部屋の中にいるのは俺とティアだけだ。ここにいる間だけは、王太子と王太子妃という肩書きを一度脇へ置いて、レノとティアとして話すことができる。俺たちにとっては、それが数少ない「自由」だった。
俺はベッドの端に腰を下ろし、窓の外を眺めていた。
王都の灯りが遠くまで広がっている。いつもなら綺麗だと思う景色なのに、今日は何も感じなかった。頭の中にあるのは、昼間に聞いた言葉ばかりだった。
王族は14人から6人に減った。
王家の血統を維持しなければならない。
第一王女サナティアには、亡命政府首班ヴェリュグ・レクス・ウェトゥスとの婚約案が出ている。
そして俺には――第二妃を迎える可能性がある。
「……まだ考えてる?」
ティアの声がした。
「ああ」
俺はそれだけ答えた。
ティアもすぐには何も言わなかった。たぶん、彼女も同じことを考えている。
王族が減ったことは事実だ。内乱以前には14人いた王族が、今では6人しかいない。王弟カシウスの家系も大きく削られ、粛清された者もいれば、王族としての身分を失った者もいる。エドリアンは13歳で、まだ王家の次世代を担うには若い。サナも12歳で、これから学園生活を送りながら成長していく立場だ。
そう考えれば、今すぐ次の世代を期待できる立場にある俺たちへ重圧が集中するのは、理解できる。
「私ね」
ティアが静かに口を開いた。
「今日から、ずっと考えてる」
「第二妃のことか」
「うん」
ティアはベッドの近くまで歩いてきて、そのまま少し離れた場所へ腰を下ろした。
「王家に必要なのは分かるよ。王族が6人しかいないなら、次の世代を増やさなきゃいけない。私たちに期待されるのも、理屈では分かる」
そこでティアは言葉を止める。
「でも……自分のことになると、怖い」
俺は黙って聞いていた。
「王太子妃だから、王家のために子供を持つことが責務になる。それも分かってる。でも、今日、第二妃の話まで出てきたでしょう?」
ティアは自分の手を見つめる。
「私が王太子妃として頑張っても、それだけでは足りないかもしれないって言われてるみたいで……」
その声は大きくない。
けれど、聞いているだけで苦しさが伝わってくる。
「もし私に何かあったら。もし子供ができなかったら。もし王家のためにもっと必要だと言われたら。そういうことを考え始めたら、何をしても足りないような気がしてくるの」
「ティア……」
「私は国を守りたい。王太子妃として責任を果たしたい。それは本当にそう思ってる。でも、それと『王家のためなら自分がどうなってもいい』っていうのは、同じじゃないよ」
俺は返事ができなかった。
ティアの言っていることは、全て分かる。
そして、俺自身も同じように苦しんでいる。
俺が王太子として考えれば、王家の血統を維持することは重要だ。俺が次の国王になるなら、その先の王家の存続まで考えなければならない。理屈だけなら、第二妃という案にも合理性がある。
だけど、目の前にいるのは「王太子妃」という役職だけの人間ではない。
前世では、朝倉美咲だった。
俺、佐藤湊にとって、幼稚園から高校までずっと隣にいた幼馴染だった。家も隣で、学校もずっと同じだった。俺は前世の最後に彼女へ告白して、彼女から答えをもらえないまま、この世界へ来た。
そして、異世界で再び出会った。
名前も、立場も、生まれた国も変わった。それでも、お互いが誰なのかは分かった。そこからまた時間を重ねて、今では俺たちは王太子と王太子妃になっている。
「俺も、怖いよ」
俺がそう言うと、ティアが顔を上げた。
「レノも?」
「ああ」
俺は少し苦笑した。
「王太子として考えれば、第二妃を迎える必要性は理解できる。王族は減ってるし、王家の将来を考えたら、次の世代を確保しなきゃいけない。俺だって、その責任から逃げるつもりはない」
「うん」
「でも、それを考えた瞬間に、ティアを『王家のための存在』として見ることになりそうで……俺はそれが嫌なんだ」
ティアが黙って俺を見る。
「俺は、ティアに王太子妃としての責任を果たしてほしい。でも、それ以上に、ティアにはティアでいてほしい」
「……」
「俺たちは王族だから、何でも自由にはできない。国のことを考えなきゃいけないし、外交や派閥や血統の問題からも逃げられない。それでも、自分たちが何を思っているのかまで、全部捨てる必要はないと思う」
ティアはしばらく黙っていた。
やがて、少しだけ俯く。
「私、今日ずっと考えてた」
「何を?」
「もし第二妃が本当に来ることになったら、私、ちゃんと笑えるのかなって」
その一言に、胸が詰まった。
「王太子妃として受け入れなきゃいけないのかもしれない。エクィトゥム王国の王女としても、簡単に拒絶はできない。でも……それを頭では理解してても、気持ちまで同じように動くとは限らないよね」
「ああ」
「私たち、前世からずっと一緒だったじゃない」
その言葉に、俺は静かに頷いた。
「湊と美咲として過ごした時間も、この世界でレノとティアとして過ごした時間も、全部合わせたら、私たちってすごく長い時間を一緒にいるんだよ」
「そうだな」
「だから、国家の都合で『次の役割が必要だから』って言われても……頭では分かっても、心まで簡単に切り替えられない」
ティアの声が少し震えた。
「私、レノとの関係を守りたい」
俺は目を伏せた。
その言葉は、嬉しいだけではなかった。
重かった。
俺も同じだからだ。
だからこそ、この問題を簡単に片づけられない。
「俺も守りたい」
その言葉を聞いて、ティアは少しだけ顔を上げた。
「でも、国王になる以上、俺は王家の未来も考えなきゃいけない。ティアの気持ちだけを優先して、王家の問題を無視するわけにもいかない」
「うん」
「だから、俺たちは逃げない。でも、誰かに一方的に決められるのも違うと思う」
ティアが小さく頷いた。
「2人で考える?」
「ああ」
「ずっと?」
「ずっとだ」
ティアはしばらく俺を見つめた。
そして、ようやく少しだけ笑った。
「……それなら、少しだけ安心した」
その表情を見て、俺も少しだけ肩の力が抜けた。
寝室の中は静かだった。
外では、王宮の職員たちがまだ動いているかもしれない。近衛兵も立っている。明日になれば、また王太子と王太子妃としての公務が待っている。
王家の血統について考えなければならない。
亡命政府との外交についても考えなければならない。
軍制改革や士官学校のこともある。
国王になる未来を考えるなら、これから先、背負うものは増える一方だ。
それでも、この部屋の中では、少なくとも今だけは違う。
俺は王太子ではない。
ティアも王太子妃ではない。
前世から続く長い時間を共有してきた、ただの2人として話せる。
それだけが、今の俺たちに残された小さな自由だった。
「今日はもう寝ようか」
ティアが言った。
「ああ」
「明日になったら、また色々あるけど」
「分かってる」
「でも、今夜は考えすぎない」
「……努力する」
ティアが少し笑った。
「そこは『分かった』って言ってよ」
「分かったよ」
俺も笑う。
ほんの少しだけ。
問題が解決したわけではない。
第二妃の話も、王家の血統問題も、これから正式な議題になるかもしれない。
その時になれば、また苦しむことになるだろう。
それでも今夜だけは、互いに本音を話すことができた。
王族としての人生の中で、誰にも邪魔されず、自分の気持ちを言葉にできる場所。
それが、この小さな寝室だった。
俺はその静かな空間の中で、ようやく目を閉じた。
明日になれば、また王太子として生きなければならない。
けれど、今夜だけは。
俺はただ、ティアと一緒にいられれば、それでよかった。




