第18話「海岸の約束」
マレヴェルの冒険者ギルドは、想像以上に活気に満ちていた。
扉をくぐった瞬間、ざわめきが耳に飛び込んでくる。
笑い声、怒鳴り声、金属のぶつかる音。
冒険者たちが絶え間なく出入りし、受付は慌ただしく動き続けていた。
壁一面には、無数の依頼書。
魔獣討伐。
採集任務。
護衛依頼。
紙の一枚一枚が、この街の“生業”を物語っている。
……俺は、しばらくその光景を眺めていた。
今の俺は――一文無しだ。
宿代も、治療院の費用も、まだ払っていない。
いずれ、ここで世話になることになるだろう。
だが。
今は違う。
優先すべきは――情報だ。
俺は視線を移し、ギルド中央に掲げられた大きな地図へと歩み寄った。
人の流れの隙間に入り込み、じっとそれを見つめる。
マレヴェル全域の詳細図。
街の構造。
周辺の地形。
主要施設。
そして――。
「……」
指先で、なぞる。
南東。
海岸沿い。
……あった。
小さく書き込まれた文字。
――ポチェティーノの館。
位置は特定できた。
胸の奥で、鼓動がわずかに強くなる。
次は――周囲の状況。
館の規模。
出入り口。
逃走経路。
そして何より――警備。
あくどい男のことだ。
私兵や用心棒を抱えていてもおかしくない。
無策で踏み込めば、終わる。
「……」
視線を地図から外す。
考えるべきことは多い。
だが――。
足は、すでに動いていた。
ギルドを後にし、外へ出る。
潮風が、再び頬を打つ。
進む方向は決まっている。
南東。
海岸沿い――ポチェティーノの館。
俺は、歩き出した。
やがて、崖沿いにそびえ立つ館が視界に入る。
夕陽に照らされ、その輪郭が不気味に浮かび上がっていた。
……あれか。
足を止め、距離を取る。
もう夕方だ。
完全に日が落ちる前に、できるだけ情報を集めておく必要がある。
俺は近くの木に登り、枝に身を潜めた。
そして、冒険者ギルドから“こっそり借りた”双眼鏡を構える。
視界が、引き寄せられる。
門前――衛兵が二人。
敷地内――さらに三人。
巡回している。
配置は雑だが、油断はしていない。
……この立地で、この警備。
普通じゃない。
「……」
いわくつき、か。
ポチェティーノという男の噂。
そして、奴隷館と呼ばれる理由。
すべてが、ここに集約されている気がした。
衛兵の動きを観察する。
……実力は、おそらく並。
万全の状態なら、問題にはならない。
だが――今の俺は違う。
どこまで動けるか、実戦で確かめるしかない。
それに。
館の中には――もっと厄介な連中がいるはずだ。
用心棒。
あるいは、魔術師。
油断すれば、確実に死ぬ。
「……」
双眼鏡を下ろす。
空は、すでに赤から藍へと変わり始めていた。
今日はここまでだ。
一度、街に戻るべき――。
そう考え、木から降りたその時。
ふと、足が止まる。
……海岸。
あの場所。
あいつが、いるかもしれない。
確証はない。
だが――行く理由は、それで十分だった。
俺は進路を変え、海岸へと向かった。
波の音が、近づく。
やがて視界が開け、あの場所へと辿り着いた。
そして――。
いた。
小さな背中。
リュネス。
夕焼けの残光に照らされながら、ただ水平線を見つめている。
「……」
言葉が、出なかった。
何と声をかければいいのか、わからない。
俺は、ただその隣に座った。
砂の感触。
波の音。
リュネスは、俺の存在など気にも留めない。
ただ、静かに海を見つめ続けている。
しばらくの沈黙。
やがて、俺は口を開いた。
「……お前に助けてもらった。今度は、俺の番だ」
反応は、ない。
それでも、続ける。
「お前を――解放してやる」
波が、打ち寄せる。
一拍の間。
そして、ようやく。
「……わたしは、ポチェティーノの奴隷」
小さな声。
「そんなこと、できるはずない」
そう言って、リュネスは胸元を掴んだ。
布を引き寄せ――見せる。
右胸。
そこに刻まれた、紋章。
奴隷の証。
それがある限り。
逃げることも、逆らうこともできない。
主の命令は絶対。
どれだけ望もうと、自由はない。
「……」
胸の奥で、何かが軋む。
あの闇の力も。
きっと――利用されてきた。
ただの道具として。
「……明日」
俺は、静かに言った。
「ポチェティーノを殺す」
