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散りぬる霧に  作者: masaya
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五章 白い手紙(後編)

冴優は東京に戻り波多野医師が収監されている刑務所に面会を申し込んだ。捜査の一環、という名目であの事件の追加調査が必要になった。と、冴優は申請書に記入をする。完全な嘘ではない。冴優の中で捜査は確かに続いていた。面会日は三日後に許可される。冴優は刑務所に向かう電車の中で清水の言葉を反芻する。

「綾奈に向かい合うとき、お前は刑事として向かい合え」

今日冴優が向かい合うのは綾奈ではない。波多野であった。波多野もまた、刑事として向かい合うべき相手である。波多野は事件の当事者で自白した実行犯。冴優は彼から、何かを聞き出さなければならない。それは——彼自身の真相について、ではない。彼が「知らずに利用された」可能性について、だ。

刑務所に到着する。古い建物。コンクリートの壁、鉄の扉、看守の足音。冴優は手続きを済ませ面会室に通される。仕切りのガラス越しに波多野が現れる。半年で波多野は痩せていた。頬がこけ、髪に白いものが増えていた。が、目は——変わっていない。あの灰のような、燃やし尽くした目。

「猿島刑事」波多野は静かに「お久しぶりです。お元気ですか」

「ええ。先生もお変わりなく」

「変わりは、あります」波多野は微笑む。「ここで暮らすと、人は変わります。しかし、悪い変化ではない気がします」

冴優は驚く。波多野の口調は穏やかであった。罪を背負った人間の重さはあったが苦悩していない。むしろ——解放されたような穏やかさが。

「先生」「今日は、確認したいことがあって伺いました」

「どうぞ。何でもお話しします」

「あの夜のことを、もう一度伺いたいのです。来栖さんを殺した夜のことを」

波多野はわずかに首を傾げる。

「同じ話になると思いますが、」

「ええ。同じ話で構いません。ただ——一つだけ、追加で伺いたいことがあります」

「どうぞ」

冴優は深く息を吸い、

「先生は、来栖さんが完全に呼吸を止めるところまで、確認されましたね」

「ええ。確認しました」

「どのくらいの時間、見届けたのでしょうか」

波多野は少し考え、

「茶を飲んでもらってから、薬が効いて意識を失うまで——三十分ほどでしょうか。それから呼吸が浅くなり、止まるまで——さらに二十分ほど。意識を失った後、私は来栖の脈と呼吸を何度か確認しました。最後に確認したのは、呼吸が止まってから十分後くらいです」

「呼吸が止まってから——十分後ですか」

「ええ」

「その後、先生はすぐに部屋を出られたのですね」

「いえ。密室を作る作業がありましたから——絹の糸を仕掛け、扉を閉め、糸を引いて閂を落とす。それから糸を抜き取る。十五分ほど、かかったと思います」

「では、先生が部屋を完全に出たのは、来栖さんの呼吸が止まってから——二十五分ほど後ということですね」

「そうなります」

冴優は手帳に書き込む。

「先生」「医師としての、ご経験から伺います。呼吸が止まった後、人間が再び呼吸を再開する可能性は——どのくらいでしょうか」

波多野は冴優を見る。と、

「再開する、というのは——蘇生する可能性、ということですか」

「ええ」

「呼吸が完全に止まって、心拍も止まれば、自然に蘇生することは稀です。しかし、深い眠りや、薬剤による意識喪失の場合——呼吸が極めて浅くなって、止まったように見えることはあります。脈拍も微弱になり、ほとんど触れなくなることがある」

「先生は、来栖さんの脈を、最後に確認されたとき——」

「触れませんでした」「呼吸も、止まっていました」

「触れない、というのは——本当に止まっていたのか、それとも極めて微弱だったのか、確実に判断できる状態だったのでしょうか」

波多野は、ここで初めて言葉を詰まらせる。

「….医師として、私は『死亡』と判断しました。しかし——」

「しかし?」

「絶対に確実だったか、と問われると——百パーセントとは言えないかもしれません。私は急いでいました。密室を作る作業に、心が向いていました。脈の確認も、徹底的にやったわけではない」

