第16話「闇の魔術師」
さらに次の日。
波の音に導かれるように、俺は目を覚ました。
――同じ光景。
そこに、リュネスがいた。
昨日と、まったく同じように。
膝を抱え、水平線を見つめている。
そして――傍らには。
木のコップに入った水と、小さなパン。
俺は、ゆっくりと体を起こした。
昨日よりも、少しだけ楽に動ける。
痛みはある。
だが――確かに回復している。
手を伸ばし、コップを取る。
今日は、慌てなかった。
ゆっくりと、水を口に含む。
乾いた喉を、丁寧に潤していく。
パンも、ひと口ずつ噛みしめる。
硬い。
だが、その素朴な味が、妙に心に残った。
生きている――そんな実感が、じわりと広がる。
やがて食べ終え、俺は息をついた。
そして、視線を横へ向ける。
リュネスは、やはり何も変わらず。
ただ、海を見ている。
「……これ、お前の食料じゃないのか?」
問いかける。
だが――返事はない。
少女は微動だにせず、水平線を見つめ続ける。
波の音だけが、答えの代わりに響いた。
……今日は、まだ立ち去らない。
それだけで、なぜか少しだけ安心する自分がいた。
きっと――これは、この子なりの優しさなのだろう。
見知らぬ男に。
何も言わず、ただ食料を分け与える。
普通なら、できることじゃない。
だが。
それ以上は、踏み込まない。
助けも呼ばない。
誰かに知らせる様子もない。
……誰か人を呼べば。
俺はここから連れ出されるかもしれない。
だが――リュネスには、その選択肢がないように思えた。
あるいは。選べないのか。
どちらにせよ――。
俺にとっても、それは都合がよかった。
今の俺は、おそらくエルブランシュから“追われる側”だ。
ここがどこの領土か解らないが、下手に人と関わるべきじゃない。
……結局。
俺とリュネスは、何も話さなかった。
ただ。
並んで。
同じ方向を見ていた。
水平線。
果ての見えない、その先を。
言葉のないまま。
時間だけが、静かに流れていった。
そして。
リュネスが、立ち上がろうとした――その瞬間だった。
ざり……。
砂を踏む音。
海岸の岩陰から、人影が現れる。
二人。
エルブランシュの装備を纏った――兵士。
「……っ」
心臓が、跳ねた。
……追手か。
鼓動が一気に速くなる。
俺は息を殺し、二人の様子を窺う。
そのうちの一人が――こちらに気づいた。
目が、合う。
そして、もう一人へ合図を送る。
――間違いない。
俺を、探している。
「リュネス……ここからすぐに逃げろ」
掠れた声で、必死に告げる。
この子だけは――巻き込めない。
だが――。
リュネスは、動かなかった。
俺の言葉に従うでもなく、慌てる様子もない。
ただ、ちらりとこちらへ視線を向ける。
ほんの一瞬。
それだけだった。
次の瞬間には、何事もなかったかのように視線を外し――
その場に、静かに立ち尽くす。
そして――ゆっくりと、足元へ視線を落とす。
淡い光。
砂浜に――魔法陣が浮かび上がった。
「な……まさか……」
息を呑む。
それは――闇の魔法陣。
詠唱によって構築される、上位属性魔法。
光と対を成す力。
使い手は、ほとんど存在しないはずの――禁域に近い魔術。
こんな少女が……?
