表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
散りぬる霧に  作者: masaya
散りぬる霧に
5/9

四章 消えた証人(後編)

四日目の朝、清水と冴優が波多野診療所に着いたのは八時半過ぎであった。

受付の女性は「先生はまだお見えになっていません」と言う。

「いつもこの時間ですか」清水は聞き、

「いいえ、いつもなら七時には」女性は少し困った顔をしながら、「今朝は遅いですね。電話をすかけてみましょうか」

「いえ、待ちます」

清水と冴優は待合室の椅子に座る。と、冴優は緊張した面持ちで待っていた。今日、波多野が事件について何を語るか。それを清水が、どう引き出すか。冴優の刑事人生で、初めて目撃する重要な対話だ。

十分が過ぎたが波多野は来ない。

「清水さん」冴優が小声で、「これは——」

「逃げてはいない」清水は静かに告げる。「あの男は逃げない。何かが、あって遅れているだけだ」

「どうしてそう言えるんですか」

「あの目を見ていればわかる」

冴優はそれ以上聞かなかった。清水の言葉には、根拠を超えた何かがあったからだ。

二十分が過ぎた頃、診療所の入り口に人影が現れる。波多野医師だ。

白衣ではなく、普段着の上に薄いコートを羽織り手には小さな鞄を持っている。患者を診る予定がない朝の格好——いや、違う。何かを片付けてきた人間の格好の様だ。

波多野は清水を見ると、わずかに頷く。驚いた様子はない。

「お待たせしました。少し、寄るところがありまして」

「どこに寄ってこられたのですか」清水は問う。

波多野は少し間を置き、

「弟の墓です」

受付の女性が驚いた表情を浮かべる。波多野は彼女は視線を向け「今日は午前の診察を休む。待っている患者には謝って、明日に振り替えてほしい」と告げた。彼女は何かを察したように、無言で頷き立ち上がる。

波多野は奥の診察室へと清水と冴優を案内した。机を挟んで向かい合う。冴優は壁際に立った。

窓から朝の光が差している。光の中に埃が舞っていた。診察室の壁の時計が、規則正しく時を刻んでいる音だけが部屋を包む。

波多野は机の上に手を置く。白くて、細い、医師の手。震えはなかった。

清水も波多野の前の明日に座り、煙草を取り出しかけて、やめた。診察室だ。それに、今は煙草に頼る必要はなかった。

「昭和三十六年に」清水は静かに「私はある医師に会いました」

波多野の目が、わずかに動く。

「妹さんを失った医師でした。被害者の主治医をしていた人です。睡眠薬の大量投与で、被害者を殺した」

清水は波多野を見ていた。波多野もまた清水を見ていた。

「その医師は、逮捕のときに私に言いました。『ありがとうございます。見つけてくれて』、と」

波多野の手が、わずかに机の上で動く。

「どんな気持ちで、その言葉を言ったのか。当時の私には完全にはわかりませんでした。十数年経って、今、少しわかる気がします。誰かに見つけてもらいたかった——長い時間を一人で抱えてきた人間は、最後にそれを誰かに見つけてもらいたいのだと思います」

沈黙が続く。窓の外で、風が木の葉を揺らし波多野は深く息を吐いた。長い、長い、息であった。

「弟の話を、させてください」波多野は静かに語りだす。

清水は頷き、冴優は壁際で息を止めていた。




——————




波多野の弟、波多野弘は三つ年下だった。

「弟は、私とは違う種類の人間でした」「私は子供の頃から本ばかり読んでいて、人付き合いが下手でしたが、弟は明るく、誰とでも仲良くなれた。父も母も、弟のことを可愛がっていました。私は嫉妬していたかもしれません。しかし、それを表に出すことはなかった。年が離れていたこともあって、弟は私を慕ってくれ、『にいさん、にいさん』と、いつも後をついてきてくれていました。」

波多野の声は淡々としていた。しかし、その淡々さの奥に、長く封じ込めてきた感情も見え隠れしている。

「弟は東京の会社に就職しました。真面目に働いて婚約者もおり、近々結婚する予定でした。そんなときに、弟は腰を痛めた。仕事中の事故でした。痛みが続いて、鎮痛剤をよく飲んでいた。普通の市販薬では効かなくて、知り合いに相談したら、『よく効く薬がある』と紹介された。と、」

「来栖が関わっていた薬ですね」清水は確認する。

「直接ではありません。来栖は何重もの代理人を通していた。弟は、自分が来栖の薬を飲んでいることなど、最後まで知らなかったでしょう」

波多野は机の上の自分の手を見ていた。

「弟は薬で痛みが消えたと喜んでいました。半年経って、私のところに連絡が来たとき——弟はもう、別人でした。痩せ細って、目が虚ろで、感情の起伏が激しくなっていた。私は医師として、すぐに薬物依存だと気づきました。しかし、どの薬から来ているのか、当時はわからなかった」

波多野は一度、目を閉じた。

「弟を施設に入れようとしました。しかし、弟は『大丈夫だ、自分で何とかする』と言って聞きませんでした。婚約者も離れていき、仕事も失った。私が会いに行くたびに、弟は少しずつ、弟ではなくなっていった」

「弟さんは、いつ亡くなりましたか」清水は静かに問うた。

「六年前の冬です」波多野は続け、「過剰摂取による心停止でした。発見されたとき、すでに数日が経っていました。一人暮らしのアパートで、誰にも気づかれず——」

波多野はそこで言葉を切る。

冴優は壁際で、唇を噛んでいた。

「葬儀は私が一人で行いました」波多野は続ける。「父と母はすでに亡くなっていました。婚約者は当然、来ませんでした。弟の友人たちも、最後は離れていったので、誰も。私と——あと、ほんの数人だけでした」

「それから、弟さんを死なせた薬の出所を調べた」

「はい。半年かけて、来栖恭一郎という名前に辿り着きました。しかし証拠はなかった。来栖は賢かった。直接手を汚さない仕組みを、いくつも作っていました」

「警察には届けなかった」

「届けようとしました。しかし、証拠がなければ動けないと言われ、実際、その通りでした。私には何もできなかった」

波多野はゆっくりと顔を上げ、

「そして一年後、来栖が私の診療所に現れた」




——————




「最初は患者として来ました」波多野は言う。「軽い不調を訴えて、診察を受けた。その日は何事もなく終わり、二度目に来たとき——彼は私の過去の処方の記録を持っていた」

「弟さんへの処方ですか」

「弟が苦しんでいたとき、私は規定を超えて鎮痛剤を出したことがありました。痛みを少しでも和らげたかった。しかしそれは、医師として越えてはいけない一線でした。来栖はその記録を、どこからか手に入れていた」

「…脅迫の材料にされた」

「『この記録が公になれば、医師免許の剥奪は確実だ。しかし、ある協力をしてくれれば、これは表に出さない』と言われました。協力というのは——医療用の薬物の定期的な提供でした」

波多野の声が、わずかに震え、

「私はそのとき、初めて気づきました。弟を殺したのは、目の前にいるこの男だ、と」

沈黙が、診察室を満たす。

「私は何も言えませんでした」波多野は続け、「拒絶すれば、医師免許を失う。失えば、誰の役にも立てなくなる。私はこの地域で、唯一の医師でした。村人たちに必要とされていた。逃げることもできなかった」

「それから六年間、薬を提供し続けた、と」

「はい。私はその間、自分の医師としての魂が、少しずつ削れていくのを感じていました。私が出した薬は、どこかで誰かを苦しめている。弟と同じように、誰かが死んでいる。それを知りながら、止められなかった」

波多野は両手を机の上で組んだ。指先が白くなるほど、強く組んでいた。

「堂島さんの奥さんは、四年前に薬物依存で亡くなりました。来栖が霧無村に流した薬で、です。私は、堂島さんに何も言えなかった。葬儀でも、目を合わせられなかった」

「遙堪綾奈さんの兄さんは」

「廃人になりました。三年前です。私は施設を紹介して、定期的に様子を見てきました。しかし——救えませんでした。あの兄さんを廃人にした薬は、私が来栖に渡したものの中にあったかもしれない。確証はありません。しかし、その可能性を、私は否定できません」

波多野はそこで、初めて目を伏せた。

「私は、自分が誰かの弟を殺している側に回っていた。弟を殺された私が、です」

清水は何も言わなかった。冴優は壁際で目に涙を浮かべていた。波多野はそれに気づかない様子で、続ける。

「半年前から、来栖は要求を増やしてきました。提供する薬の量、種類、頻度。私は限界に近づいていました。今回の来栖の村への訪問は——新たな取り決めの確認のためでした。会えば、もっと深く引きずり込まれる。しかし会わなければ、すべての記録が公になる」

「…決意したのは、いつですか」

「来栖が村に来ることが決まったときです」波多野は静かに、「もう、終わらせるしかないと思いました。私が法を破ることになっても、これ以上、私の薬で人が死ぬことの方が、耐えられなかった」




——————




「事件の夜のことを、お聞かせください」清水は静かに言った。

波多野は深く息を吸う。一度、二度。それから話し始める。

「あの夜、私は来栖の宿の部屋を訪ねました。確か、九時過ぎでした。つ茶を入れさせて、相談という体裁を取りました。が、実際は、彼が一方的に新しい要求を伝える場でした」

