五章 白い手紙(前編)
猿島冴優のもとに、霧無村からの封書が届いたのは、霧無村事件から五ヶ月が経った早春の朝である。
冴優はその日、署で書類仕事をしていた。新しい相棒は四十代のベテラン刑事で、清水とは違う種類の刑事であった。話し好きで、笑い声が大きく、しかし観察眼は鋭い。冴優はその新しい相棒を悪く思っていなかった。ただ——時々、清水のことを思い出す瞬間があったのも確かだ。
机の上に届いた郵便物の中に、白い封筒があり無意識に差出人の名前を見る。と、冴優は手を止めた。
遙堪綾奈。
霧無村の女。兄を薬物で廃人にされ、施設で暮らす兄を支えてきた女。冴優が清水を看取りかけたあの事件で、波多野医師の名前を冴優に教えてくれた女。封を切る。と、そこには便箋が二枚。達筆で流れるような筆跡である。
「猿島刑事様。お元気ですか。先月の二十三日に、兄が亡くなりました。施設で穏やかに息を引き取ったとのことです。最期は、痛みもなく、ただ眠るように、と先生方は言ってくださいました」
冴優は便箋を持つ手が、少し冷たくなるのを感じた。
「兄の葬儀は、霧無村のささやかな墓地で執り行います。今月の二十日です。あの事件で兄のために動いてくださった刑事さんに、ぜひお越しいただけたらと思いまして、お手紙をしたためました」
「清水刑事さんも、もしご都合よろしければ。お体の具合がご無事であれば、ですが」
「霧無村は、もうすぐ春です。山の桜が、ちらほらと蕾を膨らませています。あの霧の中で出会った刑事さんたちのことを、私は時々思い出します。兄は最期まで、刑事さんたちのことを覚えていたかどうか、わかりません。しかし私は——あなたがたのおかげで、兄の最期に間に合えました。それだけは、確かなことです」
「ご都合をお聞かせください。お返事、お待ちしております。遙堪綾奈」
冴優は手紙を二度読み返す。胸の中に、何かが鈍く広がっていく。綾奈の兄——廃人になっていた、あの兄。冴優は施設で会ったことはない。しかし綾奈が兄について話すときの目を冴優は覚えていた。深い水たまりのような長く淀んでしかし底に何かがある瞳を。
その兄が、ようやく解放された。
人の死を「解放」と呼ぶことに冴優は躊躇しなかった。あの兄の状態を聞いたとき冴優は素直に「楽になってほしい」と思った。それは清水も同じだったはずだ。冴優は手紙を畳み引き出しの奥にしまい、霧無村に行こう、と思う。
綾奈に会うことが、自分の中で何かを締めくくることになる気がしたから。
——————
その夜、冴優は清水の家を訪ねる。
清水は退院後、自宅で静養していた。最初の数ヶ月は本当に動けなく、後遺症は、清水自身が「歳をとった気がする」と苦笑するくらいの軽さで済んでいたが、それでも長く立っていると頭痛がした。階段を上るときに、時折足元が揺らいだ。しかし最近は、庭仕事をするくらいには回復している。冴優が訪れたとき、清水は縁側で煙草を吸っていた。庭の梅の木に、白い花が咲き始めている。
「来たか」清水は煙草の煙の向こうから言ってくる。
「お邪魔します」
冴優は縁側に腰を下ろすと、庭の土の匂いがした。冬の終わりの、湿った土の匂い。
「変わったことは」清水が問う。と、
「綾奈さんから手紙が来ました」
清水は煙草を持つ手が止まる。
「兄さんが、亡くなったそうです。来月二十日に葬儀があります」
清水は煙草を吸い終わるまで何も言わなかった。煙が、夕方の空気の中にゆっくりと消えていく。
「行くのか」やがて清水が聞き、
「ええ」
「俺は——少し、考える」
「無理しないでください」
「無理ではない」「ただ、考える」
二人はしばらく黙り梅の木を見ていた。白い花びらが、わずかな風に揺れている。
「冴優」清水は静かに、
「はい」
「あの女のことを、お前はどう見ている」
「綾奈さん——のことですか」
「ああ」
冴優は少し考え、
「儚げな人だと思います。兄を六年間、一人で支えてきた。あの強さと、あの儚さが、不思議に同居している人——という印象です」
清水は頷き、それから言う。
「俺は、あの女が少し怖い」
冴優は驚いて清水へ視線を向ける。
「怖い、と言うのですか」
「言葉を選んでいる女だった」清水は静かに続け、「あの聞き込みのとき、お前と二人で会ったときのこと、後で報告書を読んだ。あの女は、何かを言うときに——常に何かを選んでいた。本当のことを言うか、嘘をつくかではない。何を言って、何を言わないか。それを瞬時に選んでいた」
「それは——」
「賢い女だ。賢すぎるくらいに」
冴優は清水の言葉を、しばらく咀嚼する。
