第8話 「戦火」
「着きましたよ」
御者の声とともに、馬車の扉が開いた。
――ルミナス渓谷。
俺たちは順に馬車を降りる。
その瞬間だった。
ぞくり、と背筋を撫でるような感覚が走る。
……魔力だ。
それも、ただの魔力じゃない。
重く、淀み、底知れない圧を孕んだ気配。
間違いない。
この渓谷のどこかに――異形の者がいる。
だが、この魔力を感じ取ったのは……俺だけなのだろうか。
ふと周囲を見回すが、シュプリムもリアも、特に変わった様子はない。
ギアに至っては、いつもの無表情のままだ。
俺は胸の奥に湧き上がる違和感を押し込み、前へと視線を戻した。
目の前には、ルミナス渓谷が広がっている。
巨大な岩壁が幾重にも連なり、細く曲がりくねった谷が奥へ奥へと続いていた。
空は狭く切り取られ、差し込む光も弱い。
湿った空気が、肌にまとわりつく。
どこか――生き物の巣穴にでも入り込んだような、不快な感覚だった。
馬車と御者をその場に残し、俺たち四人は渓谷の奥へと足を踏み入れる。
そして、数分も進まないうちに悟った。
――やはりここは、無法地帯だ。
岩陰。
崖の上。
草むらの奥。
至るところに、魔獣の気配が潜んでいる。
視線を向けるまでもない。
殺気のようなものが、あちこちから突き刺さってくる。
やがて――
俺たちは、魔獣の群れと対峙した。
木々の合間から現れた影は、一つや二つではない。
C級魔獣。
ハウンドドッグ。
スケルトンソルジャー。
ブラッドバット。
B級魔獣。
ロックウルフ。
ガーゴイル。
ヴェノムサーペント。
ざっと見ただけでも、相当数いる。
普通の冒険者なら、この時点で撤退を選ぶだろう。
それほどの規模だった。
だが――
この程度の魔獣で、Aクラスの魔術師達が臆するはずもない。
「俺に任せろ」
鼻を鳴らしながら前に出たのは、シュプリムだった。
軽く首を鳴らし、槍を握った右手を掲げる。
その瞬間、空気が唸った。
周囲の風が、一点へと収束していく。
見えない手に掴まれたかのように、風が渦を巻く。
そして――
その中心に、炎が生まれた。
風と炎。
二つの魔力が、無理やり一つに編み込まれていく。
本来なら反発し合うはずの魔力を、力づくで束ねているのだ。
これが――複合魔法。
シュプリムは槍を突き出した。
「吹き飛べ――《フレイムテンペスト》!!」
次の瞬間。
爆風が解き放たれた。
炎を孕んだ暴風が、一直線に魔獣の群れへ突き刺さる。
轟音。
風が炎を煽り、火の嵐となって広がった。
ハウンドドッグが吹き飛び、スケルトンソルジャーの骨が砕け散る。
空を飛んでいたブラッドバットは、炎に呑まれて黒い灰となった。
……凄まじい。
さすがAクラスだ。
複合魔法という高度な魔術を、いとも簡単に操っている。
もし――
俺と対峙したあの時、この魔法を使われていたら。
おそらく、勝負は一瞬で決まっていただろう。
轟音とともに魔獣が次々と吹き飛び、炎は群れ全体へと拡散していく。
焼ける匂いと、断末魔の悲鳴。
それが、渓谷の空気を満たしていた。
「まだ残ってる」
リアが静かに言った。
炎に焼かれ、吹き飛ばされた魔獣の群れの奥。
まだ数体、動いている影があった。
リアは一歩前に出る。
そして、両手を胸の前で静かに合わせた。
その瞬間――
空気が、すっと冷えた。
温度が一気に下がる。
周囲に漂っていた水分が、目に見えるほど濃くなり、ゆっくりと彼女の周囲へ集まり始めた。
水滴が浮かび上がる。
それらは次第に形を変え――透明な刃へと結晶化していく。
無数の氷。
鋭利な槍の群れ。
リアは静かに杖を掲げ、魔獣たちへと向けた。
「――凍れ。《アクアフロスト》」
次の瞬間。
氷刃が、空から降り注いだ。
水と氷の複合魔法。
雨のように降る氷槍が、魔獣たちを次々と貫いていく。
地面に突き刺さる氷。
砕け散る骨。
ガーゴイルの石の体が砕け、ヴェノムサーペントが地面に叩きつけられる。
