第4話「国王」
翌朝、目を覚ますと、視界に広がっていたのは見慣れた寮の天井だった。
差し込む朝日も、軋むベッドの感触も、すべてがいつも通り。
だが――体だけが、まるで鉛でも流し込まれたかのように重い。
「……最悪だな」
小さく呟いてみても、倦怠感は消えない。
指先を動かすだけで、じわりと疲労が滲み出す。
今日の講習は休むか……。
そう考えるだけで、罪悪感よりも安堵のほうが先に浮かんだ。
だが、いつもの“サボリ場”へ向かう気力すら、今はない。
結局、天井をぼんやりと見つめたまま、
俺は動けずにいた。
しかし――腹は正直だった。
あれほど体が重く、頭も霞がかっているというのに、
胃だけはきっちりと自己主張を始める。
ぐう、と小さく鳴った音に、思わず苦笑が漏れた。
「……これもいつもの儀式のようなものか…」
もそもそとベッドから這い出る。
足裏に触れる床の冷たさが、わずかに意識をはっきりさせた。
着替えを済ませ、乱れた黒髪を適当にかき上げると、
俺は寮を出て食堂へ向かうことにした。
幸いにも、ここエルブランシュには学院が誇る豪華な大食堂が設置されている。
高い天井に吊るされた魔導灯、磨き上げられた長机、
朝から立ちのぼる湯気と香ばしい匂い。
学生は誰でも自由に利用でき、食事に困ることはない。
空腹を満たすくらいなら、何の心配もいらない。
俺は重い足取りで食堂へと辿り着いた。
朝の大食堂は、すでに多くの学生で賑わっている。
焼き立てのパンの香り、スープの湯気、食器の触れ合う軽い音。
その喧騒の中に身を紛れ込ませるように、
俺はビュッフェスタイルの料理を皿に取っていった。
卵料理にベーコン、温野菜、コンソメのスープ。
栄養のことなど普段は気にしないが、今日は妙に体が求めている。
適当な席に腰を下ろし、黙々と食事を進める。
温かいスープが喉を通ると、少しだけ体の重さが和らいだ気がした。
だが――。
かすかに、聞こえてくる。
ざわ……ざわ……と、波のような小声。
断片的な言葉が、確かに耳に届く。
銀の食器が触れ合う澄んだ音の隙間を縫うように、ひそやかな囁きが流れてくる。
「ほら、あいつだよ」
声は小さい。だが、確かに聞こえた。
「げっ。噂の呪われたやつか?」
空気が、わずかに張り詰める。
「近寄ったら危ないよ」
ひそひそと、波紋のように広がる視線。
俺はスプーンを持つ手を止めない。
止めたら、聞こえていると認めることになる。
スープを口に運ぶ。味はするはずなのに、何も感じない。
喉を通る感覚だけが、やけに生々しい。
視線が刺さる。
正面の席にいた生徒が、わざとらしく椅子を引き、距離を取った。
隣のテーブルでは、俺を見ていた女学生が慌てて目を逸らす。
――呪われたやつ。
その言葉が、耳の奥で何度も反響する。
……噂が回るのは、早い。
学院という閉じられた狭い空間では、秘密など存在しないに等しい。
ましてや「異質」は、格好の餌だ。
俺は淡々と食事を続ける。
動揺も、怒りも、顔には出さない。
出したところで、何が変わるわけでもない。
ただ一つ、確かなのは――
静かだったはずの学院生活が、
確実に崩れ始めているということだった。
スプーンを置く。
金属音が、やけに大きく響いた。
その時だった。
――キーンコーン、と澄んだ電子音が食堂に鳴り響いた。
ざわめきが、一瞬で止まる。
学院内放送のチャイムだ。
天井に埋め込まれた魔導拡声器が淡くり、無機質な声が流れ出す。
『Cクラス3組所属のルロイ・ハーヴェス君は、至急第三応接室に来るように』
……。
その場の空気が、凍りついた。
この声は紛れもなく学院長の声だ。
学院長は、魔法の才に恵まれた人物ではない。
この魔法至上の学院において、それは致命的とも言える欠点のはずだった。
だが彼は、魔法学院の頂点に座している。
理由は類まれなる管理能力と統率力だ。
膨大な予算の運用、貴族や王都との折衝、
教師陣の采配、学生の選抜と配置。
そのすべてを滞りなく捌ききる手腕は、もはや一種の才能と言っていい。
見た目は、小太りの初老の男。
ふくよかな頬に穏やかな笑みを浮かべ、
一見すれば温厚な町の商人のようにも見える。