「清水さん、何か——疑っているのですか」
清水は煙草を消し、
「事件は終わった」「波多野が自白し、健治が自白した。証拠も揃った。法的には、何の問題もない。それは間違いない」
「でも?」
「俺の刑事の勘が、まだ何かを言っている。何か——一つだけ、形になっていないものがある気がする。それが何かは、わからない」
冴優は唇を噛む。清水雅哉という男の刑事の勘。それは三十年の現場で磨かれたものだ。冴優はそれを、軽く受け流せなかった。
「霧無村に行ったら、よく見てこい」清水は言った。「綾奈という女のことを、よく見てこい。彼女が今、何を考えているか。何を見ているか。何を言って、何を言わないか」
「はい」
「ただし——」「先入観で見るな。お前自身の目で見ろ。俺の勘はただの勘だ。お前の勘の方が、当たっているかもしれない」
冴優は深く頷く。
——————
二週間後、冴優は霧無村行きの汽車に一人で乗った。
清水は「俺は行かない」「お前一人の方が、見えるものがあるはずだ」と。冴優はその意味を汽車の中で考えていた。一人だと見えるもの。二人だと見えなくなるもの。
汽車の窓の外を早春の景色が流れていく。山にはまだ雪が残っていたが、麓の田畑は黒い土を見せ始めている。所々に、薄紅色のものが見え、梅か、早咲きの桜か。冴優は見分けがつかなかった。
霧無村に着いたのは昼過ぎ。
バス停で降りると、村は静かで霧もない。あの事件のときに見た青く晴れた空の続きのような、軽い雲のかかった空だった。
葬儀は、村の小さな寺で行われた。
冴優が寺に着いたときすでに数人の村人が集まっていた。冴優は会場の隅に立ち、村人たちは冴優を見てわずかに頭を下げた。あの事件以来、村人たちは冴優のことを覚えていた。よそ者だが、村に何かを残した刑事として。
綾奈は喪服姿であった。
冴優が会場に入ったとき、綾奈は祭壇の前で頭を下げていた。冴優は綾奈の後ろ姿を見た。細い背中だ。喪服の黒がその細さをより強調していた。冴優の知っている綾奈そのままの背中であった。
綾奈は振り返り、冴優を見る。
「来てくださったのですね」
「ご愁傷様です」
綾奈は深く頭を下げた。
「兄も、喜んでいると思います」
葬儀は淡々と進んだ。読経があり、焼香があり、村の住職が短い説教をした。「遙堪透さんの六年間は、苦しい六年間でした。しかし最期は、穏やかに眠られました。それだけが、せめてもの慰めです」
冴優は焼香のとき、祭壇の上の遺影を見た。
綾奈の兄——遙堪透の写真。
廃人になる前の写真だろう。三十前後の健康な顔をした男だった。眼鏡をかけて、わずかに微笑んでいる。穏やかな顔。妹を慈しむような、兄の顔だ。
冴優はその写真をしばらく見ていた。この男が、薬物で六年間苦しんで、最期は廃人として死んだ。綾奈はこの兄を、六年間支えてきた。冴優の中に何かが落ちてくる。
綾奈の喪失は本物だ——冴優は思う。儚げに見えるのも、強そうに見えるのも、全てこの六年間が作ったものだ。それは間違いない。
清水の言う「怖い」は、何だろう。
冴優は綾奈の方へ視線を向ける。綾奈は喪主席で村人たちの弔意を受けていた。一人ずつ頭を下げ、礼を言い、手を握る。綾奈の所作は、丁寧で、しかし機械的でもなかった。心を込めて、しかし崩れずに、葬儀という儀式をこなしている。
強い人だ、と冴優は思い、
そして同時に——疲れた人だ、とも思った。
——————
葬儀の後、霊柩車が出発する。村の墓地は寺の裏手にあった。冴優は他の村人たちと一緒に、霊柩車の後を歩く。狭い坂道を、ゆっくりと、霊柩車のエンジン音だけが響く中で。墓地は山の斜面にあり、墓石が並んでいる。新しい墓石も時々混ざっている。遙堪家の墓は、奥の方にひっとりと。住職が読経を続ける中、棺が地中に納められる。綾奈が土を一掬い、棺の上に振りかける。そのとき——綾奈の手が、わずかに震えた。冴優はそれを見つめる。綾奈は今、最後に兄を地中に送っている。六年間、兄のために生きてきた女が、その兄を手放している。手が震えるのは、当然のことだ。
しかし——冴優の中で、何かが引っかかった。綾奈の震えは、悲しみによるものか。そう感じる方が自然だ。しかし、冴優の刑事の目は、別の可能性をわずかに捉えた。
綾奈の手の震えは——震えそのものだった。具体的な感情に紐づかない、純粋な震え。何かを終えた人間の、力が抜ける瞬間の震え。
悲しみではない、と冴優の本能が言った。
解放——だ。
綾奈は今、何かから解放されようとしている。冴優は自分の解釈に驚いてしまう。なぜそう思うのか、冴優自身わからなかった。しかし、その思いは確信に近かった。綾奈は土を振り終えると、深々と頭を下げる。長い、長いお辞儀だった。それは兄への別れだったかもしれない。あるいは——別の何かへの。
