一章 糸原町
猿島冴優のもとに糸原町への派遣命令が下ったのは、昭和三十七年十二月の朝。その朝、冴優は窓の外の薄い雪を見ていた。東京に積もるほどの雪ではない。屋根に薄く粉を撒いたような、儚い雪だった。冴優は出勤前の支度をしながら数日前に清水を訪ねた時のことを思い出していた。清水の家の梅の木にまだ蕾はなく、冬はようやく深まったところだ。署に着くと係長が冴優を呼ぶ。
「猿島、ちょっと来い」
係長の机の上に地図と薄い書類の束が積まれ、
「糸原町だ」係長は地図を指で叩く。「県境の山の麓にある紡績工場で食ってる小さな町だ。昨日、工場主が殺されたという通報があった。先方の警察から応援要請が来ている」
「私一人ですか」
「ああ。お前一人だ。先方には宮本という地元巡査が一人いる。組んでやってくれ」
冴優は地図に視線を落とす。糸原町。聞いたことのない地名だ。山に挟まれた細長い町で川が一本流れている。霧無村ほど閉鎖された場所ではないがそれでも東京から汽車で五時間以上かかる距離であった。
「事件の概要は」
「梶原恒夫という五十二歳の工場主が昨夜遅くに自宅の書斎で殺された。鈍器による撲殺。死亡推定時刻は午後十時から十二時の間」
「目撃者は」
「いない。家には妻と同居している夫の弟がいたが、二人とも『何も聞かなかった』と言っている。書斎は離れにあって母屋から少し離れているらしい」
係長は煙草に火をつけ、
「先方の宮本巡査が言うには梶原という男は町でも評判の悪い人間だったらしい。妻にも弟にも暴力を振るっていたという話がある。動機を持つ人間は家の中にも外にもいくらでもいる。と」
「家の中というのは——」
「妻と弟だ。二人とも被疑者になりうる」
冴優は頷き、
「いつ発ちますか」
「今日の午後の汽車だ。準備しろ」
冴優は係長の机を離れ自分の席に戻った。机の引き出しから、清水雅哉の古い手帳を取り出す。三十年分の捜査メモが詰まったあの手帳を冴優はいつも引き出しに入れていた。鞄に入れて持ち歩くこともあったが、こうして机の中で待っている時間も多かった。冴優は手帳を撫で、そして、清水の家に電話をかけた。
——————
「俺だ」清水の声が電話の向こうから聞こえてくる。半年前、霧無村の事件で命を落としかけた男の声。退院してから半年余り。声の張りは以前ほどではないが、それでも穏やかで、揺るぎがない。
「冴優です。糸原町の事件はご存知ですか」
「新聞で読んだ。お前が行くのか」
「ええ。今日の午後の汽車で」
清水はしばらく黙る。微かに煙草に火をつける音が聞こえる。
「お前一人で行ってこい」
「ええ」
「ただ、何かあったら電話しろ。俺は家にいる」
「ありがとうございます」
冴優は受話器を握ったまま、少しだけ躊躇う。電話を切る前に何か聞きたいことがあったような気がした。が、それが何かは分からなかった。
「冴優」
「はい」
「冬の地方の事件は寒さがこたえる。靴とコートはいいものを持っていけ」
冴優は思わず笑う。霧無村に行ったときも雨に弱い革靴で出かけた自分のことを清水はまだ覚えていたのだ。
「靴は新しいのを履いていきます」
「それでいい」
「清水さん」「あの——」
「何だ」
冴優は少し躊躇し、その後の言葉は出てこず、
「何でもないです。行ってきます」
「ああ。気をつけろ」
電話が切れ、冴優は受話器を置く。机の上の手帳をもう一度見つめ、それから準備のために席を立つ。聞きたいことが確かにあった。しかしそれを言葉にできなかった。なぜなら、「あなたが行きたがっているように見えます」と——清水は霧無村以来、現場に戻っていない。糸原町のような清水好みの種類の事件——閉鎖的な町で家庭内の暴力が背景にある事件——を清水は遠くから見ていたいだけなのか。それとも本当は、自分も行きたいのか。冴優には分からない。そして、聞いてはいけない気もした。清水が現場に戻れない事実をまだお互いにどう扱っていいかわからなかった。
