第10話「激戦、リアの叫び」
炎の魔術師は、依然として暴走していた。
その力を制御できていない。
イフリートは咆哮を上げると、周囲に炎を撒き散らした。
味方であるはずのロアノアール兵士にさえ、容赦なく襲いかかる。
炎が兵士の鎧を包み込む。
「ぐあああっ!」
悲鳴が上がる。
完全に制御不能だ。
「おいおい……こんなの俺たちには手が負えないぞ」
シュプリムが呆然と呟いた。
だが、リアは違った。
彼女は一歩前へ出ると、きっぱりと言い放った。
「私が足止めするから――」
その視線は、炎の怪物をまっすぐ見据えている。
「ルロイたちは、村の人と一緒に逃げて」
その言葉に、俺は思わず目を見開いた。
リアは――すでに覚悟を決めていた。
そう言うと、彼女は杖を構え直す。
そして――
水魔法の詠唱を始めた。
何故そこまでする……?
村人のためか?
戦争を止めるためか?
俺には、わからなかった。
正直に言えば。
俺は、リアと一緒にどこか遠くへ逃げられれば、それでよかった。
それだけで、十分だった。
それなのに――。
リアの詠唱が、静かに響く。
「深き蒼海よ――」
「すべてを呑み込み、静寂の底へ沈めよ」
大気中の水分が、一斉に収束する。
空間が軋む。
巨大な水柱が地面から噴き上がり、激流となって渦を巻いた。
深海のような水圧が空間を覆い、すべてを押し潰そうとする。
「――《オーシャン・アビス》」
放たれた魔法は、炎の魔術師とイフリートをまとめて包み込んだ。
巨大な水牢。
炎が水に飲み込まれ、暴れていた炎の魔術師の動きが止まる。
足止めには――成功した。
だが。
この封印が持つのは、ほんの数秒だ。
――俺は覚悟を決めた。
リアが逃げないのなら――俺が守る。
絶対に守る。
「シュプリム。そこのロアノアール兵は任せる」
「おい……何する気だ、ハーヴェス……」
シュプリムの声には疲労が滲んでいた。
「お前が行っても、どうにもならんぞ」
俺は答えない。
刀を鞘へ戻し、深く息を吐いた。
力を込める。
俺には……あるはずだ。
あの力が。
同じ――呪われし者の力が。
リアを守るためだ。
たとえこの身が壊れても構わない。
暴走してもいい。
俺にできることは――
持てるすべてを出し尽くすことだけだ。
水牢が崩れる瞬間。
俺は迷いなく飛び込んだ。
「――《雷瞬》!!」
雷光が弾ける。
一瞬で懐へ踏み込む。
溜めていた刀を、鞘から抜き放つ。
「ルロイ!」
リアの叫びが聞こえる。
「牙狼!!」
抜刀雷鳴剣。
だが――
刃は炎に飲み込まれた。
まるで空を斬ったように、手応えがない。
それでも俺は止まらない。
「《雷撃》!!」
左手から雷を叩き込む。
だが。
イフリートには、ほとんど効いていない。
次の瞬間。
イフリートが反撃に出た。
炎の塊が形を変え、巨大な剣となる。
それを――
俺へ振り下ろした。
「――っ!」
俺は空中に雷の足場を作る。
雷を踏み台にし、空を駆ける。
炎の斬撃を紙一重で回避する。
「リア、いまだ!!」
「うん!」
一瞬の隙をつき、リアの魔法陣が瞬時に展開される。
「《アクアランス》!」
水の槍。
高速で射出された水流が、炎を貫いた。
防御を突破し――
少年の胸元へ直撃する。
「ぐおおおおおお!!」
悲鳴のような咆哮が響いた。
今だ。
この瞬間しかない。
俺は次の魔法を詠唱する。
ロックゴーレムすら撃ち抜いた――
俺の最強魔法。
「我が示す座標へと集束せよ」
「その威をもって――敵を穿て!!」
俺は両手を前に突き出した。
ゆっくりと、指を閉じていく。
掌の内側で――雷が暴れた。
圧縮された雷が逃げ場を失い、軋むような音を立てる。
バチ……バチ……。
白い火花が、指の隙間から漏れ出した。
閉じ込めていた雷光が、ゆっくりと姿を現す。
俺は両手を静かに広げた。
雷は引き裂かれることなく、そこに留まり続ける。
そして――再び両手を閉じる。
力を込め、そのまま腰へと引き絞った。
全身の魔力が、一点へ収束する。
空気が震えた。
空間が悲鳴を上げる。
……詠唱限界だ。
これ以上は溜められない。
――すべてを、解き放つ。
俺は両手を突き出した。
「――《ライトニングボルト》!!」
雷光が爆発した。
閃光が一直線に走る。
その一撃は――少年へ、直撃した。
「これで……どうだ?」
雷光が消えたあと。
少年は――その場に立っていた。
微動だにせず、仁王立ちのまま。
焦げた大地の上で、ただ静かに佇んでいる。
俺は息を呑んだ。
……これで、制圧できたのか?
