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散りぬる霧に  作者: masaya
3/6

三章 綾奈の傷

堂島源蔵が消えた朝、霧無村は奇妙な静けさに包まれている。

人の気配がない、というわけではない。農家の煙突からは朝餉の煙が上がり、遠くで鶏が鳴き、犬が吠えている。しかし、村全体から、何か大切なものが抜け落ちてしまったような、そういう種類の静けさ。顔役が消えた村というのは、骨を失った体に似ている。形は保っているが、支えるものがない。

猿島は田辺巡査の案内で堂島家を訪ねる。清水は少し遅れてくるという。「先に行って、お蔦という老女から話を聞いておけ」と清水からの命令であり、珍しく冴優を単独で動かす指示であった。

堂島家は村の北外れにあり、他の民家より一回り大きく、瓦屋根が重々しく空を押さえている。庭には手入れの行き届いた松が何本かあり、石灯籠が苔むしている。代々この村を仕切ってきた家の、静かな威圧感があった。

玄関で声をかけると、しばらくして小さな老婆が現れる。


お蔦。


七十を過ぎているだろうか。腰が曲がり、歩くのに少し時間がかかる。が、その目は澄んでいた。昨日、宿の前で清水をまっすぐ見返していた老婆——冴優はすぐに思い出す。あのときの目と同じだ。年齢によって濁ることを拒否しているような、頑固な澄み方をしている。

「旦那様は、おりません」お蔦は開口一番に言う。

「いつからいないか、教えてもらえますか」

「昨夜、遅くに出られました。どちらへとは聞いておりません」

「いつもそういうことがありましたか」

お蔦はわずかに間を置く。その間の中に、何かがあった。

「…たまに」

「たまに、というのは」

「年に何度かございます。夜中に出られて、朝には戻っていらっしゃる。どちらへ行かれるかは、私のような者には」

お蔦の声は平坦である。感情を押し込んだ平坦さではなく、長年の奉公で感情を使い果たした人間の、乾いた平坦さだ。しかし冴優は、その乾いた声の底に何かが沈んでいる気がしてならない。

「お蔦さん」冴優は少し声を落とし、

「あなたは長くここにいる。堂島さんのことを、誰より知っている方だと思います。来栖という官僚が殺されました。私は真実を知りたい。あなたが知っていることを、教えてもらえませんか」

お蔦は冴優を見る。長い間、見続ける。

「若い刑事さん」お蔦はやがて口を開く。「真実を知りたい人間が、真実を受け止められるとは限りません。それだけは覚えておいてください」

それだけ言って、お蔦は中に引っ込んでしまう。

冴優は玄関先に一人残される。真実を受け止められるとは限らない——その言葉が、朝の冷気の中でしばらく漂っていた。



——————



清水が来たのは、それから三十分ほど後のこと。

冴優はお蔦との会話を報告する。と、清水は黙って聞きいている。庭の松を眺めると松の枝が、霧の中でぼんやりと滲んでいる。

「受け止められるとは限らない、か」清水は静かに繰り返す。

「どういう意味だと思いますか」

「言葉の通りの意味だろう」清水は言った。「この村が抱えている真実は、外から来た人間が思っているより重い。そういうことだ」

「でも、だからといって見逃すわけには——」

「そんなことは言っておらん」清水は静かに遮る。「受け止められるかどうかと、向き合うかどうかは別の話だ。お蔦さんはお前を試したんだろう。怯むかどうか。跳ね返すかどうか」

冴優は黙り考える。試された?そして自分はどう答えたのか。

清水は堂島家の中を見て回ることにする。田辺巡査が難色を示したが、清水の静かな眼力の前に黙る。

家の中は、外観に負けない重厚さ、古い家具、古い掛け軸、古い欄間。しかしその古さは、単に古びたものではなく、大切にされてきたものの古さ。奥の部屋に仏壇があり、位牌が並んでいる。清水はその位牌を一つ一つ確認する。冴優には名前を読む暇もなかったが、清水はその中の一つで指を止めた。