だが、その小さな目の奥には、
常に計算と観察の光が宿っている。
魔力は持たずとも、人と組織を操る才において、
彼は間違いなくこの学院で最も影響力のある人物の一人だった。
その男が、俺を呼んだ。
次の瞬間、ざわ……と抑えきれない波が広がる。
「は? 今の学院長の声だったよな」
「ルロイって……あいつ?」
「第三応接室って、あの?」
無数の視線が、一斉に俺へ突き刺さる。
さっきまで陰で囁いていた連中も、今は遠慮なく振り向いていた。
好奇、恐怖、嫉妬、そしてあからさまな敵意。
エルブランシュ第三応接室。
そこは学院長や王都の貴族、国家魔導局の重鎮が訪れた際に使われる特別室だ。
学生が呼び出される場所ではない。
俺はゆっくりと立ち上がる。
椅子が床を擦る音が、やけに大きく響いた。
胸の奥が、鈍く疼く。
……やはり、来たか。
胸の奥で、何かが静かに軋む。
昨日の出来事が、無関係であるはずがない。
本来ならば現れるはずのないロックゴーレムの討伐。
そして、Aクラスの実力者、シュプリムの敗北。
しかも相手は、Cクラスの落ちこぼれである俺だ。
学院長が、その“異質”を見逃すはずがない。
あの男は、常に学院全体を俯瞰している。
優れた芽は見逃さず育て、危うい芽は容赦なく摘む。
曖昧なまま放置するような人物ではない。
……となれば。
やはり、あれは学院側からの仕掛けだったのか。
そう考えた瞬間、昨日の違和感が一本の線で繋がる。
なぜ、あの場所にロックゴーレムが出現したのか。
なぜ、Aクラス教官との模擬戦が急に組まれたのか。
なぜ、あそこまで極限の状況に追い込まれたのか。
偶然にしては、出来すぎている。
限界を超えざるを得ない状況を用意し、追い詰める。
そうすれば、何かが現れる――そう踏んだのか。
俺の中に眠る、“何か”を。
もしそうなら。
俺は、まんまとその思惑通りに動いたことになる。
魔力を解放し、ロックゴーレムを退け、シュプリムを打ち破った。
証明してしまったのだ。
自分が、ただの落ちこぼれではないことを。
……一体、いつから気付かれていた?
俺は万年Cクラスの落ちこぼれを、完璧に演じ切れていたはずだ。
思考が渦を巻く。
疑念が疑念を呼び、答えのない問いが頭の中を埋め尽くす。
そして、その渦を内側から焼き払う感情があった。
怒りだ。
冷静に積み上げていた推論を、灼けつくような熱が一瞬で崩していく。
もし、あのロックゴーレムの出現が学院の仕掛けだったのなら。
もし、シュプリムが命令を受けて動いていたのなら。
俺が“呪われし魔術師”かどうかを確かめるためだけに。
そのためだけに、他の生徒まで危険に晒したのだとしたら――
それは、断じて許されない。
その瞬間、俺ははっきりと感じた。
エルブランシュの奥底に潜む、深い闇を。
周囲のざわめきを背に受けながら、俺は出口へと歩き出す。
道が、自然と開いた。
まるで、触れれば災いが移るとでも言うように。
誰も声をかけない。
ただ、遠巻きに見つめるだけだった。
足取り重く、俺は第三応接室の前に立った。
重厚な木製の扉。
磨き上げられた金の取っ手。
ここが普通の学生の立ち入る場所でないことは、一目でわかる。
小さく息を吐き、簡素なノックだけをして扉を押し開ける。
中へ足を踏み入れた瞬間、外の喧騒が嘘のように遮断された。
静寂が、空間そのものを支配している。
足元には、足音を吸い込む厚手の絨毯。
壁には名のある画家の手によるものと思しき高価な絵画が掛けられ、
柔らかな魔導灯の光が室内を穏やかに照らしていた。
中央には重厚な長机。
その両側には、深く身を預けられる革張りの椅子が向かい合っている。
質素とは程遠い。
だが、露骨な豪奢さもない。
選び抜かれた品のみで構成された、静かに洗練された空間。
まさしく――VIP専用の応接室と呼ぶにふさわしい部屋だった。
そして――そこにいたのは。
リアと、シュプリム。
一瞬、思考が止まる。なぜ、二人がここにいる。
シュプリムは腕を組み、無言でこちらを見ていた。
昨日の戦いの痕跡はほとんど消えている。さすがリアの回復魔法だ。
