第5話「ギア・ファントム 」
俺たちはゆっくりと立ち上がり、椅子へと腰を下ろした。
だが、先ほどとは違う。
今この場は、学院長に呼ばれた応接室ではない。
王の御前だ。
空気の重みが、まるで別物に変わっていた。
王はゆっくりと歩みを進め、第三応接室で最も格式の高い椅子へと腰を下ろした。
重厚な肘掛けに白い指がかかる。
その瞬間、この部屋の主が誰であるかが、否応なく示される。
やがて王は、静かに口を開いた。
「西の王都ロアノアールから炎の呪われし魔術師が顕現し、その力が暴走した」
低く、重い声。
その一言が、空気を凍らせる。
東の王都エルブランシュ。
西の王都ロアノアール。
両王都を擁するこの大陸――ルクス=テネブラ。
古より強大な魔法学院を二つ抱えることから、
ルクス=テネブラは“魔法大陸”と呼ばれてきた。
この二都は、ただの都市ではない。
それぞれが大陸最高峰と謳われる名門魔法学院を擁する、覇権の象徴だ。
学院は学び舎であると同時に、戦力の源泉でもある。
優秀な一人の存在が、戦局を変える。
革新的な一つの理論が、勢力図を塗り替える。
だからこそ両都は、血眼になって競い合う。
富、名声、権力。あらゆる面で。
表では親善使節が笑顔を交わし、
裏では情報と駆け引きが飛び交う。
学院の成績ひとつ、論文ひとつ、
学生一人の動向すら、政治的意味を持つ。
魔法とは力。力とは支配。
そして支配は、常に比較の上に成り立つ。
均衡は保たれている。
だがそれは、互いが同じ高さに立っている間だけの話だ。
どちらかが一歩でも踏み出せば――
その瞬間、競争は“戦争”へと姿を変える。
そして――
炎の呪われし魔術師の――暴走。
王のその一言が、部屋の温度を確実に下げた。
何十年ものあいだ、記録にも残らなかった“呪われし者”の発現。
それだけでも異常事態だというのに、さらに――制御不能の暴走。
両国の均衡が破られる大事件だ。
戦争。
その2文字が、胸の奥に冷たい影を落とす。
俺たちは――
そんな歴史の転換点に立たされているのか。
王は静かに話を続ける。
その声音に怒気はない。
だが、淡々としているからこそ重い。
「その呪われし者が、ロアノアールの精鋭を引き連れ、エルブランシュ領内に侵入したという報告が入った」
侵入――?
それは偵察ではない。越境だ。
しかも“精鋭を引き連れ”て。
暴走しているはずの呪われし者が、統率された部隊と共に動いている。
もし事実なら、それは明確な敵対行為だ。
偶発的衝突などという言い訳は通らない。
国境を越え、武装戦力を伴う侵入。
戦争の引き金としては、十分すぎる。
そこまで――
呪われし魔術師と呼ばれる者は脅威なのか。
確かに災厄級と呼ばれる存在だ。
王直属のAクラス魔術師団隊長と他精鋭は他の任務にあたっているのは知っているが、
なぜ動くのが、俺たちなのか。
胸の奥に渦巻く疑問を押し殺しながら、俺は王の次の言葉を待った。
静寂が重くのしかかる。
そして――
「諸君にはそれを制圧してもらいたい」
淡々と告げられたその一言は、
雷鳴のように鼓膜を打った。
重たい沈黙が、数秒――いや、数十秒にも感じられる時間、室内を支配した。
その静寂を破ったのは、シュプリムだった。
背筋を正したまま、視線を逸らさず、静かに口を開く。
「……僭越ながら申し上げます。これは国を揺るがす重大な案件です」
一呼吸。
「俺たちでは、あまりにも荷が重すぎます」
その声音に震えはない。
だが、そこに滲む緊張は隠せない。
当然だ。
俺も、その意見に全面的に賛成だった。
相手は呪われし者。しかも暴走状態。
さらにロアノアールの精鋭部隊を伴っている。
戦争を起こそうとする武装勢力に対し、こちらは学生三人。
どう考えても、戦力が釣り合っていない。
これは討伐任務ではない。
国家規模の軍事行動だ。
王は、まるでその言葉を待っていたかのように、ゆっくりと口を開いた。
「その通りだ。――さぁ、入ってきたまえ」
静かな合図。
その瞬間、応接室奥の扉が音もなく開いた。
足音が、ひとつ。
規則正しく、迷いなく、こちらへと近づいてくる。
そして姿を現したその人物を見た瞬間――
……全員が、言葉を失った。