「堂島きく、昭和二十八年没」清水は小さく読み上げる。「…奥さんだな」

「六年前、ですね」冴優も続ける。

「綾奈さんの兄が廃人になったのも六年前。来栖の薬が村に流れたのが六年前だとすれば——」

「堂島の妻も、その薬で死んだ可能性がある」

二人は考え込むように黙り込む。ただ、仏壇の線香の匂いが、静かに漂っている。

もし堂島源蔵が、妻を来栖の密売薬物で失っていたとしたら。

そして同時に、その来栖に弱みを握られ、密売ルートの共犯者として村を提供させられていたとしたら。

その屈辱と悲しみと怒りが、六年間積み重なったとしたら。

冴優の胸に、重いものが落ちてきた。



——————



午前中の残りを冴優は一人で過ごす。清水は田辺巡査と共に村の周辺を調べに行き、冴優には「少し歩いてこい。頭を冷やせ」指示とも、配慮とも取れる言葉に大人しく従う。

冴優は村を歩きながら、自分の内側を観察した。刑事として、感情を持ち込んではいけないとわかっている。しかしこの村に来てから、自分の感情の動きが気になってしまう。

堂島源蔵に対して——動機があると知った瞬間から、冴優の中に「犯人はこの男だ」という確信が芽生えていた。清水に何度も「まだだ」と言われながら、それでもその確信は消えない。なぜか。

冴優は歩きながら、その「なぜ」を解こうとした。

妻を薬で失った。来栖に支配されていた。六年間の怒りが爆発した——それは確かに強い動機だ。しかし清水が言う通り、動機は犯人を決めない。この村には、来栖に恨みを持つ人間が他にもいる。

では、なぜ冴優は堂島を犯人だと思いたいのか。



——思いたい。



その言葉が、冴優の頭の中で引っかかった。思いたい——つまり、それは純粋な推理ではなく、感情が入っている。冴優は自分の中を少し深く覗いた。

綾奈だ、と気づいた。

遙堪綾奈が犯人でないことを、冴優は望んでいる。彼女が来栖を憎んでいることはわかった。動機は十分だ。機会もあったかもしれない。しかし冴優は、昨日の石段での会話を思い出すと——あの目を、あの声を思い出すと——彼女が犯人であることを認めたくない自分がいる。

だから、代わりに堂島を犯人だと思いたがっている。

冴優はそこまで考えて、立ち止まった。

村の外れ、川沿いの道。増水した川が目の前を流れている。濁った水の音が、思考の隙間を埋めるように鳴り続けている。

三年間刑事をやってきて、こんなことは初めてだった。捜査対象の人間に感情を持ったことが。否、正確には——それほど短い時間で、それほど強く何かを感じたことが。

冴優は自分がまだ若いことを知っていた。経験が足りないことも。しかし、この感情は経験の問題ではない気がした。もっと根本的な何かに触れてしまった気がする。

綾奈の「怖かった」という言葉。

憎しみと怖さは別物です、と彼女は言った。憎んでいても、手が出せない人間がいる。それは弱さではなく——何だろう。冴優にはうまく言語化できなかった。しかし、その言葉の重さだけは伝わっていた。

川の向こうの山が、霧の中に消えていく。

冴優は深呼吸をする。感情は持っていい。しかし、感情に引きずられてはいけない。清水が言いたかったのはそういうことだ。感情を持ちながら、それでも公平に見る。それが刑事の仕事だ。

わかっている。わかっているが、難しい。

冴優は踵を返して、村に戻る。



——————



昼を過ぎたころ、冴優は再び神社の石段を上る。綾奈がいるかもしれないと思ったわけではない。ただ、あの祠の前の静けさが、今の自分に必要な気がしたのだ。

しかし石段を上りきると、綾奈はいた。

今日は祠に向かっておらず、石段の一番上に腰を下ろして、村を見下ろしていた。霧の中に浮かぶ屋根を、遠い目で眺めている。冴優の足音を聞いても、振り返らなかった。

「また来たんですね」綾奈は言う。

「邪魔でしたか」

「いいえ」

冴優は昨日と同じように、少し間を空けて隣に座った。二人で村を見下ろした。しばらく、言葉はなかった。

その沈黙が、冴優には不思議と苦ではなかった。普段の冴優なら、沈黙を埋めようとする。言葉で何かを確認しようとする。しかし今は違う。この沈黙の中に、言葉より多くのものが流れている気がしたのだ。