「来栖さんは何を要求してきたのですか」

「東京の知人への、新しいルートの開設でした。私が東京に出張することがある、その機会を使え、と。もちろん、私はそのために東京に行く時間など作れません。しかし来栖は、それを知っていてあえて言いました。『お前の都合で、人が苦しんでもいいのか』という意味でした」

波多野の声は淡々としている。淡々としすぎていた。

「私は、決意したことを実行する時が来たと思いました。来栖の湯呑みの中に、用意していた睡眠薬を入れました。薬は別の場所で、何ヶ月もかけて少しずつ集めていたものです。診療所の在庫からは取らない。痕跡が残らないように、慎重にやりました」

「致死量を、ですね」

「はい。普通なら気づかれる量です。しかし来栖は、自分の優位性を確信していて——私に対する警戒心がなかった。茶を飲み続けていました」

「来栖さんが意識を失った後は、」

波多野は少し間を置き、

「呼吸が止まるまで、見届けました」波多野は言う、「医師として、それが最も確実な方法だとわかっていました。苦しんでいる様子はありませんでした。眠るように——」

波多野はそこで、初めて声を詰まらせた。

「私は、その瞬間に思ったのです。弟もこんな風に死んだのだろうか、と。何もわからずに、苦しまずに、ただ眠るように——いえ、違います。弟は苦しんだはずです。一人の部屋で、何日もかけて。来栖の死は、それに比べれば穏やかだった。それが、不当に思えました」

清水は何も言わず、波多野が続けるのを待った。

「呼吸が止まったあと、私は密室を作りました。あの部屋は和室で、内側から閂をかける作りになっています。私は事前に、絹の糸を用意し閂の溝に糸を引っ掛けて、扉と柱の隙間から外に引き出す。扉を閉めて、糸を引っ張る。閂が落ちて、ロックがかかる。その後、糸を引き抜けば、痕跡は残りません」

「使った糸は、」

「翌朝、現場に最初に入ったときに回収しました。私は、村で唯一の医師として、当然のように呼ばれました。死亡確認をしながら、糸を捜して回収した。そして死亡時刻を本来より二時間遅く伝えました。私自身のアリバイのために」

「自分の湯呑みは、持ち帰った、と」

「はい。茶碗は二つあると不自然になります。私はそれが見つかる前に、自分の湯呑みを部屋から持ち出しました」

波多野はそこで深く息を吐く。長い告白の終わりだった。

「以上が、私が来栖恭一郎を殺した、その経緯です」

診察室に再び沈黙が降りる。

壁の時計が、規則正しく時を刻み、窓の外で、鳥が鳴いた。

「波多野先生」清水は静かに「あなたの自白を、署で正式に記録させていただきます。今日中に応援が来ます。それまで、診療所を離れないでください」

「逃げません」波多野は宣言にも似た言葉を、

その言葉は、簡潔で、揺るぎなかった。




——————




清水と冴優が診察室を出ようとしたとき、波多野が呼び止める。

「刑事さん」

清水は振り返り、

「一つだけ、お聞かせください。あなたは、私のような人間を、どう思いますか」

清水は少し考え、

「気の毒な男だと思います。同時に、許せない男だとも思います。両方の感情を、私は持ち続けます。それが私の仕事です」

波多野の目が、わずかに揺れ、

「ありがとうございます」

清水は頷く。それ以上の言葉は要らなかった。

診察室を出るとき、冴優は後ろを振り返った。波多野は机に手を置いたまま、まっすぐ前を見ていた。その姿勢は、長い旅を終えた人間の姿勢であった。




——————



診察所を出たとき、冴優は震えていた。

「すごい——」冴優は呟く。「全部、認めた。波多野先生が、全部」

「…ああ」

「清水さん——犯人は、本当に波多野先生だったんですね」

「動機、機会、手段、すべて整合した。本人も認め、これで事件は——形になった」

二人は宿への道を歩き始める。霧はもう、ほとんど消えかかっている。山の稜線がはっきりと見え、村の屋根が朝の光を受けて、瓦の輪郭まで見えた。空は青く、清水が霧無村に来てから初めて見る、本物の青だった。

「綺麗ですね」冴優が少しだけ微笑みながら口にする。

「ああ」

二人はしばらく、無言で歩いている。波多野の告白を、それぞれの胸の中で反芻しているように。

「清水さん」冴優が口を開く。「波多野先生のこと、本当に気の毒ですよ」

「…ああ」

「でも、それを言ったら、見逃すべきだということになってしまいそうで——」

「ならん」清水は静かに告げる。



「気の毒だと思うことと、見逃すことは違う。その両方を持ち続けることが大事だ。片方だけになったとき、刑事は間違いを犯す」



冴優は深く頷き、

「俺、この事件で——変わった気がします」冴優は言った。

「どう変わった」

「うまく言えないけど。前は、犯人を見つけることが正義だと思っていました。今は——犯人を見つけることは、出発点でしかないと思っています。その先に、もっと多くのことがある」

清水は冴優の横顔を見る、

半年前の冴優ではなかった。焦りが消え、急ぎが消え、感情の起伏は残っているが、その奥に何かが沈んでいた。

成長した、と清水は思う。

半年で、ここまで変わるか。

「お前は」清水は、「立派な刑事になれる」

冴優は驚いて清水へ視線を向け、

「清水さん——」

清水は前を向いて歩き続けた。冴優は何かを言おうとしたが、言葉が見つからない。代わりに、心の中で清水の言葉を反芻する。


———立派な刑事になれる。


それは、清水雅哉という男が半年間一緒にいた相手に下した、最大の評価である。

二人が宿への道の途中、小道が二手に分かれる場所。

右が宿。左が村の北外れへの道。

清水が、足を止め、

「どうしたんですか」

「少し確認したいことがある」清水は左の道を見ながら言った。「田辺巡査のところへ、少し寄ってくる」

「俺も行きます」

「いや、お前は宿に戻れ。署への連絡を先に頼む。応援が来るまでの手順を確認しておいてくれ」

「でも、一人で——」

「すぐ戻る。三十分もかからん」

冴優は引き留めようとした。が、何かが止めた。清水の口調は穏やかで日常の声だった。しかし、その奥に何かがあった。冴優にはまだそれが何かわからない。

「清水さん」冴優は言う「田辺さんのところで、何を確認するんですか」

清水は少し間を置き、

「堂島が田辺の家に匿われている可能性がある。そして田辺の動きに、少し引っかかっているものがある」

「田辺さんが——来栖の密売に絡んでいると?」

「可能性の一つだ。確認するだけだ」

清水は歩き出そうとした瞬間、冴優は一歩前へ出る。

「清水さん」

「何だ」

冴優は何か言おうとした。が、何を言えばいいかわからなかった。ただ、嫌な予感があった。根拠のない、しかし確かな、嫌な予感が。

「気をつけてください」

清水は冴優へ視線を向け、その顔に、珍しく何かが浮かんだ。

感情だ。

清水の顔に感情が浮かんだ。冴優が清水の顔に感情を見たのは、霧無村に来てから——いや、半年間組んできて——初めてかもしれなかった。

それは、笑みに近かった。

清水が笑ったのを、冴優は見たことがなかった。しかし今の清水の顔は、笑みに最も近い表情。穏やかな、何かを認める表情。

「行け」清水は静かに言う。「早く連絡を取れ」

清水は左の道を歩き始めた。

冴優はその背中を見送る。

いつも通りの背中だった。感情を持たない、削ぎ落とされた背中。ただ真っ直ぐに歩く。それだけの背中。

しかし今日は、その背中が少しだけ違い、重いものを背負っているように見えた。しかしそれは、重さに潰されているのではなく——重さを受け入れた人間の歩き方だった。

冴優は右の道を選ぶ。



——————それが、清水雅哉の生きた姿を見た最後になるとは、そのときの冴優には知る由もなかった。




——————


清水雅哉が左の道を選んだのには、はっきりとした理由があった。

田辺巡査のことが、ずっと引っかかっていたからだ。

波多野の告白の中で、清水はある違和感を覚えていた。波多野は六年間、来栖に脅迫されていた。しかしその間、誰にも相談せずに苦しんでいた、というのは、本当だろうか。

田辺は六年前の薬物事件を揉み消した側の人間だ。波多野によれば、堂島源蔵もその事実を知っていた。少なくとも村の中で、来栖の活動を知っていた人間は複数いる。波多野が一人で抱え込んでいた。と、いうのは、村の構造からすれば不自然だ。

田辺巡査は、ただの揉み消し役だったのか。それとも——もっと積極的な共犯者だったのか。

清水は二日目の聞き込みで、田辺の目を見ていた。「堂島さんの行方はわかりません」と言ったときの、あの目。嘘をついている人間の目は過剰になる。真実を隠している人間の目は静かになりすぎる。田辺の目は、静かすぎた。

そして、堂島源蔵。

妻を薬物で失った男。来栖を恨む理由がある男。しかし三日目に姿を消した。なぜ消えたのか。逃げたのではない、と清水は感じていた。隠れたのだ。何かを警察に知られたくなかったから。