冴優は息を止め、

「では、もし——あのとき来栖さんがまだ生きていて、先生が部屋を出た後に、誰かが来栖さんに最後のとどめを刺した、という可能性は——あり得るのでしょうか」

波多野は冴優を見る。長い、長い沈黙。波多野の声はわずかに震え、

「どういう意味ですか」

「言葉通りの意味です」「来栖さんは、先生が部屋を出たとき、まだ生きていた可能性がある。そして、誰かが——その後、最終的なとどめを刺した可能性がある」

「そんな——」

「先生」冴優は静かに「私は今、可能性を伺っているだけです。確証は、まだありません。しかし、もしそれが事実だとすれば——先生が殺したのは、来栖さんではないことになる」

波多野は震える手で机を掴みながら、

「私は——殺したつもりです」「最後まで、見届けたつもりです」

「ええ。先生は、ご自分が殺したと信じていらっしゃる。それは事実です。しかし——もし誰かが、先生を利用した、としたら」

「利用した、とは——」

「先生が薬を盛ることを、誰かが知っていた。そして先生が部屋を出た後、その人物が来栖さんにとどめを刺した。先生は『自分が殺した』と信じ込んだまま、自首した。誰かは、それを利用して、自分の手を汚さずに来栖さんを消した」

波多野は震えている。

「誰が——そんなことを」

「先生に、心当たりはありますか。先生が来栖さんを殺すかもしれない、という可能性を——知っていた人物は、誰でしょうか」

波多野は深く考え込む。やがて、ゆっくりと顔を上げ、

「私は、誰にも話していませんでした」「殺すかもしれない、ということを。それは、私一人の中で、長く積み重なった決意でした」

「本当に、誰にも?」

「直接話したことは——ありません。ただ——」

「ただ?」

「漏らしていたかもしれない、と思うことが、今、あります」

「誰に、ですか」

波多野は冴優を見つめ、


「遙堪綾奈さん、です」



——————



波多野は、考えながら話しだす。

「綾奈さんは、私の患者でした。年に何度か、体調が崩れたとき、診療所にいらっしゃいました。それとお兄さんのことで、何度かご相談を受けました」

「ご相談、というのは」

「お兄さんを薬物依存にした原因について、お兄さんが立ち直る可能性について、施設での生活の相談、様々なことです」

「先生は、ご自身の弟さんのこともお話しになりましたか」

「ええ。綾奈さんは、よく聞いてくださいました。私の話を、本当に丁寧に。私はそれが——救いでした。同じ苦しみを持つ人と話せることが」

「来栖さんの話は、出ましたか」

波多野は少し考え、

「直接、来栖の名前を出したことは、ないと思います。しかし『あの男のせいで』とか『あの男さえいなければ』というような、漠然とした表現で、来栖の存在を匂わせることはあったかもしれません」

「綾奈さんは、それに対して何と」

「『そうですね』『悔しいですね』とおっしゃっていました。共感してくださった、と私は感じていました」

「綾奈さんが、先生に何かを誘導するようなことを、言ったことは」

波多野は黙り、そして、ゆっくりと——彼の表情が変わる。

「ありました」

「何を言われましたか」

「事件の数ヶ月前、診療所で、綾奈さんが言いました。『先生のような立場の人なら、あの男を消せるかもしれませんね』と」

「『先生のような立場』というのは——医師、という意味でしょうか」

「そう、私は理解しました。薬を扱える人間、という意味で。しかし綾奈さんは、その後すぐに『あ、すみません、変なことを言ってしまいました』と謝罪なさいました。冗談のような、口を滑らせたような、そういう感じでした。だから私は、深く考えませんでした」

「他に、似たようなことはありましたか」

「事件の半月ほど前——綾奈さんが診療所にいらっしゃったとき、来栖が村に来ることが噂になり始めていました。綾奈さんは、それを聞いていらっしゃったのでしょう。診察の最後に、綾奈さんは私に言いました。『来栖さん、村にいらっしゃるんですってね。先生は、お会いになりますか』と」

「先生は、何と」

「『会いたくはない』と答えました。綾奈さんは『でも、お会いになるのでしょうね。村医として、無視はできないでしょうから』とおっしゃいました」

「それから?」

「綾奈さんは続けて——『先生、無理をなさらないでください。何かあれば、私はいつでも先生のお話を聞きます』と」

波多野は震える手で額を押さえ、

「あれは——綾奈さんは、私が何かをするだろうと、わかっていたのですか」

「先生」

「はい」

「綾奈さんは、先生のことを丁寧に観察していました。先生がどう動くか、何を考えているか、長い時間をかけて見ていた。そして適切な時に、適切な言葉をかけた。先生の決意を、引き出すように」