汽車が糸原町の最寄り駅に着いたのは、その日の夕方だった。冴優は客車から降り、駅は小さな木造の駅舎で、改札に駅員が一人立っている。冴優が切符を渡すと駅員は「お疲れ様でございます」と頭を下げる。よそ者には珍しく丁寧な態度だ。と、冴優は感じた。駅前に出ると寒さが頬を撫でる。東京とは違い芯まで冷える種類の寒さだ。雪はない。が、そこにある空気そのものが冷たかった。山に囲まれた地形のせいだろう。と、冴優は思う。駅前の道は舗装されていなく、土の道に小さな砂利が混じっていた。両側に古い商店が並んでおり、八百屋、雑貨屋、魚屋、駄菓子屋。どれも昭和の初めから建っているような構えだった。商店は早めに店じまいを始めていた。冬の地方の町は、夜が早い。八百屋の前で白菜を片付けている老婆が冴優を見てくる。よそ者を見る目を浮かべる。冴優は会釈をすると老婆は無言で目を逸らす。町の人間はすでに事件のことを知っているだろう。と、冴優は思う。糸原町ほどの小さな町で工場主の死は間違いなく町全体を揺さぶる出来事だ。そして冴優のような東京から来た刑事はすぐに目立つ。駅前のロータリーに一人の男が立っていた。制服姿の警察官。四十代後半、中肉中背、丸顔の男。冴優を見て軽く頭を下げてくる。
「猿島刑事ですか。お疲れ様です。糸原町駐在の宮本です」
「猿島冴優です。よろしくお願いします」
宮本巡査は冴優の鞄を持ってくれようとした。が、冴優は丁寧に断る。宮本は穏やかに笑い、
「東京の刑事さんは最近の方は丁寧でしてね。昔はもっと横柄な方が多かったものですが」
「そうですか」
「ええ、ええ。さあ、宿にご案内しましょう。それから現場に行かれますか、それとも明日にされますか」
冴優は時計を見ると午後五時半を過ぎようとしている。
「今日のうちに、現場を見ておきたいのですが」
「承知しました」
二人は宮本の自転車——後輪に荷物カゴが付いた古いものを押しながら歩いた。宮本は冴優に町の話をする。糸原町は人口およそ二千。中心に紡績工場があり町の経済はその工場を中心に回ってきた。しかし最近は工場の業績が悪くなり町全体に活気がなくなってきている。と、
「最盛期にはこの町の働き手の半数以上が梶原の工場で働いていました」「女工さんたちが寄宿舎で寝起きしていてね。朝晩、町の中を女工さんたちの声が響いていたものです。今は——半分以下になりました」
「景気の問題ですか」
「機械の進歩——ですかね。安い化繊が出てきて糸原町のような天然繊維中心の小さな工場は太刀打ちできなくなった。そういう時代の波を梶原家もかぶった」
宮本は寂しそうに微笑み、
「私は糸原町で生まれ育ちました。父も、祖父も、糸原町でした。この町の景色が年々色褪せていくのを長く見てきました」
二人はしばらく無言で歩く。町の中央通りを抜けると川にかかる小さな橋がある。橋の下で川が静かに流れていた。冴優は川を見ながら霧無村の川を思い出した。橋の下で加代という少女が見つかった。清水の事件のことを。
川はしばしば事件と関わる。と、冴優は思う。
なぜだろう。流れるものが、人の感情の流れと——どこかで通じているからだろうか。
「梶原工場、というのが、この町の紡績工場ですか」
「ええ。梶原家は、糸原町の創業家でしてね。曾祖父の代から紡績で財を成した家です。今の当主が——殺された梶原恒夫さんでした」
「町の中で梶原さんはどのように見られていましたか」
宮本は少し躊躇した表情を浮かべる。
「これはまあ、地元の感覚ですから——客観的とは言えませんが、」
「結構です。教えてください」
「梶原恒夫さんは町の人間からは——あまり好かれていませんでした」
宮本は言葉を選びながら、
「先代の旦那様、つまり恒夫さんのお父様は立派な方でした。工員にも優しく町の人間にも気を配る方で梶原家は町の誇りでした。しかし恒夫さんは——お父様とは違うタイプの方でした」
「違う、と言うのは」
「厳しい方でした。工員には厳しく給料の支払いも遅らせる。家族にも厳しい——と聞いていました。これは私が直接見たことではなく町の中で耳にしたことですが、」
「お家の中のことについて、もう少し聞かせてください」
宮本は少し言葉を詰まらせ、
「これは——本当に、私が直接見たわけではないので、噂の域を出ません」
「噂でも結構です」
「梶原家には奥様の澄江さんと恒夫さんの弟の隆さんが住んでいます。澄江さんは——失礼な話ですが痣を見せて歩いていることがあります。冬でも長袖でも首筋などに青い痣が見えることがあった。町の女衆は、皆、わかっていました。澄江さんが、ご主人から——」
「——殴られていた。と、いうことですね」
「そういう話はありました」
「弟の隆さんは」
「隆さんは四十二歳ですか。今は工場の経理を任されていらっしゃいます。兄である恒夫さんに、頭が上がらない方でした。恒夫さんが厳しく叱っているのを町の人間が見たという話もあります」