視線が絡む。何かを訴えているが敵意はなさそうだ。
だが、明確な観察の色がそこにあった。
その隣で、リアがぱっと表情を明るくする。
「あ、ルロイ!」
いつもの調子で、にこりと笑い、軽く手を振った。
場違いなほど無邪気な笑顔。
その瞬間だけ、この重苦しい空気がわずかに和らぐ。
……なんでそんなにいつも通りなんだ、お前は。
胸の奥の緊張が、ほんの少しだけ緩む。
だがすぐに思い出す。
ここは第三応接室。
奥にいたのは紛れもなく学院長だ。
「やぁ。よく来てくれたね、ルロイ・ハーヴェス君」
室内の奥、窓を背に立つ学院長が、穏やかな声でそう告げた。
学院長――
アダムス・ハーパーは、ふくよかな頬をゆるりと緩め、
いかにも人の良さそうな笑みを浮かべている。
年相応に刻まれた皺さえも、その温厚さを引き立てる飾りのようだ。
丸みを帯びた体躯も相まって、威圧感よりは親しみやすさを覚える風貌だった。
「さぁ、そこに座りたまえ」
その声音もまた柔らかい。
こちらを気遣うような、包み込む響き。
叱責や圧迫とは無縁の調子。
だが――
その笑みの奥にある小さな瞳だけは、まるで別の色を宿していた。
穏やかさの裏に潜む、冷静な観察。
感情ではなく、理で人を値踏みする視線。
一瞬でも気を抜けば、その笑みに安心してしまいそうになる。
だが、この男の本質は――そこではない。
アダムス・ハーパー。
魔力を持たぬ代わりに、人と組織を掌の上で転がす術を知る男。
その視線が、今、確かに俺を捉えていた。
昨日の件について口を開こうとした、その瞬間――
「早速だが、お前たち三人に極秘任務を与える」
低く落ちた声は、もはや“学院長”としてのそれではない。
もっと重い。
もっと深い。
学院という枠組みを越えた、別の立場を思わせる響き。
そして、その言葉が室内に沈んだ直後――
きしり、と小さな軋みが響いた。
静寂を裂くその音に、空気がわずかに震えた。
現れた人影とともに、室内の気配が一変する。
思わず、背筋が伸びた。
そこに立っていたのは――
この王都エルブランシュを統べる現国王。
――ダムド・ブランシュ十二世、その人だった。
年は六十を越えているはずだが、その体躯に衰えは見えない。
白を基調とした王衣に身を包み、胸元には王家の紋章が静かに輝いている。
鋭い眼光が、まっすぐにこちらを射抜く。
年輪を重ねた白髪は後ろへと整えられ、
胸元まで長く蓄えた顎鬚が、その威厳をいっそう際立たせていた。
一切の無駄を感じさせない立ち姿。
王衣を纏うその姿は、まさしく“王”そのもの。
威厳と風格を兼ね備えた佇まいは、
言葉を発する前から、この場の主が誰であるかを示している。
ただ立っているだけで、応接室の空気が塗り替えられる。
呼吸すら、わずかに重く感じるほどの存在感。
そして、右手に握られていたのは――
ひと目で分かる。
それは、ただの杖ではない。
深い蒼を帯びた黒檀の軸には、細密な紋様が幾重にも刻まれている。
だが、それらは装飾ではない。魔術式だ。
重ねられ、絡み合い、幾層にも封じられた高位の術式が、杖全体を覆っている。
先端には拳大の宝珠。
透き通るような輝きを放ちながら、その内部では金色の光がゆらりと揺らめいていた。
まるで――
生きているかのように。
――これが、この国を統べる者。
王の視線がゆっくりと巡るたび、
まるで心の奥まで見透かされているような錯覚に襲われた。
俺たちは、ほとんど反射的に膝をついた。
重厚な絨毯に額が触れる。
頭を垂れ、王の前にひれ伏す。
理屈ではない。
本能がそうさせた。
国を統べる者を前にして、
立ったままでいられるほど、俺たちは無知でも無謀でもない。
自然と膝を折り、頭を垂れる。
静寂が落ちた。
やがて、低く響く声が室内を満たす。
「よい。おもてを上げ、椅子に座られよ」
その声に威圧も怒気もない。
だが――逆らうという選択肢は、はじめから存在しなかった。
恐る恐る顔を上げると、王はわずかに笑みを浮かべている。
それは慈悲の笑みか。
若き者へ未来を託す、為政者としての温情か。
それとも――
すべてを掌の上で転がす者の、計算された企みの笑みか。
判断はつかない。




