四章 消えた証人(前編)
清水雅哉が初めて死体を見たのは、昭和二十一年の春、十九歳のときだった。
闇市の裏通り。荷運びを終えて路地を抜けようとしたとき、足元に何かが当たった。男が一人倒れていた。粗末な国民服。腹に滲んだ血。半開きの目。死に体。
清水は屈み込み男の顔を見る。頬がこけていて、長く食べていないことがわかる顔。ひげが薄く伸びている。指先が荒れており職人の手だと言うことが分かる。
どれくらいの間、清水はそこにいただろう。気づいたとき、夕暮れの光は路地から消えかかっていた。
戦争中、空襲で死ぬ人間を清水は何度も見ていた。死は騒がしいものだ。叫び、炎、煙、崩れる家。しかし、この男の死は静かだ。一人の人間が、誰かに殺されて、ここに残された——それだけのことが、十九歳の清水を捉えた。
———この男は、誰に殺されたのだろう。
その問いが生まれた瞬間を清水は今でも覚えている。正義感でもなければ好奇心でもなかった。ただ——知らないまま終わってしまうことへの抵抗感。誰かが、この男の死に名前をつけなければならないという、根拠のない確信。
清水は走り警察を呼びに行く。簡単な事情聴取をされ帰された。
家に戻っても母には何も言わなかった。布団に入っても寝つけない。あの男の顔が、暗闇の中で残っている。半開きの目、開いた口、腹の血。それは現実のものとして清水の中で繰り返し再生される。
一晩中、清水はあの顔の意味を考えていた。
怖かった。と、いうのとは違う。怒り、というのとも違う。ただ——あの男が誰かによって殺された、その「誰か」が今も街を歩いている。その事実への居心地の悪さ。誰が、何のために、どういう動きであの男を路地に倒したのか。それを知らない世界に、自分は生きている。
数日後、清水は自分で動き始める。
近所に聞いて回り男の身元を辿った。男の名は田中といい、近所の小さな機械工場の工員であった。妻と娘が一人。子供は七歳。妻は夫の遺体に取りすがって泣いた、と聞いた。
「金のもめ事だったらしい」と工場の同僚は言った。「あの人は人がいいから、貸してくれと言われると断れない。何人かに金を貸していた。返してもらえなくて、催促していたって聞いた」
「催促した相手は誰ですか」
「さあ。そこまでは知らない」
清水はそれ以上は調べられなかった。素人だったから当然だろう。捜査の権限もなかった。しかし、田中という男に妻と七歳の娘がいる。と、いうことだけは分かっている。
その家族が後でどうなったかは清水は知らない。終戦後の混乱の中で、多くの家族が散り散りになった。田中の家族もそうだったかもしれない。父を失った七歳の娘は、その後の人生をどう生きたのか。
わからないまま、時間が経っていく。
清水の中であの問いは消えなかった。誰かがあの男を殺した。その誰かは、田中の妻と娘から父親を奪った。誰かが知らなければならない。
二十二歳で警察官になり、二十八歳で刑事になった。あの春の路地から、二十六年。清水雅哉という人間の根は、まだあの薄暗い路地に張っている。
——————
刑事になって最初の大きな事件は、昭和二十九年の市場の絞殺である。
魚屋の主人が早朝、首を絞められて死んでいた。目撃者なし、凶器なし、争った痕跡もなし。当時の上司は一週間で「迷宮入り」と判断した。清水は引かなかった。
「証拠がないのではなく、まだ見つかっていないだけです」
上司は溜息をついて「好きにしろ」と投げやりに言葉を吐き捨てる。
清水はその夜、現場の市場をもう一度歩いた。夕方の市場は、活気のあるはずの場所だった。が、魚屋の主人が死んでから、その一角だけが沈んでいた。閉まったままの店、その前を通り過ぎる人々の俯いた顔。死は、店一つの空気を変える。
清水は被害者の人間関係を一から3ヶ月をかけて洗い直した。
被害者の家族、商売仲間、近所の人間。表向きの聞き込みでは、被害者は「いい人だった」「商売熱心だった」「人当たりがよかった」と評された。しかし二度、三度と訪ねていくうちに、少しずつ違う声が混じってきた。
「あの人は、商売には厳しかった」
「同業者をうまく潰すのが上手かった」
「噂を流すのが得意だった」
そういう声は、最初の聞き込みでは出てこない。死者を悪く言うのは、人間として躊躇われる。しかし時間をかけて信頼を築くと、人は本音を言い始める。清水はそれを知っている。
———被害者の表の顔と裏の顔。
戦前、隣で魚を売っていた同業者を、根も葉もない噂で廃業に追い込んだ過去。その同業者は市場を去り、行方を絶っていた。
清水は半年かけて、その男を見つけた。市場の近所で豆腐屋を営む五十代の温厚な男。「あの人が殺すわけがない」と誰もが言った。しかし清水は、男が話を聞くときの視線の動きに引っかかっていた。考えている目ではない。何かを避けている目。
押し入れの奥から、被害者の財布が出てきた。
取り調べ室で男は最初否認していた。財布は誰かが置いたものだ、自分は知らない、と。清水は焦らない。証拠を一つ、また一つ並べていく。被害者と男の十五年前の関係。男が市場の近所に越してきた時期。事件当夜、男が早朝に外出していたという妻の証言。
男は次第に黙るようになり、否認も減っていった。机の上の自分の手を見つめているだけ。
二日目の取り調べの夕方、男は突然泣き始める。
「あいつのせいで、俺は全てを失った」男は泣きながら、「家族も、仕事も、誇りも。十五年間、ずっと恨んでいた。最初は怒りだった。十年が経つと、怒りは腐って別のものになっていた」
「腐るというのは、どういう意味ですか」清水は静かに問う。
「自分でもわからない」男は涙を拭いながら続ける。「ただ、何かが死んでいくような感じがした。毎朝、あいつの店の前を通ると、自分の中の何かが少しずつ削れていく。十五年間、それが続いた。最後はもう、何が残っているのかわからなかった」
清水は男を見つめる。怒りはなかった。憎む気持ちもなかった。ただ、この男のことが、気の毒だと思った。
被害者の命は戻らない。しかし、犯人もまた、何かを失っている。
———気の毒と、許せないは、別の話だ。