「お二人は家から出ようとはしなかったのですか」
「澄江さんは嫁いで十五年です。頼れる実家もない方ですから、家を出るというのは——難しかったのでしょう。隆さんは、お兄さんの会社で働いている。生活の基盤が、すべて梶原家にあった」
「逃げ場のない二人。と、いう事ですか」
「そう言ってしまうと——身も蓋もありませんが、」
逃げ場のない二人。両方が、被疑者になりうる二人。
自転車のタイヤが、土の道を踏む音が、夕方の町に静かに響く。
——————
梶原家は町の北側、川沿いの少し小高い場所にあった。古い屋敷。塀は石垣、その上に瓦屋根の塀。立派な門。門の中に入ると広い庭。手入れは行き届いているがどこか冷たい空気の流れる庭であった。木が剪定されすぎており不自然なほど整っている。冴優は庭を見渡す。と、木々が——ほとんど葉を落としていた。冬だから当然のことだ。しかし、葉のない木の枝が不自然なほど整然と並んでいる。誰かが執拗に剪定した跡だった。庭そのものが人間の意志に押さえつけられているような感じがした。
「この庭は、誰が手入れを?」
「梶原恒夫さんご自身です」「庭仕事が趣味でいらっしゃいました。週末になるとご自分で剪定をされていた。と、聞いています」
「奥様や弟さんはお手伝いを?」
「ほとんどなさらなかったようです。庭は——ご主人の領分でした」
庭一つにしても梶原恒夫の支配の領域だった。と、いうことだ。
「奥様は今、町の旅館に滞在されています」「自宅にいらっしゃる気にはなれない、と」
「弟さんは」
「同じく別の宿に。お二人とも警察から連絡が取れる場所にいてもらっています」
二人は屋敷の中へと入る。玄関は広く木の床が黒光りしている。長年使われた木の質感。家中にわずかな線香の匂いが残っている。仏壇が近くにあるのだろう。
玄関の脇に大きな下駄箱があり冴優は何気なく目を向けた。男物の革靴が二足並んでいた。一足は新しめの黒い革靴。もう一足は使い古された茶色のもの。亡くなった梶原恒夫のものか、あるいは弟の隆のものか。
そして——女物の草履が、一足だけ。一足だけ。と、いうのが冴優の中で引っかかる。妻と弟の二人が暮らしていた家にしては女物が少なすぎる。
「ご家政婦の方は」
「日中だけ近所の方が手伝いに来ています。住み込みではありません」
「では、家に普段いるのはご夫婦と弟さんの三人だけですか」
「ええ。お子さんはいらっしゃいませんから」
子供がいない夫婦と、独身の弟、三人だけの家。妻が殺人の現場に近いところにいた。とらいうアリバイの脆さがここにある。
「現場は離れの書斎です。こちらへ」
宮本は冴優を案内する。母屋の廊下を抜け渡り廊下を渡り離れに着く。離れは木造の二階建。一階が書斎、二階が物置だった。と、宮本は説明する。書斎の入り口に警察の立ち入り禁止のテープが貼られていた。
「中は」
「現場保存をしてあります。鑑識の作業は終わりましたので、入っていただいて結構です」
冴優は書斎に入る。と、そこは広い洋風の部屋であった。重厚な机、革張りの椅子、壁には書架が並んでいる。本がぎっしり詰まっている。床には絨毯が敷かれている。壁の書架の本は——ほとんど洋書であった。経済書、経営書、法律書。背表紙が金色に光っている。実用書ばかりで文学や詩の本は一冊もなかった。梶原恒夫という男の興味の範囲が見えてくる。経営者として有能であろうとし続けてきた男の書架だった。
机の上には、ペン立て、書類入れ、青銅の置物——文鎮らしきものは確かに今はない。鑑識が持って行ったとのことだ——そして、写真立てが一つあった。
冴優は写真立てに近づき、古い、白黒の写真だった。家族写真。父と母らしき夫婦が中央に座り、その後ろに二人の少年が立っている。少年たちは八歳くらいと、四歳くらい。兄が梶原恒夫、弟が梶原隆だろう。
写真の中の恒夫少年は笑っていなかった。じっと、カメラを見ていた。怒っているような、何かを我慢しているような、複雑な表情。八歳の少年とは思えない硬い顔であった。隆少年は——兄の隣で半分隠れるように立っていた。少しだけ、はにかんでいる。兄に守られ、そして同時に、兄を恐れているようにも見える顔である。両親はどちらも厳しい顔をしていた。家族写真というよりは——記念写真のためのポーズに過ぎない。と、いう感じだった。冴優はその写真をしばらく見ていた。梶原恒夫という男の子供時代がここにあった。そして弟・隆との関係の原点もおそらくここにあった。そして机の前、絨毯の上に、人型の白いテープが残されていた。梶原恒夫が倒れていた場所。テープは机を背にして倒れた人型を示している。頭は机の方を向き足は部屋の入口の方を向いている。机の上に書類とペン、そして書きかけの手紙のような紙が一枚あった。