もしかすると——堂島と田辺は、波多野が事件を起こした後、波多野を守るために動いている可能性がある。あるいは、別の動きをしているか。

どちらにせよ、確認する必要がある。

清水は北の道を歩いた。村の北外れに、田辺の駐在所兼住居がある。古い木造の小さな建物だ。煙突から煙が上がっているのが見える。つまりは誰かがいる。

清水は歩きながら、もう一つのことを考えていた。

来栖の手帳。一日目に押収した手帳の中に、いくつかの名前と地名のリストがあった。署に記録は送ってあるが、清水の記憶の中で、もう一つの符号が残っていた。

「TBN」

リストの中に、その三文字のイニシャルがあったのだ。「ハタ」(波多野)もあった。「ドジ」(堂島)もあった。そして「TBN」——田辺。

田辺が来栖の活動に関わっていた、その可能性が、清水の中で確信に変わりつつあった。

田辺の家が見えた。小さな木造の家。玄関の前に、古い自転車が置いてあった。

玄関の扉が、少し開いている。

清水は立ち止まる、

朝の九時過ぎ。人が起きている時間に、駐在所の扉が半開き。

——おかしい。

清水はそっと近づく。と、中から声がする。低い、男の声。一人ではない。

清水はそっと扉を押す。と、

玄関に入った瞬間、状況が見えた。

奥の部屋に、二人の人間。

田辺巡査と——堂島源蔵。

堂島は田辺の家に匿われていた。田辺は嘘をついている。

しかし清水が驚いたのは、それだけではなかった。

堂島の手に、茶色い小瓶。

清水はその瓶は薬の瓶だと気付く。ラベルはない。しかし形と色に、見覚えがあった。医療用の——特殊な薬物に使われる、あの形だ。来栖が密売していた薬の容器の一つに、間違いなかった。

「堂島さん」清水は静かに、「その瓶を、見せてもらえますか」

堂島と田辺が振り返る。二人とも、清水を見て固まる。時間が止まったような瞬間だった。

田辺の手から湯呑みが落ち、床で割れる音がする。茶の湯気が、床に広がる。

「清水さん——」田辺が掠れた声で「どこから——いつから——」

「扉が開いていました」清水は部屋に入りながら口にする。「お二人とも、立っていてください。何も動かないでください」

清水は刑事の声で伝える。穏やかだが、有無を言わせない声だった。

堂島と田辺は固る。

「堂島さん。その瓶を、ゆっくりと、こちらに渡してください」

堂島はゆっくりと頷く。

「刑事さん」堂島は、「どこまで、知っているんですか」

「波多野先生が話してくれました。来栖さんの死への関与を、認めています」

田辺の顔色が変わった。さっと、紙のように白くなり膝が崩れそうになった為、壁に手をつき、

「波多野が——認めた」

「ええ。堂島さん、その瓶は来栖が残していったものですか」

堂島はゆっくりと頷く。「来栖が宿に残していった薬のサンプルです。田辺が見つけて、保管していた。波多野の情状酌量のために、来栖の悪事の証拠として残しておくつもりでした」

「なるほど。その瓶を、私に渡してください。証拠として適切に処理します」

堂島は少し考え、それから、ゆっくりと手を伸ばす。瓶が、手から手へと——清水の手に渡されようとした。


———そのとき。


背後で、わずかな音がする。

木の床が軋む音。誰かが、家の奥の方から、近づいてくる音。早く、しかし足音を消そうとしている、その緊張した足音。

清水は耳でそれを捉え、振り返ろうとした。が、

———遅かった。

背中を向けたままで、清水は本能的に身を低くした事が命を救った。完全には避けられなかったが、致命傷にはならなかった。

頭の後ろに、鈍痛が襲ってくる。

木の塊。薪だ、と清水は一瞬で理解した。誰かが、薪で清水の頭を打った。

視界が白く弾け、

音が、消えた。

床が、急速に近づいてくる。

清水の体が、傾き、膝が床についた。手が床につき、それから、体全体が倒れた。

冷たい床板の感触が、頬に伝わる。

何が——という思考が、泥の中を漂うように流れた。

霞む視界の中で、清水は何かを見ようとした。が、体が言うことを聞かなかった。

しかし耳は、まだ聞こえていた。

堂島の叫び声。「健治!」

田辺の呆然とした声。「何をした、お前——」

そして——もう一つの声。

男の声。若い男の声。

「父さん、瓶を寄越せ! 早く!」

その声を、清水は聞いた。

知っている声——いや、知らない声だった。聞いたことのない声。しかし、聞いた瞬間に、清水には理解する。

堂島の息子だ。

そうか——清水は思った。そういうことか。

全てが、繋がった。

波多野だけではなかった。この事件には、もう一つの層があった。来栖の毒は、波多野だけでなく、堂島の家族にも回っていた。母を失った息子が、東京から戻っていた。父を守ろうとして——清水を倒した。

言わなければならない。冴優に。

しかし体が動かなかった。声が出なかった。

「父さん、瓶!」息子の声が叫ぶ。

「健治、お前——なんてことを——」堂島の声が震えていた。

「もういい、寄越せ!」

床の上で、清水の意識は薄れていく。

その薄れていく意識の中に、節子の顔が浮かんだ。

病院の白い天井の下で、穏やかに眠っていた節子の顔が。

ごめんな——清水は謝罪する。もう少しだった。もう少しで、全部わかったのに。

冴優に、言えなかった。

その後悔が、意識の最後の光の中で揺れ、

そして、光が消えた。



——————



冴優が宿に戻って署に連絡を入れ終わったのは、清水と別れてから二十五分後。

応援は一時間ほどで到着するという。冴優は電話を切り窓の外へ視線を向ける。

霧が薄い。今日は珍しく、山の向こうまで見える。

しかし清水は戻ってこなかった。

———三十分が経ち。———四十分が経ち。

冴優の胸に、さっきの嫌な予感が戻ってくる。清水は「三十分もかからん」と言った。もうそれを過ぎている。清水は時間に正確だ。「すぐ戻る」と言って遅れたことは、半年間で一度もなかった。

冴優は立ち上がり、窓辺で、空を見た。霧無村の、初めて見る青い空。さっき清水と一緒に「綺麗ですね」と言った空。

胸の中で、何かが警鐘を鳴らしていた。

冴優は宿の部屋を飛び出し階段を駆け降りた。玄関で靴を履きながら、宿の主人に「すぐ戻ります!」と叫んだ。

清水が向かった方向——村の北外れへの道を冴優は走った。靴の中で、足の指が痛んだ。雨に濡れて変形した革靴は、走るのに向いていなかった。が、冴優は気にしなかった。

田辺の家に向かう道は、上り坂だ。

冴優は息が切れ、胸が痛んだ。脇腹が刺すように痛んだ。それでも足を止めなかった。

お願い——冴優は心の中で何度も。お願いだから、何もないでくれ。

根拠のない祈りだった。しかし、それしかできなかった。

道の両側の木々が、冴優の視界の端を流れていく。一日目から見てきた風景だ。霧の中の木々、雨に濡れた木々。今日は霧がない、晴れた木々。同じ道だが、気持ちが違うだけで、すべてが違って見えた。

半年間、冴優は清水と歩いてきた。多くの事件を経験した。多くの被疑者を逮捕した。多くの被害者の家族と話した。その全てが、清水の隣で起きたことだった。清水のいない仕事を、冴優は想像できなかった。

田辺の家が見えてくる。

玄関の扉が、半開きになっており、冴優は嫌な予感を確信に変えた。

中から声がした。叫び声に近い声。誰かが何かを言っている。

「早く——誰か——」

堂島の声だ。冴優は最後の力で走り、玄関へ飛び込んだ。土間で躓きそうになりながら、奥の部屋へ駆ける。


———奥の部屋に、清水が倒れていた。

床に、うつ伏せで。頭の後ろに、血が滲んでいた。床板に、血だまりが広がっていた。

冴優の足が、止まった。

一瞬、世界が静止する。

声を出すまでに、数秒かかった。

「———清水さん!」

声が、自分のものじゃないみたいに大きく、しかし掠れて出た。

冴優は床に膝をつき膝が血だまりに浸かった。気になんかならず、清水の体を、慎重に仰向けにする。

蒼白な顔。唇がわずかに開いている。瞳孔が、光に反応するか確認した。微弱に反応はしている。意識はないが、生きている。

呼吸を確認する。浅く、不規則だ。脈を確認するとまだある。しかし弱かった。

「何があったんですか!」冴優は堂島に向かって叫ぶ。

堂島は壁際に座り込み、田辺は呆然と立っている。

「誰かが——裏口から——」堂島が震える声で、「清水さんが来て、私が瓶を渡そうとしたとき——突然——」

「誰が!誰が来たんですか!」

「見えなかった。後ろから、棒のようなもので——清水さんが倒れて、その人間は裏口から逃げた」

堂島は冴優の目を見なかった。何かを隠している、と冴優は分かっている。しかし今は追及している場合ではない。

冴優は清水の頭の傷を見る。深い。骨にまで達している可能性がある。出血は止まりかけているが、内出血が懸念だった。冴優は警察学校で習った応急処置を思い出そうとする。が、手が震えて、思考がまとまらない。

「田辺さん!」冴優は叫ぶ。「救急車を呼んでください!!今すぐ!!早く!」

田辺が飛び上がり電話に走った。

冴優は清水の体をできる限り動かさないように頭を少し高くし、脈を確認し続けた。

「清水さん、もう少しです」冴優は伝える「救急車が来ます」

清水は反応がない。当然だ。意識がない。

しかし冴優は、声をかけ続ける。声が清水に届いていると、信じたかった。冴優は清水の手を握る。

冷たかった。しかし、まだ温もりが残っていた。

「清水さん!死なないでください!」

「俺がいる。ここにいます。だから——」

冴優の声が震る。怖さではなかった。怒りでもなかった。それより深い何かが、冴優の胸から声を揺らしていた。

「あなたみたいな刑事に、まだなれていないから——だから、死なないでください」

言いながら、冴優は気付く。自分が何を言っているか、を。

それは——清水がいなければ、自分は完成しない、ということだ。師匠として、導いてくれる人間として、ではなく——清水雅哉という人間の存在が、自分という刑事の形の一部になっている。