葬儀が終わり、村人たちは三々五々帰っていく。綾奈は冴優のところに近づき、
「お疲れになりましたでしょう。よろしければ、家でお茶でも」
「すみません、では少しだけ」
冴優は綾奈の家へ向かう。
——————
綾奈の家は村の外れにあった。古い木造の二階建て。冴優が以前訪ねた家だ。記憶通りの、しかし以前より少し物が少ない家だった。葬儀の準備で、いくつかのものを片付けたのかもしれない。綾奈は茶を淹れた。台所で湯を沸かす音、湯呑みを取り出す音、茶葉を量る音。それらの音が、家の中に静かに響いた。
冴優は座敷で待っていた。床の間に、白い花が活けてあり、葬儀のための花だろう。
綾奈が茶を運んでくる。冴優の前に湯呑みを置く。
「ありがとうございます」
「お粗末ですが」
綾奈は冴優の向かいに座る。膝を揃え、背筋を伸ばした、丁寧な座り方。喪服のままだ。
「猿島刑事さん」綾奈は静かに「兄のために、来てくださって、本当にありがとうございます」
「いえ。当然のことです」
「清水刑事さんは——お元気ですか」
「庭仕事をするくらいには、回復しています。今日も来たがっていましたが、長旅は止めるように医者から言われていて」
「そうですか」綾奈は微笑み「お元気で、よかった」
二人は茶を飲む。茶は薄かった。淹れたてだが、香りが立たない種類の茶葉だった。安いものだろう、と冴優は気づく。綾奈の家の経済状態が、その茶からわずかに窺えた。
「お兄さんの最期は、本当に穏やかだったのですか」冴優は問う。綾奈は少し間を置き、
「最期の二週間は、ほとんど反応がなくなっていました。私が行っても分かっていたかどうか。ただ眠るような時間が増えていました。先生は『苦痛はないと思います』とおっしゃいました。私は——それを信じることにしました」
「信じる、というのは」
「兄が苦しんでいるかどうか、本当のところは誰にもわかりません」「ただ、私が『苦しんでいない』と思うことで、兄が安らかに見える。それを、私は選びました」
冴優は綾奈の言葉を聞きながら、何かを感じた。
綾奈は——選ぶことに、慣れている女だ。
清水の言葉を思い出す。「言葉を選んでいる女だった。何を言って、何を言わないか。それを瞬時に選んでいた」
綾奈は今も、選んでいる。
信じることを選び、見せる感情を選び、語る言葉を選んでいる。それ自体は、悪いことではない。誰しも、人前ではある程度の選択をする。しかし綾奈の選択は——意識的すぎる。常に、何かを管理しているような気配がある。
「猿島刑事さん」「もしお時間があれば、兄の遺品を見ていただけませんか」
「遺品ですか」
「兄が施設で使っていたものです。少しだけ、私のところに戻ってきました。本も何冊か。兄が薬物に堕ちる前に読んでいた本——まだ読書ができていた頃のものです」
冴優は少し意外に思う。なぜ自分に、それを見せようとするのか。
「私のような者でいいのですか」
「兄のために動いてくださった方ですから」「そして、こういうものを誰かに見ていただかないと——私一人では、抱えきれないので」
綾奈の声にわずかな疲れが滲んだ。
冴優はそれを聞いて、断れなくなってしまった。
「拝見させていただきます」
綾奈は奥の部屋に行き、小さな段ボール箱を持って来ると、冴優の前へと置く。
「これが、兄が施設に持ち込んでいたものの一部です」
段ボールの中には、本が数冊、古い眼鏡、万年筆、そして——封筒の束があった。
「手紙ですか」
「ええ。兄が施設にいた間、私が送った手紙の一部です。兄は、それを取っておいてくれていたのです」
冴優は封筒の束を見た。封筒は黄ばみ長く保管された手紙の色であった。
「兄は、最期まで字が読めていたかどうか、わかりません」「しかし、これらを取っておいてくれた。それは、何かを意味しているのかもしれません」
冴優は封筒の束に手を伸ばす。と、綾奈の声が止めた。
「お兄さんから、私への手紙も入っています。最期に、施設の先生が見つけてくださいました。書きかけのものです」
「お兄さんから?」
「ええ。兄が、最期に何かを書こうとしていた。文字は読めるかどうか、わかりません。しかし——もし読めたら、教えてください」
綾奈は冴優を見つめる。
その目に、わずかな何かがあった。期待だろうか。恐れだろうか。あるいは、その両方だろうか。
冴優は封筒の束を、慎重に手に取る。
——————