「昨日の話の続きを聞かせてもらえますか」冴優は問うた。「嫌なら構いません。ただ——あなたのことを、もう少しわかりたい」

綾奈はしばらく霧を見ていた。が、

「わかりたい、というのは刑事として、ですか」

冴優は正直に答えようとした。刑事として、という言葉を簡単に使うことへの躊躇いがあった。

「最初はそうでした。でも今は、刑事としてだけじゃないかもしれない」

綾奈は冴優を見た。何かを確かめるような目だった。それから、また霧の方へ目を戻す。

「兄の話をします」

その言葉は、決意のように聞こえた。





——————





遙堪透は、綾奈より五つ上の兄だった。

二人は県の南部の町で育ち父は大工、母は町工場のパート。裕福ではないが、不自由もない暮らしだった。透は器用な男で、父の仕事を手伝いながら、地元の工務店に就職した。綾奈が高校を卒業するころには、透はすでに職人として独り立ちしていた。

「兄は、真面目な人でした」綾奈は言う。その声に、懐かしさと痛みが同居していた。「酒も飲まない。煙草も吸わない。仕事が終わると家に帰って、母の手伝いをする。そういう人だった」

「そんな人が、なぜ薬に」

「工事現場で怪我をしたんです。腰を痛めて。最初は病院で痛み止めをもらっていた。でも保険の関係で、いつまでも病院に通えなかった。そのときに——誰かが別の薬を勧めた」

冴優は黙って聞いていた。

「最初は痛みが楽になる、と言われて。市販のものより効くが、少し手に入りにくいだけだ、と。兄は信用してしまった。真面目すぎる人だったから、そういう嘘に慣れていなかった」

綾奈の声が、少しだけ揺れる。しかし彼女はそれを押さえた。感情を外に出すことを、長年訓練で抑え込んできた人間の抑え方だった。

「気づいたときには、もう抜け出せなかった。兄は私に隠していた。心配させたくなかったんでしょう。でも半年もしないうちに、様子がおかしくなって——」

綾奈は一度、深呼吸をする。

「あの日のことを、今でも覚えています。仕事から帰った兄が、玄関先で崩れ落ちた。白目を剥いて、口から泡を吹いて。私が最初に見つけました。救急車を呼んで、病院に運んで——でも、兄の脳はもう、正常には戻らなかった」

冴優は無意識に息を止めてしまっていた。

「薬の名前は後から調べました。医療用の強い睡眠薬と、別の何かを混ぜたものだったらしい。それを誰が売っていたか——兄の知人から話を聞いて回った。半年かかりました。そして最終的に辿り着いた名前が、来栖恭一郎でした」

「来栖が直接売っていた、ということですか」

「直接ではないと思います。来栖さんは中央の人間ですから。でも、ルートを作っていた。お金の流れを管理していた。地方の小さな村や町に、安定したルートを作って、そこから薬を流していた。来栖さんにとって、兄は大勢の中の一人に過ぎなかったと思う」

大勢の中の一人。

その言葉が、冴優の胸に刺さった。来栖の立場から見れば、そうだったかもしれない。しかし綾奈の家族にとっては——透にとっては——それが全てだった。

「警察には届けなかったんですか」

綾奈は冴優を見る。その目に、初めて苦いものが混じったように感じた。

「届けました。でも証拠がなかった。来栖さんは中央の人間で、私は地方の工務店の娘です。警察は動いてくれなかった」

警察が動かなかった…。自分が所属する組織への言葉として、それは胸に重くのしかかる。しかし反論はできなかった。綾奈の言葉には、嘘がなかったから。

「それから、私は一人で調べ続けました。来栖さんが地方視察に来るたびに、後を追いかけた。証拠を集めようとした。でも、賢い人でした。証拠の残し方を知っていた。六年間、私は何も掴めなかった」

「今回、ここへ来たのは」

「来栖さんがここへ来ると聞いて。もしかしたら、この村に何かがある。この村を使って密売をしているなら、証拠があるかもしれないと思って」

「証拠を——掴むためだけに?」

綾奈は少し間を置き、

「最初は、そのつもりでした」

「最初は?」

「来栖さんの顔を見たとき——正直に言います。手が震えました。六年間、この男のせいで兄は廃人になった。この男のせいで、父は酒に溺れて死んだ。この男のせいで、母は病気になった。その男が目の前にいる。手が届く場所にいる」

綾奈の声が低くなり、

「何かしようとした、ということですか」

冴優は静かに問う。

「わかりません」綾奈は正直に伝える。

「何をしようとしていたのか、自分でもわからない。ただ、近づこうとした。宿の前まで行きました。でも、足が止まった」

「なぜ」

「兄の顔が浮かんだんです。今の兄の顔じゃなくて——昔の、普通だった頃の兄の顔。仕事が終わって家に帰ってきて、玄関先で笑う顔。あの人は、私に人を傷つけてほしいとは思わないと思った」