「机の上のものは、そのままです」
「凶器は、何でしたか」
「鈍器です。書斎の中にあった青銅の文鎮でした。机の上に置いてあったものを犯人が振り上げて打った。と、推定されます」
「文鎮は」
「鑑識に持って行かれました。指紋は——拭き取られていました」
冴優は頷き、
「殺害時、被害者は机に向かっていたのでしょうか」
「机の上の書類とペンの状態から書き物をしている最中だったと考えられます」
「ご家族——奥様や弟さん——は書斎にどれくらい立ち入っていたのですか」
「日常的にはほとんど立ち入っていなかったようです。書斎は梶原恒夫さんの『神聖な場所』で家族でも勝手に入ることは許されていなかった。と、聞いております」
「『勝手に入ることは許されていなかった』というのは興味深い言い方ですね」
「奥様の証言です。普段はお茶を出すときくらいしか入らない。と」
冴優は書斎を一周する。窓は閉じていた。鍵もかかっている。鑑識によると犯行時も窓は閉まっていたとのことだった。書斎の出入り口は廊下に面した一つの扉だけ。つまり——犯人は、廊下から入ってきた人間だ。家の中の人間。と、いうことになる。
「外から入った可能性は」
「玄関には鍵がかかっていなかったそうです。日中、家政婦が出入りしますし、家の人間も鍵を厳密にはかけない習慣だった。と。ですから、外部からの侵入の可能性も完全には排除できません。しかし——」
「しかし?」
「物色された痕跡はありません。金庫も無事です。財布も机の引き出しに残っていました」
「強盗の線は薄い」
「ええ」
冴優は机の上の書きかけの紙を見た。近づき、覗き込む。万年筆で書かれた達筆な男の文字。書きかけだった。
「澄江へ」
冒頭に書かれていた。
「ありがとう、と言わねばならぬのだろうか。お前と」
そこで、ペンが止まっていた。冴優は息を止める。梶原恒夫は——妻に対して何かを書こうとしていた。ありがとう。と、そして——「澄江へ」「ありがとう」
これは、何を意味しているのか。冴優は手紙の文字をもう一度読み返す。筆跡は力強かった。経営者として書類に慣れた人間の文字。しかし——「ありがとう、と言わねばならぬのだろうか」という言い方には何か躊躇いがあった。
「ありがとう」という素直な感謝の言葉ではない。「言わねばならぬのだろうか」と、自問している。
夫婦の間で感謝を伝えることに躊躇いがある。それは——普通の夫婦ではない関係性を示している。もし——梶原恒夫が妻に対して長年、加害者であり続けたとしたら。そして、何かのきっかけで妻に感謝の言葉を伝えようと思ったとしたら。その「ありがとう」は不器用なしかし重い言葉になる。「お前と」の続きには、何が書かれるはずだったのか。「お前と過ごした時間」「お前と暮らしてきた日々」「お前との別れ」——様々な可能性があった。冴優は手紙を見つめながら、考える。この手紙を書いている最中に梶原恒夫は殺された。もし犯人が——澄江本人だったとしたら。
彼女は夫がこの手紙を書いていることを知っていたのか。
「宮本さん」「この手紙のことを、奥様や弟さんは知っていらっしゃいますか」
「いえ。鑑識にもまだ詳しく調べていません。封がされていない、書きかけのものですから——殺害現場の机の上の書類として、保存しているだけです」
「これは重要な証拠かもしれません」
「と、おっしゃると」
「梶原恒夫が妻に何かを伝えようとしていた。それが何だったかは分かりません。しかし、書いている最中に殺された。と、いう事実が何かを示しているかもしれません」
冴優は手帳を取り出し書きかけの文章を写し取る。
「澄江へ。ありがとう。と、言わねばならぬのだろうか。お前と——」