そこに立っていたのは、伝説とさえ囁かれるSクラスの魔術師。
――ギア・ファントム。
学院史上、到達者はわずか一名。
エルブランシュ唯一のSクラス所属。
誰もが名前は知っている。
だが、実際にその姿を目にした者は学院内にはいない。
公式記録に残るのは、数枚の古い肖像画と、遠目に写った魔導写真のみ。
その神出鬼没ぶりから、
存在そのものが“幻想”だとさえ言われていた男。
――それが、今、目の前にいる。
白銀の長い髪が、淡い光を反射して揺れる。
隙のない端正な顔立ち。
年齢は判別できない。
青年にも見え、成熟した男にも見える。
纏う空気は、静寂。
だが、その静けさの奥に、圧倒的な威圧感が潜んでいる。
呼吸が、重くなる。
ギアは、光の上位魔法を自在に操る、選ばれし魔術師。
その視線が、ゆっくりと俺たちをなぞり、仁王立ちしている。
そして――
目元。
どこかで見たことがあるような気がした。
王は、呆然とする俺たちの反応をゆっくりと見渡した。
その口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「これがお前たちの引率者だ」
静かな宣言。
ギアは何も言わず、ただそこに立っているだけだ。
だが、その存在だけで場の均衡が一変した。
Sクラス。伝説級の魔術師。
その存在が加わるだけで、
“不可能”は“実行可能”へと塗り替えられる。
……だが。
胸の奥に沈んだ疑問は、どうしても消えなかった。
なぜ俺なのか。
リアやシュプリムが選ばれる理由は分かる。
二人はAクラスの実力者。
実績も、信頼も、申し分ない。
だが俺は違う。Cクラスの落ちこぼれ。
そして陰で囁かれる――“呪われし魔術師”。
昨日の一件を問いただしたい衝動が、喉元までせり上がる。
ロックゴーレムの出現。
シュプリムとの模擬戦。
限界を超えたあの瞬間。
すべてが仕組まれていたのではないかという疑念。
問いただせば、何かが明らかになるかもしれない。
だが――聞けない。
聞いてしまえば。
返ってくる答えを、俺はまだ受け止めきれない。
そんな気がした。
胸の奥に沈む不安は、形を持たないまま膨れ上がる。
もし。
同じ“呪われた者”同士で戦えと言われたら。
――俺は刀を向けられるだろうか。
自分と同じ烙印を押されたかもしれない者に。
その目に、自分と同じ孤独や恐怖が宿っていたとしても。
躊躇なく、斬れるのか。
もし。
暴走したのが、未来の俺だったとしたら。
理性を失い。制御不能となり。
誰かに討たれる側になるのだとしたら。
その瞬間。
俺という存在は、守るべき人間ではなく、排除すべき“脅威”へと変わる。
それは、決定的な宣告だ。
お前は“人”ではない。“災厄”だ、と。
胸が締めつけられる。
俺は本当に――呪われし魔術師なのだろうか。
呼吸が浅くなる。
指先がわずかに震えているのに気づく。
王は――そんな俺の内心を見透かしたかのように、静かに立ち上がった。
「話は以上だ」
それだけ告げると、背を向ける。
重厚な扉が開き、
王の背中は奥の闇へと溶けるように消えていった。
室内に残るのは、重たい余韻。
やがて学院長が、ゆっくりと口を開く。
「エルブランシュの命運はお前たちにかかっている」
穏やかな声音。
だが、その言葉の重みは計り知れない。
「任せたぞ、諸君」
軽く笑みを浮かべる。
だがその目は、真剣だった。
逃げ場はない。
俺たちは、災厄へ向かうことになる。
国の運命を背負って。
そして――自分自身の正体と向き合うために。
重苦しい沈黙が、広間を満たしていた。
誰もが言葉を失い、それぞれの胸に渦巻くものと対峙している。
その静寂を破ったのは、ギアだった。
「出発は明朝七時。馬車でアルティアまで移動する」
低く、澄んだ声。
端正な顔に、感情の色はほとんど浮かんでいない。
焦りも、不安も、期待も――何ひとつ読み取れない。
ただ静かに、俺たちを見渡す。
余計な装飾もなければ、鼓舞もない。
覚悟を促す言葉すらない。
あるのは、機械のように淡々と事実だけを告げる声音だった。
明朝七時。
その瞬間から、俺たちは後戻りできなくなる。
アルティア――
エルブランシュ領北西の辺境の街。
王都から遠く離れた、風の強い高原地帯に築かれた都市。