———静寂。


遠くで鳥が鳴いた。霧の中を、鳴き声だけが通り過ぎていく。冴優は何も言えなかった。何かを言おうとすると、言葉が感情に追いつかない気がしたからだ。

「だから、私は手を出さなかった。宿の前から引き返した。そして翌朝、来栖さんが死んでいたと聞いた」

「それを聞いたとき、どう思いましたか」

綾奈は少し考え、

「わかりません、というのが正直なところです。ほっとした部分もある。怖い部分もある。あと——」

「あと?」

「悔しかった」綾奈は静かに言う。「誰かが私の代わりに来栖さんを殺した。その人は、私よりも強かった。あるいは、私よりも深く傷ついていた。そう思うと、自分がひどく小さく感じた」

冴優はその言葉を、胸の中で何度も転がす。悔しかった。誰かの方が深く傷ついていた——。

それは、復讐を果たせなかった悔しさではなかった。もっと複雑なものだ。自分の痛みが、他の誰かの痛みより小さかったのではないかという、奇妙な敗北感。いや、敗北感とも違う。自分だけが特別に傷ついていると思っていたのに、同じ傷を持つ人間が他にもいたという——孤独の終わりに似た、複雑な感情。




——————




夕方、清水が戻ってくる。清水は珍しく疲れた顔をしていた。田辺巡査と共に村の周辺を歩き回ったが、堂島源蔵の行方は掴めなかった。山の中へ入ったのか、あるいは誰かの家に匿われているのか。

冴優は綾奈との会話を詳細に報告する。清水は聞きながら、煙草を一本吸い終え、

「透という兄のことが、事件の核心に近い気がします」冴優は言う。「来栖の密売で廃人になった。それは綾奈さんの動機であり、同時に他の誰かの動機でもある可能性がある」

「堂島の妻の死と、重なるな」

「はい。来栖の薬で被害を受けた人間が、この村には複数いる。綾奈さんは外から来た。でも、村の中にも同じ傷を持つ人間がいるとしたら——」

「動機は、もっと広がる」

清水は窓の外を見た。夜の霧が、また濃くなっていた。

「綾奈さんを、信じますか」冴優は聞く。

清水は少し間を置き、「信じる、信じないは別の話だ。彼女の言葉に嘘が混じっていないかどうかは、別の角度から確認する。しかし——」

「しかし?」

「宿の前まで行って、引き返した、という部分は——本当だと思う」

「なぜそう思うんですか」

清水は少し考えてから、

「嘘をつく人間は、話を単純にする。引き返した理由を、もっとシンプルに説明しようとする。でも彼女は、兄の顔が浮かんだと言った。それは——作れる話じゃない」

冴優は頷き自分も同じことを感じていた。

「ただ」清水は続ける。「引き返したことと、後から戻ったことは別だ。一度引き返して、また戻った可能性はある」

「それは——」

「可能性の話だ。今は排除できない」

冴優は黙った。清水の言う通りだ。綾奈を信じたい気持ちと、証拠に基づいて判断すべきという刑事としての義務が、胸の中で引っ張り合っていた。



——————



その夜、冴優は眠れなかった。

布団の中で天井を見上げながら、様々なことを考えてしまう。事件のこと。綾奈のこと。清水のこと。そして、自分自身のこと。

冴優が刑事になったのは、正義感からだった。少なくとも、そう思っていた。しかし霧無村に来て三日目の夜、冴優はその正義感の輪郭が、思ったよりぼんやりしていることに気づいていた。