「お前と」の続きが、知りたかった。そして冴優の中で、もう一つの考えが浮かんでいた。梶原恒夫は——殺される予感を持っていたのか。だから、妻への手紙を書こうとしていた——遺書めいたものを?現場検証を終え、冴優は宿に戻る。夜が深まってくる。商店はすべて閉まっており町の灯りはまばらになってくる。雪はなかったが、空気は氷のように冷たくなってきた。冴優の吐く息が白く流れる。宿への道、宮本は冴優にいくつか町のことを話した。冬は雪が降ること。春になると山桜が咲くこと。夏は水が冷たく子供たちが川で遊ぶこと。秋は紅葉が美しいこと。糸原町の四季の話だった。それは、町の人間が自分の町を愛している話し方だった。こういう町で暴力を振るう男がいて女と弟がそれに耐えていた。そういう物語が町の四季の中で進行していた。それを思うと冴優の中に何か重いものが落ちてくる。宮本が手配してくれた宿は糸原町に一軒だけある旅館。古い木造の二階建てで玄関に「白雲館」と書かれた看板が出ている。女将が冴優を出迎えた。痩せた、五十代くらいの女性。
「お部屋にご案内します」女将は静かに言う。
二階の角部屋に通される。八畳の和室。床の間に小さな掛け軸。火鉢が一つ置かれていた。
「お夕食は、何時頃に」
「七時頃でお願いします」
「承知いたしました。では、お風呂は——」
「後でいただきます」
女将が下がった後、冴優は鞄を畳の上に置き、窓の障子を開ける。雪はなかったが暮れた空が冷たく重く垂れ、町の灯りが遠くに散っていた。冴優は火鉢に手をかざす。そして気づいた。この旅館に梶原家の妻——澄江——が滞在しているのだ。「白雲館」は糸原町に一軒だけの旅館。彼女が「町の旅館」に滞在していると宮本が言ったのならここしかない。
冴優は部屋を出て女将に問うた。
「梶原澄江さんは、こちらに?」
女将はわずかに目を伏せ、
「ええ。離れの一室に、おいでです」
「お会いすることは、可能でしょうか」
「明日になさってはいかがでしょうか」女将は静かに、「奥様は、お疲れになっていらっしゃいます」
今日のうちに無理に会う必要はない。明日、改めて。
「わかりました。明日、伺います」
冴優は部屋に戻る。夕食まで一時間ほどあり、手帳を開き、今日見たこと、聞いたことを整理した。梶原恒夫——五十二歳、工場主。妻と弟に暴力を振るっていたとされる男。書斎で撲殺された。机の上の書きかけの手紙——「澄江へ」「ありがとう」。
梶原澄江——妻、十五年前に嫁いできた。長年の暴力に耐えてきた。今、この旅館の離れにいる。梶原隆——弟、四十二歳。兄に頭が上がらなかった男。経理を任されていた人物。冴優は明日の動き方を考えた。まず宮本巡査と合流して二人の証言を改めて聞く。澄江と隆、別々に。それから工場に行き、工員たちにも話を聞く。町の人間にも、聞き込みを広げる。地道な作業だ。しかし、霧無村の事件で学んだことがあった。
急いではいけない。急ぐと人は嘘をつく。話したいことを話してくれるまで、待つ。冴優は手帳を閉じる。
そして、火鉢の前に座りしばらく窓の外を見ていた。
——————
夕食は女将が部屋まで運んでくる。地味だが丁寧な献立であった。山菜の煮物、川魚の塩焼き、白菜の漬物、味噌汁、白米。冴優は静かに食べる。食事の途中、女将が控えめに、
「あの——刑事さん」
「はい」
「梶原様のことでお調べになっていらっしゃるのですよね」
「ええ」
女将は少し躊躇いながら、
「梶原の旦那様は、よくこちらにいらっしゃっていました」
「梶原さんが、こちらに?」
「ええ。ご商売の関係で、お客様をご接待されることが多くて。当館の二階の宴会場をお使いいただいていました」
「そうですか」
「あの——」女将は声を落とし「奥様のことを、聞いていただけませんか」
冴優は箸を置き、
「奥様について何かお話があるのですか」
「奥様は本当に——お辛いことが多かった方です。それだけ申し上げておきたいのです」
「具体的には」
「奥様は時々、お茶のお稽古などでこちらに来られていました。お話する機会があったのです。奥様は、滅多にご自分のことを話さない方でしたが——たまに漏らされることがありました。『家にいるのが、息苦しい』と」
「息苦しい」
「ええ。それから——『私は何のために生きているのでしょう』と、ぽつりと」
女将は目を伏せ、
「奥様は優しい方です。誰にも迷惑をかけない、慎ましい方でした。あの方が、こんな目に遭っていらっしゃることが——女将として、ずっと胸が痛んでおりました」
「どうか——」「奥様のことを、よく見てやってください。優しく、見てやってください」