その認識が、冴優を揺さぶっていた。

「あなたがいないと、俺は——」

言葉が、続かなかった。

代わりに、冴優は涙を流す。

半年間、清水の前で泣いたことはなかった。泣いてはいけないと思っていた。しかし今は止まらない。涙が清水の顔の上に落ち、冴優は手で拭った。

「ごめんなさい」「俺が一緒に行けばよかった」

「俺が止めればよかった」

「俺が——」

「気をつけてくださいって、俺が言ったのに——」

自責の言葉が、止まらない。冴優は分かっていた。これは何の助けにもならないと。しかし言葉が、感情と一緒に流れ出てしまう。

そのとき、清水の手が——わずかに動く。

冴優は息を呑む。

清水の指が、冴優の手をわずかに握り返した。微弱に、しかし確かに。

「清水さん——!」

冴優は清水の顔を見た。目は閉じたままだ。意識は戻っていない。しかし、手が——応えた。

意識のない人間が、声を聞いて、応えてくれた。

冴優は唇を噛んで、

聞いてくれている。

清水は、聞いてくれている。

 



——————




救急車が来るまでの時間は、冴優には永遠のように感じられた。

清水の呼吸が二度止まりかけた。そのたびに冴優は声をかけた。名前を呼んだ。意識がないはずなのに、声をかけずにはいられなかった。

「清水さん」

「清水さん、もう少しです」

「もうすぐ、救急車が来ます」

田辺は電話の後、部屋の隅で小さくなっていた。堂島は手をついて頭を下げ、「すまない、すまない」と繰り返すだけだった。

冴優はそれらを視界の端に置いたまま、清水だけを見ていた。

犯人が誰かという思考は、頭の端で動いていた。しかし今は、清水の呼吸の方が重要であった。

清水のスーツのポケットから何かが少しだけ出ていた。冴優は注意深く、それを取り出す。と、

財布だった。

普段使いの、革の財布。少し古い。清水が長年使っているもの。

冴優は財布を清水の胸の上に戻そうとして手を止めた。中から、何かが見える。


———小さな紙の栞。


子供が作ったような、不器用な切り絵が貼ってある。「先生、ありがとう」と鉛筆で書いてあった。古い栞だ。長年、財布の中で擦れた跡もある。

冴優はその栞を見ていた。

これは——清水の妻の、ものだろうか。

清水雅哉という男のことを、冴優はほとんど知らない。妻が十二年前に死んだことくらいしか知らない。教師だったということも、聞いたことがあったかもしれない。しかしそれ以上のことは——清水は決して語らなかった。この栞は、その妻のものだろうか。財布の中に、ずっと入れていたのか。

冴優は丁寧にしおりを財布に戻す。財布を清水のポケットに戻し、

「清水さん」冴優は静かに「この栞、奥さんのですよね」

返事はない。

「あなたが、ずっと持ち歩いていたんですね」

「奥さん——心配されていますよ」

「だから、戻ってきてください」

救急車のサイレンが、遠くから聞こえてくる。




——————




救急車が来て、清水が担架に乗せられたとき、冴優は手を離した。

「一緒に行きます」冴優は隊員に伝える。

「ご家族の方ですか」

冴優は一瞬迷い、

「相棒です」

隊員は頷く。

救急車の中で冴優は清水の顔を見続けた。マスクがつけられ、点滴が入れられ、隊員たちが慌ただしく動いている。その中で清水の顔は——静かだった。

お前は立派な刑事になれる——その言葉が、冴優の耳の中で繰り返された。

なぜあのとき、そんなことを言ったのか。

まるで、自分が戻らないことを、知っていたように。

いや——違う。冴優は思い直す。清水は何も知らなかった。ただ、半年間の自分への評価を伝えただけだ。たまたま、それがあのタイミングだった。

そう信じたかった。

救急車の窓から霧無村の景色が流れていく。山。木々。村の家々。霧が完全に晴れた、青い空の下の風景。清水が「綺麗だ」と言った——いや、言ったのは冴優の方だ。清水はただ「ああ」と頷いただけだった。

しかし、清水の「ああ」には、もう少し深い肯定があった気がする。

冴優はそう思いたかった。



——————



病院に着いたのは、昼前のこと。

清水は手術室に運ばれ、冴優は待合室の椅子に座って待った。

一人で、待った。

待合室の窓から、秋の空が見える。霧のない、青い空だ。霧無村では見られない色の空。白い雲が、ゆっくり、ゆっくりと流れている。

冴優は空を見ながら、清水のことを考える。

清水雅哉という人間について、冴優が知っていることは少ない。妻が十二年前に死んでいること。子供はいないこと。昇任試験を断り続けていること。煙草を吸うこと。感情をほとんど顔に出さないこと。

そして、財布の中に、子供の作ったしおりを入れていること。

しかしそれ以上のことを、冴優は知らない。

清水が何を思いながら生きているのか。何を大切にしているのか。どんな過去を持っているのか。半年間一緒にいて、冴優はほとんど何も知らなかった。

けれど、清水という人間の重さは——わかった気がしていた。

言葉が少なくても、感情を見せなくても、その存在感が教えることがあった。刑事とはどういうものか。真実に向き合うとはどういうことか。矛盾を抱えながら動くとはどういうことか。

それらを、清水は言葉でなく、生き方で示していた。

待合室に、人が来る。


——遙堪綾奈。


冴優は立ち上がり、「どうして——」

「田辺巡査が知らせてくれました」綾奈は言った。顔が青く「清水さんが——大丈夫ですか」

「手術中です。まだわかりません」

綾奈は冴優の隣に座る。しばらく、二人は黙っていた。

「私のせいかもしれません」綾奈が静かに「私が話さなければ——」

「違います」冴優は言葉を遮る。「あなたのせいじゃない。あなたが正直に話してくれたことは、正しかった」

「でも——」

「清水さんも、そう言うはずです」冴優は続ける。「真実から目を背けることが、もっと多くの人を傷つける。あの人はそういう生き方をしてきた人です。だから——あなたが話したことを、後悔する必要はない」

綾奈は目を伏せ、

「刑事さんは、清水さんのことが好きなんですね」

冴優は少し考え、

「尊敬しています。あの人みたいな刑事に——なりたいと思っています」

綾奈は小さく頷く。

二人はまた黙った。

窓の外の雲が、少し形を変え、

「兄に会いに行こうと思います」綾奈が静かに続け、「この事件が終わったら」

「ぜひ行ってください」

「わかってくれるかな。私のことを、まだ」

「わかります」冴優は断言した。「きっと」

それは根拠のない言葉だったかもしれない。しかし冴優は確信を持って言った。

血の繋がりは、薬物では壊れない。

そう信じていたから。



——————




手術が終わったのは、三時間後であった。

医師が待合室に来ると冴優に告げた。

「頭部への打撃による硬膜外血腫です。手術は成功しました。しかし——」

ただ、という言葉の重さを、冴優は全身で受ける。

「脳へのダメージが、一部残る可能性があります。意識が戻るかどうか、戻ったとしても後遺症の程度については——現時点では判断できません」

冴優は頷き、声が出なかった。

「会えますか」

「集中治療室に移りました。短時間なら」

冴優は集中治療室に入る。

清水は白いベッドに横たわっていた。頭に包帯が巻かれている。マスクがかかっている。機械が規則正しい音を立てている。

冴優はベッドの横に立ち、清水の顔を、見た。

眠っているようだ。いつもの、感情を持たない顔。削ぎ落とされた顔。しかし今日のその顔には——穏やかさがあった。

今まで清水の顔に穏やかさを感じたことはなかった。感情がないことと、穏やかなことは違う。しかし今この顔は——長い旅の果てに、ようやく休んでいる人間の顔だった。

冴優は清水の手を握り、

「清水さん」

返事はない。

「犯人はまだ特定できていません。清水さんを倒した人間が誰か、わかっていない」冴優は続ける。「でも——必ず見つけます。あなたが積み上げてくれたものを全部使って、必ず解決します」

清水の手は冷たかった。しかし確かに、温もりが残っていた。

「だから、死なないでください」

声が、震えた。

震えた声のまま、冴優は伝える。

「あなたが半年間かけて教えてくれたことを——俺はまだ、半分も理解できていないから」

清水は動かなかった。

機械の音だけが、規則正しく続いていた。



——————



その夜、冴優は霧無村に戻った。

清水が積み上げた捜査を完結させる。それが今の冴優にできる、清水への唯一の返礼だったから。

署からの応援が二人、村に来ていた。二十代の若い刑事たちだであり冴優より年下に見えなくもない。

冴優は二人に状況を説明をする。話しながら、冴優は自分が変わっていることに気づく。

声が落ち着いていた。言葉が整理されていた。焦りがなかった。

三日前、この村に来たときの冴優は、常に何かに急かされていた。早く答えを出したかった。早く清水に認められたかった。しかし今は違う。焦りがない。ただ、やるべきことが見えている。