「彼女は——私を、利用したのですか」

「まだ確証はありません。しかし、その可能性があります」

波多野はしばらく、何も言わなかった。そして、笑った。乾いた笑いを。

「もし、それが本当なら」「私は、来栖を殺したのではない。私は、綾奈さんに殺された——と言うべきかもしれません」

「先生」

「私の刑期は、変わりますか」

「変わらないと思います。先生は薬を盛り、結果として死をもたらす意図で行動した。それは事実です。しかし——」

「しかし?」

「真の犯人は、先生ではないかもしれません」

波多野はまた笑う。

「猿島刑事」「もし、それが真実なら——綾奈さんを、捕まえてください」

「ええ」

「私のためにではありません。私はもう、自分の罪を背負っています。それでいい。しかし、綾奈さんが平然と村で生きているとしたら、それはあの事件で、誰よりも罪を犯した人間が、誰よりも自由でいる、ということになる」

「波多野先生」

「綾奈さんを、見つけてください。そして、」

「そして?」

「もし綾奈さんが本当に犯人なら、彼女が言い逃れできない証拠を見つけてください」

冴優は深く頷く。



——————



冴優は東京に戻った日のうちに、当時の鑑識担当者を訪ねる。当時の検視を担当した法医学者——五十代の男性。冴優は事件の追加調査だと伝え、検視結果の詳細をもう一度確認させてもらう。

「来栖恭一郎の死因についてもう一度確認させてください」

「睡眠薬の大量投与による中毒死と判断されました」法医学者は資料をめくりながら、「血中の薬物濃度から、致死量を超えていました」

「他に、外傷はなかったのですね」

「外傷は——」「目立った外傷はありません。ただ、首の周りに、わずかな鬱血痕が」

「鬱血痕というと」

「枕やクッションのような、柔らかいものを顔や首に押し付けたような跡があるのです。ただし、明確な圧迫痕というほどではありませんでした。睡眠中に体が動いて、枕などが顔に触れていた、という可能性もある」

「そう判断されたのですね」

「ええ。死因は明らかに薬物中毒で、外傷的要素は決定的ではありませんでした。鬱血痕は副次的なものとして処理されました」

冴優は鞄から自分の手帳を取り出し、

「もしも、薬物で意識を失った人間に、枕などで窒息させた場合、どのような痕跡が残りますか」

「…猿島刑事——何か新しい情報があるのですか」

「可能性を探っているところです」「教えていただけますか」

法医学者はしばらく考え、

「薬物で深く意識を失っている人間を柔らかいもので窒息させると抵抗の痕跡が残らないことが多いです。薬物が深く効いていれば苦しさを感じる前に死ぬ。鬱血痕は外側からの圧迫の方向と強さによって変わります。柔らかいものでゆっくり押し付けた場合、明確な指の跡などは残らない。しかし、首の周りに微細な鬱血が残ることはある」

「来栖恭一郎の鬱血痕は、その可能性に合致しますか」

法医学者は資料を見直す。長い沈黙が続き、やがて法医学者は、ゆっくり口を開く。

「….合致します」

「合致——」

「あの鬱血痕は、深い眠りの中で枕が偶然触れたもの。と、判断しました。しかし、もう一度見ると——意図的に柔らかいもので窒息させた場合の鬱血痕とも、矛盾しません」

「先生」「もし、来栖恭一郎が薬物で意識を失った後、誰かが枕で窒息死させたとしたら——その『誰か』を、特定することはできるでしょうか」

「死体だけでは、できません。私が見たのは、五ヶ月前の死体だ。今となっては、」

「現場に、何か残っていれば」

「現場の枕は、押収されています。当時、念のため。微細な分析はしていなかったが、現物はまだ警察の証拠保管庫にあります」

「それを、再分析することは可能ですか」

法医学者は頷く。

「枕の繊維に、唾液や微量な体液が付着している可能性はあります。来栖恭一郎自身のものだけでなく、別の人物のものも——もし、その人物が来栖の顔に枕を強く押し付けていたなら」

