終章 散りぬる
翌日、冴優は東京に戻る。綾奈は霧無村に残った。冴優は彼女を逮捕しなかった、できなかった。逮捕する理由が見つからなかったからなのか。綾奈の自白は刑事に対する自発的な告白であった。録音もしていない。物的証拠は、何もない。彼女が「波多野を後押しした」と、彼女自身が認めたとしても、それを「殺人教唆」として立証するのは極めて困難だった。冴優は、綾奈の自白を自分の手帳にだけ書き留める。そしてそれを誰にも公表しなかった。公表しても、何も変わらないからだ。綾奈はこれから霧無村で一人暮らしを続けるだろう。やがては霧無村を出て別の土地で生きていくかもしれない。彼女は、自由だった。
冴優の中に、あの夜の綾奈の表情が、焼き付いていた。
空虚な目。冷たい微笑み。淡々とした告白。
彼女は、人を殺していない。しかし、人を死なせていた。彼女は、罪を犯していない。しかし、罪深い人間だった。そういう人間が、世の中にはいる。冴優は、それを学んだ。
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夏が来た。冴優は新しい事件を抱えていた。日々の捜査の中で霧無村のことは少しずつ遠くなっていった。しかし、ある日。冴優は新聞の片隅に、小さな記事を見つけた。
「霧無村で、女性死亡」
見出しを見て、冴優は息が止まる。
「○月○日、霧無村に住む遙堪綾奈さん(三十一歳)が自宅で死亡しているのが発見。警察は事件性はなく自殺と判断している。遙堪さんは昨年の中央官僚殺害事件の被害者の関係者としてメディアに名前が出ていた」
冴優は新聞をしばらく見ていた。
———綾奈が、自殺した。
冴優は何かが胸に落ちてくるのを感じる。彼女は——自由ではなかったのかもしれない。彼女は兄を支配することで自分のアイデンティティを保っていた。兄が死に、来栖が死に、彼女の支配する対象がいなくなった。彼女は、自分が何のために生きているか、わからなくなったのではないか。
あるいは——冴優の存在が彼女に影響を与えたのかもしれない。冴優が彼女のことを記憶する。それが、彼女にとって耐えられない重さになったのかもしれない。どちらにせよ、綾奈は自分で——終わりを選んだ。冴優は新聞を畳み、机の上に置く。そして、清水に電話をかけた。
「俺だ」
「綾奈が——亡くなりました」
清水は、長い沈黙の後で、
「そうか」
「自殺だそうです」
「そうか」
二人とも、それ以上は何も言わなかった。窓の外で、夏の蝉が鳴いていた。
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数日後、冴優は霧無村に向かっていた。寂しい埋葬だったらしい。村人たちは最初から綾奈に距離を置いていた。あの事件以来、綾奈は村の中で目に見えない壁を背負って生きていた。冴優は墓地に立つ。綾奈の墓石は新しく、白かった。彼女の家族——両親、兄——の隣に、彼女の名前が刻まれている。
「遙堪綾奈 享年三十一歳」
冴優はその文字をしばらく見ていた。綾奈は家族と一緒にようやく落ち着く場所に戻ったのか。
それとも——この場所で、彼女は、彼女が憎んだ家族と、永遠に過ごすことになったのか。
冴優は手を合わせる。怒りはなかった。悲しみもなかった。ただ——重さがあった。
綾奈という女性が確かに、ここで生きて、ここで死んだ。彼女がしたことは、消えない。彼女が誰にも罰されなかったことも、消えない。彼女が最後に自分で終わりを選んだことも、消えない。すべてが、ここにある。そして冴優がそれを記憶している。
それで——十分だ。いや、十分ではないかもしれない。しかし、それしかなかった。
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冴優は霧無村を出る。バス停でバスを待っていた。空を見上げてみる。夏の青い空。雲がゆっくりと流れていた。霧無村にもこんな夏があるのか。と、冴優は思った。冴優の知っている霧無村は、霧と、雨と、晩秋の冷たさだった。今、目の前にある夏の霧無村は——別の村のように見えた。冴優の鞄の中に清水から受け継いだ手帳がある。そして——冴優自身の手帳も。二冊の手帳が冴優の鞄の中で静かに並んでいた。
冴優はバスに乗る。窓の外を霧無村が後ろに流れていく。山の稜線、緑の畑、白い壁の家々。冴優はそれを、最後まで目で追った。もう、霧無村に来ることはないかもしれない。そう思った。綾奈が死んだことで、霧無村と冴優を繋ぐものが、ほとんどなくなった。波多野は刑務所にいる。健治も刑務所にいる。堂島源蔵は執行猶予中で田辺は警察を辞めて村を出た。冴優が霧無村で会った人々は、もう村にはいない。