清水の言葉が、冴優の中に根を張り始めていた。

感情を持ちながら、それでも公平に見る。矛盾を解消しようとするな。真実から目を背けることが、もっと多くの人を傷つける。

それらの言葉が、今や冴優自身の言葉として、口から出てくる気がした。

清水を倒した人間が誰か。冴優には、一つの仮説があった。

田辺の家の裏口から逃げた人間。清水を背後から打ちのめした人間。その人間は、この事件の全体を知っている。波多野の自白が終わったことを、何らかの形で察知していた。そして清水が田辺の家に向かったことを——把握していた。

把握できる人間は、清水の動きを見ていた人間だ。

診療所を出た後の清水を、誰かが見ていた。

そして先回りして、裏口から田辺の家に入った。

冴優は手帳を開く。霧無村にいる人物を、一人ずつ書き出した。

堂島源蔵——田辺の家の中にいた。犯人ではない。

田辺巡査——田辺の家の中にいた。犯人ではない。

波多野医師——診療所から、清水を尾行できた可能性はある。動機もある。しかし、波多野はすでに自白した。清水を襲う理由は、もう、ない。それに、あの目を見た冴優には——波多野ではない、と感じる確信があった。

では、誰だ。

冴優は手帳を見つめた。村人の名前を、一人ずつ確認する。ある名前で、手が止まった。

お蔦——堂島家の老女中。

七十がらみの村でも長く生きている女性。堂島家に四十年以上仕えてきた。堂島源蔵の妻のことも、堂島の子供時代も知っている。

そして——堂島家を通じて、来栖の活動も知っていた可能性がある。

冴優は手帳のページを繰った。聞き込みのときの記録を見直す。お蔦は二日目に冴優が話を聞いた。穏やかな老婆で、堂島家のことを「とても大切に思っている」と話していた。来栖のことは「悪い人だったと、後から聞きました」と言っていた。

そのときは違和感を覚えなかった。が、今振り返ると——お蔦は「後から」と言っていた。事件後にではなく、もっと前から知っていたのではないか。

そしてお蔦には、堂島家の妻の死を恨む理由があった。きく(堂島の妻)は、お蔦が四十年仕えてきた家の女主人。きくが薬物で苦しんで死んだとき、お蔦の目の前で苦しんで死んだのだ。

六年間、お蔦はそれを抱えて、堂島家に仕え続けた。

そしてもし——お蔦が堂島の動きを知っていて、堂島が田辺の家に隠れていることも知っていて、清水が田辺の家に向かうことを知ったら——

お蔦は、堂島と田辺と、そして波多野を、全員守ろうとしたかもしれない。

冴優は宿を出る。

夜の村は、信じられないほど静かで、星が降るように見えた。冴優は懐中電灯を点け、お蔦の家に向かおうとした。しかし、足が止まる。

お蔦が犯人だろうか。

冴優は考える。お蔦は七十過ぎの女性だ。清水を背後から打ちのめして、裏口から逃げる体力があるだろうか。確かに、薪のような硬い武器を使えば、女性でも男を倒すことはできる。しかし——

冴優の中で、何かが引っかかっていた。

お蔦と清水の聞き込みのときの様子。お蔦は清水に対して、敵意を見せていなかった。「優しそうな刑事さん」と言っていた。あの態度は、本物だった気がする。お蔦の目は、嘘をつく目ではなかった。

冴優は宿に戻り、もう一度、捜査資料を見直す。

そして、ある事実に気づいた。

お蔦には、家族がいる。一人息子が東京で——いや、違う。お蔦は独身だった。家族はいない。

では、誰だ。

冴優の手が、また別の名前で止まった。

もう一つの可能性がある。

お蔦は犯人ではないかもしれない。しかし——お蔦が知っている人間が、犯人かもしれない。

堂島源蔵の——息子だ。



———



聞き込みの中で、冴優は一度だけ、堂島源蔵の家族について聞いていた。

妻のきくは死んだ。子供は——息子が一人いる。三十歳。東京で会社員をしている。月に一度、村に帰ってくる。母が死んだ後、父が一人になることを心配して、頻繁に連絡を取っていた。

お蔦が「とてもいい息子さんで」と話していた。

冴優は記録を遡り事件発生当日の宿の出入り。来栖が泊まっていた宿に、村の外から来た客がいたかどうか。


——いた。


一人、東京から来た男が、事件の前日に宿に泊まっていた。「父に会いに来た」と言って、宿の主人と少し話して、翌朝早く東京に戻った。

名前は、堂島という。

堂島源蔵の息子だ。

事件の前夜——息子は村にいた。

そして翌朝、東京に戻ったとされている。しかし、本当に東京に戻ったのか。

冴優は宿の主人を、夜遅いにも関わらず叩き起こす。

「すみません、もう一度、堂島健治さんのことを伺いたい」

「健治さんですか?」宿の主人は眠そうな顔で聞き返してくる。

「あの息子さん——その後、村でお見かけしましたか」

宿の主人は少し考え、

「そういえば、二日後に、また見かけたような気がします。バス停の近くで——」

「いつですか」冴優の声が、鋭く、

「事件から二日後の夜だったかな。確かじゃないけど。背格好が似ていたから」

「服装は覚えていますか」

「黒っぽい上着でした。フードをかぶっていたから、顔ははっきり見ていない。でも歩き方が——健治さんに似ていた」

冴優は確信に近づいていた。

堂島源蔵の息子——名前を捜査資料で確認した。堂島健治。三十歳。東京の商社勤め。

健治は、母親を薬物で失っている。父親が来栖に苦しめられているのを見ていた。そして——東京の会社員として、来栖の活動の一部を知る立場にいた可能性もある。

健治は、来栖を恨んでいた。

健治は、波多野が自分の代わりに来栖を殺してくれたことを、知ったかもしれない。

そして健治は、田辺と父親が薬の瓶を保管していることを知っていた。瓶を回収する必要があった。あるいは——瓶を保管していること自体が、父親と田辺を危険にさらすと考えた。

清水が田辺の家に向かった瞬間、健治は何かを察した。先回りして、田辺の家の裏口から入り父親と田辺の会話を聞いていた。清水が瓶を要求したとき——背後から——襲った。

冴優は、組み立てた仮説を信じ始める。

しかし、まだ確信ではない。証拠が必要だ。

冴優はもう一度、お蔦に話を聞きに行くことにした。

夜が更けており、霧無村の夜は静かで、星が綺麗だった。星明かりの中で、冴優は懐中電灯を持って歩く。歩きながら、もしも自分の仮説が正しければ、と考えた。

健治はもう東京に戻っているだろう。今夜のうちに、警視庁に連絡を取る必要がある。健治を逃がしてはならない。健治は、清水を倒した男だ。

冴優の足が、自然と速くなる。



——————



お蔦は、堂島家の離れに住んでいた。

夜遅い訪問だったが、お蔦は起きていた。冴優を見て、少し驚いた顔をしたが、すぐに「お入りください」と言ってくる。

狭いが、清潔な部屋だ。仏壇に、堂島きくの位牌が並び、お蔦の自分の家族——夫らしき人——の位牌もあった。

「夜分にすみません」冴優は頭を下げる。

「いいえ。清水さんは、いかがですか」お蔦は心配そうな顔をした。

「手術は成功しました。意識は——まだ戻っていません」

「そうですか」お蔦は目を伏せる。「あの方は、優しい目をしていました」

冴優はお蔦を見る。

お蔦は本気でそう言っていた。清水が倒れたことを、本気で心配していた。

冴優は、お蔦が犯人ではないと確信した。同時に——お蔦が何かを知っている、という確信も強くなった。

「お蔦さん」冴優は静かに「堂島健治さんのことを、教えてもらえませんか」

お蔦の目が、わずかに揺れ、

「健ちゃんのことを?」

「ええ。事件の前日、健治さんは村に来ていましたね」

「ええ、来ていましたよ」お蔦は静かに言った。「お父さんに会いに来ていました」

「事件のあと、健治さんはどこへ行きましたか」

お蔦は答えなかった。長い沈黙が続く。仏壇のろうそくの炎が、わずかに揺れ、

「刑事さん」やがてお蔦は「健ちゃんは、優しい子です。お母さんが死んだとき——一番泣いていたのは、健ちゃんでした」

「お蔦さん」

「あの子は、お母さんを苦しめた人を、絶対に許さないと言っていました。中学生のときから、ずっと」

お蔦は仏壇の方へ視線を向けきくの位牌を、見ていた。

「私は、健ちゃんが何かをするんじゃないかと、いつも心配でした。だから——来栖さんが村に来ると聞いたとき、私は健ちゃんに『村に来ないで』と手紙を書きました。健ちゃんが何かしてしまわないように」

「それでも、健治さんは村に来た」

「来てしまいました。事件の前日に。私は健ちゃんに『何もしないで』と言いました。健ちゃんは『わかっている、心配ない』と言いました」

お蔦の声が震え、

「事件の翌朝、来栖さんが死んでいるのが見つかったと聞いたとき——私は、健ちゃんがやったのだと思いました。それで——隠そうとしました。健ちゃんに『すぐに東京に戻れ』と電話をしました。健ちゃんは『俺はやっていない』と言いました。しかし私は信じませんでした」

「健治さんは、東京に戻ったのですか」

「戻りました。一度。しかし——三日目の夜、また村に来ていました。私のところに来て、『俺じゃないと信じてくれ』と言いました。私は信じました。健ちゃんの顔を見て、信じました。あの目は、本当のことを言っていました」

