第15話「水とパン」
ザーン……ザザーン……。
波の音が、遠くから意識を引き上げる。
重い。
体が、まるで石のように動かない。
薄く目を開けると、視界に映ったのは――空だった。
淡く霞んだ青。
ゆっくりと流れる雲。
そして、潮の匂い。
「……ここは……」
掠れた声が、喉の奥から漏れる。
思考が、遅れて繋がっていく。
断片的な記憶が、浮かんでは消える。
俺は、エルブランシュの屋上から叩き落とされ――川へ沈み。
そのまま、流されたのだろう。
そして――ここへ。
見知らぬ海岸。
よく……生きていたものだ。
自嘲するように、息を吐く。
体は、言うことをきかない。
指一本、まともに動かせない。
……どこかをやられたのか。
それとも、呪われし力の反動か。
俺は、ゆっくりと視線だけを動かす。
足元には、波が寄せては返していた。
冷たい水が、かすかに足先へ触れる。
規則正しい、穏やかな音。
戦場とは、あまりにもかけ離れた静けさ。
周囲は、岩場に囲まれている。
小さく、閉ざされたような海岸。
人の気配は――ない。
そう思った、その時だった。
……いや。
ひとつだけ、あった。
それもすぐ傍。
気配は小さい。
だが、確かにそこに“いる”。
ゆっくりと視線を向ける。
そこに――少女がいた。
見知らぬ顔。
砂浜に、体育座りで腰を下ろしている。
膝を抱え、小さく体を丸めるようにして。
波打ち際を、ただ静かに見つめていた。
風に揺れる髪。
かすかに上下する肩。
確かに、生きている。
だが――どこか現実感が薄い。
まるで、この風景に溶け込んだ“影”のように。
少女はただ、そこにいた。
年の頃は、十歳前後だろうか。
灰色にくすんだ髪は、手入れされていないのか無造作に乱れ、肩口で不揃いに揺れている。
纏っている服も、擦り切れ、汚れ、ところどころ破れていた。
まるで――どこかに売られ、使い潰された奴隷のような姿。
そんな境遇すら、本人には関係ないかのように。
少女は、ただ静かに。
水平線を見つめていた。
俺の存在など、最初からそこにないかのように。
ただ――
波の向こう側を。
どこか、遥か遠くを見つめるように。
「……すまない。水を……くれないだろうか……」
掠れた声を、無理やり喉の奥から押し出す。
喉は焼けるように乾き、息をするだけで痛みが走る。
言葉になっているのかさえ、自分でもわからなかった。
だが――。
少女は、動かない。
視線すら、こちらへ向けない。
ただ、水平線を見つめたまま。
波の音だけが、静かに響く。
……聞こえていないのか。
それとも――無視されているのか。
判断もつかない。
「……すまないが……」
もう一度、声を絞り出そうとする。
その瞬間だった。
少女が、すっと立ち上がった。
何の反応も示さず。
まるで最初から何もなかったかのように。
そのまま、背を向ける。
そして――歩き出した。
「ま、待って……くれ……」
呼び止めようとする。
だが。
声は、ほとんど音にならなかった。
空気に掠れて、消える。
伸ばそうとした手も、砂の上でわずかに震えるだけだった。
遠ざかる背中。
小さく。
静かに。
やがて、岩陰へと消えていく。
――取り残された。
波の音だけが、変わらず耳に残る。
俺は、ただ水平線を見つめていた。
寄せては返す波。
何も変わらない、その繰り返し。
まるでこれまでの激動が嘘のように。
――静かだった。
何もできないまま、ただ考えだけが巡る。
「リア……」
返事のない呼びかけだけが、虚しく波の音に溶けた。
……約束したはずだ。
いつか一緒に、海を見ようと。
それなのに。
こうして俺だけが、ここで海を眺めている。
空は穏やかで、波は静かで。
まるで、何も起きていないかのように、世界は当たり前に続いている。
「……」
唇を、わずかに噛む。
ルミエールに残した、シュプリム。
戦場に置いてきた、ヴァン。
二人は無事だろうか。
胸の奥が、ざわつく。
答えは、どこにもない。
思考は、さらに深く沈んでいく。
ロアノアールの侵攻。
学院長の裏切り
そして――ギアによる王殺し。
……間違いない。
あの戦争は偶然じゃない。
最初から、仕組まれていた。
でなければ。