エルブランシュ領としては王都エルブランシュに次いで大きな街だ。
ギアは、わずかに視線を巡らせてから続けた。
「準備は各自で整えろ。無駄な荷物は持つな。以上だ」
簡潔。
余計な言葉はない。
だが、その短い命令の中にすべてが含まれている。
――甘えは許されない。
――判断は自分で下せ。
――生き残れるかどうかも、己次第だ。
そう告げると、ギアは音もなく背を向けた。
外套が静かに翻り、次の瞬間にはその姿は扉の向こうへ消えていた。
まるで最初から幻だったかのように。
取り残された第三応接室。
重厚な絨毯も、壁に飾られた絵画も、さきほどまでの緊迫をまだ抱え込んでいるようだった。
俺たちはしばらく言葉を失い、それぞれの思考の海へと沈んでいく。
Sクラスの魔術師との共闘。
ロアノアールの暗躍と呪われし者の暴走。
そして、それの制圧――
どれも現実味のない単語ばかりだ。
まるで英雄譚の一節。
遠い遠い大陸の伝説。
自分とは無関係な、誰かの物語。
それなのに。
明朝七時になれば、その“物語”の中に俺たちは放り込まれる。
逃げる余地も、保留も許されない。
そんな考えを巡らせている時だった。
隣から、場違いなほど明るい声が弾ける。
「わー!ルロイと旅だなんて久しぶりだね!楽しみー!」
……状況をわかっているのか、こいつは。
俺は思わず横目でリアを見る。
彼女はいつものように、屈託のない笑顔を浮かべていた。
不安も恐れも、微塵も感じさせない。
その無邪気さが、今は救いだった。
張り詰めていた胸の奥が、ほんの少しだけ緩む。
ああ、そうか。
俺は怖かったのだ。
任務が。選ばれた理由が。
そして、この先に待つ“何か”が。
だが、リアの笑顔はそれを一瞬で吹き飛ばす。
「…観光じゃないぞ」
そう言いながらも、声に込めた硬さはもう半分ほど消えていた。
向かいでは、シュプリムが口をあんぐりと開けたまま固まっている。
「……あの伝説のSクラスが、引率……?」
まだ現実を受け入れきれていない顔だ。
無理もない。
俺だって今でも夢なんじゃないかと思っている。
伝説級の魔術師と、王命による極秘任務。
それを俺たちが担う?
冗談みたいな話だ。
だが、冗談ではない。
明朝七時。
アルティア行き。
その言葉が、重く胸に落ちる。
運命は、もう待ってはくれない。
一先ず、昨日の一件は後回しだ。
俺はゆっくりと息を吐いた。
「……準備をしよう」
その一言で、現実が輪郭を持つ。
リアは「はーい!」と元気よく返事をし、
シュプリムはようやく口を閉じ、真剣な表情に戻った。
それぞれが、自分の役割を思い出す。
第三応接室の扉に手をかける。
軋む音とともに開いた先、廊下の冷たい空気が頬を打った。
一瞬、背筋が伸びる。
戦いへの旅が始まる。
国家の命運と、呪われし者の真実と、
そして俺自身の答えを抱えて。
だが不思議と――
ほんの少しだけ、心は軽かった。
さっきまで胸を締めつけていた重圧が、嘘みたいに薄れている。
隣に笑うリアがいる。それだけで。
彼女は廊下を歩きながら、早くも旅の話を始めている。
「アルティアって、海が近いよね? 任務終わったら見に行けるかなぁ」
……終わったら、か。
その言葉の無邪気さに、思わず苦笑がこぼれる。
任務は、もちろん遊びじゃない。
今回の目的は“災厄”の制圧。
S級がいようと無事に終わる保証なんて、どこにもない。
それでも。
「終わったらな」
気づけば、俺はそう答えていた。
リアはぱっと顔を輝かせる。
「約束だよ?」
軽い口約束。
だが、その約束が不思議と現実味を持つ。
生きて帰る理由になる。
守るものがあるというのは、
こんなにも力になるのか。
たとえ災厄へ向かう旅でも。
たとえ自分の中に恐れるべき何かを抱えていたとしても。
俺は前を向ける気がした。
未来は、宣告じゃない。選択だ。
リアの軽快な足音や笑い声が、静かな廊下に響く。
その音が、やけに心地いい。
災厄へ向かう足取りは重いはずなのに、
今は確かに、一歩一歩が前へ進んでいる。
この旅の先に何が待っていようと、俺は逃げない。
隣で笑うその存在が、
俺をただの“人”に引き戻してくれる限り――
きっと、俺はまだ大丈夫だ。