胸の奥に、かすかな希望が浮かぶ。
――だが。
次の瞬間。
再び炎が、少年の体を包み込んだ。
その瞬間――イフリートが咆哮を上げた。
大気が震える。
次の刹那、灼熱のブレスが放たれた。
炎の奔流が、一直線に俺へ迫る。
退路はない。
崖際まで追い込まれ、A級魔術の発動で消耗しきった体では、もう動けなかった。
……回避する術が、ない。
……ここまでか。
被弾を覚悟した、その刹那。
水の膜が、俺の体を包み込んだ。
リアの防御魔法――《アクアヴェール》。
炎の奔流が水の障壁に叩きつけられ、激しい蒸気が噴き上がる。
熱と水蒸気が視界を白く染めた。
「ルロイ!ごめんね、援護してもらって……大丈夫?」
「……ああ」
俺は短く答え、リアの方へ視線を向けた。
だが、胸の内では別の焦りが渦巻いていた。
このままでは――ジリ貧だ。
イフリートの暴走は止まらない。
俺たちの魔力も、体力も限界に近い。
長引けば、確実にこちらが押し切られる。
ならば――
今しかない。
俺は静かに息を整えた。
今こそ、自分の究極奥義を発動する時だ。
「リア。次で最後だ。もう一度、奴を足止めしてくれないか」
「え……? うん。わかった」
戸惑いながらも、リアは俺を信じて頷いた。
杖を掲げる。
足元に魔法陣が展開し、水の魔力が渦を巻く。
空気が震え、周囲の水分が一斉に引き寄せられていく。
やがて奔流は一つに集まり――
巨大な水牢が生まれた。
上級水魔法――《オーシャン・アビス》。
奔流がイフリートを再び包み込み、巨体を押し潰すように拘束する。
激しく暴れる炎の化身を、水の深淵が飲み込んだ。
それを見届け、俺は小さく息を吐いた。
そして――詠唱を始める。
「蒼穹に眠る万雷よ。
天の理を越え、我が呼び声に応えよ」
右手を掲げ、人差し指を空へ突き出す。
「雷霆の王、世界を貫く蒼き閃光。万雷を束ね、この手に集え」
晴れていた空が、瞬く間に淀む。
雲が渦を巻き、黒い雷雲が空を覆っていく。
「ルロイ……その詠唱は……だめ!!」
リアの叫び声が響いた。
彼女は気づいたのだろう。
この魔力の異常さに。
――これは。
雷の究極魔法。S級魔法の詠唱。
俺は、この魔法を一度も使ったことがない。
だが、なぜか知っていた。
あの日。俺に雷の力が発現した、その瞬間から。
この魔法の存在を。
これを使えば、ただでは済まない。
それだけは、本能で理解していた。
だからこそ、これまで試し撃ちすらできなかった。
禁断の魔法。
……もしかしたら。
これこそが、あの炎の魔術師のように暴走の引き金になるのかもしれない。
毛細血管が破裂する。
全身から血が噴き出した。
……やはり、体が持たないか。
だが――もう止まれない。
歯を食いしばり、詠唱を続ける。
「天を裂き、地を砕き、
すべてを滅ぼす終末となれ――」
詠唱が完了した。
見上げれば、空は完全に雷雲に覆われている。
世界が、静まり返った。
風も止まり、音も消える。
俺は突き上げていた右手を――
ゆっくりと、少年へ向けて振り下ろした。
そして叫ぶ。
「――《ラグナ=テスラ》!!」
次の瞬間。
轟音。
天を裂く、超巨大な雷が降り注いだ。
凄まじい雷光が世界を包み込む。
白い閃光が弾け、すべての色を塗り潰した。
圧倒的だった。
まるで、世界そのものが雷に呑み込まれたかのようだった。
そして――。
落雷を受けた少年の膝が崩れる。
そのまま前のめりに、地面へ倒れ込んだ。
同時に彼の背後に立ち上っていた炎の巨影――イフリートも。
音もなく、霧のように消えていく。
炎が――消えた。
「や……やった!!」
シュプリムが思わず叫んだ。
その声には、安堵と驚きが入り混じっている。
彼と対峙していたロアノアールの兵士も、動揺を隠せない様子だった。
炎の巨影が消え、戦場の空気が一変したのだ。
「ふぅ……届いたか」
俺は大きく息を吐き、胸をなで下ろした。
全身が軋むように痛む。
魔力はほとんど使い果たし、体中が悲鳴を上げていた。
そして、何事も起こらなかった。
魔力に飲み込まれることも、暴走することもない。
俺は、まだ俺のままだった。
その事実に気づいた瞬間、全身から力が抜ける。
……勝った。
「ありがとう。ルロイ……また守ってもらっちゃったね」
リアが、こちらへ歩み寄ってくる。
戦いの緊張が解けたように、柔らかな表情だった。
その目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
それは――こっちの台詞だ。
そう言おうと、口を開きかけた。
その瞬間だった。
ぴくり。
倒れていた少年の指が、わずかに動いた。
俺は、それを見逃さなかった。
どうして――。
どうして、すぐにとどめを刺さなかった?