清水はそのとき、自分が刑事として一生抱えるものに気づく。それは矛盾。解消できない矛盾を、抱えたまま動く。それが刑事の仕事なのだと、二十八歳の清水は学んだ。
——————
二つ目の忘れられない事件は、昭和三十年の橋の下の少女だ。
十四歳の少女が、絞殺後に川に投げ込まれていた。身元不明。行方不明の届けを出した者もいない。誰にも探されていない死体が、川の岸に流れ着いた。
清水はこの事件に、特別な感情を持った。
名前のない死体——それは、あの路地の男と同じだ。
身元の特定に、清水は三ヶ月かけた。全国の行方不明者届を片っ端から当たった。当時の届出は紙ベースで、各県ごとに保管されていたものを清水は休みの日まで使って、写真と特徴を一つ一つ照合していった。
最終的に東北のある漁村から出てきた家出少女だと特定する。名は加代。十四歳。父は漁師で酒飲み、母は病弱。家出して半年、誰も探すことなく、届出も出されていなかった。
加代の足取りを辿った。上野駅の近くで、声をかけられた男についていったらしい。その男を見つけるのにまた二ヶ月かかった。
男は最初、加代のことを知らないと言う。清水は淡々と証拠を並べる。やはり、男のアパートから加代の遺品が出てきた。安物の髪留め、漁村の地名が刻まれた小さな貝殻。
男は最後まで認めなかった。が、証拠だけで起訴された。
加代の遺骨を、故郷の漁村に運んだのは清水。誰も引き取りに来ないだろうと思ったからだ。しかし手紙を出すと父親から返事が来る。「迎えに行きたいが、金がない」と、
清水は自分で加代を運んだ。
漁村は寒い場所だった。冬で雪が降っていた。父親は港で待っていた。酒のにおいをさせ、痩せた、小さな男だった。
加代の骨を渡す。と、父親はその場で泣き崩れる。地面に膝をついて骨壷を抱えて泣いた。雪が父親の肩に積もっていく。
清水は何も言わなかった。何かを言える立場ではなかったからだ。
帰りの汽車の中で、清水は窓の外を眺める。雪に覆われた山が暗い空の下に続いていた。
汽車には他の乗客が数人。みな自分の世界に沈んでいる。清水は窓ガラスに映る自分の顔を見る。三十二歳の自分。これからもこの仕事を続けていくのだろう、と思いながら。
加代という名前を清水は今でも覚えている。十四歳。漁村の少女。家を出て半年で死んだ少女。誰にも探されなかった少女。
清水が見つけた。それで、加代は最後に名前を取り戻した。
加代という少女が、最後に名前を取り戻したことを確認した。それで十分だ。
事件を解くことは、死んだ者への詫びだ。清水はそう思うようになった。
—————
清水が節子と出会ったのは、昭和三十年の秋。
知人の紹介によるお見合いだった。料亭の座敷で五人ずつが顔を合わせる形式。清水は気乗りしなかった。が、母に「私が死んだ後、あなたはどうするの」と言われ、仕方なく出かけた。
節子は三つ年下の小学校教師。
最初の印象は——よく笑う人だ。と、いうことだった。
料亭の廊下で仲居さんにつまずいただけで、節子は声を出して笑った。取り繕わない笑いかた。清水の周りに、そういう人間はいなかった。
座敷での会話は苦痛だった。仕事の話をすれば「怖い」と言われる。趣味を聞かれても、趣味らしい趣味がない。しかし節子は清水が黙っていても気にしなかった。沈黙を埋めようとしなかった。
「清水さんは、どんなときに仕事が面白いと思いますか」
唐突に、節子はそう聞いた。「お仕事は大変ですか」と聞かない女性だった。
清水は少し考え、
「真実がわかったとき、です」
「真実」節子は繰り返す。「それはどんな感じがしますか」
普段なら答えに詰まる問いだった。が、なぜか言葉が出てきた。
「霧が晴れるような感じです。ぼんやりしていたものが、急に輪郭を持つ」
節子は少し間を置いて言った。「素敵ですね、それ」
帰り道、清水は自分が話していたことに気づく。仕事の感覚を言葉にして人に話したのは、それが初めてだった。
夜、母に「どうだった」と聞かれ「別にどうということもなかった」と答えた。母は何も言わなかった。
しかし数日後、清水は節子のことをふと思い出している自分に気づく。仕事中、聞き込みの合間、捜査資料を読んでいるとき。何かの拍子に、節子の笑い声が頭に浮かぶ。
自分には縁のない感情だ。と、思っていた。
二度目の手紙のやり取りの後、清水は節子に直接会いに行った。学校が終わる時間に、校門の前で待った。節子は驚いた顔をしたが、すぐに笑い、
「何かありましたか」
「いや。少し話したくて」
「珍しいですね、清水さんから来てくれるなんて」
二人で近くの喫茶店に入った。節子は紅茶を清水はコーヒーを頼んだ。窓際の席で、夕方の光が差し込んでいる。喫茶店の中には、他に客が二人。落ち着いた、静かな店だった。
「最近、仕事はどうですか」節子は聞く。
清水は少し考えてから、最近関わっていた事件のこと、被害者の家族のこと、自分が感じていた何かを。途中で、自分が普段話さないことを話していると気づいた。しかし止まらなかった。節子の目が、聞きながら動く。同情でも、好奇心でもない、ただ相手を理解しようとする目だった。
節子は黙って聞いていた。茶碗を両手で包むようにして、こちらを見て、
「清水さん」節子は、「あなたは、優しい人ですね」
清水は少し驚いた。優しい——これまでの人生で、そう言われたことは一度もなかった。むしろ「冷たい」「怖い」と言われることの方が多かったからだ。
「優しいか」
「ええ。話の中に、人が出てきていました。事件の話なのに、人の話だった。あなたは事件を見ているのではなく、人を見ているのね」
清水は答えなかった。しかし、何かが胸に落ちた。
節子は清水を、清水自身が知らない角度から見ている。それが、お見合いから三度目の対面で、もう見えていた。清水は不思議な気分だった。誰かに見られることに、抵抗を感じない自分が、奇妙だった。
帰り道、清水は一人で歩いた。喫茶店のコーヒーの味が、まだ口に残っている。
節子と一緒にいる時間が、苦痛でない。それは、清水の人生でこれまでなかったことだった。