冴優は宿を取り、その夜、部屋で兄の遺品を確認する。綾奈の家から借り受けた。「ご都合のよろしいときに、ゆっくり見てください」と綾奈は告げる。冴優は丁寧に礼を伝え、宿に持ち帰る。宿は清水と一緒に泊まった同じ宿。冴優は炬燵に座り、段ボールを開け、本を一冊ずつ確認する。哲学書、古典文学、薄い詩集。遙堪透という男の趣味が本から窺える。知的で内省的でしかし古い時代の感性を持った男。彼が薬物の世界に堕ちた経緯はこういう本を読む男には似つかわしくない出来事のように思えた。
古い眼鏡を手に取る。レンズに小さな傷がありフレームは銀色でわずかに歪んでいる。長く使われた眼鏡。
万年筆。インクは入っていない。長く使われていない様子だ。銀のキャップに「H・Y」というイニシャルが彫られている。Hは透のローマ字読み。Yは遙堪のYだろう。誰かから贈られたものか、自分で誂えたものか。そして、手紙の束。冴優は封筒を一つずつ確認する。最初の十数通は綾奈から透への手紙であった。
封筒の表書きは綾奈の自体だろうか。封筒の中に入っているのは何枚かの便箋。冴優は失礼を承知でいくつか中を読む。
「お兄様、お元気ですか。私は元気にしています。今月もお米と、お兄様の好きなお煎餅を施設に届けてもらいました。施設の方は親切で、お兄様のことをよく見てくださっています。私はそれだけで、安心しています」
「お兄様、また会いにいきます。今月は雪が深くて、お会いするまで少し時間がかかるかもしれません。先生からは『反応が薄くなっている』と言われましたが、それでもお会いに行きます。お兄様の隣に座って、しばらく一緒にいます。それだけで、私には十分です」
綾奈の手紙は、優しく、穏やかだった。妹が兄を支える、その純粋な愛情が滲み出ている。冴優は何通か読み、目に涙が浮かぶ。
これは——本物の愛情だ。と、冴優は感じた。
綾奈が兄を支えてきた六年間は、紛れもない真実だ。文章のひとつひとつがその真実を裏付けていた。冴優は手紙を畳み封筒に戻す。そして——最後の封筒を取り出す。
これだけ封筒の色が違っていた。新しい白い封筒で中に何かが入っている。表書きは透の文字のようだ。震えた、不器用な文字で「あや」と書かれていた。綾奈、と書こうとして、最後まで書けなかったのか?冴優は丁寧に封筒を開ける。中から、便箋が一枚出てくる。
——透の文字。
震えたほとんど判読できない文字。書かれている言葉は——少しずつ、少しずつ、であるが読み解く。
「あや」
「お前が——」
「お前が——するな」
「すまない」
「お前の——」
文字はそこで途切れていた。最後の数行は文字にならない震えた線だけ。冴優はその便箋をしばらく見て考える。
「お前が——するな」
——何だ、これは。
意味がわからなかった。透が、最期に綾奈に何を言おうとしていたのか。「するな」という命令形。何を「するな」と言いたかったのか。そして「すまない」という言葉。透は何を綾奈に謝りたかったのか。
廃人になり、妹に苦労をかけたこと——それなら「すまない」も分かる。しかし「お前が——するな」は、それとは違う気がした。冴優は手紙を、もう一度読み返しある可能性に気づく。
「お前が——するな」
もし「お前が(誰々を)殺すな」だったら——
冴優の背筋がわずかに冷える。いや。と、冴優は自分を否定する。読みすぎだ。意味のわからない文字の羅列に、勝手に意味を付けているだけだ。透は薬物で頭が壊れていた。最期に書いた手紙が意味を成さないのは当然だ。「お前が(私を訪ねて)するな(……るな……るな……苦労するな)」かもしれない。「私のことで、苦労するな」と言いたかったのかもしれない。しかし——冴優の中で、何かが引っかかっていた。綾奈が「もし読めたら教えてください」と言ったときのあの目。
綾奈は、この手紙を自分で読みたくなかったのかもしれない。読みたくない理由が、あったのかもしれない。冴優は手紙を慎重に畳み封筒に戻す。
外で夜が更けていく。
——————
翌朝、冴優は綾奈の家を訪ねる。綾奈は喪服から地味な普段着に着替えていた。葬儀の翌朝の疲れた顔をしている。しかし髪はきちんと結ばれ顔色も化粧で整えられていた。
「お早うございます」
「昨夜、遺品を拝見しました」
「ありがとうございます。何か、お気づきになったことは」
冴優は綾奈の目の奥の光を見る。
綾奈の目は穏やかだった。穏やかすぎる。と、冴優は思った。葬儀の翌朝、兄の遺品を刑事に見せた女の目としては——あまりに穏やかすぎる。
「お兄さんの手紙を、拝見しました」
「読めましたか」
「いくつか、文字は読めました。しかし、文章としては、わかりにくかった」