言葉は、迷いなく落ちた。
貴族の抹殺。
重罪だ。
だが――関係ない。
俺はもう、追われる身だ。
今さら、罪が一つ増えたところで変わらない。
それに。
この少女を、助けたい。
それだけだ。
「……無理」
リュネスが、首を横に振る。
「あそこには、強い用心棒がいる」
やはりな。
想定通りだ。
「俺が倒す」
短く、言い切る。
そして。
「お前を自由にする」
視線を、海へ向けたまま続ける。
「あの水平線の先にも――行けるようにしてやる」
その言葉に。
リュネスの目が、わずかに見開かれた。
「……なんで……?」
かすれた声。
「誰も……そんなこと、言ってくれなかった」
握られる手。
震えている。
「みんな無視した。大人も……街の人も……みんな!みんな!」
感情が、滲む。
初めてだった。
ここまで、はっきりと。
「……俺は死なない。約束だ」
俺は、自分の小指を差し出した。
リュネスは、それを見つめる。
戸惑い。
迷い。
そして――。
そっと、小指を絡めた。
弱く。
だが、確かに。
「……死にかけてたくせに」
ぽつりと、呟く。
思わず、笑みが漏れた。
「……確かにな」
小さく笑う。
「だが、死ななかった」
そして。
「お前のおかげだ」
リュネスは、ゆっくりと手を離す。
うつむき、視線を落とす。
そして――。
「……死なないで」
かすかな声。
波に紛れそうなほど、小さく。
それでも。
確かに――届いた。
リュネスと別れ、俺は宿へと戻った。
扉を開けた瞬間、カウンターの向こうから声が飛んでくる。
「あらー、本当に戻ってきたの?」
振り返ると、マーラが腕を組み、呆れたように――いや、どこか楽しげに笑っていた。
その口調は少しばかり小馬鹿にしているようでいて、目元には確かな温かさが宿っている。
「すみません、もう一泊泊めてください」
俺がそう言うと、マーラは肩をすくめた。
「いいよいいよ。何日でも泊まっていきな」
あっさりとした返答。
……甘えているのはわかっている。
だが、それでも俺は言葉を重ねた。
「ご飯も……いただけないでしょうか」
もはや、質の悪い厄介な客だ。
「お金は、後で払います。必ず」
一瞬の沈黙。
そして――
「あー、あー、わかったよ」
面倒くさそうに手をひらひらと振る。
「あとで部屋に持っていくから」
まるで「さっさと行きな」とでも言いたげに、ぶっきらぼうに俺を追い払う。
……本当に、優しい人だ。
「ありがとうございます」
短く礼を言い、俺は部屋へと戻った。
運ばれてきた食事を平らげ、ベッドへと身を沈める。
天井を見上げながら、思考を巡らせる。
――明日。
ポチェティーノを殺す。
やるべきことは、明確だ。
まずは外の衛兵を迅速に制圧。
騒ぎになる前に、館内へ侵入。
そして――用心棒。
あの男が雇っている以上、ただの腕利きではないはずだ。
魔術師か、あるいは戦闘の専門家か。
不意を突ければ理想。
だが、それに賭けるほど甘くはない。
正面衝突も、視野に入れる。
最悪の状況を想定しろ。
逃走経路は?
館内の構造は?
用心棒の位置は?
考えろ。
詰めろ。
一つでも穴があれば――死ぬ。
「……」
目を閉じる。
浮かぶのは、あの小さな背中。
――死なないで。
「……ああ」
小さく、呟いた。
約束は――守る。
そのまま、意識がゆっくりと沈んでいった。
翌日。
冷たい空気が、肺に入る。
俺は昨日と同じ木に登り、枝の上で身を潜めた。
双眼鏡を構え、館を覗く。
……変わらない。
門前に二人。
敷地内に三人。
配置も、巡回も、昨日と同じだ。
そして――門の脇。
馬車。
「……いるな」
ポチェティーノは、館の中だ。
確証が、形になる。
双眼鏡を下ろす。
ゆっくりと、息を吸い込む。
肺の奥まで、満たす。
そして――吐く。
目を閉じる。
神経を、研ぎ澄ませる。
心臓の鼓動。
血の流れ。
筋肉の動き。
すべてを、自分の内側に引き寄せる。
――絶対に。
――確実に。
ポチェティーノの首を、取る。
その意思だけを、残す。
目を開いた。
迷いは、ない。
俺は枝を蹴った。
重力に身を任せ、地面へと落ちる。
着地と同時に、駆ける。
一直線に――館へ。
そして――俺は、ポチェティーノの館へと飛び込んだ。