三度目に会ったとき、清水は結婚を申し込んだ。「早いですね」と節子は笑った。「でも、嫌ではないです」
二人は昭和三十二年に結婚した。清水三十歳、節子二十七歳。
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結婚生活で、節子は清水の仕事を一度も責めなかった。
「あなたの仕事は大切なことだから」とだけ言った。仕方なくではなく、本当にそう思っていた。節子はそういう人だ。思っていないことは言わないし、思っていることは、まっすぐに言う。
清水は感情を言葉にすることが苦手だ。節子はそれを知っていて、言葉を求めなかった。代わりに、清水が帰ったとき、節子はいつも台所で何かを作っていた。冷めていても、温かい食事が用意してある。
ある冬の夜、清水は徹夜の捜査で疲れて帰宅する。深夜二時過ぎ。家には灯りがついていた。節子は起きて待っていた。
「….起きていたのか」
「眠れなくて」節子は笑う。「お味噌汁、温めましょうか」
節子は台所に立った。清水はその背中をどこか柔らかい視線を向ける。十五年連れ添った妻の背中。少し痩せた背中。それでも、安心できる背中。
「ありがとう」清水は無意識に感謝の言葉を口にする。
節子は振り返りながら笑う。「あら、珍しいお礼ね」
清水は気恥ずかしくなった。が、節子の笑顔を見て、言ってよかったと思った。
その夜、節子の作った味噌汁を飲みながら、清水は何かを思った。これが家庭というものかもしれない。誰かが起きていて、味噌汁を温めてくれる。それだけのことが、自分には特別なことなのだ、と。
「好きだ」と清水が言ったのは、生涯で一度きり。
結婚五年目の夜、清水は珍しく酒を飲んで帰り布団に入って、暗闇の中で言った。
「節子。俺は、お前のことが好きだ」
節子は暗闇の中で笑いながら「知っていますよ」
「なぜ知っている」
「あなたが帰ってきたとき、靴を脱ぐ場所が、いつも私の靴の隣なんです。誰かを好きな人は、自然とその人の隣に行くんだと思います」
清水は黙った。靴の場所など、意識したことがなかった。自分が気づいていない自分のことを、節子は見ていた。
子供はできなかった。欲しかった。節子も欲しかったと思う。しかし二人はそのことをほとんど話さなかった。お互いの痛みはわかっていた。言葉にすると、その痛みが大きくなる気がしたから。
ただ一度だけ、二人で話したことがある。
結婚六年目の冬、節子の同僚の教師が出産したと聞いた夜だった。節子は普段通り食事の準備をしていたとき、箸を取る音が、いつもより少しだけ強かった。清水は気づいたが、何も言わなかった。
食事が終わって、節子が茶を淹れ、静かに
「私たちは、これでいいですよね」
「ああ」清水は答えた。
それだけだった。それ以上の言葉は、二人とも持たなかった。しかし、節子の目に薄く水が浮かんでいるのを清水は見た。気づかないふりをして、茶を飲んだ。
その夜、布団の中で、節子は清水の背中に額を当てて眠りにつく。普段はそういうことをしない女性だ。清水は気づいていたが、動かなかった。動くと、節子が起きてしまう気がしたから。
朝、目を覚ましたとき、節子はもう台所にいた。何事もなかったように、味噌汁を作っていた。
そういう夫婦だった。
——————
節子が病気だとわかったのは昭和三十九年の夏。
清水が強引に病院に連れて行った。刑事の目で、節子の顔色が「夏バテ」のものではないと感じていた。胃の腫瘍。手術。一時の回復。そして昭和四十年、再検査で転移が見つかった。
「そう」と節子は続けて、「なるようになる」
その短さに、清水は節子の強さを見た。
入退院を繰り返した。清水は非番の日に病院に通った。ある日、節子が、
「あなた、仕事のことを考えながら来てるでしょう」
「わかるのか」
「目が遠いから。来てくれているだけでいいの。でも、たまには私だけ見てくれると、もっと嬉しい」
清水はそれ以来、病院に来るとき、頭の中の事件を意識して外に置いてくるように努力した。うまくはできなかった。けれど、節子は何も言わなかったが、目が柔らかくなっていた。
ある秋の午後、節子の病室で清水は本を読んでいた。節子は窓の外へ視線を向けると病院の庭の銀杏が黄色く色づいていた。
「あの木の下を歩きたいわね」節子が口にする。
清水は本を閉じ、「行くか」
「いいの?」
「医者に聞いてくる」
看護師に車椅子を借りて、清水は節子を庭に連れ出した。十一月の柔らかい光が、銀杏の葉を金色に染めている。落ち葉が二人の足元を通り過ぎていった。
「きれいね」
「ああ」
「子供の頃、父と銀杏の下を歩いた記憶があるの。父はもう死んでしまったけれど、あの記憶だけは、はっきり残っている。今日のこのことも、たぶん私の中に残るわ」
清水は何も言わなかった。何かを言うべきだと思った。が、言葉が見つからなかった。代わりに、車椅子の手すりを少しだけ強く握る。節子はそれに気づいていたかもしれない。
「あなた、私が死んだ後も、銀杏を見たら、私のことを思い出してね」
節子は明るい口調で。冗談のように。しかし、それは冗談ではなかった。
「ああ」清水は言った。それしか言えなかった。
二人で十五分ほど、その木の下に。それだけのことだった。清水は、後年その日のことを何度も思い出す。節子の最後の秋に、二人で銀杏の木の下を歩いた。それ以上のことは、覚えていない。それで十分だった。
以後、清水は秋に銀杏を見るたび、節子のことを思い出した。約束を守っているのか、自然と思い出してしまうのか、自分でもわからなかった。
「いるだけでいいの」と節子はよく言った。
清水はその言葉の意味を、長い間わからなかった。何もしていないのに、いるだけで何かになるのか——その疑問は、節子が死んでから、ようやく形になった。なるのだ、と気づいたのは、節子がいなくなって、その空白の大きさに驚いたときだった。
間に合わなかった———と清水は思った。
——————
節子が死んだのは昭和四十七年十一月、四十一歳。
その夜、清水は捜査会議に出ていた。終わったのは夜十時。署を出る前に病院に電話をしたが、節子は「いつもと同じよ」と言う。声に違和感はなかった為、家に帰り、就寝する。そして、深夜二時、電話が鳴る。