S級魔法《ラグナ=テスラ》は確かに直撃した。
だが、魔法の完成度は決して完璧とは言えない。
体は限界で、詠唱もぎりぎりだった。
それなのに。
……俺は、終わったと思い込んでいた。
いや――
考えるのが遅い。
次の瞬間。
少年の体が、跳ね起きた。
炎が再びその身を包み込む。
揺らめく火焔が爆ぜ、空気が焼ける。
そして――
信じられない速度で、少年は俺へ突進してきた。
まずい。
体が、言うことをきかない。
S級魔法の反動で、魔力も体力もほとんど残っていない。
足に力が入らない。
……回避できない。
被弾を覚悟した、その瞬間――
ドンッ。
体が、横へ弾かれた。
視界が大きく揺れる。
何が起きたのか、理解が追いつかない。
――次の瞬間。
俺を突き飛ばした存在が、目に入った。
リアだった。
リアが俺を押しのけ、そのまま前へ踏み出していた。
そして――
炎を纏った少年の前に、立ちはだかっていた。
「――っ!」
少年の手が伸びる。
その腕が、リアの腕を掴んだ。
そして――
炎が噴き上がった。
「ぎゃあああああああああああああ!!」
断末魔の叫び。
誰の声だ…?
リア……?
思考が、完全に止まる。
炎が、リアを包み込んだ。
爆ぜる火柱。
衣服が焼け落ちる。
肌が、焦げる。
炎が舞い上がり――
リアの体を焼き尽くしていく。
やがて炎が収まった時。
そこに立っていたはずの彼女は、ゆらり、と。
その場に倒れ込んだ。
黒く焼け焦げた体のまま。
少年は、まるで最後の力を振り絞るかのようにその場を離れる。
そして、振り返ることもなく、渓谷の奥へ逃走した。
「リアーーー!!!!」
喉が裂けるほどの叫びが、口から飛び出した。
俺は駆け寄り、リアの上体を抱き起こす。
彼女の長く綺麗だった髪は、ほとんど焼け落ちていた。
皮膚は焼けただれ、今にも剥がれ落ちそうになっている。
あまりにも酷い状態だった。
「……リア……」
意識はない。
だが――
わずかに、息をしている。
かすかな呼吸。
それだけが、まだ彼女が生きている証だった。
だが――。
誰の目にも明らかだった。
リアに残された時間は、ほとんどない。
俺の胸が激しく打ち鳴る。
頭の中が真っ白になる。
「おい……シュプリム! 何をしている! すぐに救護班を呼べ!!」
声が、怒鳴り声のように響いた。
「そこの、ぼさっとしている村人! 彼女の手当をしろ!!」
俺は誰かに縋るように、ただ叫んでいた。
リアの命が、今にも消えてしまいそうだった。
それだけは――絶対に許されない。
「……だめだ、ハーヴェス」
低い声が俺を止めた。
シュプリムだった。
「ここではまともな治療は受けられない。アルティアまで戻るしかない。まともな治癒術師に頼むんだ」
俺を諭すように言う。
そして、戦場を見渡しながら続けた。
「ここは任せろ。お前たちはアルティアへ行け」
その言葉で――俺は、ようやく我に返った。
そうだ。
まだ戦争は終わっていない。
呪われし魔術師は撃退した。
だが、ロアノアールの兵士はまだ残っている。
戦いは、まだ続いているのだ。
俺はリアを抱きかかえたまま、シュプリムを見上げた。
ただ一つの思いが、胸を支配していた。
一刻も早く、リアを安全な場所へ。
「……すまない。後は任せる」
そう言って、俺は立ち上がった。
リアを抱きかかえたまま、踵を返す。
そして、ルミエールを後にした。
向かう先は――アルティア。
戦火に包まれた村を背に、俺は走り出した。
それは、この任務に当たった者として、決して褒められる選択ではないだろう。
戦争の最中に、戦場を離れる。
本来なら、許される行為ではない。
だが――それでも。
俺は本能のまま、この村を離れた。
腕の中でぐったりと力を失ったリアを、強く抱きしめながら。
もう一度。
彼女の笑顔を見られると――そう信じて。