「わかりました」冴優は静かに頭を軽く下げる。女将は深く頭を下げ、部屋を出ていく。冴優は箸を取り食事を続けた。しかし、頭の中では女将の言葉が反響していた。奥様のことを、よく見てやってください。
優しく、見てやってください。もし——澄江が犯人だったとしたら。もし——彼女が、長年の暴力の末に夫を殺したのだとしたら。冴優の中ですでに同情が芽生えていた。そして冴優は清水の言葉を思い出す。
『同情は、後にしろ。後で、ゆっくり同情していい。しかし対面しているときは——刑事の目で見ろ』
冴優は静かに食事を終え、食後、冴優は風呂に入った。木造の古い風呂場で檜の浴槽。湯は熱く冴優はつい長湯してしまう。汽車の旅と、寒さ、そして現場検証の緊張で、体が硬くなっていたのか湯の中でゆっくりと解れていった。湯気の向こうに霧無村の宿の風呂が浮かぶ。あの場所で清水と一緒に過ごした時間。清水は風呂の中でも煙草を吸っていて——いや、それはない、煙草を吸っていたのは部屋でだった。と、冴優は思い出を訂正する。記憶が少しずつ脚色されつつあるのかもしれない。半年——半年経った。と、冴優は思った。半年で人は何が変わるのだろう。清水は退院し療養している。冴優は新しい相棒と仕事をしながら清水の遺した手帳を机の引き出しに置いている。霧無村のことは冴優の中でいつでも取り出せる場所にしまわれている。そして今、糸原町に来た。新しい事件、新しい町、新しい人々。しかし——既視感があった。家の中の暴力、逃げ場のない人間、町の沈黙、そして殺人事件。霧無村と、骨格が似ている。冴優は湯の中で、目を閉じる。似ている。と、いうのは危険な感覚かもしれない。と、冴優は思う。霧無村と糸原町は、別の場所、別の人間、別の事件だ。先入観で見てはいけない。霧無村のパターンを糸原町に当てはめてはいけない。冴優は自分に何度も何度も言い聞かせる。湯から上がり部屋に戻る途中——冴優は廊下で人とすれ違う。細身の女性。地味な紺色の着物。髪を結っていた。年齢は——三十代後半か四十前くらい。二人は廊下ですれ違うとき、わずかに視線が合った。廊下の豆電球の薄い光の下で女性の顔が一瞬はっきり見えた。色白で整った顔立ちだった。が、頬がこけていて、目の下に深い影があった。長く眠れない夜を過ごしてきた顔の様に感じた。そして——首筋に、薄く、痣があった。着物の襟元からわずかに見える肌に薄い青色の痣——ほとんど消えかけているが、確かにある。冴優はそれを見て息を止めた。宮本が言っていた話が実物として、目の前にあった。女性は深々と頭を下げ、冴優も、軽く会釈をする。二人はそのまますれ違う。冴優は部屋の前まで来て、振り返る。女性は廊下の奥へ向かって歩いていく。離れの方向。背中も細かった。着物の帯がしっかり締められているのにそれでも体の細さが分かるほどだった。長く食欲のない人間の体だ。冴優は気づいた。あの女性が、梶原澄江だ。と、
一目見ただけで、冴優には分かった。なぜ分かったのか自分でも説明できない。しかし、確かに分かったのだ。町の人間も、女将も、宮本も、みな澄江を「優しい方」「お辛いことが多かった方」と呼んでいた。あの女性の歩き方、あの礼の仕方、あの静かな視線——それらが、皆の言う「澄江」と一致していた。冴優は部屋に入り障子を閉め、火鉢の前に座る。澄江の姿が目の裏に残っていた。細身の体。地味な着物。深々とした礼。そして——あの一瞬の視線。冴優の中で、何かが引っかかっていた。あの視線には——何か、奇妙なものがあった。普通、夫を殺された——あるいは殺された容疑のある——女性が見ず知らずの刑事と廊下ですれ違った時はもっと動揺するはずだ。あるいは少なくとも何かしらの感情が顔に出るはずだ。しかし、澄江は——平静だった。いや、平静というより——どこか、虚ろだった。冴優は手帳を取り出し、そして書いた。
「梶原澄江——廊下ですれ違う。視線、奇妙なほど穏やか」「あるいは、虚ろ」「明日、改めて確認」
冴優は手帳を閉じる。
——————
その夜、冴優はなかなか寝付けずにいた。布団に入っていたが頭の中が冴えてしまっている。明日からの捜査の段取り、澄江と隆への質問の組み立て方、町の人間からの聞き込みの順序——様々なことを考えていた。廊下で誰かが歩く音がした為、冴優は耳を澄ます。足音は廊下の奥から——離れの方向から——来ている。ゆっくりとした、慎重な足音。布団の中で身を起こす。と、足音は冴優の部屋の前を通り過ぎ階段を降りていった。冴優は障子をわずかに開け、廊下を覗いてみる。と、廊下は薄暗く豆電球が一つだけ点いている。階段の方から足音はもう聞こえなかった。冴優は障子を閉め、時計を見る。深夜一時を過ぎていた。こんな時間に誰かが旅館の中を歩いていた。足音の質感から女性のものだと冴優は感じていた。重さがなく、慎重な、けれど、足取りは弱い。