戦闘は、わずか数秒で終わった。
周囲の魔獣の気配が消え、静寂が戻る。
「……」
俺は、ただその光景を呆然と見つめていた。
Aクラス魔術師。
その実力は、これまで何度も噂で聞いてきた。
だが――
実際に戦闘を目の当たりにするのは、これが初めてだった。
圧倒的。
火力。
制圧力。
そして、判断速度。
そのすべてが、俺とは桁違いだった。
ふと、視線を横へ向ける。
ギアはというと、戦闘のあいだずっと後方に立ったままだった。
腕を組み、ただ静かに戦場を見ている。
まるで――
この程度の戦闘など、最初から興味がないかのように。
そのギアが、短く口を開いた。
「まだいる。右後方。ロックウルフ三体、左にガーゴイル」
簡潔な指示だった。
だが、それだけで十分だった。
「了解」
リアが即座に動く。
足元に魔法陣が浮かび、氷刃が放たれる。
ロックウルフは抵抗する暇もなく、次々と地面に倒れ伏した。
「ガーゴイルは俺がやる」
シュプリムが風を纏って跳び出す。
身体が一瞬で加速し、岩壁を蹴って宙へ。
次の瞬間、槍が閃いた。
ガーゴイルの胸を、一直線に貫く。
重い石の体が崩れ落ちた。
ギアは――
一歩も動かない。
それでも、戦場は完全に統制されていた。
すべてが、ギアの掌の上で進んでいる。
……俺も、何かしなければ。
そう思った、その時だった。
ズシン。
地面が震えた。
ズシン。
もう一度。
その重い振動に、背筋が凍る。
この足音――
忘れるはずがない。
木々の奥から、巨影が姿を現した。
岩でできた巨体。
鈍重な歩み。
だが、一歩踏み出すだけで大地が軋むほどの重量。
ロックゴーレム。
「A級か……」
シュプリムが低く呟く。
間違いない。
先日、俺が命がけで倒した魔獣と同種だ。
ズシン。
ロックゴーレムがこちらへ歩み寄る。
「リア、合わせろ!」
シュプリムが叫ぶ。
「うん!」
シュプリムの足元から風が唸る。
炎が渦を巻いた。
リアの魔法陣から、巨大な氷槍が生成される。
「行くぞ!」
炎嵐と氷槍が、同時に放たれた。
轟音。
爆炎。
氷の破砕音。
だが――
煙が晴れたとき。
そこに立っていたのは。
ほぼ無傷のロックゴーレムだった。
「……チッ」
シュプリムが舌打ちする。
やはりA級魔獣。
Aクラス魔術師の攻撃でも、決定打にはならない。
ズシン。
ロックゴーレムが腕を振り上げる。
……まずい。
俺は反射的に身構えた。
その時だった。
「離れていろ」
低い声が響いた。
声の主は――ギア・ファントム。
ただ、それだけの短い言葉。
それだけなのに。
俺たちは反射的に距離を取っていた。
理由など考えるまでもない。
体が、勝手に従っていた。
ギアが前へ出る。
静かに。
ゆっくりと。
そして、右手を前へ突き出した。
詠唱はない。
だが――
空気が変わった。
周囲の空気が張り詰め、重く沈む。
見えない力が空間を押し潰すかのように、魔力が一点へと収束していく。
次の瞬間。
ギアが、わずかに口を開いた。
「――《雷光》」
閃光。
ただ一筋の光だった。
だが、その光は雷を纏い音速で空間を貫いた。
光と雷の複合魔法。
一瞬の出来事だった。
光の線は、ロックゴーレムの胸部――
弱点であるコアを、寸分違わず撃ち抜いていた。
一瞬の沈黙。
そして。
ゴゴゴゴ……
巨体が揺れる。
岩でできた体が軋み、亀裂が走る。
やがて。
崩れた。
岩の体が音を立てて崩落していく。
ロックゴーレムは――
たった一撃で沈黙した。
「……」
言葉が出ない。
あれほど苦戦した魔獣が――
まるで雑魚のように倒された。
「……これが、S級魔術師」
信じられない光景に、思わず呟く。
「まじかよ……」
シュプリムも、呆然とした声を漏らした。
どうやら同じ思いだったらしい。
隣では、リアも目を見開いたまま固まっている。
それも無理はない。
そもそも、光魔法を扱える魔術師自体が極めて稀だ。
光と闇の魔術師は、他の属性を遥かに凌ぐと言われている。