———正義とは何か。


来栖恭一郎は死んだ。薬の密売に関与していた男だ。多くの人間を傷つけた男。その男を殺した人間は——正義の側か、悪の側か。

法律的には、殺人を犯した側が悪だ。それは疑いようがない。しかし——感情的には。人間として。

堂島源蔵が犯人だとして、その男は妻を薬で失い、六年間屈辱に耐え、ついに手を下した。それは悪か。

冴優は答えを出せなかった。

こんなことを考えてはいけない、とも思った。刑事は法を執行する人間だ。個人的な感情で法を曲げることはできない。それをしたら、秩序は壊れる。

しかし清水は言っていた。「真実を受け止められるかどうかと、向き合うかどうかは別の話だ」


———向き合う。


向き合うということは、感情を閉め出すことではないのかもしれない。感情を持ちながら、それでも正しく動くことが——向き合うということなのかもしれない。

冴優はそこまで考え、自分が少し清水に近づいた気がした。気のせいかもしれないが。

眠れないまま、冴優は起き上がる。窓を開けると、夜の霧が部屋の中に流れ込んできた。冷たかった。しかし、その冷たさが今の冴優には心地よかった。

村は暗く街灯が一つあるが、霧の中では大した役に立っていない。遠くで川の音がする。どこかで虫が鳴いている。

———冴優は目を細めた。

霧乃屋の裏手あたりに、人影があった。

一人ではない。二人、いや三人か。霧で輪郭がぼやけていて、はっきりとは見えない。しかし確かに動いている。

冴優は反射的に上着を掴んだ。



——————



廊下に出ると清水の部屋の前を通った。扉の隙間から、灯りが漏れていた。清水も眠れていないのか——冴優はノックしようとして、やめる。今は一人で確かめたかった。

宿の裏口から外に出ると、夜の冷気が全身を包んだ。霧が深く、数メートル先が見えない。冴優は足音を殺して、さっき人影を見た方向へ近づく。

声が聞こえる。

低い、男の声。言葉はほとんど聞き取れない。しかし、複数の人間が話しているのはわかった。

冴優はさらに近づく。霧の中に、人の形が浮かぶ。三人。一人は大柄で、着物を着ている。もう一人は細身の男。三人目は——小さい。女か、老人か。

「それは無理だと言っておる」大柄な男の声が、かろうじて聞き取れた。「今更引き返せる話じゃない」

「しかし、このままでは——」細身の男が言った。

「わかっとる」大柄な男が遮り「だからこうして来た。お前が心配することじゃない。俺が全部、引き受ける」

冴優は息を潜めた。心臓が速く打っている。

大柄な男——着物の男——堂島源蔵ではないか。

しかし三人目の声が聞こえたとき、冴優は硬直した。

女の声だった。細い、しかしはっきりとした声。

「でも、あなたは——」

その声を、冴優は知っていた。

遙堪綾奈。

冴優の足が、地面に縫い止められる。

綾奈が、堂島と——会っている。夜中に、誰も見ていないところで。


———なぜか。


冴優の頭の中で、様々な可能性が高速で走った。綾奈は堂島を知っていた。来栖の密売に関わる人間として。あるいは——堂島と共謀して、来栖を殺した?

違う、と冴優の感情が叫んだ。しかし感情は証拠ではない。

もう一歩、近づこうとしたとき、背後で音がした。

「冴優」

低い声。清水だった。

振り返ると、清水が霧の中に立っていた。眠れていない顔ではなく、最初から眠るつもりなどなかった顔をしていた。

「知ってたんですか」冴優は囁く。

「予想はしとった」清水は静かに言う。「今夜、誰かが動くと思っていた」

「あの三人——堂島と、波多野と、綾奈さんです」

「そうだな」

「追いますか」

清水は少し間を置く。その間が、冴優には長く感じられた。

「今夜は見ていろ。聞いていろ。動くな」

「でも——」

「今夜動いても、崩せない。証拠がない。追い詰めたら、全員口を閉じる。もう少し積み上げてから、だ」

冴優は歯を食いしばった。綾奈が共犯者かもしれない。それを見逃している——という焦りと、清水の言葉の正しさが、胸の中でぶつかっていた。

霧の中で、三人の影はやがて散った。それぞれの方向へ、音もなく消えていくり

残ったのは、夜の冷気と、遠くの川の音だけだった。




——————




翌朝、冴優は清水に問い詰めた。

「清水さんは昨夜から、綾奈さんが堂島と繋がっていると知っていたんですか」

清水は朝食の箸を置き、

「知っていたわけじゃない。しかし——綾奈さんがこの村に来た理由が、証拠集めだけとは思えなかった。来栖への個人的な恨みを持つ人間が、単独でここまで動くには、何か別の繋がりが必要だ。誰かとの連絡があったはずだと思っていた」