「そうですか」綾奈の目がわずかに動き、
「『お前が——するな』と書いてありました」
冴優は伝え、綾奈を見ているが、綾奈の表情は、変わらなかった。変わらなさすぎる。と、冴優は思う。普通の人間なら兄の最期の言葉を聞いて何らかの反応をするだろう。涙ぐむか、表情が硬くなるか、顔をそらすか——何かしらの動きがあるはずだ。
綾奈は、ほとんど動かなかった。
「…するな、ですか」綾奈は静かに「兄は何を言いたかったのでしょうね」
「綾奈さんは、心当たりはありますか」
「いえ。兄は混乱していましたから。意味のあることを、書けたかどうか」
「そうですね」
冴優は頷く。それ以上は追求しなかった。しかし綾奈の反応の薄さが、冴優の中で確信に変わりつつあった。綾奈は、この手紙のことを既に知っていた。
いや——もっと正確に言えば。
綾奈は、兄が最期に何を書こうとしていたか、わかっていた。だから「読めたら教えてください」と言いながら、本心では読まれることを恐れていた。冴優が文字の判読について報告したとき、綾奈の表情が動かなかったのは——驚きがなかったからだ。予想していた通りのことが、起きただけ。冴優の頭の中で、何かが回り始める。
「綾奈さん」「この事件の後、霧無村でどう過ごされていましたか」
「兄のところに通っていました。月に二度ほど。それと、家のこと、近所付き合い。普通のことです」
「波多野先生のことを、聞きましたか」
綾奈は少し間を置き、
「先生は懲役刑が確定したと、聞きました」
「会いに行こうとは、思いませんでしたか」
「思いました。しかし、先生はもう私のことを思い出したくないでしょう。先生は私の兄のことを救えなかった、と自分を責め続けていらした方です。会えば、先生をさらに苦しめるだけです」
「優しい人ですね、綾奈さんは」
「いえ」綾奈は静かに、「自分のことを優先しただけです。私が先生に会いに行って、先生を泣かせることに——耐えられない気がしました。だから、行かなかった」
冴優は綾奈の言葉を聞きながら、ある違和感に気づく。綾奈は「波多野先生」と呼んだ。「波多野医師」でも「波多野」でもない。「先生」と。
親しみのある呼び方だ。綾奈は——波多野と、ある程度親しかったのか。六年間、村の中で。村医として、患者として。それは自然なことかもしれない。しかし——綾奈の兄が薬物で苦しみ、波多野もまた弟を薬物で失っていた。二人は、同じ種類の苦しみを共有していた。二人は——どれくらい話していたのか。
「綾奈さん」「事件の前、波多野先生と、どれくらい話されていましたか」
綾奈は冴優を見る。その目に、わずかな何かが浮かんだ。———警戒、だろうか。
「先生は私の主治医のような立場でした」「兄のことで何度かご相談しました。それから、私自身も以前、体を悪くして、診ていただいたことがあります」
「個人的なお話を、されたことは」
「弟さんを亡くされた話は、聞きました。私は兄のことを話しました。お互い、似たような苦しみがあったから」
「来栖のことも、話されましたか」
綾奈の目がまた動き、
「来栖さん」「いえ、来栖さんの名前を出したことはなかったと思います。来栖さんが私の兄や、波多野先生の弟さんと関係していたことを、私は事件後に知りました」
「事件後、ですか」
「ええ。猿島刑事さんから話を聞いて、初めて知りました」
冴優は頷く。頷きながら——綾奈の言葉にまた小さな引っかかりを感じてしまう。綾奈は事件の捜査の途中で、波多野の名前を冴優に伝えた。あれは、波多野が来栖を殺した。と、綾奈がある程度察していたからこそできた行動だ。来栖と兄の関係、波多野と弟の関係、事件後ではなく事件中に、綾奈はそれを知っていた。だから波多野の名前を出した。綾奈の言葉と、綾奈の行動が、矛盾している。
「綾奈さん」冴優は静かに、「事件の捜査のとき、私に波多野先生の名前を教えてくださいましたよね」
綾奈の手がわずかに止まる。
湯呑みを置こうとしていた手だった。湯呑みは宙で止まりそれからゆっくりと茶卓に置かれる。
「…ええ。お話ししました」
「あのとき、なぜ波多野先生の名前を出されたのですか」
綾奈は少し考え、
「先生が、来栖さんと何か関係があるかもしれない、と感じたからです。村の中で、来栖さんと深く関わったかもしれない人物として、波多野先生のお名前が浮かんだ。それを刑事さんにお伝えするのが、私の役目だと思いました」
「その時点で、来栖さんと波多野先生の関係を知っていたのですね」
「いえ。具体的なことは知りませんでした。ただ、漠然と——感じたのです」