「では——三日目の夜から、健治さんはずっと村にいたのですか」

「私の家に隠れていました」お蔦は言った。「人目につかないように。健ちゃんは『清水という刑事さんが、波多野先生を疑っているらしい。俺はそれを聞きに来た』と言いました。父さんと田辺さんが何かをしようとしているらしい、それを止めたいと」

冴優は息を呑んだ。

「今朝——健治さんは、私の家を出ました」

「いつですか」

「八時頃です。『田辺さんの家に行く』と言って」

冴優の頭の中で、すべてが繋がった。

健治は、波多野が自白した後の動きを、止めようとしたのだ。父親と田辺が薬の瓶を保管していることが、警察にとって不利になる。父親も田辺も、何らかの形で罪を問われるかもしれない。健治は、瓶を回収して処分したかった。

田辺の家に着いたときには、清水がすでに来ていた。健治は裏口から入って、状況を見ていた。父親と田辺が瓶を清水に渡そうとしている——それを止めるには、清水を制止する必要があった。

健治は、咄嗟に清水を襲った。

おそらく、殺すつもりはなかった。ただ、止めたかっただけだ。

「お蔦さん」冴優は静かに「健治さんは、今どこにいますか」

お蔦は深い溜息をつきら

「東京に戻ったと、思います。今夜の最終の汽車で。電話がかかってきました。『お蔦、ごめん。俺、やってしまった』と。それきり、何も言わずに切れました」

お蔦の目に、涙が浮かんだ。

「健ちゃんは、私の子供のようなものです。お母さんが死んでから——私が一番、健ちゃんを見てきた。あの子は、こんなことを望んでいませんでした。私は止めるべきでした。私が——」

「お蔦さんのせいではありません」冴優は静かに伝える。

お蔦は涙を拭き、

「健ちゃんを、捕まえてください」お蔦は頭を下げ「あの子はもう、戻れない場所まで来てしまった。せめて、これ以上深いところへ行く前に——」

冴優は頷く。



——————



冴優はその夜のうちに、東京の警視庁に連絡を取り、堂島健治の住所、勤務先、人物の特定を依頼した。

電話の向こうで、東京の刑事が「すぐ動きます」と言った。冴優はその声に、清水の声を重ねる。「すぐ動きます」と一言で、夜中でも動いてくれる人々がいる。それが警察という組織だ。

早朝、応援の刑事と一緒に、冴優は東京に向かった。

汽車の中で、冴優は眠れなかった。

窓の外を、夜が明けていく景色が流れる。山が、田畑が、町が、東京に近づくにつれて変わっていく。星が消え、空が紫から橙、橙から青に変わっていった。霧無村の遠くで、夜が終を迎えてきていた。

応援の刑事が眠っているのを横目に冴優は手帳を開く。清水との半年間のメモ。最初の事件、二度目の事件、三度目の事件——清水の言葉を書き留めた箇所が、いくつもあった。

「人間は何かを隠している生き物だ」

「気の毒と、許せないは別の話だ」

「迷うことが、お前の刑事の形を作る」

「立派な刑事になれる」

最後の言葉だけ、冴優は手帳に書いていなかった。書く時間がなかった。しかし耳の中に、まだ残っている。

お前は立派な刑事になれる——清水の声で。

冴優は手帳の新しいページを開いた。鉛筆を取り出した。そしてそこに、その言葉を書いた。

「お前は立派な刑事になれる──清水雅哉」

書いてから、冴優はそのページをしばらく眺めていた。黄ばんだ紙に、自分の不器用な字。しかしそれは、半年間で最も大切な言葉だった。

冴優は手帳を閉じる。

東京駅に着いたとき、清水はまだ意識を取り戻していない、と病院から連絡が入った。

冴優は病院に向かいたかった。しかし、それより先にやることがあった。健治の逮捕。それを完遂しなければ、清水の作った道が中途半端に終わってしまう。

冴優は健治の住むアパートに向かった。応援の刑事二人と一緒に。アパートの前で、警察官が見張っていた。中から、人の気配はある、と警察官は言った。

アパートは古い木造の二階建てだった。健治の部屋は二階の角部屋。階段を上るとき、冴優は心臓の音が聞こえる。健治はどう出るか。逃げようとするか。抵抗するか。あるいは——刃物を持っているか。

冴優は応援の刑事に目で合図する。一人が階段の下で待機し、もう一人が冴優の後ろについた。

二階の廊下を歩き健治の部屋の前に立つ。

冴優はインターホンを押した。が、

返事はなかった。

もう一度押した。

中から、足音がした。ゆっくりとした足音。重い足音。

やがて——扉が開く。

男が立っていた。三十歳。やつれた顔。目の下に深い影。一晩眠っていない、いや、ここ数日眠っていない顔だった。

——堂島健治。

冴優は健治の手を見た。何も持っていない。武器はない。

「警察です」「お話を聞かせてください」

健治はしばらく冴優を見ていた。それから、ゆっくりと頷き、

「待っていました」健治は静かに「いつ来るかと、ずっと——」



——————




健治は抵抗しなかった。

警察署に連行する車の中で健治は窓の外を見ていた。冴優は隣に座ってる。窓の外を、東京の朝の街が流れていった。通勤の人々、走る車、店を開ける人々。普通の朝の風景。健治はもう、その風景の中に戻れないのだ、と冴優は思った。

「あの刑事さんは——清水さんは——大丈夫ですか」健治が小声で聞く、

「一度、意識を取り戻しました」冴優は静かに伝え、「しかし、また失われました。今は——わかりません」

健治の顔が、苦しそうに歪んだ。両手で顔を覆った。

「殺すつもりは——なかったんです」健治は言った。声が震え「ただ、止めたかった。父さんと田辺さんが、瓶を渡してしまったら——二人が罪に問われる。それを止めたくて——」

「健治さん」冴優は静かに「あなたは、お母さんのために来栖を殺したかったのですか」

健治は首を横に振った。

「殺したいと思ったことは、あります。何度も。母さんが死んでから、毎日のように。来栖の名前を、知ったときから。しかし、本当にやろうと決めたことは——なかった」

「来栖が村に来ると聞いたとき、確かに『今がチャンスかもしれない』と思いました。私は東京にいて、来栖の周辺の情報を少しは持っていました。あの男がどうやって動くか、わかっていました。やろうと思えば、できる気がした」

「しかし、お蔦から手紙が来ました。『村に来ないで。何もしないで』と。お蔦は、私のことをよくわかっていました。私が何かしようとしているのを、知っていた」

「それでも、村に行ったのですね」

「父さんに会うためです。お母さんが死んでから、父さんは弱くなっていました。一人にしておくのが心配だった。それに——来栖が村に来ることが、父さんにとって苦しいことになるとわかっていた。父さんを支えに行く、というのが本当の理由でした」

「事件の夜は、何をしていましたか」

「父さんと話していました。父さんに『お母さんが死んだのは来栖のせいだ。何かしてやりたい』と言いました。父さんは『やめろ。お前まで失ったら、わしは何のために生きてきたのかわからなくなる』と言いました。私たちは、長く話しました。お酒を少し飲みました。父さんは涙を流しました。父さんが涙を流すのを、私は初めて見ました」

健治は窓の外を見た。

「翌朝、私は東京に戻りました。来栖が死んだことは、その日のうちに父さんから電話で知りました。『誰がやったのかわからん』と父さんは言いました。私は『父さんがやったのか』と聞きました。父さんは『違う』と言いました。私は信じました」

「波多野先生が犯人だと、知っていましたか」

「お蔦から、波多野先生が清水という刑事に疑われていると聞きました。三日目の夜です。私は、波多野先生がやってくれたのではないか、と思いました。実際、その通りでした」

「だから、波多野先生を守りたかった」

「父さんと田辺さんを守りたかった、というのが正確です。波多野先生のことは、後から考えました。父さんと田辺さんが薬の瓶を保管していることを知って——それが警察に渡れば、二人が共犯と見なされるかもしれない、と心配だった」

健治は窓の外を見ながら続ける。

「清水という刑事が、波多野先生のところから田辺さんの家に向かったと、お蔦から聞きました。私は走りました。裏口から入って——父さんと田辺さんが瓶を渡そうとしていた。止めなければ、と思った。しかし、口で止められる雰囲気じゃなかった。私は、咄嗟に薪を掴んで——」

健治はそこで言葉を切った。

「殺すつもりはなかったんです」健治は繰り返した。「ただ、気絶させて、瓶を奪って、逃げるつもりだった。しかし、思ったより強く打ってしまった」

「血が出ていました。私は怖くなって、瓶を持って、裏口から逃げた。父さんと田辺さんが叫ぶのが聞こえました。私は走りました。村の外れで、瓶を捨てました。そして——」

「東京に戻った」

「はい。逃げました」

健治は冴優を見ながら、

「すみません。本当に、すみません」

冴優は深く息を吸った。

怒りはあった。清水を倒した相手だ。許せるはずがなかった。

しかし同時に——気の毒だ、と思った。

母を失い、父を守ろうとし、波多野を救おうとし、最終的に道を踏み外した若い男。健治もまた、来栖の毒の被害者だった。

気の毒と、許せないは、別の話だ。

清水の言葉が、冴優の中で響く。

両方を抱える。それが刑事の仕事だ。

「健治さん」冴優は静かに「あなたが言うべきは、私にではありません。清水さんが目を覚ましたとき——直接、言ってください」

健治は涙を流した。声を出さずに、ただ涙を流した。

「いつか、目を覚ますでしょうか」

「覚まします」冴優は確信を持って言う「あの方は、強い人です」



——————



健治の取り調べが終わったのは、その日の夕方のこと。

健治は全てを認めた。来栖を恨んでいたこと、父を心配していたこと、そして清水を背後から襲ったこと。「殺すつもりはなかった」と何度も繰り返した。冴優はそれを聞きながら、何度も握り拳を作った。しかし表情には出さなかった。清水が教えてくれたことだ。感情と仕事を、別の場所に置く。