病院からだった。
「奥様の容態が——急変されています」
清水は布団から飛び出す。コートを羽織り、玄関を出た。タクシーを呼ぶ余裕が、精神的になかった。自転車を漕いだ。
十一月の冷たい朝の道を自転車のタイヤが水を跳ねる。街灯が点いていて、アスファルトが濡れていた。冬の入り口の冷気が、清水の頬を刺す。その光景を、清水は今でも覚えている。
病院に着いたとき、節子はもう冷たかった。
看護師が清水を病室に通し、「ほんの少し前まで、お話しできていました」「最後まで穏やかでした」
清水は節子の枕元に立つ。穏やかな顔だった。最後まで穏やかな人だった。化粧を落としたままの素顔。長年見てきた節子の顔。
清水は節子の手を握る。冷たかった。しかし、まだ節子の手だった。指の形、爪の形、すべて節子のものだ。
しばらく、そうしていた。何分か、何十分か、わからない。
廊下では泣けなかった。病院を出るとき、看護師たちが頭を下げ、清水も頭を下げた。何かを言おうとしたが、声が出なかった。
自宅に戻り、電気もつけず、玄関に座った。
革靴を履いたまま、暗い玄関で、清水は声を出して泣いた。
声を出して泣いたのは、幼い頃以来だったかもしれない。どれだけ泣いたか、わからない。気づいたら、玄関の小さな窓の外が白んでいた。
清水は立ち上がり靴を脱ぎ、家に上がる。
台所に向かうが節子はいない台所。茶碗もそのままだった。前の朝、節子が病院に行く前に使った茶碗が、洗ってシンクの脇に伏せてある。
清水はその茶碗をしばらく見つめる。
顔を洗い、スーツに着替えて、仕事に向かう。同僚たちは何も言わなければ、清水も何も言わなかった。
ただ、仕事をするだけ。
それが清水雅哉の、節子への弔い方であった。
——————
節子の遺品を整理したのは、四十九日が過ぎてからだった。
一人暮らしのアパートで清水は箪笥を一段ずつ開けていく。節子の着物、ハンカチ、手紙の束。教師として使っていた赤ペン、子供たちへの手紙の下書き、何冊かの本。
作業の途中で、何度も手が止まる。物を片付けるたびに、それに関連する記憶が流れ込んできた。この着物は、お見合いの席で着ていたもの。このハンカチは、節子の母から贈られたもの。この本は、二人で映画を見に行った帰りに本屋で買ったもの。
清水は、箪笥の前に座り込んで、しばらく動けなかった。
節子の冬物のコートを箱に入れたとき、ポケットに何かが入っていた。取り出すと、しおりだった。本に挟んで使う、紙のしおり。子供が作ったような、不器用な切り絵が貼ってある。「先生、ありがとう」と鉛筆で書いてあった。
清水はそれをしばらく見ていた。
節子は教師として、子供たちに大切にされていた。それは知っていた。しかしこのしおりは——大切にされていただけでなく、節子が大切に持っていた証拠。コートのポケットに入れていつも持ち歩いていた。寒い日に、子供たちのことを思い出せるように。
清水はそのしおりを、自分の財布に入れる。
以来、それはずっと清水の財布の中にある。霧無村に来た今日も、財布の中に。
最後に、机の引き出しを開けたとき、小さなノートが出てきた。
日記ではなかった。節子が気に入った言葉を書き留めるノートであった。本から引いた一節、新聞で見た言葉、生徒の書いた作文の中の一行。
ページをめくっていくと、最後のページにこう書いてあった。
「雅哉が言った言葉。霧が晴れるような感じです。ぼんやりしていたものが、急に輪郭を持つ。——お見合いのとき。この人と結婚しようと思った」
清水はそのページを、しばらく見ていた。
お見合いの席で自分が言った言葉。それを節子は書き留めていた。結婚を決めた瞬間として。
清水はノートを閉じ、引き出しの奥にしまう。机の引き出しの一番奥に。
以来、清水は事件を解くたびに、頭の中で、
「霧が晴れる」
と、感じる瞬間を待つようになった。それは仕事の感覚であると同時に——節子に手紙を書くような感覚でもあった。今、霧が晴れた。お前の言った通り、素敵な瞬間だ、と。
節子が「あなたが働いているところを、私は誇りに思っています」と言った言葉も、その後の清水の支えになった。
節子が死んでから三年が経った頃、係長から昇任試験の打診が来た。
「お前なら、上に上がれる。受けないか」
清水は断った。
「なぜだ」係長は不思議そうな顔をした。「お前ほどの実績がある人間が、ずっと現場でいいのか」
「現場が、自分には合っているんです」
「もったいない。給料も上がる。家族も助かる」
「家族はもう、いません」清水は静かに言った。
係長は一瞬黙り、それから「すまん」と小さく口にする。
清水はそれ以後、何度同じ打診が来ても、同じように断り続けた。
管理職になれば現場から離れる。書類を書き、会議に出る。節子が誇りに思ってくれたのは、現場を歩く清水だ。だから清水は現場を離れなかった。
変わり者だ、もったいない、と言われた。清水は気にしなかった。節子が正しいと思ってくれることを、する。それだけだった。
ある夜、清水は引き出しから節子のノートを取り出した。何かが書いてあるかもしれないと思い、もう一度ページをめくる。最後のページに書かれた言葉以上のものは、なかった。
それでよかった。
節子は、自分の選んだ言葉を、最後に清水に残した。それで十分だった。
——————
清水の刑事人生に、もう一つの忘れられない事件がある。今回の霧無村と、奇妙な共鳴のある事件。
昭和三十六年、清水三十四歳のときだ。
ある地方都市の資産家が、自宅で死んでいるのが発見された。外傷なし。死亡状況から毒物の疑い。検査で睡眠薬の大量投与と判明した。
被害者は街でも有名な男。土地の貸付け、金融、不動産。表向きは事業家だったが、裏では冷酷な取り立てで知られていた。一度借りた人間は、全てを失うまで返済を強いられる。と、地元では言われていた。
動機を持つ人間は、いくらでもいた。借金で家を失った者、家族を失った者、商売を奪われた者。捜査一課は最初、敵意の濃い人物から順に当たっていった。