「先生」「再分析を、お願いできますか」

法医学者は深く頷き、

「すぐ、手配します」



——————




分析結果は三日後。枕の繊維から来栖恭一郎以外の女性の体液が微量検出された。DNA鑑定はまだ一般的ではない時代だったが血液型は判明する。

「O型でした」法医学者は冴優に告げる。

綾奈の血液型を冴優は知らなかった。しかしO型は、日本人の中で最も多い血液型だ。確証にはならない。

「来栖の血液型は」

「A型でした」

「では、来栖以外の人間が——枕を顔に押し付けていた可能性が」

「高くなりました」「ただし、第三者がいたという証拠にすぎません。それが誰か、までは特定できない」

しかし——確実に何かが動き始めていた。綾奈の血液型を確認することが、次の一手だ。

そして——綾奈の不在証明を、もう一度洗う必要がある。事件の夜、綾奈は家にいた、と証言していた。当時の聞き込みでもそれを覆す証言はなかった。しかし——本当に家にいたのか。

冴優は霧無村に戻ることを決める。




——————




霧無村に戻ったのは、四日後の朝。冴優は綾奈の家には行かなかった。代わりに綾奈の近所の老婆を訪ねた。最初の捜査のとき冴優は綾奈の近所を一通り聞き込んでいた。綾奈と親しそうな老婆が一人いた。藤田という七十がらみの女性。藤田は縁側でゆっくりと豆を選別していた。冴優を見て最初は怪訝な顔をしたが、すぐに「あら、刑事さん」と微笑んでくる。

「お久しぶりです」「少し、お話を伺えますか」

「綾奈ちゃんのこと?」

「ええ。綾奈さんのことを、伺いたいのです」

藤田さんは縁側を片付け冴優を上がらせる。

「綾奈ちゃんは、本当に偉い子よ」

藤田は茶を淹れながら、

「お兄さんのことで六年間、ずっと支えてきたんだから。私から見ると、本当に頭が下がる」

「綾奈さんは、いつから一人暮らしを?」

「お兄さんが施設に入ってから、ずっと一人よ。ご両親は、もう亡くなっていらっしゃるからね」

「綾奈さんのご両親は、どのような方々でしたか」

「お父さんは、村役場に勤めていらっしゃいました。穏やかな方だったわ。お母さんは——」「お母さんは、少し、複雑な方でね。神経質で、子供たちに厳しくしていたわ。綾奈ちゃんが小さい頃は、お母さんの怒鳴り声がよく聞こえたものよ」

「お兄さんとの関係は」

「お兄さんは、綾奈ちゃんをよく庇っていたわ。お母さんに叱られている綾奈ちゃんを、お兄さんが守る、という感じ。年が四つ離れていてね、お兄さんが綾奈ちゃんの保護者みたいだった」

「ご両親は、いつ亡くなりましたか」

「お父さんは綾奈ちゃんが二十歳のとき、お母さんは綾奈ちゃんが二十二歳のとき、相次いで亡くなりました。お父さんは病気、お母さんは——心不全だったかしら。突然のことでね」

「綾奈さんは、それからお兄さんと二人暮らしですね」

「ええ。お兄さんが東京の大学に行っていたから、最初の一年は綾奈ちゃん一人だった。それからお兄さんが戻ってきて、二人暮らしになった」

「お兄さんの薬物依存はいつから?」

「お兄さんが東京から戻って、二年ほど経ってからかしら。腰を痛めて、薬を飲み始めて半年もしないうちに別人みたいになってしまったわ」

「綾奈さんは、お兄さんのために、献身的に世話をしていたのですね」

「ええ。それは間違いなく」

藤田は続け、

「ただ——」

「ただ?」

「これは、私の感じたことに過ぎないけれど——綾奈ちゃんは、お兄さんを世話することに、どこか義務的な感じもあったのよ」

冴優は息を止め、

「義務的、というと」

「愛情があるのは間違いなく感じたわ。けれど——お兄さんが薬物に堕ちる前と、堕ちた後では、綾奈ちゃんの態度が少しずつ変わっていったの。最初は心配していた。途中から——疲れているように見えた。最後の頃は——」

