第7話 「葛藤と温もり」
それから丸一日。
馬車は夜の帳を切り裂くように走り続け――
予定より約半日早く、アルティアへ到着した。
逞しい馬と、ほとんど休まぬ御者のおかげだろう。
時刻は、夜中の十二時。
街は静まり返っていた。
門番の兵士たちが、眠気を押し殺しながらも緊張した面持ちで立っている。
松明の炎が、石壁に揺れる影を映していた。
夜のアルティアは、どことなく不気味だった。
広いはずの大通りに人影はなく、
遠くで風が建物の隙間を鳴らしている。
焦げた匂いが、まだ微かに残っていた。
到着するや否や、ギアが淡々と告げる。
「ギルドへ向かう」
「……今からですか?」
思わず口をついて出た。
夜中だ。
普通なら明朝でも遅くはないはずだ。
だがギアは一瞥もせず、短く答える。
「時間が惜しい」
それだけ。
反論の余地はない。
俺たちは荷を担ぎ直し、そのまま街の中心部へ向かった。
アルティア冒険者ギルドは、石造りの大きな建物だった。
さすがエルブランシュ領第二の都市というべき規模だ。
深夜にもかかわらず、内部には明かりが灯っている。
扉を開けると、奥から凄まじい勢いで一人の男が現れた。
「お待ちしておりました!」
白髪混じりの壮年の男――ギルド長だろう。
目を見開き、ほとんど駆け寄るようにしてくる。
流石はS級魔術師。
待遇も、反応も、すべてがS級だ。
ギアは軽く頷くだけ。
余計な挨拶もない。
そして、俺たちに視線を向けた。
「状況をギルド長と共有する。お前たちは宿に向かえ」
淡々とした命令。
正直、少し安堵した。
長旅の疲れが、じわりと身体に溜まっている。
だが。
ギアは一拍置いた。
わずかに、空気が止まる。
「いや――レーヌは残ってくれ」
「……了解しました」
リアが静かに応じる。
俺は違和感を覚えた。
なぜリアだけを?
問いかける前に、ギアはすでにギルド長と奥へ歩き出している。
話しかける隙はない。
俺は軽く頭を下げる。
「失礼します」
ギルド長も慌てて会釈を返した。
外へ出ると、夜気が肌を刺す。
俺は思わず、ギルドの建物を振り返った。
二階の窓には、まだ明かりが灯っている。
その向こうで、何が語られているのか。
リアに、何が残されたのか。
胸の奥に、わずかなざわめきが生まれる。
だが今は、命令通り宿へ向かうしかない。
石畳を踏みしめながら、俺は思った。
この街は――眠っていない。
夜の静寂の下で、何かが確実に動いている。
次の日の明朝。
まだ空気に夜の冷たさが残る中、俺たちは宿の一階に呼び出された。
ギアからの伝達は、たった一言だけ。
――「下に来い」。
何が語られるのか。
胸の奥に、一抹の不安が走る。
鼓動が、どくりと強く打った。
部屋を出てすぐ、リアと鉢合わせた。
廊下の向こうから歩いてきた彼女は、俺の姿を見ると一瞬だけ足を止めた。
そして――
何かを言おうとしたように、わずかに口を開く。
だが、その言葉は結局、形になることはなかった。
リアはすぐに口を閉じ、いつもの落ち着いた表情に戻る。
「……おはよう」
軽く朝の挨拶を交わすだけだった。
それだけ。
リアは、いつもそうだ。
肝心なことは何も言わない。
何かを抱えていても、決して口に出さず――
すべてを自分の心の中に背負い込んでしまう。
そんな彼女の姿を見るたびに、どこか歯がゆい気持ちになる。
だが。
俺には、どうすることもできなかった。
無理に聞き出すことも、踏み込むこともできない。
結局――
俺にできるのは、彼女が自分から口を開くのを待つことだけだった。
宿の食堂は貸し切られていた。
窓から差し込む朝の光が、長机を淡く照らしている。
その中央に、ギアが立っていた。
白銀の髪は整えられ、瞳はいつも通り冷たい。
「炎の魔術師とロアノアールの精鋭部隊についてだが」
その一言で、室内の空気が一瞬にして凍りつく。
誰も口を開かない。
椅子の軋む音すら響かない。
重たい沈黙の中、ギアは地図の一点を指で叩く。
「ここ、アルティア近辺のルミナス渓谷にて、その存在を見た者がいるとの事だ」
ルミナス渓谷。
街の北西に広がる、広大な断崖地帯だ。
国境沿いという立地もあって、警備は薄い。
街道の整備もほとんど行き届いておらず、人の手が入らないまま放置された場所でもある。