「堂島が綾奈さんを呼んだ、ということですか」

「あるいは、綾奈さんが堂島に連絡を取った。来栖の密売を調べる中で、堂島の存在を掴んだ可能性はある。同じ被害者として、情報を共有していた」

「でもそれは——共犯関係にもなり得る」

「なり得る」清水はあっさりと言い「ただ」清水は続ける。「昨夜の会話で、俺が気になったのは別のことだ」

「何ですか」

「堂島が言った。『俺が全部引き受ける』という言葉だ」

冴優は昨夜の言葉を思い出す。俺が全部引き受ける——。

「それは、犯行を認めているということ、ですか」

「そう取ることもできる。しかし——もし堂島が犯人でないなら、あの言葉は別の意味になる」

「どういう意味ですか」

清水は窓の外を見た。今日は少し霧が薄かった。山の稜線がうっすら見えている。

「犯人を庇っている、ということだ」

冴優は息を呑んだ。

「堂島が犯人を知っていて、それを隠すために自分が疑いを引き受けようとしている——?」

「可能性の一つだ。動機は十分にある。しかし——犯行のタイミングや手口を考えると、堂島が直接手を下せたかどうかは、まだ確認が取れていない部分がある」

清水の声は静かだった。しかしその静けさの中に、何か緊張したものが混じっていた。普段、感情を見せない清水が——何かを感じている。

冴優はそれに気づいた。

「清水さん、何か掴んでいることがあるんじゃないですか」

清水は冴優へ視線を向ける。その目に、珍しく何かが揺れていた。

「昨日、波多野医師のところで——少し話が聞けた。来栖の密売に関わっていた人間が、この村にもう一人いる可能性がある」

「誰ですか」

清水は少し間を置き、

「田辺巡査だ」

冴優は言葉を失った。

駐在の田辺巡査。人の良さそうな、腹の出た中年の男。最初から、どこか村人寄りだった。口止めをされていた可能性があると清水は言っていた。しかしそれが、密売への関与だったとは——。

「田辺さんが、来栖と繋がっていた?」

「波多野によると、田辺は六年前の件を揉み消した人間の一人らしい。村の中で起きた薬物中毒を、事件として上に報告しなかった。代わりに、何かを受け取った可能性がある」

「それは——」

「共犯と見ることもできる。しかし田辺も、来栖に弱みを握られた被害者と見ることもできる。どちらかは、まだわからない」

冴優は頭が痛くなってきた。この事件は、単純な「誰が来栖を殺したか」という問いではない。来栖を中心に、傷つけられた人間たちの網が広がっている。そしてその網の一つ一つが、動機を持っている。

「清水さん」冴優は続けて「この事件、本当に解けるんですか」

清水は少し考え

「解ける」

「なぜそんなに確信できるんですか」

「完全な犯罪というものはない。どんなに巧みに隠しても、人間は何かを残す。感情を持っている限り、必ず痕跡が出る。焦らずに積み上げれば、必ず見えてくる」

清水の言葉は、いつも通り静かだった。しかし今日は、その静けさの中に何か確固としたものがあった。長年の経験から来る、揺るぎない確信のようなものが。

冴優はその確信に、少しだけ縋りたい気持ちになってしまう。



——————



午後、冴優は一人で綾奈を訪ねた。清水の許可を取った上で、今度は正面から向き合おうと思ったからだ。

綾奈は村外れの小さな一軒家に滞在していた。親戚の空き家を借りているらしく、古びているが、小ぎれいにしてある。縁側に腰掛けて、何か縫い物をしていた。冴優の姿を見て、手を止め、

「昨夜のことを聞きに来ましたか」綾奈は先に言った。

冴優は少し驚き「見ていたんですか」

「気づいていました。霧の中でも、人の気配はわかります」

「では——全部聞かれていたと思ってください」

綾奈は縫い物を膝に置いた。「構いません」

「堂島さんと、いつから連絡を取っていたんですか」

「三年前です」

「私が来栖さんの足取りを追う中で、霧無村という地名が出てきた。調べていくうちに、堂島という人の名前が浮かんだ。手紙を出したんです。来栖恭一郎について知っていることを教えてほしい、と」

「堂島さんは応じた?」

「最初は返事がなかった。でも、二通目を出したときに、短い返事が来ました。会いに来い、と」

冴優は聞き続ける。

「霧無村に来て、堂島さんと話しました。堂島さんも来栖さんに傷つけられていた。奥さんを薬で失っていた。私と同じでした——いや、堂島さんの方が長く、深く傷ついていた」