「最後の頃は?」

「冷たいような、と言うと言いすぎかもしれないけれど」「綾奈ちゃんが、お兄さんを背負っていることに、何か——別の感情も混じっているような気がしたの」

「別の感情、というのは」

藤田は少し考え、

「恨み——とまでは言わないけれど。お兄さんが薬物に堕ちたことで、綾奈ちゃんの人生も変わってしまった。本来なら、綾奈ちゃんはもっと自由に生きられたはずなの。お兄さんを世話することで、綾奈ちゃんは結婚もできず、外に出て働くこともできず、一生をお兄さんのために費やしてきた」

「綾奈さんは、それを、不満に思っていたかもしれない、ということですか」

「不満、というよりは——」「綾奈ちゃんは、お兄さんが死ぬのを、待っていたのかもしれない」

「お兄さんが死ぬのを——待っていた」

「私の勘違いかもしれません。けれど、綾奈ちゃんを長く見てきた者として——そう感じることがあったの」

「藤田さん」「事件の夜、綾奈さんはどうされていましたか」

「事件の夜——あの来栖さんが亡くなった夜?」

「ええ」

藤田は記憶を辿り、

「あの夜は——確か、綾奈ちゃんが家に灯りを点けていなかったわ。私が夜の九時頃、外を歩いていたら、綾奈ちゃんの家に灯りがなかった。普段は遅くまで点いているのに」

「綾奈さんは、家にいなかった、ということでしょうか」

「いたかもしれないし、いなかったかもしれない。寝ていたのかもしれないし。でも——あの時間にいつも灯りが点いている家が暗かった。それは、覚えているの」

冴優は手帳に書き込む。綾奈の不在証明は、揺らぎ始めていた。




——————




冴優は綾奈の家を訪ねる。霧無村の春の夕日が山の稜線を橙色に染めていた。綾奈は冴優を迎え入れ、

「お戻りになりましたか」綾奈は静かに、

「ええ」

「兄の遺品はいかがでしたか」

「拝見しました。それと——いくつか、確認させていただきたいことがあります」

綾奈は冴優を座敷に通す。

二人は向かい合って座り冴優は深く息を吸った。

「綾奈さん」「単刀直入に伺います。事件の夜、あなたは家にいませんでしたね」

綾奈の表情は変わらなかった。

「あの夜、家には灯りがなかった、と近所の方から伺いました」

「灯りを消して、寝ていたのかもしれません」

「あなたが普段、夜遅くまで灯りを点けていたことも伺いました」

「寝るのが早かった日もあります」

「綾奈さん」「私はあなたに嘘をつくのを止めていただきたいのです」

綾奈は冴優は視線を向ける。

初めて綾奈の目に、感情が浮かんだ気がした。それは疲れだろうか。

「猿島刑事さん」「あなたは何を疑っていらっしゃるのですか」

冴優は綾奈を見つめ、ここからは刑事として向かい合わなければならない。同情ではなく刑事として。

「あなたが、来栖さんの最後のとどめを刺したのではないかと、疑っています」

綾奈は息を止める。一瞬。ほんの一瞬、綾奈の表情が崩れた。が、すぐに、また穏やかな表情に戻った。

「面白いお話ですね」「証拠は、あるのですか」

「枕の繊維から、来栖さん以外の人物の体液が検出されました。O型の女性のものです」

「O型の女性」「私はB型ですよ」

冴優は驚く。

「B型——」

「ええ。母子手帳にも、そう書いてありました。確認していただいて結構です」

綾奈の声は淀みなかった。

「——もし、あなたが本当にB型だとすれば。あなたは犯人ではないことになります」

「ええ」綾奈は微笑み、「私は犯人ではありません」

綾奈の微笑みは穏やかであった。が、冴優はその穏やかさに引っかかるものを感じた。