その結果――
この渓谷は、いつしか危険地帯として知られるようになった。
C級やB級の魔獣が、うじゃうじゃと巣食っている。
並の冒険者なら、足を踏み入れることすら躊躇う場所だ。
さらに厄介なのは、地形だった。
ルミナス渓谷は、複雑に入り組んだ構造をしている。
幾重にも重なる岩壁。
迷路のように伸びる細い道。
高くそびえる岩壁が視界を遮り、少し先の様子すらまともに見通せない。
そして――その最奥。
渓谷の奥深くには、ひっそりと小さな集落が存在している。
ルミエール村。
住民は百人にも満たない、辺境の小村だ。
この地形は、ロアノアールにとってあまりにも都合がよすぎる。
入り組んだ渓谷。
限られた視界。
身を隠す場所に困らない岩場。
奇襲にも。
潜伏にも。
これ以上ないほど適した環境だった。
もし――
ロアノアールの精鋭が動くとすれば。
ここ以上に、ふさわしい場所はない。
ギアは続ける。
「目撃者はアルティアの衛兵だ。異形の姿を纏った人間と、数名の武装した者がいたと証言している。
エルブランシュの情報と照らし合わせると、限りなく信憑性が高いだろう」
ギアの言葉が、静かに落ちる。
室内に、重い沈黙が満ちた。
異形。
それは紛れもなく――
呪われし魔術師のことだろう。
エルブランシュが密かに収集してきた情報。
呪われし魔術師が暴走すると、一体どうなるのか。
理性は残るのか。
感情は消えるのか。
それとも、怒りや絶望だけが増幅され、
人の形を保ったまま、中身だけが壊れていくのか。
兵器として扱われるだけの存在に成り果てるのか。
命令され、使い潰され、利用されるだけの――“道具”に。
俺の喉が、ひどく乾いた。
そして思考は、どうしてもそこへ辿り着く。
――俺は。
俺も、呪われし者だとしたら。
同じように、異形の姿になってしまうのか。
皮膚が裂け、魔力が噴き出し、
理性を失い、目の前のすべてを敵と認識する怪物に。
その時、俺の中の“俺”は、どこにいる?
消えてしまうのか。
それとも、檻の内側から叫び続けるのか。
俺は、微かに体が震えるのを感じた。
――その時だった。
隣にいたリアが、そっと俺の手を握ってきた。
「大丈夫だよ」
小さく、けれど迷いのない声。
「ルロイは――私が守るから」
柔らかく優しい響きだった。
まるで俺の胸の内をすべて見透かしているかのような、静かな声色。
ここにいる三人は、きっと理解している。
俺が――これから対峙するかもしれない“呪われし魔術師”と、同じ力を持っている可能性があることを。
もし異形の者が本当に呪われし魔術師なら、
おそらく扱えるのは炎の魔法だけだろう。
それは、水の魔術を得意とするリアにとって、相性のいい相手だ。
だが――
きっと、それだけではない。
リアは、いつもの優しい笑顔で俺をまっすぐ見つめている。
俺は、ほんのわずかに息を吐いた。
震えていた指先が、
リアの温もりの中で、ゆっくりと落ち着いていくのを感じながら。
アルティアを発って、俺たちは馬車でルミナス渓谷へ向かった。
到着までは、せいぜい数十分。
だが、その短い道のりが妙に長く感じられた。
馬車の中には、これまで以上に重い静寂が満ちていた。
誰も口を開かない。
車輪が石を踏む鈍い音と、馬の蹄が地面を叩く規則的な響きだけが、単調に続いている。
その音だけが、やけに耳についた。
やがて――
その沈黙に耐えきれなくなったのか、シュプリムがぽつりと口を開いた。
「呪われし魔術師……か」
どこか乾いた声だった。
「これから、お伽話みたいな存在と本気で相対するなんてな。正直、まだ実感が湧かない」
そう言って、軽く肩をすくめる。
「まぁ……こちら側にも、S級魔術師様に呪われたヤツがいるわけだが」
誰に向けた言葉でもない。
独り言のように、ぽつりと零された一言。
シュプリムもまた、不安なのだろう。
これから何が起こるのか、誰にも分からない。
だからこそ、ああして軽口に変えて吐き出したのだ。
だが――
誰も、その言葉に反応しなかった。
否定も。
同意もない。
ただ沈黙だけが、再び馬車の中を満たしていく。
重苦しい空気のまま、しばらく時が流れ――
やがて馬車はゆっくりと速度を落とし、静かに停まった。