理解が追いつく前に魔法陣が深く、黒く輝く。
リュネスは、静かに手をかざした。
そして――放つ。
「《ダーク・バインド》」
その瞬間。
兵士たちの足元が――沈んだ。
影が、膨れ上がる。
黒い闇が、地面から噴き出すように広がった。
次の瞬間――
無数の“手”が、現れる。
影でできた腕。
歪み、うごめきながら、兵士たちへ絡みつく。
「な……なんだ、これは!!」
「や、やめ――っ!」
兵士たちは逃げようとする。
だが、遅い。
闇の手は、逃がさない。
足を掴み。
胴を絡め。
腕を押さえつける。
まるで――獲物を逃さぬ捕食者のように。
そして。
ゆっくりと。
確実に。
圧を、強めていく。
骨が軋む音。
空気が潰れる音。
「うあああああああああ!!」
断末魔。
それが、海岸に響いた。
やがて――。
闇は、完全に二人を呑み込む。
何も残らない。
血も、肉も、悲鳴の残響すらも。
すべてが、闇に呑み込まれ――跡形もなく消えていた。
まるで最初から、存在しなかったかのように。
ザーン……ザザーン……。
規則正しく寄せては返す波が、すべてをなかったことにするように砂浜を撫でていく。
俺は、言葉を失ったまま、ただ目の前の光景を見つめていた。
視線をゆっくりと動かす。
そこに立っているのは――リュネス。
あの、小さな少女。
痩せ細り、ボロ布を纏い、ただ海を眺めていたはずの存在。
そのはずなのに――。
その足元には、まだ消えきらない闇の残滓が揺れていた。
黒い霧のようなものが、彼女の影に溶け込むように蠢いている。
風が吹く。
灰色の髪が、静かに揺れた。
それでも――彼女の表情は、変わらない。
何もなかったかのように。
まるで、呼吸をするのと同じくらい自然なことをしただけだと言わんばかりに。
「……お前……」
ようやく、声が出た。
だが、その言葉の続きを――俺は紡げなかった。
何を、聞けばいい?
どうして、そんな力を使えるのか。
何者なのか。
なぜ、こんな場所にいるのか。
問いは、いくらでも浮かぶ。
だが――どれも、口にすることができなかった。
リュネスは、ゆっくりとこちらを振り返る。
初めてだった。
真正面から、その瞳を見るのは。
濁りのない、灰色。
感情の波が、ほとんど感じられない。
そして、その奥にわずかに沈んでいるものがあった。
底の見えない、深い闇。
「何故……俺を助けた?」
掠れた声で問いかける。
喉はまだ焼けるように痛むが、それでも聞かずにはいられなかった。
リュネスは、すぐには答えなかった。
少しだけ視線を落とし、何かを探すように沈黙する。
やがて――小さく口を開いた。
「……逃げろ、って言われたから」
「……は?」
思わず、間の抜けた声が漏れる。
確かに俺はリュネスに逃げろと言った――
だが、なぜそれが俺を助ける理由になる?
問いがいくつも浮かぶ。
「あなたは信用できるって思ったから」
ぽつりと、続ける。
「早くここから逃げた方がいい」
初めてだった。
この少女が――“自分の意思”を、言葉として口にしたのは。
短く、曖昧で。
それでも確かに、自分で選び、紡いだ言葉。
それだけで、どこか人間らしさを感じたはずなのに――。
「……」
胸の奥に、引っかかるものが残る。
……この少女は。
今、自分が何をしたのか――理解しているのだろうか。
二人。
確かに、あの場にいた衛兵は、二人とも消えた。
闇に呑まれ。
悲鳴すら、跡形もなく。
“殺した”。
その事実を、どう言い繕おうと変わらない。
それなのに。
リュネスの表情には――何もなかった。
恐れも。
後悔も。
戸惑いすら。
……まるで人形のようだ。
感情を持たない。
命の重さを量らない。
ただ命じられたままに、あるいは必要な行動を選ぶだけの存在。
そんな錯覚すら、覚える。
「そうしたいところだが……ご覧の有様だ」
自嘲気味に呟きながら、俺は体を起こそうとする。
腕に力を込める。
砂を掴み、どうにか上体を持ち上げる。
だが――そこまでだった。
「……くっ」
足に、まるで力が入らない。
立つどころか、踏ん張ることすらできない。
傷だけじゃない。
魔力の消耗と――あの反動。
体の内側が、まだまともに機能していない。
その様子を見ていたリュネスが、静かに言った。
「……わたしが、街まで連れていく」
「え…?」
言葉の意味を理解するより早く。
リュネスは俺の肩へ回り込むと、細い腕で支えるように持ち上げた。
「……お、おい」
ぐぐっと体が引き上げられる。
「お前の力じゃ無理だ。誰か大人を――」
「大丈夫」
遮るように、短く言う。
その声には、妙な確信があった。
次の瞬間。
ずる……と。
俺の体が、砂の上を引きずられる。
「……っ!」
驚くしかなかった。
この細い体で――俺を動かしている?