「漠然と、感じた」
「ええ」
綾奈の言葉は淀みなかった。けれど、その淀みのなさが、冴優にはむしろ不自然に思えてしまう。
人は、過去のことを正確に思い出そうとすると、必ずどこかで言葉に詰まる。記憶は完全ではない。表現も完璧にはならない。しかし綾奈の言葉は、用意されたかのように、滑らかであった。
「綾奈さん」「もう一度、お会いできるでしょうか。明日、お時間をいただけますか」
綾奈は冴優を見つめる。その目には、もう何の動揺も浮かんでいなかった。
「ええ。何時でも、お越しください」
「ありがとうございます」
冴優は綾奈の家を後にする。外に出ると薄日が差し早春のまだ冷たい風が頬を撫でてくる。
冴優は宿に戻りながら、思考を巡らせる。綾奈は——何かを隠しているのか。そしてその「何か」は、波多野医師に関わっている。もしかすると——あの事件全体に。冴優は宿の部屋に戻り、清水に電話をかける。
——————
「俺だ」清水の声が電話の向こうから聞こえてくる。声はいつもより少しだけ疲れているようだ。しかし、その声を聞いた瞬間、冴優の胸の中が落ち着かなも確かだ。
「冴優です。霧無村にいます」
「葬儀は、終わったか」
「はい。昨日終わりました」
「綾奈という女に、会ったか」
「ええ。今、彼女のところから戻ってきたところです」
清水はしばらく沈黙し、
「何か、感じたか」
冴優は深く息を吸い、
「ええ。違和感があります。説明しにくいのですが」
「説明してみろ」
冴優は順を追って説明をする。葬儀のときの綾奈の手の震え。「解放」と感じたこと。兄の遺品を見せられたこと。書きかけの手紙——「お前が——するな」という言葉。今朝、綾奈の言葉に矛盾を感じたこと。
清水は黙って聞いていた。冴優が話し終わると、清水は静かに、
「三つ、お前に聞きたい」
「はい」
「一つ目。兄の手紙を見せたのは、なぜだと思う」
「もし綾奈さんが何かを隠しているなら——その手紙は、彼女にとって不利なものになりうる。なぜそれを、私に見せたのか」
「そうだ」
「もしかすると——綾奈さんは、私が文字を読めないだろうと予想していた。透さんの文字は震えて、ほとんど判読できない。読めなければ、私は『気にすることはない』と判断する。手紙を見せたという事実だけが残る。彼女は『刑事さんに兄の遺品を見せました。何も問題はありませんでした』と、後で言える」
「アリバイ作りに、お前を使った」
「そうかもしれません」
「二つ目。お前が手紙を読めたかもしれない、ということに、彼女は気づいていたか」
「気づいていなかったと思います。『読めましたか』と聞いてきましたが、私が判読できた部分を伝えても、表情があまり動きませんでした」
「ということは——彼女は、お前が完全には読めないと、確信していた。どうしてだろう」
「彼女は、その手紙の内容を、知っていた」
「そうだ」清水は言った。「彼女は手紙の内容を知っていて、『これなら読めない』と判断した。だから見せた」
冴優は息を呑み、
「では、彼女は、兄が何を書いたか、知っているのですか」
「知っている、というより——」「兄が、それを書いていたのを、見ていたのではないか」
「綾奈さんが——施設で、兄が手紙を書いているのを、見ていた?」
「ありうる。妹が見舞いに来ていて、兄が震える手で、何かを書いていた。妹はそれを、止めなかった。書き終えるのを待ったのか、書きかけのまま残させたのか。いずれにせよ——その内容を、妹は知った」
「そして——施設の先生が後で見つけた、ということにして、自分のところに残した」
「そうだ。そして今、お前に見せた」
冴優は布団の上に座り込みながら、
「清水さん——綾奈さんは、何を隠しているのでしょうか」
「俺もまだ、わからん」清水は言った。「ただ、お前の感じている違和感は、本物だ。それは間違いない」
「三つ目」清水は続けた。「お前は、もう一度綾奈に会うつもりだろう」
「ええ」
「気をつけろ」清水は言った。「あの女が何を隠しているにせよ、お前一人では太刀打ちできない可能性がある」
「太刀打ち、というのは」
「あの女は、人を見て話す。お前の弱みを、見つけられたら——それを使ってくる」
「弱み」
「お前は若い。お前は感情がある。お前は——綾奈に対して、同情を持っている」
冴優は一瞬であるが息を呑む。確かに、その通りだ。冴優は綾奈に同情していた。あの儚げな姿、あの兄を支えてきた六年間。それらに冴優は心を動かされていたのだ。
「綾奈に向かい合うとき、お前は刑事として向かい合え」「同情は、後にしろ。後で、ゆっくり同情していい。しかし対面しているときは——刑事の目で見ろ」