関係者全員のアリバイが複雑に絡み合い、捜査は難航した。誰もが動機を持ち、誰もがアリバイを持っていた。が、清水は三ヶ月かけて、一人の人間に辿り着いた。
資産家の主治医。五十代の、温厚で評判のいい医師。診察室の壁には患者からの感謝の手紙が数え切れないほど貼ってある。看護師たちは医師を慕っていた。
清水が最初に医師の診察室を訪ねたとき、医師は穏やかに迎えてきた。「資産家のことでお話を伺いたい」清水が伝えると、医師は「もちろんです」と答えた。患者を診ているとき、医師は丁寧に話した。被害者の健康状態について、薬の処方について、定期的な検診について。
清水はその場では何も追及しなかった。ただ、医師の手を見ていた。机の上に置かれた手は、白く、細く、震えはなかった。しかし指の動きが——時折、何かを制御するような動きをした。爪の根元を、もう片方の指で軽く押す癖があった。緊張を抑える癖だ。
清水は警察に戻り、医師の妹について調べるとあることが分かった。十年前に自殺。当時の新聞の切り抜きを探す。妹は資産家の貸付けを受け、返済できずに追い詰められていた。法的には問題なかったが、暴力的な取り立てがあったという証言があった。借金の保証人になった人間まで自殺に追い込まれた、という記事もあった。
動機があった。
二度目に診察室を訪ねたとき、清水は妹のことを直接聞くと、医師の手が、わずかに止まった。
「ご存じだったのですね」医師は静かに続けて、
「ええ」
沈黙が、しばらく続く。診察室の壁の時計が、規則正しく時を刻んでいた。
そしてやがて、医師は話し始める。
「妹を救えなかったことが、ずっと心残りでした。私は医者です。家族の苦しみくらい、気づくべきでした。しかし当時、私は仕事で忙しかった。妹が訪ねてきても、ろくに話を聞かなかった」
医師は壁の感謝の手紙を見ながら、
「妹が死ぬ三日前、最後に会いました。妹は私に何かを言おうとしていました。しかし私は——時間がないから、と帰してしまった。後で考えれば、あれが助けを求める声でした。私はそれを聞かなかった」
医師の声は淡々としていた。涙はない。長い時間をかけて泣き尽くした人間の声。
「あの男を殺したことは、後悔していません。妹を救えなかったことは、ずっと後悔しています」
清水はその言葉を、長く記憶することになる。
その目は——長い年月をかけて燃やし尽くした後の、灰のような目だった。
そしてその目は、十数年たった後、霧無村で波多野医師の目を見たとき、記憶の奥から立ち上がってくるのだ。
医師は薬を扱う。死を知っている。どれだけの量で、どれだけの時間で人が死ぬか——それを知っている人間だ。長年患者の秘密を守ることで、秘密の重さに慣れている。隠すことに対する訓練が、医師には自然に備わっている。
そして、最後に真実を選ぶ静かな覚悟も。
逮捕のとき、医師に抵抗はなかった。手錠をかけられても、表情は変わらなかった。診察室を出るとき、医師は最後に壁の感謝の手紙を見て、軽く頭を下げた。患者たちへの、無言の詫びだったのかもしれない。
清水は連行する車の中で、医師の隣に座っていた。何も言わず、医師も何も言わなかった。窓の外を、夕方の街が流れていく。
「刑事さん」やがて医師が静かに、「ありがとうございます」
清水は驚く。「何がですか」
「私を見つけてくれて。ずっと、見つけてもらいたかったのかもしれません」
清水はその言葉を、長く忘れなかった。
霧無村に来たとき、波多野医師の存在が最初から清水の目に引っかかったのは、あの昭和三十六年の事件があったからだ。
医師は薬を扱う。死を知っている。どれだけの量で、どれだけの時間で人が死ぬか——それを知っている人間だ。長年患者の秘密を守ることで、秘密の重さに慣れている。隠すことに対する訓練が、医師には自然に備わっている。
霧無村に来たとき、波多野医師の存在が最初から清水の目に引っかかったのは、あの昭和三十六年の事件があったからだ。
——————
猿島冴優と組んだのは、半年前のことだ。
係長から「新人を一人見てくれ」と言われたのは、春の終わりだった。清水は新人と組まされるのは久しぶりだった。長年、単独で動くことが多かった。係長は申し訳なさそうに「お前なら任せられると思って」と。
最初に冴優を見たとき、清水は「焦り」を感じた。冴優は緊張した顔で姿勢を正し「猿島冴優です。よろしくお願いします」と頭を下げた。声が大きすぎた。緊張した若者が、緊張を見せまいとして大きな声を出すときの、特有の硬さだ。
「座れ」清水は短く伝える。
冴優は急ぎ座り、机の上に手を置き、また姿勢を正していた。清水は煙草を吸いながら、しばらく冴優を観察する。
良くも悪くも、若い目だった。期待と不安が、まだそれぞれ未分化のまま顔に出ている。隠そうとしている。隠せていない。それも当然のことだ。
「俺は清水だ。これから半年、組む」
「はい」
「俺のやり方は、教えん。お前のやり方を見る。気づいたことは、その都度言う」
冴優は少し戸惑った表情を浮かべる。指導してくれるものと思っていたのだろう。
「教えないんですか」
「教えると、俺の真似になる。俺の真似が上手くなっても、お前のための刑事にはならん。お前のやり方を、お前で見つけろ。俺はそれを横で見ている」
冴優は黙る。自分なりに咀嚼しているのだろう。
最初、清水は冴優を「よくある若手刑事」だと思っていた。焦り、急ぎ、答えを早く出したがる、感情が顔に出すぎる——清水がこれまで見てきた若手と同じに見えた。
しかし三ヶ月もすると、冴優は少し違うことが見えてくる。
最初の事件は小さな窃盗だった。冴優は被疑者を追い詰めすぎて、被疑者が泣き出してしまった。清水は冴優を外に出して、残って被疑者と話す。一時間後、被疑者はあっさりと自白する。
廊下で待っていた冴優に、清水は「追い詰めると、人は嘘をつく」
冴優は頷く。すぐに「なるほど」と言わず、考えた後で「わかりました」と言った。その咀嚼の仕方が、清水には悪くなかった。
二度目の事件で、冴優は被害者の証言を全部信じて捜査を組み立てた。しかし証言には省略があった。清水が指摘すると、冴優は「でも被害者が言っているんですから」と反論してきた。