綾奈の言葉は——「私は犯人ではない」であった。「私は何もしていない」とは、言わなかった。

冴優は目を細め、

「綾奈さん」「あなたはB型かもしれません。しかし、あなたが事件に何の関わりもない、というわけではないですよね」

綾奈の微笑みが、わずかに固まり、

「どういう意味ですか」

「あなたは、波多野先生に来栖を殺すことを誘導した。違いますか」

綾奈は冴優を見つめ、長い沈黙が座敷を満たす。外で夕方の鳥が鳴く。綾奈はゆっくりと湯呑みを置き、

「猿島刑事さん」「あなたは、賢いですね」「波多野先生のお話は、聞きましたか」

「ええ」

「先生は、私のことを、どうおっしゃいましたか」

「あなたが、先生に言葉をかけて、決意を引き出した可能性がある、と」

綾奈は微笑む。穏やかな、しかし、どこか冷たい微笑み。

「猿島刑事さん」「人を殺すことを、言葉で誘導するのは、罪になりますか」

「綾奈さん——」

「ええ、本当に伺いたいのです。私は、もしかすると波多野先生の決意を後押ししたかもしれません。しかしそれは、刑法上の罪になりますか」

冴優は答えに詰まる。

教唆罪、という言葉が頭に浮かんだ。が、実際に立証できるか。綾奈は「先生のような立場の人なら、消せるかもしれない」「無理しないでください」と言っただけだ。それを「殺人を誘導した」と立証するのは、極めて困難だ。

「綾奈さん」「あなたは——」

「私は」綾奈は言葉を遮る。「兄を六年間、支えてきました。兄が薬物で堕ちていくのを、ずっと見てきました。母を早くに失い、父を失い、兄を失い——私はずっと一人でした。来栖恭一郎という男が、それら全てを引き起こしたと、私は知っていました」

綾奈の声は淡々としている。

「私は、あの男を殺したかった。何度も思いました。しかし私は、自分の手で殺すことを選びませんでした。なぜなら——私は逮捕されたくなかったからです。兄を最期まで看取る義務が、私にはあったから」

「だから、波多野先生を利用したのですか」

「波多野先生は、ご自分でやろうとしていらっしゃいました」「私が見ていればわかる、というほど、明らかでした。私は——その決意を、ほんの少しだけ、後押ししたかもしれません。それが罪なら、罪です。しかし、立証は難しいでしょうね」

綾奈は冴優を見つめ、

「もう一つ、お話ししましょうか」「事件の夜、私が家にいなかった理由を」

冴優は綾奈を見返し、

「綾奈さん」

「私は、来栖さんの宿の近くにいました」「波多野先生が宿に入るのを、確認したかったのです。先生が本当にやるかどうか、見届けるために」

「では——」

「ええ。先生が宿を出るのを、私は見ました。物陰から。先生が密室を作って、糸を抜き取って、外に出てくるのを。先生は私に気づかなかった」

「それから、あなたはどうしましたか」

綾奈は冴優を見つめ、そして、静かに告げる。

「家に帰りました」

「家に——」

「ええ。私は宿に入りませんでした。来栖さんに、何もしていません」

「枕の繊維のO型の体液は」

「私はB型です。証明できます。あの体液が誰のものかは、私にはわかりません」

冴優は綾奈を見つめたが、綾奈の目は、揺るがなかった。そして冴優はゆっくりと——理解する。綾奈は本当に来栖を殺してはいなかった、と。彼女は、波多野が殺すように仕向けた。それだけだ。そして波多野は——本当に来栖を殺した。彼女が嘘をついていたわけではない。彼女が後押しをしただけで実際に手を下したのは波多野だ。つまり——枕の繊維のO型の体液は、来栖の宿の他の宿泊者か、清掃員のものか——別の説明がつくものかもしれない。決定的な物証ではなかった。冴優の中で、先ほどまでの確信が、揺らぎ始める。