あのエルブランシュの防御結界が、あそこまであっさり破られるはずがない。
王が言っていた通りだ。
内部から崩されなければ、成立しない侵攻。
それに。
あの時、学院にいた熟練の魔術師たちの不在。
あれも――仕組まれていたと考えるのが自然だ。
すべてが、繋がる。
……エルブランシュは。
これから、どうなる。
魔法学院は。
街の人々は。
守るべきものは、まだ残っているのか。
それとも――もう。
すべて、終わってしまったのか。
俺は――。
リアが守りたかったものを守れなかった。
その事実が、胸に重く沈む。
波の音が、やけに遠く感じた。
やがて――空が、ゆっくりと色を変えていく。
赤が沈み、群青へ。
そして、夜。
静寂が、すべてを包み込む。
体は相変わらず動かない。
一日経てば。
少しは、動けるようになるかもしれない。
そう信じるしかなかった。
俺は、ゆっくりと目を閉じる。
波の音に身を任せながら――意識を、手放した。
次の日。
波の音で、ゆっくりと意識が浮かび上がる。
重たいまぶたを開くと――
そこに、昨日と同じ光景があった。
少女が、座っている。
昨日とまったく同じ場所で。
同じように、膝を抱え、水平線を見つめている。
まるで、時間だけが切り取られて繰り返されているかのように。
そして――。
俺のすぐ傍に、それはあった。
木のコップ。
中には、水。
それと――小さなパン。
水気の抜けた、硬そうなパンだった。
それを見た瞬間。
体が、勝手に動いた。
「……っ」
肘をつき、無理やり上体を起こす。
軋むような痛みが走るが、構っていられない。
手を伸ばし、コップを掴む。
そして――一気に、飲み干した。
喉を焼くような乾きが、一瞬で潤されていく。
水が、体の奥へと染み渡る。
生き返る。
そんな感覚だった。
間髪入れず、パンへ手を伸ばす。
硬い。
だが、関係ない。
噛み砕き、飲み込み、ただひたすらに胃へ流し込む。
まるで獣のように。
理性など、どこにもなかった。
やがて――すべて食べ尽くす。
「……っ」
息を吐く。
全身に、じわじわと力が戻ってくる。
命が、つなぎ止められる感覚。
俺はそのまま、力尽きたように再び砂の上へと倒れ込んだ。
粗末なパン。
それでも――今の俺には、これ以上ないご馳走だった。
……そして。
ふと、気づく。
この水とパン。
――誰が用意したのか。
視線を、横へ向ける。
少女。
昨日と変わらず、ただ座っている。
……そうか。
声は、届いていたのか。
俺は、掠れた声で言う。
「……ありがとう……助かった」
少女は、反応しない。
相変わらず、水平線を見つめたまま。
まるで、風の音でも聞いているかのように。
……よく見ると。
少女の頬はこけ、体つきも細い。
明らかに、栄養が足りていない。
……まさかこれは。
この子の――食事だったのか?
胸の奥が、わずかに痛む。
「お前……名前は……?」
問いかける。
しばしの沈黙。
波の音だけが、間を埋める。
そして――。
「……リュネス」
小さな声。
それが、少女の最初の言葉だった。
それだけ。
本当に、それだけを告げて。
リュネスは、すっと立ち上がる。
振り返ることもなく。
また、静かに歩き出す。
そして――昨日と同じように、岩陰へと消えていった。
残されたのは波の音と、静寂だけだった。
……リュネスは、ここへ定期的に来ているのだろうか。
誰にも邪魔されず。
誰にも知られず。
ただ、海を眺めるためだけに訪れる場所。
だが――。
胸の奥に、引っかかるものが残る。
あの細い体。
やつれた頬。
擦り切れた服。
とても、穏やかな日常の中にいる人間には見えなかった。
なぜか、あの少女はまた来る気がした。
理由はない。
根拠もない。
だが――あの静かな背中は。
どこか、“繰り返す存在”のように思えた。
同じ場所に。
同じ時間に。
同じように現れる。
まるで、この海岸そのものの一部のように。
ザーン……ザザーン……。
波の音が、優しく響く。
そのリズムに身を任せながら――
俺は、再びゆっくりと目を閉じた。
体は、まだ動かない。
だが――。
昨日よりも、わずかに。
手足の感覚が戻ってきている。
確かに、回復している。
それは――。
きっとあの水とパンのおかげだろう。




