第11話「ルロイの涙」
俺は走り続けた。
呼吸は乱れ、肺が焼けるように苦しい。
息を吸うたびに胸が軋んだ。
それでも――止まれない。
ただ、がむしゃらに。
ひたすら前へ。
リアを背中におぶりながら、俺は走り続けた。
何十分も、ただ必死に足を動かし続ける。
その途中だった。
背中から、かすかな声が漏れた。
「……お兄ちゃん……」
思わず足がわずかに止まりかける。
お兄ちゃん……?
リアに兄なんていただろうか。
俺たちは孤児院で、ほぼ同じ時期に育った。
お互い血縁の者はいない――そう思っていた。
意識のない独り言。
それでも、声が出たということは――リアはまだ生きている。
その事実に安堵しながらも、胸の奥に小さな疑問が残った。
やがて、ルミナス渓谷を抜ける。
アルティアの入口に辿り着くまで、小一時間。
何度も足を取られ、転びそうになりながらも、俺は走り続けた。
休むことはなかった。
喉は焼けるように乾き、意識は朦朧としている。
それでも足だけは止まらなかった。
ふらつく足取りで、リアを背負ったままアルティアの街へ入る。
目指すのは――治療院。
そこに辿り着けば、きっとリアは助かる。
そう信じて、俺は住民に道を尋ねながら進んだ。
「おい……あんた達、大丈夫かい……?」
道端の住民が、心配そうに声をかけてくる。
俺の姿は、きっと酷いものだったのだろう。
だが、構っている余裕はない。
布に包まれたリアは――俺よりも遥かに深刻な状態だ。
やがて。
ようやく、治療院が見えた。
俺は扉を押し開けると、残された最後の力を振り絞って叫んだ。
「誰か!! お願いだ!!」
声が掠れる。
それでも叫び続ける。
「この子を――リアを助けてくれ!!」
何度も。
何度も。
俺は叫び続けた。
治療院の中が、一瞬で騒然とする。
無理もない。
意識の朦朧とした怪しい男が、
丸焦げになった少女を抱えて、必死に叫んでいるのだから。
「誰か……! 誰か……!!」
叫び続けながら、俺は気づいた。
自分の意識が――ゆっくりと遠のいていくことに。
視界が揺れ、世界がぼやけていく。
やがて、周囲の光が暗く沈み始めた。
その時だった。
奥の方から、声が聞こえた。
「これはまずいね。すぐ緊急治療室に運びな」
落ち着いた、女性の声だった。
院長だろうか。
誰かが慌ただしく動き出す気配がする。
だが、その光景をはっきりと見ることはできなかった。
視界はすでに闇に覆われ始めていた。
その声を最後に――
俺の意識は、深い闇へと沈んでいった。
やがて――
俺は意識を取り戻した。
重たい頭を無理やり叩き起こすようにして、ゆっくりと目を開ける。
霞んだ視界のまま、辺りを見回した。
そこは治療院の病室だった。
俺はベッドの上に寝かされている。
窓の外は、驚くほど静かだった。
小鳥のさえずりさえ聞こえてくる。
ついさっきまで戦場にいたとは、とても思えないほどの静けさだった。
ぼんやりとしていた頭が、少しずつ状況を理解していく。
俺は……気を失っていたのか。
そして、次の瞬間思い出す。
リアは――?
胸が強く締め付けられる。
俺は慌ててベッドから起き上がり、外へ出ようとした。
その時だった。
「まだ横になってな。お前さんにも治癒術を施したが、完全には回復していないだろう」
後ろから女性の声が届いた。
振り返る。
そこにいたのは、初老の女性だった。
背はやや曲がり、杖をついている。
だが、その佇まいには確かな威厳があった。
長年回復魔法に携わってきた者特有の、落ち着いた気配がある。
俺は恐る恐る尋ねた。
「……リアは……俺が運んだ女性は、無事なんですか」
女性はちらりと俺を見て答えた。
「ああ。もう少し施術が遅れていたら危なかったけどね」
胸の奥に溜まっていたものが、一気にほどけた。
一拍置いて続ける。
「少なくとも、命の心配はない」
「少なくとも……?」
思わず聞き返してしまう。
女性は静かに言った。
「あれほどの重傷だ。このまま寝たきりになる可能性もある」
「火傷の後遺症も残るだろう」
そして淡々と続けた。
「意識を取り戻すかどうかは……彼女次第だね」
俺は言葉を失った。
女性は杖をつきながら名乗る。
「私はドーラ・ハーパー。この治療院の院長さ」
「エルブランシュの回復術師の顧問もしている」
ハーパー――?