「被害者も嘘をつく」清水は言う「悪意ある嘘ではないこともある。自分に都合の悪いことは、無意識に省略する。被害者であっても、証言は全て確認する」
冴優は複雑な顔を作る。被害者を疑うことへの倫理的な抵抗感が、顔に出ていた。
清水はその顔を見て思った。この若者には感情がある。それは弱さではない。しかし感情が思考の邪魔をするとき、それは問題になる。その区別を覚えることが、この若者の課題だ。
結局その事件では、被害者は重要な事実を隠していた。被害者自身が違法な金銭の貸し借りに関わっており、そのトラブルから事件が生まれていた。冴優は事件解決後、清水に頭を下げた。
「すみませんでした」
「謝るな」清水は「学べばいい。お前は学んだ。それで十分だ」
冴優は少し顔を上げ、
「清水さんは、被害者を信じないんですか」
「信じる、とは違う」清水は煙草に火をつけた。「俺は——人間は何かを隠す生き物だ、と思っている。被害者も、加害者も、刑事も、誰でもだ。隠すことが悪いわけじゃない。ただ、隠していることがある、という前提で人を見る。それだけだ」
「全員を疑うんですか」
「疑う、とも違う。ただ、見えていない部分があると意識する。見えている部分だけで判断しない」
冴優はその言葉を、しばらく考え、
「難しいですね」
「難しい」清水は「でも、できないことではない」
三度目の事件は一家失踪だった。冴優は最初から「夫が妻子を連れて逃げた」という仮説を立て、夫の素行調査を始めた。
清水は別の方向を見ていた。失踪した家の玄関に、新聞が三日分溜まっていた。家出なら配達を止める。止めていない——急な失踪だ、計画的でない。
清水はその事実を冴優に告げる。
「でも夫が借金を抱えていたという情報があります」
「それは事実として持っておけ。しかし、新聞の件と合わせると、別の可能性が出てくる。一家が、誰かから逃げている」
実際、一家は非合法な債権者から身を隠していた。一週間後、隣県の親戚の家に逃げ込んでいることがわかった。家族はみな無事だった。が、妻は震えていた。子供は小さく、何が起きているか理解していない様子であった。
夫婦から事情を聞き、清水と冴優は債権者を逮捕した。一家は元の家に戻れず、新しい場所で生活を始めることになった。
その夜、署からの帰り道、冴優は珍しく口を開いた。
「清水さん、刑事の仕事は——救うことなんですか、罰することなんですか」
清水は少し考え、
「両方じゃない」
「両方じゃないんですか」
「俺たちは、真実を見つける。真実を見つけることが、結果として誰かを救うことになる場合もあれば、誰かを罰することになる場合もある。しかし俺たちが目指しているのは、救うことでも罰することでもない。真実だ」
冴優は黙って聞いた。
「真実を見つけた後、それをどう使うかは、また別の話だ。法廷の話、社会の話。俺たちの仕事は、その手前だ。手前で正確であること——それが俺たちの責任だ」
冴優は一度頷き、しばらくして「わかりました」と言った。今度はその言葉に、最初の頃のような薄っぺらさがなかった。
捜査が終わった後、冴優は「新聞の一点から、そこまで読めるんですか」
「読めるというより、疑問を持つ、ということだ。当たり前に見えることに、だ。当たり前に見えることほど——見落としがある」
冴優はその夜、手帳に清水の言葉を書き留めた。清水は別の機会に偶然それを見たが、何も言わなかった。悪くない気分であった。
半年付き合ってみると、冴優は確かに成長していた。焦りはまだある。しかし、焦っている自分に気づくようになっていた。離れたところから自分を見られるようになっていた。それは大きな変化だ。
ある夜、二人で署に残って書類を片付けていたとき、冴優が突然、
「清水さん、刑事になって良かったと思いますか」
清水は手を止め、冴優の顔を見た。冴優は書類に目を落としたまま、こちらを見ていなかった。何か考え込んでいる顔だった。
「どうしてそれを聞く」
「いえ、ただ。最近、辛いことが多い気がして」
「辛いことか」
「人を見すぎるんです。被疑者も、被害者も、家族も。みんなそれぞれの事情があって、それぞれ苦しんでいて。それを全部見ながら、それでも事件として処理しなければならない」
清水はペンを置き、
「俺はな、刑事になって良かったかどうかは、わからん」清水は静かに「ただ、刑事をやらない自分は、想像できない」
「それは、刑事になって良かったということでは」
「少し違う。良かった、というのは選択できる人間の言葉だ。俺にとって刑事は、選んだのではなく、なるべきものだった。だから良し悪しの問題ではない」
冴優は顔を上げる。「お前は違うのか」と清水が問う。
「俺は——選びました」冴優は続けて「正義感とか、そういうことで」
「ならば」清水は伝える。「お前は迷っていい。迷うことが、お前の刑事の形を作る」
冴優はその言葉を受け取り、深く、頷いた。
——————
半年の間に、冴優の中で何かが少しずつ変わっていくのが、清水には見えていた。
最初の頃、冴優は事件のたびに「これが俺の事件だ」なんて意気込んでいた。三ヶ月もすると、「これは被害者の事件だ」と言うようになっていた。半年経つ頃には、何も言わなくなった。事件に対する態度が、自然と謙虚になっていく。
ある日の捜査会議で、冴優が珍しく発言をした。
「被害者の妻に話を聞きました。最初は協力的でした。しかし、二度目に訪ねたとき、急に態度が変わった。何かを隠している様子です。理由はわかりません。しかし、隠している、ということだけは確かだと思います」
係長は冴優の発言に驚いた様子で、「根拠は」と問う。
「最初の聞き込みのとき、奥さんは指輪をしていませんでした。しかし二度目には、結婚指輪をしていました。普段していないものを、わざわざつけている。理由がある。何かを意識している」
係長は感心した様子で、「猿島、お前、変わったな」と伝える。
捜査会議の後、清水は冴優に「悪くなかった」と伝える。冴優は嬉しそうな顔をしたが、すぐに引き締め「まだまだです」