冴優は病院に向かった。清水の意識は、まだ戻っていなかった。

ベッドの横に座って、冴優は清水の顔を見る。

穏やかな顔だ。

「清水さん」「犯人を捕まえました。堂島健治。あなたが推測していたかもしれない人物の、一人だと思います」

返事はない。

「あなたが田辺の家で確認しようとしたこと、わかった気がします。田辺と堂島の関係。そして堂島の家族との繋がり。あなたはそこまで読んでいた」

「俺は、あなたの作った道を歩いただけです」

「だから——目を覚ましてください。続きを、教えてください」

機械の音が、規則正しく続いていた。

冴優は清水の手を握る。

冷たい手だった。しかし、温もりが残っていた。

冴優は清水のしおりのことを思った。財布の中の、子供の作ったしおり。「先生、ありがとう」と書かれた、不器用な切り絵。十二年間、清水がずっと持ち歩いてきたもの。

奥さんもきっと、清水を待っている。

「奥さんに会いたいですか」冴優は静かに問う。

返事はない。

「でも、まだダメです。俺が困るから。あなたが目を覚ますまで、俺は完成しないから」

「俺だけじゃない。波多野先生も、あなたに『ありがとう』を言いそびれている。健治もきっと——いつか会わせれば、頭を下げる。そういう人たちが、あなたを待っています」

「だから——」

冴優は声を詰まらせ、

「だから、もう少しだけ、待ってください」



——————



翌朝、病院から連絡が来た。清水雅哉が、意識を取り戻した。と、

冴優は車を飛ばして病院に向かった。タクシーの中で、何度も時計を見た。一秒が、永遠に長く感じる。早く着いてくれ、と運転手に頼んだ。運転手は「最善を尽くします」と。

病院に着くと、冴優は廊下を走る。看護師に何度も「すみません!」と言いながら、人をかわし集中治療室の前で医師に止められた。

「意識は戻りましたが、まだ安静が必要です。長く話せません」

「少しだけでいい」

「興奮させないでください。会話は、必要最小限に」

「わかりました」

冴優は深く息を吸い、扉を開け、部屋に入る。

清水は目を開けていた。頭の包帯はそのままだ。顔色はまだ悪い。しかし目は——しっかりしていた。

いつもの清水の目だ。

「清水さん」冴優はベッドの横に座り、

清水はゆっくりと冴優を見た。視線が、冴優を捉えた。確かに見えている。

口が動いたが声は小さかった。冴優は顔を近づけ、

「冴優」

「はい」

「俺に——言いたいことがあるか」

冴優は少し笑ってしまう。清水らしい問い方だ。自分が言うより先に、相手に話させる。三日もの昏睡から目を覚ました直後でも、それは変わらない。

「山ほどあります。でも今は——聞きたいことがある」

清水の目が、わずかに細くなった。

「倒れる前に、声を聞きましたね」冴優は言った。「誰の声か、わかりましたか」

清水は一度、深く呼吸をする。胸が苦しそうに上下し、冴優は思わず手を伸ばしかけた。しかし、清水は手を上げて、止めた。

「ああ」清水は答えた。

「誰ですか」

清水は口を開き、

唇がわずかに動いた。冴優は息を止めて、その唇を見つめた。

「あれは——」

そのとき。

機械の音が、急に速くなった。けたたましい警告音が鳴った。清水の心電図が乱れた。

医師と看護師が飛び込んできた。

「出てください!」医師が叫んだ。

冴優はベッドから引き離された。手が、清水の手を離れる。一瞬の出来事だった。

「清水さん!」冴優は叫んだ。

看護師たちが慌ただしく動いていた。注射器、酸素マスク、機械の調整。冴優は廊下に押し出された。扉が閉まる。

廊下の壁に、冴優は手をついた。

膝が、震えた。

聞けなかった。

あと一言だった。

あと一言で——

冴優は廊下に座り込んだ。両手で顔を覆った。

「なんで——なんで今——」

声が、震えた。

十数分後、医師が出てきた。冴優は立ち上がった。

「容態が、急変しました」医師は静かに言った。「意識は——再び失われました」

「もう一度、戻りますか」

「わかりません。前回より、状況は厳しいかもしれません」

冴優は目を閉じた。

「でも——目は覚ましました」「あの方は、強い人です。きっとまた——」

医師は何も言わなかった。否定もしなかった。それが、現実の重さだった。

冴優は廊下の窓辺に立った。

窓の外に、青い空があった。霧は完全に晴れていた。秋の空。透き通るような青。

清水が言いかけた名前。

しかし冴優には、もうその名前がわかっていた。

昨夜の捜査の果てに辿り着いた、その名前が。

清水も同じ名前を言おうとしていた。

冴優は確信した。

清水が言えなかった名前を、自分が証明した。

そう、清水さん——あなたが見つけようとしたものを、俺が見つけた。

これが、半年間の答えだ。

冴優は窓ガラスに額を当てた。冷たかった。

生きてください——冴優は心の中で呟いた。一度目覚めたんです。もう一度、目を覚ませます。

お願いです、清水さん。

冴優は顔を上げた。

廊下を、歩き始めた。

やるべきことは、まだ残っている。事件の最終的な処理。健治の取り調べの完了。波多野の起訴。署への報告。それら全てを、清水が積み上げてきた誠実さを真似して、冴優は完了させなければならなかった。

そして、清水が目を覚ましたとき——終わったところを、報告する。

それまで、生きていてください。

冴優は祈りながら、廊下を歩いた。



——————


清水雅哉が再び意識を取り戻したのは、それから三日後だった。

二度目の昏睡は危険な状態が続いた。医師たちは「覚悟してください」と冴優に伝えた。冴優はそれでも病院に通い続けた。仕事の合間に、深夜に、早朝に。清水のベッドの横に座って、ただ手を握っていた。

「目を覚ましてください」と冴優は何度も言った。

「俺はまだ、あなたの三十年分を受け取っていません」

「節子さんに、まだ会えませんよ」

そして三日目の朝、清水は目を開けた。

最初に医師が確認したとき、清水は弱々しく頷いた。「冴優を呼べ」と一言、口にした。看護師が冴優を呼びに走った。

再手術は成功し命に別状はないと医師は言った。しかし、後遺症の程度については——時間が経たないと判断できないと。

冴優が病室に入ると、清水はベッドの上で半身を起こしていた。窓の外を見ていた。

「清水さん」

清水が振り返り

いつもの顔だ。削ぎ落とされた、感情の乏しい顔。しかしその目は——少しだけ、変わっていた。

優しい、と冴優は思った。

「冴優」清水は言った。声に張りが戻っていた。「終わったか」

「終わりました」冴優は言った。「健治を逮捕しました。波多野先生も、署で正式に取り調べを受けています」

「お前が、解いたのか」

「あなたが残してくれた手がかりを、辿っただけです」

清水は少し笑った気がした。冴優にはそう見えた。

「立派になったな」清水は言った。

冴優は答えなかった。代わりに、清水のベッドの脇の椅子に座る。

二人はしばらく、無言で窓の外を見ていた。秋の空が広がっていた。雲が、ゆっくりと流れていた。

「清水さん」「あの——倒れる前に聞いた声、健治さんの声だったんですよね」

「ああ」清水は静かに頷く。「『父さん、瓶を寄越せ』と聞こえた。それで全部わかった。来栖の毒は、堂島の家族にも回っていた。母親を失った息子が、父親を守ろうとして——」

「俺もそこまで辿り着きました」

「お前が辿り着くと思った」「だから、最後に話せなくても、大丈夫だと思っていた」

冴優の目に、涙が浮かんだ。

「清水さん——あのとき、俺、本当に怖かった。あなたが死んでしまうかと思った」

「すまん」「気をつけろと言ってくれていたのに」

「いえ——あなたが悪いんじゃない」

「俺が、田辺の家の裏口を確認していなかった。それがミスだった。お前と一緒に行くべきだった。一人で行くべきじゃなかった」

「清水さん」

「ミスは認める」「しかし、お前が解いた。それが何より大切だ」

冴優は深く頷く。

「清水さん」冴優は震える声で「あの——」

「何だ」

「奥さんのしおり」

清水の目が、少し動く。

「あなたの財布の中に、子供が作ったしおりが入っていました。あなたが意識をなくしたとき、たまたま見ました。許してください」

清水は冴優を見ていた。長く、何も言わず。窓の外を見た。

「奥さんのですよね」「あなたが、ずっと持ち歩いていた」

「ああ」

「素敵な、奥さんだったんですね」

「ああ」

清水はそれだけ言った。それ以上の言葉は出てこなかった。しかし、その「ああ」の中に、冴優は清水の妻への想いの深さを感じた。半年間、清水が一度も語らなかった、しかし常に背負っていたもの。

