第6話 「ルクシルの空」
明朝六時。
まだ陽は低く、空は淡い群青色をしていた。
寮の廊下は静まり返り、足音だけがやけに響く。
俺は簡単に旅支度をすませた。
アルティアまでは、馬車で丸二日。
その間の食料と刀、それだけあれば十分だ。
――無駄なものは持つな。
ギアの言葉が、頭の奥に残っている。
準備を終えると、腹ごなしに食堂へ向かうことにした。
幸いにもこの食堂は朝六時から開いている。
労基は大丈夫なのだろうか……。
そんな場違いな心配が、ふっと心に灯る。
緊張している証拠だろうか。
食堂の扉を開けると、焼きたてのパンの匂いが鼻をくすぐった。
その瞬間。
「おっ。きたきた。聞いたぜーお前!任務だってな!」
明るく、悩みの一切ない声。
視線の先には、いつものように笑顔のヴァンがいた。
……極秘任務だったはずだが。
一体どこで聞いたのだろう。
やはりここの噂話は馬鹿にできない。
とはいえ、Sクラスの名を口にしないところを見ると、
そこまでは漏れていないらしい。
もしそこまで知られていたら、ただ事では済まないだろうが。
「あーあ。お前も遂にBクラスになるのかね。寂しくなるなぁ」
ヴァンはわざとらしく肩をすくめながらも、声はどこか誇らしげだった。
周囲に聞こえるように、少し大きめの声で言う。
俺を持ち上げているつもりなのだろう。
「そんなんじゃない。ただの魔獣退治だよ」
できるだけ平然と返す。
だがヴァンはにやりと笑った。
「それでも上に認められたって事じゃん。Aクラスも倒したし」
痛いところを突く。
「いいなぁ。俺もリアちゃんと一緒に旅してー」
……こいつは本当にブレない。
思わず小さくため息が漏れる。
しばらく軽口を叩いたあと、ヴァンはふっと真顔になった。
「気をつけていけよ」
その一言。
さっきまでの軽さが、嘘みたいに消えていた。
きっと、それを言いたかったのだろう。
任務の詳細までは知らないはずだ。
だが、ただの魔獣狩りではないことくらいは、勘づいているのかもしれない。
腐れ縁と呼ぶには浅い。
親友と呼ぶには、まだ距離がある。
それでも――
その心遣いが、少しだけ胸に沁みた。
俺は目を逸らすようにしながら、
「……ああ」
と短く答えた。
照れ臭い。
ヴァンは満足げに笑い、俺はそそくさと席に着く。
焼きたてのパンをかじる。
外はさくりと軽く、中はまだ温かい。
いつも通りの味。
いつも通りの朝。
だが、胸の奥に沈んだ重みだけが違っていた。
今日の任務からは、いつも通りとはいかないだろう。
いつものサボリ場がふっと脳裏に宿る。
あそこに行く事も無くなるだろうか。
皿を下げ、食堂を出る。
七時丁度。
待ち合わせ場所に着いた頃には、空はすっかり朝の色に染まっていた。
極秘任務とあって、人通りのない裏門近く。
普段は物資搬入口として使われる静かな区画だ。
そこに停まっていたのは、見るからに高級な馬車だった。
黒塗りの車体に、金の装飾。
王家の紋章は入っていないが、明らかに貴族御用達の代物だ。
馬は二頭。
筋肉質で、毛並みも艶やか。
蹄が石畳を軽く打つたび、力強さが伝わってくる。
……この馬なら、二日かかる道のりも短縮できるかもしれないな。
御者に軽く会釈する。
向こうも無言で頷き返した。
無駄な会話はない。
俺は荷袋を抱え、馬車に乗り込む。
中は思った以上に広く、揺れを抑える魔導装置まで備えられていた。
既に、三人が座っている。
「おはよ、ルロイ!」
リアが満面の笑みを向けてくる。
その明るさだけが、車内の空気を和らげていた。
対照的に、シュプリムは腕を組み、やや不機嫌そうな顔をしている。
まるで「待たせるな」と言いたげだ。
……七時丁度だぞ。
そう言い返したくなるが、口には出さない。
そして、その横。
ギア・ファントム。
白銀の長髪を肩に流し、背筋を伸ばして座っている。
その瞳は、氷のように冷たい。
窓の外を見ているようで、何も見ていないようでもある。
感情の気配が、まるでない。
この男は何を考えているのか。
なぜこの任務に就いているのか。
Sクラスが直々に出るほどの事態なのか。
想像すらできない。
扉が閉まる。
重い音が、やけに響いた。