「わかりました」
「俺がもう少し回復していたら、行ってやるんだが」
「いえ。一人で大丈夫です。あなたが教えてくれたことを、使います」
清水はわずかに笑ったかもしれない。電話の向こうで、何か息を吐く音が聞こえてくる。
「冴優」
「はい」
「事件は終わったように見える。波多野が刑務所にいる。健治が刑務所にいる。新しい疑いを掘り起こすのは——簡単ではない」
「ええ」
「だから、慎重に動け。確証を持ってから、動け。中途半端なところで揺さぶると、お前自身が困ることになる」
「はい」
「それから——」「綾奈の件で何かを掴んだら、すぐ俺に連絡しろ。一人で抱えるな」
「ありがとうございます」
電話が切れ、冴優は受話器を置いた。
窓の外で夕方の空が薄くなり始めてきた。霧無村の春の夕方。山の稜線が橙色に染まっている、
綾奈は——何を隠しているのか。
冴優は、手帳を開く。清水から受け継いだ古い手帳ではない。冴優自身の新しい手帳だ。最初のページに、清水が言った言葉が書いてある。
「立派な刑事になれる」
冴優はその言葉を、しばらく見た後、新しいページを開く。
「綾奈という女について」と、
そこから——冴優の捜査が始まる。
——————
翌朝、冴優は綾奈の家には行かず、代わりに隣町の施設に向かった。透が入っていた薬物依存者のための療養施設へ。
バスで一時間。冴優は窓の外を見ながら、考えを整理する。綾奈の動機。それが冴優にとって最大の謎だった。もし綾奈が事件に何らかの形で関わっているとして——彼女に動機があるか。
ある。
兄を廃人にされた恨み。来栖恭一郎への復讐。これは、明白な動機。健治と同じ。波多野と同じ。しかし——綾奈は表向き、何もしていなかった。動機があったとして、彼女は何をしたのか。そこが、まだ見えない。施設に着いたのは、午前十時過ぎ。古い、平屋の建物であり、入り口に「療養施設『静庵』」と書かれた看板が立てかけられている。冴優は受付で身分を明かし「先月亡くなられた遙堪透さんのことで、お話を伺いたい」と伝える。受付の女性が、施設長を呼んでくれた。施設長は六十代の男性。穏やかな顔をした、落ち着いた人物だ。
「遙堪さんのことですか」施設長は冴優を応接室に案内しながら、「妹さんが、よく見舞いに来ておられました」
「妹さんは、頻繁に見舞いに?」
「月に二度ほどでした。多いときには、月に三、四度。最後の一年は、特に頻繁にいらしていました」
「妹さんは、どんな方でしたか」
「優しい妹さんでした」「兄思いの。お兄さんが意識のない時間が増えていく中で、妹さんは諦めずに通っていました。我々から見ても、心を打たれるものがありました」
「お兄さんは——最期はどのような状態だったのですか」
「亡くなる二週間ほど前から、ほとんど反応がなくなりました。それまでは、稀に意識がはっきりする瞬間があったのです。短い間ですが、話せる時もありました」
「最期に、何かを言い残されたとか——」
施設長は少し考え、
「亡くなる二日前、私が病室を訪れたとき遙堪さんは少しだけ意識がありました。私を見て何か言いたそうでした。しかし言葉にはならなかった。窺え震える手で、何かを書こうとされて——書きかけの手紙が残されました。お渡ししたのですが、妹さんはご覧になりましたか」
「ええ」「私も、見せていただきました」
「あの手紙は、もう判読できる状態ではありませんでした。妹さんへの最後の言葉だったと思いますが——内容まではわかりませんね」
「施設長」「失礼ですが、その書きかけの手紙のことを、もう少し詳しく伺えますか。いつ書かれたのか、どこで書かれたのか」
施設長は怪訝な顔を浮かべながら、
「事件の捜査と、何か関係があるのですか」
「いえ、関係というより——遙堪さんが亡くなる前の様子を、もう少し知りたいのです。妹さんへのお悔やみのために」
施設長は冴優の説明を少し疑う様子だったがやがて頷き話し始める。
「書きかけの手紙は、亡くなる三日前くらいに、書かれたものだと思います。看護師が病室に入ったとき、机の上に便箋と、震えた文字で書かれたものを見つけました。遙堪さんは、その時はもう寝ておられました」
「妹さんは、その日にいらっしゃっていましたか」
施設長は記録簿を取り出して確認すると、
「ええ。亡くなる三日前——三月十七日に、いらっしゃっています。午後一時から、四時頃まで」
「兄妹で、何か話されていましたか」
「看護師の話では——妹さんが何か熱心に話しかけているのを、聞いたそうです。遙堪さんは時折頷いたり、首を振ったりしていたようです。意識はある程度あったのでしょう」