しかし——
冴優は思った。
霧無村で起きたことは冴優の中に永遠に残る。清水と出会った場所。清水が倒れた場所。冴優が、自分の刑事の形を作り始めた場所。そして——綾奈という、最も静かで、最も深い悪と、出会った場所。冴優は、これら全てを抱えて、これから生きていく。バスはゆっくりと山道を下っていく。
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東京に戻ると、清水が冴優を待っていた。清水の家。あの梅の木のある庭。今は梅の代わりに、紫陽花が咲き始めていた。
「お疲れさん」清水は縁側で煙草を吸っていた。
「ただいま、戻りました」
冴優は縁側に腰を下ろす。二人はしばらく何も言わずに庭を見ていた。
「綾奈の墓に、行ってきたか」
「ええ」
「どうだった」
「重かった、です」
「そうか」
清水は煙草を消し、
「冴優」
「はい」
「お前は、これから刑事として、もっと多くの——綾奈のような人間に会うことになる」
「ええ」
「法では裁けない悪。気の毒と許せないが、両方ある人間。事件が解けても、すっきりとしない結末」
「ええ」
「それを、抱え続けるのが——刑事の仕事だ」
冴優は深く頷き、
「清水さん」「あなたは、三十年間、それを抱えてきたのですね」
「ああ」
「重かったですか」
清水は少し考え、
「重かった」清水は静かに「しかし——その重さに、意味があった、と俺は思っている」
「意味、ですか」
「ああ。事件の重さを抱える人間がいることで——死んだ人間が、誰かに記憶される。法では裁けなかった真実が、誰かの中に残る。それは、何の役にも立たないように見えて——確かに、何かを残している」
「綾奈のことも、残るのですね」
「お前の中に、残る。そしていつか、お前が誰かに渡す。次の世代の刑事に。あるいは、別の形で、誰かに」
冴優は深く頷く。
「清水さん」「あなたが残してくれたものを、俺は——大切に持ち続けます」
「それでいい」
二人は再び、庭を見る。紫陽花の青が、夏の光の中で、揺れていた。
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霧無村で起きた事件は、ここで終わりを迎える。波多野は罪を背負い、健治は罪を背負い、堂島源蔵は罪を背負い、田辺は罪を背負った。そして綾奈は——罪を背負わないまま、自分で終わりを選んだ。法では裁けない悪があった。それは、確かにあった。
しかし——記憶する人間がいる。
猿島冴優という、若い刑事が、それを記憶した。そして清水雅哉という引退した刑事がその記憶を支えた。何が解決し、何が解決しなかったのか。それは、わからない。
しかし——人が生きるとは、そういうことだ。と、冴優は思った。すべてが解決する人生はない。すべてが報われる人生もない。法では裁けない悪と、報われない努力と、誰にも知られない真実が、世の中には満ちている。それでも、人は生きていく。覚えている人間がいるかぎり——何かは、続いていく。
冴優は清水の家を後にして、自分のアパートに戻った。机の上で、二冊の手帳を並べてみる。清水の三十年分の手帳。冴優自身の、まだ薄い手帳。冴優は新しいページを開く。そして、書いた。
「遙堪綾奈について」
「彼女は、誰にも罰されずに、自分で終わりを選んだ女だった」
「私は、彼女を記憶する」
「それが、私にできる、唯一のことだ」
冴優は手帳を閉じる。
窓の外で、夏の夕方が、ゆっくりと暮れていった。
散りぬる霧に。
冴優の道は、これから続く。清水が積み上げた重さを、冴優は抱える。綾奈の罪を冴優は記憶する。そしていつか冴優も誰かにこれらすべてを渡す日が来る。それまで冴優は歩いていく。散ろうとする霧の中を。一歩ずつ。
猿島冴優の物語はいかがでしたでしょうか。長編は約10年ぶりに書いたので書きたいことが多く集中して書き切ることができました。終章まで読んで頂いた皆さまに感謝を致します。
彼の物語はこれからも続きます。
皆様も彼がどういう警察になるか、どの様な女性を愛し、どんな人生を全うするのか。是非、見届けてあげてください。よろしくお願い致します。
ネタバレを一つだけ。清水はまた出てきます。彼は昭和のベテラン刑事。ちょっとやそっとの怪我ではヘタレません。