「冴優」清水は言った。「俺がもう少しで死ぬところだったとき——お前は俺に何を言った」

冴優は驚いた。

「聞こえていたんですか」

「聞こえていた、というより——わかった気がする。お前の声が、ずっとそばにあった」

冴優は涙を流す。

「あなたが半年間で教えてくれたことを、俺はまだ半分も理解できていないと言いました」

「ああ」清水は頷いた。「それを聞いて、戻ってきたのかもしれん」

「そんな——」

「冗談ではなく」清水は静かに言った。「人間はそういうものだ。誰かが呼んでくれていることが、生きる理由になる。節子のときも——もう少し早く呼んでやればよかった、と俺はずっと思っている」

冴優はその言葉を、深く受け取った。

清水雅哉という男が、初めて自分の妻のことを口にした瞬間だった。

「あの——」「いつか、奥さんの話を、聞かせてください」

清水は窓の外を見た。

秋の空に、雲が流れ

「気が向いたらな」清水は言った。

その言葉はいつもの清水の言葉だった。しかしその語尾に、いつもより少しだけ温かいものがあった。

 


——————



退院の日、清水と冴優は病院の前で別れた。

清水はしばらく自宅で療養することになっていた。冴優は霧無村と東京を往復しながら、事件の最終的な処理を進めていた。

「しばらく、現場にはお戻りにならないんですか」冴優は問うた。

「医者がうるさい。最低でも三ヶ月は休めと言われた」

「三ヶ月——」

「それから、どうするかは決めていない」

清水はそう言って、冴優を見た。

「お前は、どうするんだ」

「俺ですか?」

「ああ。これからの仕事のこと」

冴優は少し考え、

「俺は——刑事を続けます。あなたから半年間で受け取ったものを、形にしていきます。一人ではうまくできないことばかりだと思います。でも、続けます」

清水は深く頷く。

「それでいい」

二人はしばらく、立っていた。秋の風が、二人の髪を揺らした。霧無村ではない東京の風だった。乾いた、街の風。

「清水さん」「またお会いできますね」

「ああ」

「絶対ですよ」

「ああ」

清水は短く答えて、迎えのタクシーに乗り込んだ。冴優は車が見えなくなるまで、立っていた。

タクシーが角を曲がって見えなくなった後も、しばらく立っていた。

半年間が、終わった。

そして、新しい何かが始まる。

冴優は自分のコートのポケットに手を入れた。手帳が入っていた。清水が後で渡してくれることになる、もう一つの手帳。それはまだ受け取っていない。しかし、いずれ受け取る。

そして、続きを書く。



——————



霧無村の事件は、新聞にも報道された。

中央官僚の麻薬密売、村医による殺害、息子による刑事への襲撃。社会的にはセンセーショナルな事件として扱われた。しかし、それぞれの当事者の苦しみは、新聞の記事では伝わらなかった。

波多野医師は懲役刑が確定した。情状酌量があり、求刑よりは短い刑となった。波多野は控訴しなかった。

堂島健治も同じく、刑が確定。父親の堂島源蔵は、執行猶予つきの判決を受けた。田辺巡査は警察を辞職した。

遙堪綾奈は、施設の兄に会いに行った。兄は綾奈のことを、わずかに認識し「妹か」と一言だけ言った。それで十分だった、と綾奈は後に冴優に手紙を書いた。

お蔦は、堂島源蔵の世話を続け、家から離れることはなかった。

霧無村は、霧の村に戻った。

しかし、村人たちの中には、何かが変わった人間もいた。長く沈黙してきた人たちが、少しだけ、語り始めた。来栖が持ち込んだ毒は、村に深く染み込んでいる。それを認め、語ることが、村を変えていく出発点だ。

冴優は事件後、清水のもとを訪ねた。月に一度ほど。清水は小さな庭付きの家に住んでいた。妻が好きだった庭を、清水は今も世話していた。

ある日、清水は冴優に、節子のノートを見せた。

最後のページ——「霧が晴れるような感じです」と書かれたページを。

「これが、俺がお見合いの席で言った言葉だ」清水は静かに言った。「節子は、これを書き留めていた」

冴優はそのページを、しばらく見ていた。

「….素敵な、奥様ですね」

「ああ」

清水はノートを閉じ、引き出しの奥に、丁寧にしまった。

そして——もう一つ、清水は冴優に渡した。

古い手帳だった。清水が長年使ってきた、捜査用の手帳。表紙が擦り切れて、ページが黄ばんでいる。背の革が、長年の使用で柔らかくなっていた。

「これを、お前に渡す」

「これは——」

「俺の三十年分のメモだ。事件の記録、人の見方、手応え——全部書いてある。お前が、続きを書け」

冴優は手帳を受け取る。重かった。三十年の重さだった。掌に、清水雅哉の刑事人生が乗った。

「清水さん——」

「俺は、もう現場に戻らない」「医者が言うには、無理らしい。それに——三十年で、十分だ」

冴優は頷くしかなかった。

「あなたが残してくれたものを——大事にします」

清水は深く頷く。

「それから、もう一つ」「お前にだけ、話しておきたいことがある」

「何ですか」

「波多野先生のことだ」「あの男に、お前が時間があるとき会いに行ってやってくれ」

「会いに?」

「ああ。あの男には、もう誰もいない。家族もいない、友もいない。患者たちも、もう来ない。しかしあの男は——お前の話を、聞きたがるはずだ」

冴優はその言葉の意味を考えた。波多野医師。長い苦しみを終えて、ようやく自分の罪を認めた男。冴優にとっては、半年間で出会った最も静かな犯人であった。

「わかりました」「行きます」

清水はそれを聞いて、頷く。

窓の外で、銀杏の葉が黄色く色づき始めていた。

清水は窓の外を見ながら、静かに言った。

「秋になったな」

「ええ」

「節子と、銀杏の下を歩いた」「節子の最後の秋に。銀杏を見たら俺のことを思い出して、と節子は言った」

冴優は何も言わなかった。

清水も、それ以上は何も言わなかった。

二人で、しばらく窓の外を見ていた。

銀杏の葉が、風に揺れている。

散り始めた葉が、一枚、ゆっくりと落ちていった。

二枚目が落ちた。三枚目が落ちた。秋が、深くなっていく。


散りぬる霧に。

清水雅哉は、生きていた。三十年の重さを、若い相棒に渡して、ようやく休む場所に辿り着いた。

そして冴優は、これから歩いていく。

清水が積み上げた道の、続きを。

一人ではない。隣には、いつも清水雅哉という男の存在がある。直接会えなくなっても、あの三十年分のメモが、冴優の隣にある。煙草の匂いが染みついた、革の表紙。何度も開かれて、ページの端が丸くなっている手帳。それは清水の、もう一つの体のようだった。

そして節子が清水の隣にずっといたように——いつか冴優にも、隣にいてくれる誰かが現れるかもしれない。それは恋人かもしれないし、新しい相棒かもしれない。誰になるかはまだわからない。しかし、誰かが現れたとき、冴優はそれを受け止められる人間になっていたい、と思う。清水が節子を受け止めたように。

そのとき、冴優は誰かに渡すだろう。清水から受け取ったものを、自分が積み上げたものと一緒に。三十年後か、もっと先か。形は違うかもしれない。手帳ではなく、別の何かかもしれない。しかし、確かに何かが渡される。

そうやって、何かが続いていく。

散りぬる葉のように、一枚一枚、ゆっくりと、しかし確かに、次へ。

窓の外で、銀杏の葉がまた一枚、落ちた。

二枚目が落ちた。三枚目が落ちた。地面に積もる葉が、少しずつ厚くなっていく。

清水雅哉は窓の外を見続けていた。何を考えているのか、冴優にはわからなかった。節子のことかもしれない。来栖恭一郎のことかもしれない。波多野医師のことか、あの昭和三十六年の医師のことか。あるいは——あの闇市の路地で、十九歳の自分が出会った男のことか。

清水雅哉という人間の中には、たくさんの死者が住んでいる。そしてそれらの死者一人一人が、清水を作ってきた。

冴優は、そのことを今、理解した。

そして自分の中にも——いつか、人が住むだろう。今ここに座っている、この清水雅哉という男が、まずは住んでくれるはずだ。直接会えなくなった後も、ずっと。

窓の外の風が、銀杏の葉をまた一枚、揺らした。

散ろうとしている葉だった。しかし、まだ落ちなかった。

もう少しだけ、枝にとどまっていた。

「冴優」

「はい」

「ありがとう」

冴優は驚いて清水を見た。清水雅哉という男が、自分に「ありがとう」と言うのを、初めて聞いた。

「俺、何もしていません」

「呼んでくれた」「あの病院で。お前が呼んでくれたから、俺は戻ってきた」

冴優は何も言えなかった。代わりに、深く頷く。

窓の外の銀杏の葉が、ようやく一枚、枝を離れた。

ゆっくりと、空気の中を泳ぐように、地面へと落ちていく。

二人はその葉を、最後まで目で追った。

葉が地面に着いた瞬間、清水は窓から目を離し、

「お前は」「お前の道を、歩け」

「はい」

冴優は深く頷く。それが、清水雅哉と猿島冴優の、相棒としての最後の会話なのかもしれない。

そして二人は、それぞれの道を歩き始める。同じ空の下で、別々の道を、けれど、確かに繋がっている道を。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