俺は思わず聞き返した。
「もしかして……エルブランシュ学院長の血縁ですか?」
「ああ、それは弟だよ」
変なところで繋がりがあるものだ。
……いや。
そんなことより。
「……とにかく、リアが無事でよかった」
心の底からそう思った。
意識が戻るかどうかは分からない。
だが、命がある限り希望はある。
その時、ドーラが言った。
「お前さん、ルミナス渓谷へ調査に向かった学院の生徒だろう?」
「手紙が届いてるよ」
そう言って、俺に一通の封書を差し出した。
差出人は――エルブランシュ魔法学院。
こんな時に何だ。
軽く苛立ちを覚えながら、俺は封を切った。
そして――。
書かれていた内容を見た瞬間、言葉を失った。
王都エルブランシュがロアノアールに侵攻を許した。
エルブランシュの教官、兵士及び生徒は至急帰還し、ロアノアールの制圧に向かわれたし。
これは戦争だ。
繰り返す。
これは――戦争だ。
手紙を握る手が震えた。
なぜそんな事態になっている。
S級魔術師――ギアが帰還したはずだ。
ロアノアールの精鋭がどれほど優れていようと、
彼を制圧するのはほぼ不可能なはずだ。
それとも……。
ロアノアールには、彼を凌ぐ存在がいるのか。
そんな存在は――。
呪われし者だけで十分だろう。
「……くそっ」
思わず吐き捨てた。
俺は戻らなければならないのか。
リアが病床に倒れているというのに。
……。
俺はドーラに尋ねた。
「リアに……会えますか」
「顔を見るくらいならね」
俺はリアの病室へ向かった。
部屋に入ると、一人の術師が回復魔法を施していた。
ドーラが後ろから言う。
「この子も治癒術師だろう。それもかなりの使い手だ」
「意識が戻れば、自分で回復術も使えるんだがね」
俺はリアの顔を見つめた。
全身を包帯に覆われ、大火傷の跡が残っている。
長かった髪も、ほとんど焼け落ちていた。
それでも――。
彼女は静かに眠っていた。
その姿を見た瞬間。
涙が溢れた。
生きていてくれて、ありがとう。
そして――。
こんな俺を、助けてくれて。
しばらくの間、俺は泣き続けた。
やがて涙が止まった頃。
俺は考えた。
この状況で。
リアなら、何と言うだろう。
彼女が愛したエルブランシュが危機に陥っている。
それなのに俺が何もせず、ここで立ち止まっていたら――。
彼女は、どう思うだろうか。
……。
答えは、決まっていた。
「……行くしかないか」
俺は決意した。
エルブランシュの秘密兵器とも言える――この呪われし力を振るい。
侵攻しているロアノアールの部隊を撃退する。
俺は――エルブランシュへ帰還する。
「ドーラさん」
俺は振り返った。
「リアと俺の治療、ありがとうございました。費用は後ほど必ず支払います」
「俺は――エルブランシュへ戻ります」
ドーラは面倒くさそうに手を振った。
「……早く行きな」
「エルブランシュの危機なんだろう?」
「馬は外で待たせてあるよ」
どうやら、俺の考えは最初から見透かされていたらしい。
さすが学院長の姉だ。
俺は深く頭を下げた。
「リアを……頼みます」
そう言って、俺は治療院を出た。
外には一頭の馬が待機していた。
毛並みは艶やかで、筋肉が盛り上がった体躯は見るからに強靭だ。
この脚なら――一日もあればエルブランシュへ戻れるかもしれない。
俺は急いで食料と水だけを準備し、鞍に跨った。
そして、そのままアルティアを後にする。
街を離れ、風を切って走りながら、ふと呟いた。
「……そういえば、リアと海を見る約束をしていたな」
青い海を見に行こう。
そんな、他愛もない約束だった。
「次に会うときは、きっと……」
俺は胸の奥で誓った。
必ず生きて帰る。
そして――リアともう一度会う。