「まだまだだ。しかし、進んでいる」
清水は冴優に対して、珍しく何かを感じていた。若い頃の自分に、少し似ていた。
感情の出し方は違う。冴優の方が豊かだ。しかしその奥に、真実への純粋な渇望がある。あの路地の男から始まった清水の渇きと、同じ種類のものが、この若者の中にある。
いつからか、清水は冴優に言葉をかけることが増えていた。矛盾を抱えろ、感情を切り捨てるな、真実を受け止める覚悟を持て——そういうことを、自分でも気づかないうちに。
節子の言葉を思い出すことがある。「あなたが働いているところを、私は誇りに思っています」。
その言葉の続きを、清水は勝手に想像していた。節子が言いたかったのは、働いている場所だけではない。清水が積み上げてきたものを、次の人間に渡すこと——それも含まれていたのではないかと。
根拠のない想像だ。節子はそこまで言わなかった。
しかし、冴優の横顔を見ていると、そう思えることがある気がした。
この若者に、自分の持っているものを渡すことが——節子への、一つの答えになる。そんな気が。
——————
霧無村に派遣されることが決まった日のことを、清水は覚えている。
係長から呼ばれて、地図を見せられた。「ここで殺人事件だ。中央の官僚が殺された。お前と猿島で行ってくれ」
清水は地図を見る。山に囲まれた小さな村。最寄り駅から車で一時間以上。
「面倒な事件になりそうだ」係長は口にする。「閉鎖的な村らしい。中央の人間が現地で死んだとなると、政治的にも厄介だ。お前なら任せられる」
「はい」
「猿島はまだ若い。事件によっては、お前の負担が大きくなる。それは承知してくれ」
「問題ありません」
係長は少し躊躇い「すまんな」と。清水は軽く会釈をすると廊下へ出る。と、冴優が待っていた。
「派遣ですか」
「ああ」
「俺もですよね」
「ああ。明日の朝、出る」
冴優の顔に、緊張と高揚が混ざっていた。地方の事件は、初めての経験だ。清水はそれを見て、何も言わなかった。緊張は経験で取れる。今は、自然に経験させればいい。
「準備はあるのか」
「特には。でも、何か揃えておいた方がいいでしょうか」
「靴だ」清水は言った。
「靴?」
「山の中の村だ。歩く。今のお前の靴では、もたない。歩きやすくて、雨に強い靴を持っていけ」
冴優は頷く。後で清水が見ると、冴優は新しい革靴を履いてきた。当たり前のように選んだ革靴は、雨に弱いものだ。清水は何も言わない。霧無村に着いて、冴優は自分でわかるはずだ。
案の定、霧無村で雨が降ったとき、冴優の靴は早々にだめになった。冴優は一日目の夜に、自分の靴を見つめながら、「履きやすそうだから選んだのに」と。「その『履きやすそう』のときに、何を考えていたか思い出せ」と清水は言う。「事件の現場に派遣されることを、考えていたか」
冴優は黙った。
こういうことの一つ一つが、刑事を作る。清水は教えるのではなく、機会を与える。冴優はそこで学ぶ。
——————
霧無村に着いてから、清水は毎晩、その日の出来事を頭の中で反芻する習慣にしていた。
一日目。雨と霧。来栖恭一郎の死体。密室。村人たちの拒絶の壁。そして、廊下に立っていた遙堪綾奈。あの女の名前が清水の意識に深く刻まれたのは、来栖の死を「知っていた」あの目の色のせいだった。悲しみでも怒りでもない、長い時間をかけて澱のように溜まった感情の色。
二日目。村人への聞き込み。誰もが口を閉ざす。しかし沈黙には種類がある。怯えの沈黙、約束の沈黙、共謀の沈黙。霧無村の沈黙には、それらが混ざっていた。誰かが村人をまとめて口止めをした。堂島源蔵だろう、と清水は早い段階で予想していた。
そして波多野医師との初対面。
清水はあの診療所で、波多野の白い手と、揺れない目を見た。普通の医師の目ではなかった。長く苦しみを見続けてきた目だ。患者の苦しみではなく、自分の苦しみを。
三日目。堂島源蔵の失踪。仏壇に並ぶ位牌——堂島きく、昭和二十八年没。来栖が霧無村に密売ルートを作る前から、堂島の妻はすでに死んでいた可能性もある。しかし六年前の薬物事件と重なるところに、堂島の妻の死がある。
そして冴優が綾奈と二人で話した結果、出てきた名前——波多野。
清水は煙草を一本吸った。
点と点が、線になる感覚があった。線が、図になる感覚があった。
綾奈が指名した名前——波多野医師。
綾奈の話と、清水自身が三日間で集めた事実が、波多野という一点に向かって絞られていく感覚があった。波多野の弟。来栖の薬。六年間の脅迫。湯呑みの不自然さ。死亡時刻のずれ。
そして、昭和三十六年の医師。
あのとき清水が見た目を、波多野は持っていた。長い年月をかけて何かを燃やし尽くした、灰のような目。最初に診療所で会ったとき、波多野はその目で清水を見ていた。清水はそのときから、無意識のうちに警戒していた。
動機、機会、手段——三つが揃っている。
ただ、密室のトリックだけが、清水の中でまだ完全には嵌まっていない。
内側からの閂。和室の古い建具。外から操作する方法は限られる。針金。糸。あるいは別の仕掛け。
清水は現場の建具を頭の中で再現した。閂の溝、扉と柱の隙間、和室特有のわずかな歪み。古い木造の建具は、新築のように密閉されていない。木の縮みで、わずかな隙間ができる。その隙間に、何かを通すことが可能だ。
———糸だ、と思った。
細い絹の糸を閂の溝に引っ掛け、扉の隙間から外に引き出す。引っ張ると閂が落ちる。糸を引き抜けば痕跡は残らない。
そしてその糸を、最初に現場に入った医師として——回収する機会があった。
全てが繋がった瞬間、清水は煙草を消した。
ふと、節子のノートが頭の中に浮かんだ。霧が晴れるような感じ——そう書いていた。
今、晴れた。
しかし不思議なことに、清水の中に達成感はなかった。
霧無村で起きた事件は、解いた瞬間に「終わった」と感じられる種類のものではなかった。波多野が手を下した。動機は理解できる。しかし、来栖を殺したことで、波多野は救われるのか。弟は戻ってこない。失った六年は戻ってこない。波多野はこれから法に裁かれ、それでも何も取り戻せない。