信じられない光景だった。
力任せではない。無理に引きずっているわけでもない。
重さを、どこかへ逃がしている。
まるで――重力そのものを誤魔化しているかのような動き。
……これも闇魔法か?
そう考えるのが自然だった。
あの闇の力を扱う少女だ。何らかの補助魔法を使っていても不思議じゃない。
ずる……ずる……と。
俺の体は、少しずつ前へ進んでいく。
「……」
言葉が、出なかった。
なぜ、そこまでしてくれる。
見知らぬ男だ。
素性も分からない。敵かもしれない。
しかも――今の俺は、明らかに厄介事を抱えている。
関われば、危険だと分かるはずだ。
それでも。
リュネスは、何も言わず。
何も求めず。
ただ前を見て、淡々と歩き続ける。
「……この先に、街があるのか?」
「なんていう名だ?」
少しの間。
波の音だけが、間を埋める。
そして――。
「……マレヴェル」
短く、答えが返ってきた。
マレヴェル。
その名を聞いた瞬間、思考が繋がる。
エルブランシュ領内。
王都の南に位置する港町。
……そこまで、流されたのか。
思っていた以上に、距離がある。
それだけ、長く意識を失っていたということか。
「……お前は、そこの住人なのか?」
問いかける。
だが――。
返事は、なかった。
リュネスは何も言わない。
ただ、黙々と俺を引きずりながら、前へ進み続ける。
視線も向けない。
呼吸すら、乱さない。
それ以上、追及することはできなかった。
そして――。
俺は、ただ思っていた。
この少女は。
一体、何者なんだ――と。
もうどれほどの時間、引きずられていただろうか。
感覚は、とうに曖昧になっていた。
移動中――いや、ひきずられているその最中。
岩に打ちつけられ、木の幹に擦られ、そのたびに体は確実に削られていく。
肩口の傷が、再び開いたのがわかった。
温い血が、じわりと流れ出し、衣服の内側を濡らしていく。
呼吸が浅くなる。
肺がうまく動かない。
空気を吸っているはずなのに、足りない。
視界が、暗く、狭まっていく。
リュネスの小さな背中が、前方に揺れている。
……見えている、はずなのに。
その輪郭が、滲む。
ぼやける。
やがて――形を保てなくなっていく。
「……」
声が、出ない。
手を伸ばそうとしても、指はわずかに震えるだけだった。
力が、抜けていく。
視界の端から、ゆっくりと暗闇が滲み出す。
世界が、遠ざかっていく。
……限界か。
ぼんやりと、そう思う。
このまま――沈む。
意識も、感覚も、すべてを手放して。
深い闇の底へ。
そう思った、その時だった。
「――おい!人が倒れているぞ!」
不意に、声が響いた。
遠くから。
だが、確かに現実の音として。
意識の底に、わずかな波紋が広がった。
遠くから、声が響いた。
「かなりの重症だ!早く来い!」
別の声。
慌ただしい足音。
「すぐに治療院に運べ!」
現実が、少しずつ戻ってくる。
誰かが、近づいてくる。
複数人。
「まだ息はある!担げ!」
腕を、掴まれる。
体が、持ち上げられる。
揺れる。
浮くような感覚。
運ばれている――。
「……」
ぼんやりとした意識の中で、それだけを理解する。
視界は、完全に闇へと沈んでいく。
音も、遠ざかる。
そして――。
意識は、途切れた。




