第46話 権力闘争の天才
第45話に不自然な点があったので訂正しました。
その日の協議が終わりかけた頃、アトラシート伯爵が最後に一枚の資料を取り出した。
「もう一つ、亡命政府について重要な点があります」
父上が顔を上げる。
「元老院議員についてか?」
「はい」
伯爵は頷いた。
「現在、亡命政府には旧元老院派の元老院議員が十名参加しております」
俺は先ほど聞いた数字を思い出した。
「粛清を逃れた十人、でしたよね」
「その通りです」
伯爵は資料へ目を落としながら続ける。
「ただし、この十人については、単純に『元老院の残党』と考えない方がよいでしょう」
「どういう意味です?」
ティアが尋ねる。
アトラシート伯爵は、一瞬だけ言葉を選んだ。
「帝国元老院議員は、帝国内で『権力闘争の天才』と呼ばれることがあります」
「……天才?」
俺が思わず聞き返した。
「はい」
伯爵が頷く。
「元老院では、皇帝の政策を巡る議論だけが行われていたわけではありません。構成国同士の利害調整、予算の配分、軍の配置、外交政策、皇帝との関係、そして次の皇帝選出まで、あらゆる問題が政治的な駆け引きの対象でした」
俺は黙って聞いていた。
「一人の議員が単独で権力を持っていたわけではありません。複数の構成国をまとめ、派閥を形成し、反対派の一部を取り込み、時には表向き敵対している者とも裏で協力する。そうして初めて、自分たちの政策を通すことができる」
「つまり……」
俺は資料を見る。
「戦場で敵と戦うのとは別の意味で、常に戦っていたわけか」
「その表現が最も近いでしょう」
伯爵が答えた。
「帝国元老院では、議論に勝つだけでは足りません。誰が味方なのか、誰が中立なのか、誰がいつ裏切るのかを見極めなければならない。そして、自分の派閥が不利になった時には、別の勢力と手を組んで形勢を逆転させる」
父上が静かに口を開いた。
「だから、五百年以上も帝国が続いたのかもしれんな」
「はい」
伯爵は頷いた。
「もちろん、その政治体制には問題もありました。しかし、あれほど広大な帝国を、単に武力だけで維持することはできません。元老院議員たちは五百年にわたって、帝国の内部にある無数の利害を調整してきたのです」
俺は少し考える。
十人。
それだけ聞けば、少ないように思える。
だが、実際には違う。
その十人の背後には、かつて帝国元老院で築き上げた人脈と政治的経験がある。
旧元老院派の貴族。
構成国の政治家。
地方の有力者。
商人。
官僚。
そして、帝国の政治制度そのものに対する知識。
「つまり、十人だからといって小さな勢力とは言えない?」
「その通りです」
伯爵が即答した。
「むしろ、亡命政府の中では非常に危険な存在になり得ます」
「危険?」
「敵として見れば、という意味です」
伯爵は続けた。
「軍人ならば戦場で警戒できます。しかし、元老院議員は戦わずに状況を変えることができる。誰かを説得し、別の誰かと交渉し、第三の人物に利益を提示する。それだけで政治的な勢力図を変えてしまう」
俺は思わず苦笑した。
「……それは、確かに厄介だな」
「亡命政府は旧ウェトゥス派と旧元老院派が協力していると言いましたね」
ティアが言う。
「はい」
「本来は敵だった二つの勢力が、どうしてそこまで協力できるんでしょう?」
アトラシート伯爵が答える。
「そこにも元老院議員たちの力があると考えられます」
「なるほど」
「旧ウェトゥス派には王族と貴族がいる。旧元老院派には政治家と官僚がいる。それぞれだけなら利害がぶつかります。しかし、元老院議員たちは、そもそも異なる勢力の利害を調整することを職業にしていた」
伯爵は資料を閉じた。
「彼らにとって、旧ウェトゥス派と旧元老院派が協力すること自体が、政治交渉の一つなのです」
俺はその言葉に、妙な納得を覚えた。
ヴェリュグ・レクス・ウェトゥスが亡命政府の首班。
旧ウェトゥス派の貴族が約二十名。
旧元老院派の貴族が約三十名。
そして、元老院議員十名。
さらに、旧ウェトゥス派と旧元老院派から合わせて百三十名ほどの司令官経験者。
それぞれの勢力が、本来なら簡単には一つになれない。
それでも一つになっている。
その裏側には、長年にわたって権力闘争を経験してきた政治家たちがいる。
「だから亡命政府は、思っていたよりもまとまっているのか」
俺が言う。
「恐らくは」
伯爵が答える。
「少なくとも、今のところは『ホスティス皇帝に対抗する』という一点で利害が一致しています」
父上が資料へ目を向ける。
「だが、問題はホスティスを倒した後だな」
「はい」
伯爵が答える。
俺も同じことを考えていた。
今は共通の敵がいる。
だから一つになっている。
しかし、その敵がいなくなれば、旧ウェトゥス派と旧元老院派の間にある本来の対立が再び表面化する可能性がある。
特に、元老院議員たちが権力闘争の天才だというのなら、彼らが何も考えずにヴェリュグを支えているとは考えにくい。
「亡命政府の中で、権力争いが起きる可能性もあるわけですね」
「十分にあります」
アトラシート伯爵が頷いた。
「ですが、それを表面化させずに一つの政府として機能させていること自体、彼らの能力の高さを示しています」
俺は考え込んだ。
軍人なら、戦場で強いか弱いかが分かる。
だが政治家は違う。
表情を変えずに交渉し、譲歩したように見せながら別の利益を得ることもできる。
味方だと思っていた人物を、自分の側へ引き込むこともできる。
敵対しているように見えて、実は同じ目的を共有している場合もある。
そういう世界で何十年も生き残ってきた人間が、十人もいる。
「……会う時は気をつけないとな」
俺が呟く。
ティアがこちらを見る。
「どうして?」
「戦争の話なら、敵がどこにいるか分かる。でも政治では違う」
俺は資料を閉じた。
「目の前で笑っている人間が、次の瞬間には別の勢力と手を組んでるかもしれない」
アトラシート伯爵が小さく笑った。
「殿下。その感覚は間違っていないと思います」
「そうなのか?」
「帝国元老院では、それが日常でしたから」
その言葉に、俺は少しだけ背筋を正した。
アエテリア帝国亡命政府。
二万一千人の軍。
旧王族。
五十名ほどの貴族。
百三十名ほどの元司令官。
十名の元老院議員。
そして、元老院書記ルージュイブ・デイ・ドーグレイア。
その全てが、ホスティス皇帝に対抗するために一つになっている。
その中でも元老院議員十名は、単なる政治家ではない。
帝国という巨大な国家の中で、五百年以上も続いた権力闘争を生き抜いてきた者たち。
そして今、彼らは帝国の外へ出て、新しい政治環境の中で再び戦おうとしている。
「亡命政府との交渉は、軍事力だけを見て判断しない方がいいですね」
俺が言う。
「はい」
アトラシート伯爵が答えた。
「二万一千人の軍だけではなく、その後ろにいる政治家たちこそ、我々が最も警戒すべき部分かもしれません」
俺はもう一度、書状へ目を向けた。
亡命政府は援軍を申し出た。
その代わりに占領地と大陸西部三国同盟への加盟を求めている。
単純な取引に見える。
しかし、これを提案している人間の中には、帝国元老院で何十年も権力闘争を続けてきた者たちがいる。
ならば、この要求もまた――。
ただの軍事的な取引ではないのかもしれない。
俺はそう考えながら、静かに資料を閉じた。