「具体的に、何を話していたかは——」
「わかりません。看護師は廊下を通っただけですから」
冴優は頷き、
「最後に、もう一つ伺います」「妹さんは、お兄さんが亡くなった時、どのような様子でしたか」
施設長は少し考えながら、
「悲しんでおられました。しかし——」
「しかし、なんですか」
「これは私の印象に過ぎませんが——妹さんは、ご兄上のご逝去を、どこかで予期しておられたのではないかと感じました。覚悟ができている、という様子でした」
「予期、というのは——病状から、ですか」
「それもあります。ただ、それだけではない、何かが」
施設長は言葉を選び、
「妹さんは、葬儀の段取りなど、すべてご自分で進めておられました。亡くなった当日には、すでに葬儀社に連絡されていました。それは——遺族としての準備を、亡くなる前から進めておられた、ということです」
冴優は施設長の言葉を聞きながら、また一つ、違和感を抱く。綾奈は兄の死を予期していた?いや——もっと正確に言えば。綾奈は、兄がいつ死ぬか、知っていたのではないか。
——————
冴優は施設長に、当日担当していた看護師に話を聞きたいと頼んだ。施設長は了解し、若い看護師を呼んでくれた。三十代の、優しそうな女性であった。
「川井と申します」彼女は会釈し、「遙堪さんを担当させていただいておりました」
「お忙しいところすみません」「妹さんが見舞いに来られていたとき、お二人の様子を、少しお話しいただけますか」
川井看護師は少し考え、話し始める。
「妹さんは、本当に頻繁にいらっしゃっていました。お兄さんの隣に座って、ずっと話しかけていらした。お兄さんが反応できないときも、妹さんは話しかけ続けていました。施設の方々は皆、感心しておりました」
「最後の頃、妹さんは何を話していましたか」
「いつも、お兄さんに『大丈夫よ』と言っておられました。『お兄様、大丈夫よ。私が見ています』と」
「『見ています』——ですか」
「ええ。何度も、その言葉を繰り返していらっしゃいました」
「妹さんは、お兄様の薬の管理にも、関わっていましたか」
「いいえ。それは施設の仕事です。家族の方が薬に触れることは、原則ありません」
「お兄様の食事は」
「妹さんが時々、お兄様の好きだった食べ物を持ってきてくださいました。煎餅や、小さなお菓子など。お兄様が食べられる状態のときは、それを召し上がっていました。最後の頃は、もう食べられない状態でしたが」
冴優は質問を変え、
「お兄さんが亡くなる三日前、妹さんが午後にいらっしゃったそうですね。その日、お二人の様子は、いつもと違いましたか」
川井看護師は、少し考えながら、
「いつもと同じだったと思います。妹さんが熱心に話しかけて、お兄様が時々反応する。私は廊下を通り過ぎた程度ですが——」
「廊下を通ったとき、何か聞こえたことは」
看護師は首を傾げ、
「そうですね——妹さんが、何か——」
彼女は思い出そうとしていた。冴優は待った。
「『もう少しよ』——と言っていた気がします」
「もう少し」
「ええ。『お兄様、もう少しよ。もうすぐ終わるから』と」
冴優は息を止め、
「もうすぐ終わる、というのは——」
「お兄様の苦しみが、もうすぐ終わる、ということだと思います」「私はそう解釈しました。あの時のお兄様は、もう——長くないことが、見て取れる状態でしたから」
「妹さんは、お兄様の死を願っていた、ということでしょうか」
「願う、というよりは——」川井看護師は言葉を選びながら「楽になることを、祈っていたのではないかと思います。長く苦しんでこられた方ですから。妹さんが、お兄様に『もう少しよ』と言うのは——お兄様の解放を、願う言葉だったと思います」
冴優は頷き、そう解釈する方が自然だ、と思った。しかし——もう一つの可能性が、冴優の頭に浮かんでしまう。
「もう少しよ。もうすぐ終わるから」
綾奈は、何が「もうすぐ終わる」と言ったのか。
兄の苦しみが——なのか。それとも——綾奈自身の、何かなのか。冴優は施設を後にする。帰りのバスの中で、冴優はずっと窓の外を見ていた。早春の田畑が黒い土を見せてところどころ霜が残っている。山の稜線がわずかに紫がかってもいる。冴優の目には、それらの風景が、いつもより鮮明に映っていた。
綾奈は、兄が死ぬ前から——何かを終わらせようとしていた?そしてその「何か」は、兄の死をもって完了する種類のものだったのか?冴優の中で、その仮説が、ゆっくりと形を持ち始めていた。




