第17話「リュネス捜索」
「ルロイー! 海だよ! やっと来れたね」
弾む声とともに、リアが振り返る。
青く長い髪が、陽光を受けてきらりと揺れた。
その笑顔は、あまりにも無邪気で――何もかも忘れてしまいそうになる。
「……そうだな」
俺は、ゆっくりと頷いた。
目の前に広がる海は、どこまでも澄み渡っていた。
青が、空と溶け合い、境界すら曖昧になるほどに。
波は穏やかで、風は優しい。
胸にこびりついていたものが、すべて洗い流されていくような――そんな錯覚を覚える。
呪われし力も。
戦いの日々も。
血と叫びに満ちた記憶も。
何もかもが、遠くなる。
「これからも、こうして一緒に穏やかに暮らしていきたいね」
リアは海を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
その言葉に、わずかな違和感が走る。
俺とリアは、確かに孤児院では共に過ごした。
だが、エルブランシュに来てからは違う。
クラスも違い、生活も別々だった。
いつも一緒にいたわけじゃない。
なのに――。
「ルロイ……?」
リアが、こちらを振り返る。
「聞いてるの?」
「ああ……」
曖昧に、頷く。
だが、胸の奥に引っかかるものが消えない。
何かが、おかしい。
「ルロイ……聞いてるの?」
同じ言葉が、繰り返される。
「……聞いてるの?」
少しだけ、声が歪む。
「……聞いテるの?」
違和感が、形を持ち始める。
「……聞いテルノ?」
声が、崩れる。
音が、壊れる。
俺は思わず、リアの顔を見た。
――その瞬間。
そこにいたのは。
さっきまで笑っていたはずの少女ではなかった。
焼け焦げている。
どろりと溶け、皮膚は炭のように崩れ、
それでもなお、口だけが不自然に開いている。
「キイテルノ?」
歪んだ声が、耳元で響く。
「うあああっ!!」
悲鳴とともに、意識が弾けた。
――目が覚める。
荒い呼吸。
打ちつけるような鼓動。
……夢か。
ゆっくりと。
沈んでいた意識が、浮かび上がる。
最初に感じたのは――柔らかさだった。
背中を包み込む、布の感触。
砂ではない。冷たい地面でもない。
……ベッドだ。
ぼんやりとした思考の中で、そう理解する。
重たいまぶたを、わずかに持ち上げる。
視界に映ったのは――木の天井。
見慣れない。
だが、どこか落ち着いた色合いだった。
小さな窓から差し込む光。
簡素な家具。
静かな空気。
戦場とは、まるで別の世界だった。
「あらあら、随分うなされていたようだけど……ようやくお目覚めのようだね」
穏やかな声が、すぐ傍から聞こえた。
顔を向けると、そこには妙齢の女性が立っていた。
「……ここは?」
掠れた声で問いかける。
「マレヴェルの宿屋だよ。私はここの主人のマーラ。あんたは治療院からここに運ばれてきたんだ」
……また、意識を失っていたのか。
だが、不思議と体は軽い。
重苦しさはあるものの、あの絶望的な状態からは抜け出している。
……助かった、のか。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
状況を整理する。
海岸。
リュネス。
そして――ここ。
あの少女に運ばれ、街の入口で誰かに発見され、ここまで運ばれた……そんな流れだろう。
俺は、マーラへ視線を向ける。
「俺を運んだ少女は……どこにいますか?」
「少女? さてね。あんたを見つけた時は一人きりだったみたいだよ」
「……そうですか」
胸の奥に、わずかな引っかかりが残る。
だが、それ以上は分からない。
「あんた、その身なり……エルブランシュの学生だろう? 戦争が起こったようだね」
「……はい」
短く答える。
それ以上は、口にしない。
「厄介事なら追い出すけどね。そうじゃないなら、ここにいていいよ」
「……ありがとうございます」
素直に頭を下げる。
俺は今、エルブランシュの“追われる側”だ。
本来なら、こんな場所に長居するべきではない。
それでも。
脳裏に浮かぶのは、あの少女の姿。
何も言わず。
何も求めず。
ただ俺を助けた、リュネス。
……このまま放ってはおけない。
「すみません。ペンと紙を、もらえませんか」
そう告げると、マーラはすぐに用意してくれた。
俺はペンを取り、紙の上に線を走らせる。
記憶を頼りに、リュネスの顔を描く。
「……こんな子です」
マーラに見せる。
だが、彼女は首を傾げた。
「悪いけどね、見覚えないねぇ」
……やはり、か。
俺は小さく息を吐いた。
ならば――自分で探すしかない。
あの海岸にいる可能性もある。
だがまずは、この街での手がかりを探るべきだ。
ゆっくりと体を起こす。
まだ万全ではない。
だが、手足は問題なく動く。
……あの状態から、よくここまで回復したものだ。
「世話になりました」
扉の前でそう告げると、背後からマーラの声が飛んできた。
「あら。あんた、もう出発するのかい。まだ体は本調子じゃないだろう?」
振り返る。
その視線には、呆れと、わずかな心配が混じっていた。
「……この子を、探さなくてはならないんです」
手にした紙を軽く掲げる。
そこに描かれた、拙い似顔絵。
マーラは小さく息をつき、肩をすくめた。
「そうかい。それじゃ、気を付けていってくるんだよ。ここはしばらく空けておくから、またいつでも戻っておいで」
「……ありがとうございます」
短く礼を述べ、俺は外へ出た。
――マレヴェルの街。
潮の香りを含んだ風が、頬を撫でる。
港町特有の、湿った空気。
行き交う人々のざわめき。
威勢のいい掛け声。
魚を運ぶ音、樽のぶつかる音。
すべてが混ざり合い、この街の“生”を形作っている。
活気に満ちた――生きている街。
俺はその中へ踏み込み、人の流れを縫うように歩き出した。
「……すみません」
通りすがりの男に声をかける。
紙を差し出す。
「この子を、見ませんでしたか」
相手は一瞬だけ絵に目を落とし、首を横に振る。
「いや、知らねぇな」
それだけ言って、足早に去っていく。
……次。
「この子を――」
何度も、何度も同じ言葉を繰り返す。
似顔絵を見せ、特徴を伝え、記憶を辿らせる。
だが――。
「見たことないねぇ」
「さあな」
「知らない子だ」
返ってくるのは、どれも同じ答えだった。
手応えが、ない。
人混みの中で、俺は立ち止まる。
紙を握る手に、わずかに力が入った。
……ひょっとして。
ここには、いないのか。
あの少女は――この街の住人ではない?