澄江だ。と、冴優は思う。
澄江が深夜に何かをしている。冴優は再び布団に潜り込んだ。しかし、目は冴えていた。——澄江はどこに行ったのか。そして——なぜ、こんな深夜に。翌朝、冴優は早く目が覚める。時計に目をやると七時前。窓の外はまだ薄暗い。冴優は身支度を整え火鉢に新しい炭を足す。七時半、女将が朝食を運んでくる。冴優は食事をしながら、女将に問う、
「昨夜、深夜に廊下を歩く方がいらっしゃいました」
女将は箸を運ぶ手を止め、
「そうでしたか。お騒がせしましたか」
「いえ、騒がしくはありませんでした。ただ、誰だったのかと」
女将は少し躊躇した面持ちで、
「奥様だと思います」
「澄江さんですか」
「ええ。奥様は——夜、お眠りになれないご様子で。時々、廊下を歩いていらっしゃいます」
「どこへ行かれるのですか」
「玄関までです。玄関で——少し、外をご覧になって、戻られる、ということが多いようです」
「外をご覧になる」
「ええ。玄関の戸を開けて外の冷たい空気を吸って、星を見て、戻られる」
夫を失った妻が夜眠れない——それは自然なことだった。眠れないから、廊下を歩き、外気を吸う。それは、むしろ普通の反応だ。
しかし、何かが——冴優の中で引っかかってしまう。
「奥様はいつ頃からそうなさっているのですか」
「事件の翌日からです」
「事件の翌日——つまり、昨日の朝、こちらに移ってこられた。と、いうことですか」
「ええ。昨日の昼前にいらっしゃいました」
「ご自分の意志でこちらに?」
「警察の方から『家にいると気持ちが落ち着かないでしょう』と言われて——というお話でした」
食事を終え、冴優は宮本巡査と落ち合うために宿を出る。町の朝は静かだった。商店もまだ開いていない時間帯。学校に向かう子供たちが寒そうに歩いている。冴優は冬の地方の朝の空気を深く吸う。駐在所の前で宮本が待っている。
「おはようございます」宮本は頭を下げ、「よくお休みになれましたか」
「ええ、おかげさまで」
二人は駐在所に入る。狭い部屋に机が二つ。一つは宮本のものでもう一つは冴優のために用意されていた。
「猿島刑事、今日のご予定は」
「まず、奥様のお話を伺いたいと思います。それから弟さんも」
「承知しました。お二人とも、お話する用意はあると言っていました」
そのとき。駐在所の入り口の戸がガラリと開く。と、そこには人影が一つ立っていた。冷たい朝の空気が戸口から流れ込んでくる。人影は、冴優と宮本を見て、深く頭を下げる。
「お早うございます」
女性の声。冴優は息を呑む。——梶原澄江であった。昨夜、廊下ですれ違ったあの女性が——朝早く駐在所の戸口に立っているり
「奥様」宮本が立ち上がり「どうなさいましたか」
澄江はゆっくりと駐在所の中に入り、そして、冴優を見つめる。冴優の目をまっすぐに見つめ、
「猿島刑事さん、ですね」澄江は静かに口にする。
「ええ」
「お話があります」
澄江は深く息を吸い、そして、はっきりと、
「——夫を殺したのは、私です」
駐在所の中がしんと静まり返る。宮本が立ち上がったまま、固まっていた。冴優は澄江を見つめている。澄江の顔は青白かった。化粧はしていない。髪は丁寧に結われていたが、頬に化粧はなく、唇は荒れている。眠れない夜を何日も過ごした顔。時間が奇妙に伸びた感覚が覆う。冴優の頭の中で清水の言葉が反響する。『自白が必ずしも真実ではない』。半年前、霧無村で学んだことが、今、目の前で試されようとしている。信じる、信じないではない。ただ、聞く。そして、その奥にあるものを見つける。
「奥様」冴優は静かに「今、何をおっしゃいましたか」
「夫を殺したのは、私です」澄江は繰り返し、「自首します」
「お座りください」冴優は椅子を引く。
澄江は座る。背筋を伸ばし、膝に手を揃え、
「奥様、落ち着いてください。お話を伺います。しかし、今のお話は——」
「真実です」澄江は静かに告げる。そのときだった。駐在所の入口の戸が、再び開く。冷たい風が、また流れ込んできた。人影が立っている。男だった。中肉中背、四十前後。コートを羽織り手に小さな鞄を持っている。