そういう事件だった。解いても、誰も救われない事件。
清水は窓を開ける。霧無村の夜気が部屋に流れ込んできた。冷たい、湿った空気だった。
市場の絞殺の犯人を思い出す。腐った恨みを抱えた豆腐屋の男。
橋の下の少女の父親を思い出す。雪の中で、骨壷を抱えて泣いた男。
昭和三十六年の医師を思い出す。妹を救えなかったと言った医師。
そして波多野医師。
清水が三十年近く見てきたのは、こういう事件だった。誰かが誰かを失い、その喪失が連鎖して、最終的に死をもたらす。事件を解いても、失われたものは戻ってこない。
それでも、解く。
名前のない死に、名前をつける。
失われたものに、形をつける。
それが刑事の仕事だ。
清水はそれでも、明日の朝に動かなければならない。気の毒と、許せないを、両方抱えたまま、動く。
壁の向こうで、冴優の鉛筆の音が止まった。
清水は障子に目をやった。冴優は今、何を考えているのだろう。綾奈のことか。波多野のことか。あるいは、自分自身のことか。
明日、冴優も今夜の自分と同じ場所に立つ。
そのとき、何を見せてやれるか。
清水は窓を閉め、布団に入った。
眠れないと思ったが、目を閉じると意外と早く眠りがやってくる。
夢の中で、清水は霧の中を歩いていた。霧は濃く歩くたびに、少しずつ薄くなっていく気がした。前方に、誰かが立っている気配があった。誰かは見えなかった。しかし、誰かであることはわかった。
節子か、と一瞬思った。が、違うかもしれない。あの路地の田中という男かもしれない。あるいは、今までに事件で関わった、名前のついた死者たちかもしれない。
もうすぐ晴れる。
そう思いながら、清水は歩き続けた。
——————
夜明け前、清水は目を覚ます。
窓の外に、薄明かりがあった。霧が、昨日より明らかに薄い。山の稜線が見える。木々の形が見える。村の屋根が、光の中に浮かんでいる。
清水は起き上がり、煙草に火をつけ、
頭の中で、もう一度事件を整理した。来栖恭一郎、霧無村に持ち込まれた密売ルート、六年間で傷ついた人々、波多野が積み上げた決意、湯呑みの不自然さ、糸、死亡時刻のずれ。
全てが波多野に向かっていた。
今日、波多野に会いに行く。証拠を固める前に、まず波多野の口から聞く必要がある。自白がなければ起訴は弱い。物証は、波多野が処分してしまっている可能性が高い。
しかし——あの目を持っている男なら、嘘はつかない、と清水は感じていた。昭和三十六年の医師がそうだった。長年かけて燃やし尽くした人間は、最後に嘘を選ばない。真実を語ることが、最後の自分の尊厳になる。
清水は煙草を消す。
窓から村を見る。と、霧無村が静かに沈んでいる。長い間、重いものを抱えてきた村だ。来栖が持ち込んだ毒が、六年かけて染み込んだ村。今日、その毒の根源に、形をつける。
ふと、節子のことを思った。
節子なら、こう言うかもしれない。
「その波多野という先生のことも、ちゃんと見てあげてね」
節子は人を見る目があった。人の痛みを感じる女性だった。清水は、波多野の痛みを見ながら、それでも仕事をする。それが今日の、節子への約束だった。
そしてもう一つ——節子なら、冴優のこともこう言うかもしれない。
「あの若い刑事さん、いい子よね。あなたが見てあげなさい」
清水は少し笑った。声には出さなかった。鏡の中の自分は、相変わらず感情の乏しい顔をしていた。が、内側では何かが温かかった。
節子が生きていたら、冴優を可愛がっただろう。きっと、よくお茶を出して、笑い話をして、冴優は節子のことが好きになっただろう。そういう光景を、清水は一瞬だけ想像した。
実現しなかった光景だ。しかし、想像できたことが——清水には、悪くなかった。
清水は布団をたたみ、着替えを済ます。
鏡の前で、自分の顔を見た。
五十四歳。削ぎ落とされた顔。感情の乏しい顔。しかし今朝は、その奥に何かがあった。確信のような、覚悟のようなもの。
廊下に出た。冴優の部屋の前を通った。まだ起きていないかもしれない。
少し立ち止まった。今日、冴優にも見せるものがある。波多野との対話を、冴優の前で行う。それは冴優の刑事人生にとって、ひとつの節目になるはずだ。
ノックはしなかった。言葉より、動きで見せる。それが清水のやり方だった。
階段を降りて、宿の表に出た。
朝の冷たい空気が顔に当たる。村は静かだ。鶏の鳴き声が遠くで一つ、響いた。
清水は深く息を吸う。
肺の奥まで、冷たい空気が届く。生きていることを、実感する空気だ。
霧は晴れる前の、最後の薄さだった。
もうすぐ、晴れる。
清水は煙草をもう一本取り出し火をつけ、ゆっくりと吸った。
今日が、霧無村での自分の四日目になる。
そして、何が起きるかは、まだわからない。
一つだけ、清水にはわかっていることがある。今日、自分は波多野医師に会う。波多野は語るだろう。これまで誰にも語らなかった六年間の重さを。清水はそれを聞く。受け止める。それだけのことだが、それが今日の自分の仕事だ。
そしてその後、何が起きるか。
予想はあった。波多野が自白すれば、事件は終わる。しかし——本当にそうだろうか。清水の中で、何かが微かに引っかかっていた。波多野だけが事件の全てなのか。来栖の密売に関わっていた人間が、波多野だけということがあるか。
田辺巡査の存在が、清水の頭の片隅にあった。波多野によれば、田辺は六年前の薬物事件を揉み消した側の人間だ。それは何を意味するか。単なる隠蔽か、もっと積極的な共犯か。
清水は煙草を消した。
今日中にそこまで辿り着けるかはわからない。しかし、波多野との対話の後、もう一つ確認したいことがある。田辺の家を訪ねる。それが今日の予定の、もう一つの柱だった。
空が、少しずつ明るくなってきた。山の向こうに、淡い橙色が滲んでいる。霧の中で太陽が昇ろうとしている。
清水は財布を取り出し、節子のしおりに触れた。指先で、子供の不器用な切り絵の感触を確かめる。
行ってくる、と心の中で呟く。今日も、節子の誇りに恥じない仕事をする。ただ、それだけのことだった。
清水は、宿の階段に足をかけた。
冴優を起こす時間だ。