「その後も連絡を取り続けたんですか」

「年に一度か二度。お互い、情報を共有していました。来栖さんの動向について。いつか証拠を掴んで、表に出そうと。それが目的でした」

「昨夜の会話では——堂島さんが『全部引き受ける』と言っていた」

綾奈は目を伏せ、

「聞いていたんですね」

「はい。あれはどういう意味ですか」

綾奈は少し間を置く。縫い物の布を、指でなぞっている。

「堂島さんは、自分が犯人だと思わせようとしている」

「思わせようとしている——ということは、犯人じゃないんですか」

綾奈は顔を上げ冴優をまっすぐ見る。

「堂島さんは来栖さんを殺していません」

「どうしてそう断言できるんですか」

「昨夜、堂島さんから全てを聞きました。来栖さんが死んだ夜、堂島さんはどこにいたか。証人がいます。複数の」

「誰ですか」

綾奈は少し躊躇った。が、冴優の目を見て、決めたようだった。

「お蔦さんと——もう一人、村の人間です。その夜、堂島さんは家を出ていない。お蔦さんが一晩中傍にいた」

「なぜそれを早く言わなかったんですか。堂島さんが姿を消した理由は?」

「庇っているんです」

「誰を」

綾奈はまた黙った。今度は、昨日までとは違う沈黙だ。何かを抱えている重さが、その沈黙から伝わってくる。

「綾奈さん」冴優は静かに言った。「あなたは今、誰かを庇っていますか」

綾奈の目が、揺れる。

冴優はその揺れを見た。長い間、見た。

「正直に話してください」冴優は言う。「私はあなたを——」

言いかけて、止まった。私はあなたを信じている、と言おうとした。しかしそれは、刑事の言葉として適切か。

しかし冴優は続けた。

「私はあなたを信じています。だからこそ、正直に話してほしい。隠し続けることは、あなた自身を守ることにはならない」

綾奈は長い間、冴優を見ていた。

霧無村の午後の光が、縁側に差し込んでいた。今日は少し霧が薄く、光が柔らかかった。その光の中で、綾奈の顔が少しだけほぐれた。

「波多野先生が——」

綾奈は小さく、

「波多野先生が、来栖さんを殺したと思っています」

冴優は息を呑む。

「なぜ」

「波多野先生も、来栖さんに傷つけられていた。先生の弟が、来栖さんの密売薬物で死んでいます。六年前に。しかも——先生は来栖さんに弱みを握られていた。薬の処方に関する不正を。それで六年間、来栖さんに利用され続けていた」

「医療用の睡眠薬を、来栖に渡していた?」

「そう思います。波多野先生は医者だから、薬を手に入れることができる。致死量の睡眠薬も。そして——先生は来栖さんの体のことを知っていた。どれだけの量で、どれだけの時間で死ぬか、計算できる。トリックを作れる」

冴優は頭の中で急速に組み立てる。波多野医師。来栖の死因は睡眠薬の過剰摂取。医師であれば、致死量の計算ができる。死亡時刻をずらすための方法も知っている。湯呑みを持ち帰ることも——。

「堂島さんは、それを知っている?」

「知っています。だから自分が疑われることで、波多野先生を守ろうとしている。波多野先生は——先生の弟の死に対して、ずっと自分を責めていた。来栖さんへの怒りも、自分への怒りも、どちらも抱えていた。堂島さんは、そんな先生を見てきた。だから——」

綾奈は言葉を切った。

「だから、庇うんですね」冴優は静かに問うた。

「はい」


———沈黙。


縁側の光が、少し傾いた。夕方が近づいている。

冴優は立ち上がった。清水のところへ戻らなければならない。しかし、その前に一つだけ言わなければならないことがあった。

「綾奈さん」

「何ですか」

「今話してくれたこと——正しかったと思います。難しい決断だったと思う。でも、あなたは正しい方を選んだ」

綾奈は答えなかった。しかし、その目に何かが浮かんだ。涙ではない。もっと静かな、何か。

冴優は縁側を降りて、歩き出す。

背後で、綾奈が小さく言った。

「刑事さん」

「何ですか」

「兄に、会いに行こうと思います。久しぶりに。もう顔もわからないかもしれないけれど」

冴優は振り返らなかった。しかし足を止めた。

「行ってください」冴優は言った。「きっと、わかります」

それだけ言って、冴優は歩き続けた。

霧無村の夕暮れが、少しずつ色を変えていた。西の山の稜線が、今日は赤く染まっていた。

この村に来て初めて、霧が少し薄れていた気がする。

まだ晴れてはいない。しかし、晴れる予感が、その赤い空の中にあった。

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