——————



「綾奈さん」「あなたが、波多野先生を後押しした、というだけのことなのですね」

「ええ」

「そして、あなたは法的には、罰せられない」

「立証が難しい、と申し上げました」

冴優は深く息を吸い、怒りが湧いた。

綾奈は巧妙だった。彼女は手を汚さず、来栖を消した。波多野という最も決意の固まっていた人間を選び、その決意を僅かな言葉で後押しし、自分は安全な場所に留まった。

それは、犯罪と言えるかどうかの、灰色の領域にある。そして綾奈は、それを完全に理解している。冴優は、清水の言葉を思い出す。

「あの女は人を見て話す。お前の弱みを見つけられたらそれを使ってくる」

綾奈は今それを実行している。

冴優は綾奈の弱点が見当たらなかった。

「綾奈さん」「あなたが事件に関わったことは、間違いない。しかしあなたを罰する法律は——確かにない。あなたはこれから、どう生きるおつもりですか」

綾奈は微笑み、

「兄が死にました。私の使命は、終わりました」綾奈は静かに、「これからは、自分のために生きます」

「自分のため——」

「ええ。三十年の人生を家族のために費やしてきました。これからは、私自身の人生を、生きます」

冴優はその言葉に、何か重い違和感を感じる。

「綾奈さん」「お兄さんを、本当に愛していたのですか」

綾奈の表情が、また一瞬、固まる。

そして——綾奈は、ゆっくりと、新しい表情を浮かべる。それは、冴優が今まで一度も見たことのない表情。

諦め、ではない。

疲れ、ではない。

もっと冷たい——剥き出しの、何かだった。

「猿島刑事さん」「私は、兄を愛してはいませんでした」

「綾奈さん——」

「兄は、優しい兄ではありませんでした」「私が小さい頃、母に叱られている私を、兄は守ってくれた——そう、藤田さんから聞きましたか?」

「ええ」

「あれは、表向きの姿です」「兄は確かに、母から私を守ってくれました。しかし——母がいないとき、兄は私に同じことを、それ以上に酷くしました」

綾奈の目に、初めて——冷たい光が宿っていた。

「兄は、私を支配していました。母の代わりに。母が私を叱るのを止めて、自分が叱る側に回ったのです。兄は私が小学生の頃から、私を殴ったり、閉じ込めたり、食事を与えなかったり——母にもしなかったような、酷いことを私にしていました」

「そんな——」

「兄が東京の大学に行ったとき、私は心から喜びました」「やっと、解放される、と。しかし兄は四年で戻ってきました。そして再び、私を支配し始めました」

綾奈の声は、淡々としていた。その淡々さの奥に——冷たい何かが、宿っている。

「兄が薬物に堕ちたとき、私は——心の中で、笑いました」「兄が、廃人になっていく姿を、私は——心の中で、喜んでいました」「やっと、兄が私を支配できなくなる、と。やっと、私が兄を支配する側になる、と」

「綾奈さん——」

「私は、兄を施設に入れました。私が世話をする、という形で。村の人たちは『偉い妹だ』と言いました。私はそれを、利用しました。世間体のために、兄を支える妹の役を演じました。実際は——私は兄が、ゆっくり死んでいくのを、楽しんでいました」

冴優は呆然と綾奈を見る。これは——本当の綾奈なのか。

「来栖恭一郎は、私に多大な恩恵を与えました」「兄を廃人にしてくれたことで」

「綾奈さん——」

「私は、来栖さんを恨んでいませんでした。むしろ、感謝していたかもしれません。しかし——」

「しかし?」

「来栖さんが、最後の取引で兄を解放しようとしているという話を、私は聞きました。事件の数ヶ月前のことです」

「解放、というのは」

「兄を施設から出して、東京に呼び戻して、新たな密売人として使う、という話があったらしいのです。来栖さんは、廃人になりかけた人間を、また使えるかもしれないと考えていた。兄は、それに乗せられそうでした」

「兄が、施設から出てしまう、ということですか」

「ええ。そうなれば——私が兄を支配することは、終わってしまう。兄が再び自由になり、私の支配から抜け出してしまう。私はそれを、許せませんでした」

「だから、来栖を消した」

「ええ。来栖さんが死ねば、兄は施設から出ない。私の支配下に留まる。そう考えました」

「兄を、最期まで自分の手の中に置きたかった」

「ええ」

綾奈の声は淡々と続き、

「そして、兄を施設の中で、ゆっくり死なせる。それが私の、本当の計画でした」

冴優は両手で顔を覆う。

「綾奈さん——」

「兄が亡くなる三日前、私は施設で、兄に話しかけました」「兄は意識が、わずかにあったのです。私は兄に言いました。『お兄様、もう少しよ。もうすぐ終わるから』と」

「もうすぐ終わる、というのは」

「兄の人生が、終わる、という意味です。私はそれを、確認したかった。兄に、自分が死んでいくことを、わかった上で死んでほしかった」

「兄は——」

「兄は、私を見上げて、震える手で何かを書こうとしました。それが、あの書きかけの手紙です」

「『お前が——するな』」

「ええ。兄は、私の意図に気づいたのです。最期に。そして書こうとしたのです。『お前が、私にしたことをするな』と。あるいは『お前がしようとしていることを、するな』と」