男は冴優を見るなり深く頭を下げる。
「お早うございます」
男は宮本を見ながら、
「宮本さん。すみません、朝早く——」
「隆さん」宮本が呟く。
梶原隆。梶原隆——殺された梶原恒夫の弟。彼が朝早く駐在所に。隆は駐在所の中に入る。そして——澄江を見た。二人の視線が合った。一瞬。冴優は二人の視線を見ていた。そこに——驚きはない。
澄江は——隆がここに来ることを、分かっていた。
隆も——澄江がここに来ることを、わかっていた。
そう、冴優は感じた。二人は互いの存在に驚いていない。
「義姉さん」隆は静かに、
「隆さん」
「やっぱり、来てしまわれたのですね」
「あなたも、ですね」
二人の会話は、短く、静かなものだった。そして隆は冴優の方を向き、
「猿島刑事さんですか」
「ええ」
「自首します」隆は告げる。「兄を殺したのは、私です」
駐在所の中が、再び静まり返る。時間が止まったように。冴優は二人の自首者を交互に見た。
梶原澄江——夫を殺したと自白する妻。
梶原隆——兄を殺したと自白する弟。
二人とも同じ朝に、別々に、駐在所へ。二人とも、自分が殺したと言っている。これは——どういうことだ。冴優の頭の中で可能性が並び始める。
一つ。どちらか一人が嘘をついている。一人は本当の犯人でもう一人は何らかの理由で身代わりに自首した。
二つ。二人で示し合わせてどちらが先に自首するか決めずに来た。一人の犯行を二人で混乱させ捜査を撹乱しようとした。
三つ。二人とも本当に犯人だと思い込んでいる。しかし実際の犯人は——別にいる。
可能性はいくつもあった。そしてどれが真実か現時点では判断できなかった。澄江は隆を見た。隆は澄江を見た。
そして——澄江はゆっくりと首を振る。
「いいえ」「夫を殺したのは、私です」
「義姉さん、嘘はやめてください」
「嘘はついていません」
「義姉さんが——できるはずがない。あの男は義姉さんよりずっと大きかった。義姉さんが鈍器で打って倒せるわけがない」
「打ったのは私です」
「義姉さんの腕では文鎮を振り上げて兄を打ちのめせない」
「打ちました」
「義姉さん——」
「隆さん」澄江は遮り「あなたが私を庇おうとしていることはわかります。しかし、私が殺したのです。私を庇わないでください」
隆は澄江を見つめ、そして、深く息を吐いた。
「義姉さんこそ、私を庇おうとしないでください」
二人の言い争いが駐在所の中で続く。冴優は両者を見ていた。どちらも——本当のことを言っているような目をしている。
どちらも——相手を庇おうとしていた。
そして二人の言葉の中に、一つの確かな共通点があった。どちらも相手を「庇う必要がある」と感じている。と、いうことは——どちらも自分が殺したことを確信している。つまり——どちらか一人が嘘をついているのではない。二人とも自分が殺したと、本気で信じている。冴優の頭の中で何かが動き始める。
そして、清水の言葉が浮かぶ。
「自白が必ずしも真実ではない」
霧無村で学んだことが糸原町で——再び、形を変えて現れた。冴優は二人の自白を両方聞かなければならない。そして、その奥にある真実を見つけなければならない。
「お二人とも」冴優は静かに、「お話を、伺います。しかし、別々に、お話を伺いたい。それで、よろしいでしょうか」
澄江と隆はそれぞれ頷く。
二人の目には——もう、お互いを見る視線はなかった。それぞれが、それぞれの自白を、これから語るのだ。
駐在所の壁の時計が鈍く時を刻む。冬の朝の光が窓から細く差し込んでいた。糸原町の冬はここから——本当に始まる。そして冴優は確信する。
——この事件は、簡単には終わらない。
二人が「自分が殺した」と言ったときそれは——どちらかが嘘をついている。と、いうことではない。二人とも、本気で、自分が殺したと信じている。そういう目を二人はしていた。と、いうことは——どちらも何かを知らない。自分が殺したと信じるだけの十分な理由が二人それぞれにある。二人の知らないところで別の何かが起きていた。冴優は手帳を取り出し、新しいページを開く。
「梶原澄江、梶原隆——同日に自首」
「両者、自分が殺したと主張」
「相手を庇っているのか。それとも——本人たちは、自分が殺したと信じているだけなのか」
冴優はペンを止め、
「もし後者なら——本当の犯人は、別にいるということになる」