その使い手は、どの国でも重宝される存在だ。
それなのに――
光魔法どころか、雷との複合魔法。
しかも、詠唱なし。
それを、あまりにもあっさりと使役した。
次元が違う。
俺は改めて思い知らされた。
S級魔術師――ギア・ファントム。
その力は。
俺たちが知っている魔術の枠組みを、明らかに超えていた。
周囲の魔獣の気配は、完全に消えていた。
静寂。
つい先ほどまで戦闘があったとは思えないほど、渓谷は静まり返っている。
だが――
肝心の存在が見当たらない。
呪われし魔術師。
そして、ロアノアールの精鋭。
どちらの気配もない。
残された可能性は一つだけだった。
この渓谷の最奥――
ルミエール村。
そこを調査するしかない。
俺たちは互いに目配せを交わし、渓谷の奥へと歩みを進めようとした。
その時だった。
「た、大変です! みなさん!!」
慌てた声が、背後から響く。
振り返ると、御者が渓谷の入口からこちらへ駆けてきていた。
顔を真っ青にし、息を切らしている。
「ギア様宛に……伝書鳩から、このような手紙が……!」
差し出されたのは、一通の封書。
魔道手紙。
伝書鳩によって運ばれる、緊急連絡用の術式が施された手紙だ。
重大な事態が起きたときにしか使われない。
息を切らしながら届けられたそれを、ギアが静かに受け取る。
表情は変わらない。
淡々と封を切り、中身を確認し――
そのまま読み上げた。
「エルブランシュがロアノアールの精鋭部隊に襲撃された。至急、戻られたし」
一瞬、思考が止まった。
……どういうことだ?
ロアノアールの精鋭部隊?
それは――
ここ、ルミナス渓谷に潜んでいるはずじゃなかったのか。
まさか。
これは――陽動か?
いや……だが。
確かに、この奥から異様な魔力を感じている。
その時だった。
遠く、渓谷の奥。
ルミエール村の方向から――
火の手が上がった。
赤い炎が、空へと立ち昇る。
次の瞬間。
悲鳴が聞こえた。
村人らしき人々の叫び声が、渓谷に反響する。
……間違いない。
炎の魔術師の仕業だ。
状況が一気に混乱する。
エルブランシュ襲撃の報。
そして、ルミエール村の炎。
困惑する俺たちをよそに、ギアは静かに口を開いた。
「至急、エルブランシュに帰還する」
短く、迷いのない判断。
そして続ける。
「シュプリムとルロイはここに残り、炎の魔術師を制圧せよ」
「リアは私と共に来い」
……なぜだ?
胸の奥に、小さな疑問が浮かぶ。
昨晩の出来事が、関係しているのだろうか。
リアの様子が、どこかいつもと違う。
何かを決めたような、そんな空気を感じる。
だが――理由がわからない。
疑問が胸に広がった、その瞬間だった。
リアが、ゆっくりと顔を上げた。
そして。
まっすぐに――ギアを見つめた。
「いやです」
はっきりと、言い切った。
「ルロイが残るなら、私も残ります」
空気が凍りつく。
それは明確な命令拒否だった。
任務中における上官への反抗。
本来なら、許される行為ではない。
「お、おいリア……」
思わず口を挟もうとする。
だが。
リアの横顔を見た瞬間、言葉が止まった。
その瞳には、決して意思を曲げない強い光が宿っていた。
沈黙。
一瞬だけ。
ギアの表情が、わずかに揺らいだ。
だが、それもほんの刹那。
すぐにいつもの無表情へと戻る。
「……わかった」
静かな声だった。
「エルブランシュには、私一人で帰還する」
そして、俺たちへ視線を向ける。
「お前たちは炎の魔術師を制圧しろ」
「エルブランシュへの侵入を、絶対に許すな」
「はっ!」
俺たちは同時に返事をした。
ギアはそれ以上何も言わず、踵を返す。
御者と共に馬車へ戻り、そのままエルブランシュへ向けて出発していった。
残された俺たちは。
燃え上がる炎を見据える。
ルミエール村。
俺たちは、互いに頷き合い――
その炎の中へと、走り出した。
炎の手は、すでにルミエールの入口付近にまで広がっていた。