冴優は震える声で、

「綾奈さん——あなたは、兄に何かをしたのですか」

「いえ、兄には何もしていません」「兄は自然に死にました。薬物の後遺症で。ただ私は、兄が死ぬのを、楽しみに待っていただけです」

「それでも——」

「猿島刑事さん」「私は、人を殺してはいません。来栖さんを、自ら手を下して殺してはいない。兄を、殺してもいない。私は、ただ——人を、見てきただけです。長年。そして、適切な時に、適切な言葉をかけた。それだけです」

冴優は深く息を吸い、

「あなたを罰する法律は、ない」

「ええ」

「あなたは、自由に生きていく」

「ええ」

その目は、もう冷たい光すら宿していなかった。ただの——空虚な目。

「猿島刑事さん」「あなたは、これから私を、どうしますか」

冴優は答えなかった。いや、答えられなかった。




——————




冴優は綾奈の家を後にする。外に出ると夜になっていた。空に星が出ていた。霧無村の春の星空。冷たい空気が、冴優の頬を撫でる。冴優は宿に戻り布団の上に座り込む。頭の中が混乱していた。綾奈は犯罪者か。それとも違うのか。彼女は人を殺していない。直接には。彼女は、波多野を後押ししただけだ。それは法的には、罰せない。彼女は兄を、内心で殺したいと願っていた。それも、罰せない。願うことは、罪ではない。彼女がしたことは、すべて、法の網の目をくぐっていた。そして彼女は、自由に、これから生きていく。冴優は、清水に電話をかける。と、

「俺だ」清水の声がすぐに聞こえてくる。

冴優は、すべてを話した。綾奈の自白。彼女が兄を支配したかったこと。来栖を消すために波多野を後押ししたこと。法的には罰せられないこと。清水は長い間、何も言わなかった。

「冴優」

「はい」

「お前は、悔しいか」

「悔しい」「あの女が、自由に生きていくと思うと——」

「俺もだ」「俺も、悔しい」

「清水さん——どうすればいいのでしょうか」

清水は、また少し沈黙し、

「冴優」「俺たちは、法の中で動く人間だ。法の外には出られない。これは、お前も俺も知っている」

「ええ」

「綾奈という女を、罰する法律はない。それは、事実だ。我々は、彼女を逮捕することはできない」

「ええ」

「しかし——」「お前は、彼女を見届けることはできる」

「見届ける——」

「ああ。彼女がこれから、どう生きていくか。彼女の人生を、お前は記憶しろ。覚えていろ。それが、お前ができる、唯一のことだ」

「それで、何かが変わるのですか」

「変わらないかもしれん」「しかし、お前は記憶することで彼女を、罰している」

「罰、ですか」

「彼女を、見ている人間がいる。それが、彼女にとって最大の罰になる。彼女が何をしても誰かが見ている。法では裁けないが、誰かが彼女のことを覚えている。それが、彼女が背負う重さになる」

冴優は、清水の言葉を受け取り、

「清水さん」「波多野先生は、どうなるのですか。先生は、自分が殺したと思っている。しかし綾奈さんに、利用されただけかもしれない」

「波多野には、本当のことを話さなくていい」清水は言った。「波多野が、自分の罪を背負って、穏やかにいるなら——それを覆すのは、彼にとって救いではない。彼をそっとしておけ」

「ええ」

「冴優」「これは、苦い結末だ。しかし、刑事は、苦い結末を抱えて生きていくものだ。すべての事件が、すっきりと終わるわけではない。法では裁けない悪が、確かに存在する。我々は、それを認めて、それでも続けていくしかない」

「ええ」

「気の毒と、許せないは——」

「別の話、ですね」

「そうだ。お前は、綾奈を許せない。それは正しい。しかし——彼女もまた、ある意味で、気の毒な人間だ。兄に支配されてきた、長い人生。母に叱られてきた幼少期。あの女もまた、一人の被害者だ」

「ええ」

「両方を、抱えろ」

「はい」

電話が切れ、冴優は布団の上で、しばらく動けなかった。視線を窓の外へ向けると星がキラキラと光っていた。

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