脳裏に浮かぶのは、あの海岸。
岩に囲まれた、閉ざされたような場所。
あそこに、ただ一人でいた姿。
「……」
違和感が、胸の奥で形を成す。
この街の喧騒と。
あの少女の静けさは――あまりにもかけ離れている。
まるで、別の世界に属しているかのように。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
潮風が、強く吹き抜ける。
……やはり。
もう一度、あの海岸へ行くべきか。
そう考えた、その時だった。
「ああ、あんた。こないだ街の入口に倒れていた兄ちゃんか」
背後から、声。
振り返ると、そこには一人の男が立っていた。
日に焼けた顔に、気さくな笑みを浮かべている。
「見たところ、無事回復したみたいだな。よかった」
……思い出す。
あの時、かすかに聞こえた声。
こいつも、あの中の一人か。
「その節はありがとうございました。おかげさまで、なんとか動けるようになりました」
頭を下げる。
男は「気にすんな」とでも言いたげに手を振った。
俺は、すぐに本題へ入る。
「……俺が倒れていた時、一緒にいた少女を見ませんでしたか」
「いや、あの時はお前さんしかいなかったよ」
やはり、か。
一瞬だけ視線を落とす。
だが、すぐに顔を上げた。
「……それでは。この顔に見覚えはありませんか?」
紙を差し出す。
男はそれを受け取り、目を細める。
「ん……?」
一瞬の沈黙。
そして――。
「ああ……この子は」
その言葉に、心臓が跳ねた。
だが、男の表情はどこか歯切れが悪い。
言い淀むような、後ろめたさを含んでいる。
逃したくない。
ここで逃せば、もう手掛かりはないかもしれない。
「……何か知っているなら、教えてください!」
思わず声が強くなる。
男は周囲をちらりと見回し、声を落とした。
「……その子はな。街はずれの崖沿いにある館の主――ポチェティーノさんの奴隷だよ」
「……奴隷?」
言葉が、重く落ちる。
「ああ。何度か見たことがある。ポチェティーノさんと一緒に街に来てな……首輪を付けられてた」
男の声が、少し低くなる。
「食事の時も外で待たされてたし、気に入らなけりゃ殴られてた……ひどい扱いだったよ」
……やはりか。
あの痩せ細った体。
擦り切れた服。
感情の薄い瞳。
すべてが、繋がる。
胸の奥で、静かに何かが燃え上がった。
「……そのポチェティーノは、奴隷商なんですか?」
「売りはしないらしい。買う専門だな。だからあの館は……通称“奴隷館”なんて呼ばれてる」
吐き捨てるような口調。
「ポチェティーノさんはな、エルブランシュでも相当な権力者らしい。貴族という噂もある。この街の長だって頭が上がらねぇ」
だから――。
誰も近づかない。
誰も、見て見ぬふりをする。
「……悪いことは言わねぇ。お前さんも、これ以上関わらないほうがいい」
真剣な目だった。
忠告ではなく、警告。
「それと……この話、誰にも言うなよ。あの人の耳に入ったら、ただじゃ済まねぇ」
「……わかりました」
短く答える。
「ありがとうございました」
頭を下げ、踵を返す。
向かう先は――決まっている。
まずは情報だ。
この街の地形。
館の位置。
周囲の状況。
すべてを把握する必要がある。
俺は足を速め、そのまま冒険者ギルドへと向かった。
……ポチェティーノ。
胸の奥で、その名を繰り返す。
貴族でありながら――あくどい男。
エルブランシュの学生として、見過ごすわけにはいかない。
……いや、違う。
俺はもう――
エルブランシュの学生ではない。
ならば。
これは、義務でも、正義でもない。
ただ――俺の意思だ。
あの少女を。
リュネスを――放っておけない。
それだけだ。
理由なんていらない。
ただ、助けたい。
その一心だった。