次の瞬間、馬車がゆっくりと動き出す。
石畳を踏む規則正しい振動。
学院の門が、後ろへと遠ざかっていく。
日常が、少しずつ小さくなる。
リアは楽しげに外を眺めている。
流れていく街並みを目で追い、
遠ざかる王都に小さく手を振った。
まるで本当に旅行にでも行くかのような無邪気さだ。
シュプリムは腕を組み、目を閉じている。
眠っているわけではない。
そしてギアも同様に、微動だにしない。
俺は、自分の手を見る。
震えはない。
だが、心は静かに高鳴っている。
アルティア。
災厄の兆し。
呪われし炎の魔術師。
この旅の終わりに、何が待っているのか。
馬車は速度を上げる。
朝の光の中、俺たちは王都を離れた。
アルティアへ向かう道中、小さな村がある。
ルクシル――
そう呼ばれるその村は、街道脇にひっそりと広がっていた。
土壁の家屋。
ところどころ崩れた柵。
痩せた畑。
とてもエルブランシュ領内とは思えないほど、貧しい。
馬車を止め、小休止を取ることになった。
御者が馬に水をやる間、俺とリアは村の中を歩く。
特産だという、赤く小ぶりな果実が籠に盛られていた。
リンゴに似ているが、皮は少し硬く、甘みよりも酸味が強いらしい。
値段は安い。
それでも、村人にとっては大事な収入源だ。
「ねー。ルロイ。覚えてる?」
リアが、果実を手に取りながら笑う。
「何を?」
俺が聞き返すと、彼女は少し目を細めた。
「孤児院にいた時に、ルロイがこっそり私に食事を多めに渡してたの」
ああ。
そんなこともあった。
「あの時は、食料が少なすぎて、毎日お腹がすいてて」
「お前の口癖、“お腹すいたー”だったもんな」
「もー! 言わないでよ! 育ち盛りだったんだから」
笑いながら怒るリア。
その顔を見て、俺もつられて笑った。
俺たちは、この村よりもさらに荒れたスラム街の孤児院出身だ。
雨漏りする屋根。
足りない食料。
冬の冷たい床。
それでも、生きてきた。
あの頃のリアは、いつもお腹を空かせていた。
だから俺は、自分の分を半分こっそり渡していた。
気づかれないように。
格好つけないように。
おかげで俺は、他の子どもよりも痩せこけていたらしい。
……今思えば、ただの意地だ。
だが、あの頃から俺は。
きっと、リアのことが気になって仕方なかったのだろう。
いつからだろう。
ただの幼なじみと認識しなくなったのは。
リアが攫われたあの日。
あの時、胸の奥で何かが弾けたのを覚えている。
理性も何もかも吹き飛び、
ただ、リアを取り戻すことだけを考えていた。
あれが、俺の魔法が初めて暴れた瞬間だった。
そして、
リアに類まれなる魔法の才があると判明し、
エルブランシュ学院への入学が決まった時。
俺は、惨めだった。
祝福すべきなのに。
嬉しいはずなのに。
取り残される恐怖の方が、強かった。
他の子どもの面倒を見なければならない年齢だったのに。
俺は孤児院の院長に懇願した。
自分もリアに着いていきたい。
「お前には無理だ」
そう院長に突っぱねられても、食い下がった。
才能がないと言われても。
向いていないと言われても。
絶対に、離れたくなかった。
あの時の自分は、きっと情けなかっただろう。
だが、それでもよかった。
「……ありがとね、あの時」
リアがぽつりと呟く。
「窃盗団から守ってくれて」
風が、果実の香りを運ぶ。
俺は視線を逸らした。
「危険な目にあわせただけだろ。俺は何もしていない」
リアは首を横に振った。
「それでも、ずっと隣にいてくれたよ」
まっすぐな言葉。
逃げ場がない。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
ルクシルの空は、どこまでも青い。
貧しい村。
だが、どこか懐かしい匂いがする。
俺たちは、あそこからここまで来た。
そして今、アルティアへ向かっている。
災厄の兆し。
呪われし炎の魔術師。
過去も、現在も、未来も。
すべてが一本の線で繋がっている気がした。
「行こうか」
俺は小さく言う。
リアは「はーい」といつもの調子で返す。
馬車へ戻る道すがら、俺は思う。
あの頃、離れたくなくて必死だった自分を。
今は少しだけ、誇れる気がした。




