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散りぬる霧に  作者: masaya
散りぬる霧に
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2章 閉じた村の声

翌朝、霧は晴れていない。

猿島冴優が目を覚ましたとき、窓の外は白一色であった。山の輪郭すら見えず、まるで村ごと綿の中に包まれているようだ。布団から出ると、床板が冷たく身震いしながら廊下に出る。と、宿の主人の女房らしき中年の女が、目を伏せたまま足早に通り過ぎていく。おはようございます、と声をかけたが、返事はない。

食堂に降りると、清水雅哉がすでに座っていた。味噌汁と飯と漬物という質素な朝食の前で、清水は手帳を開いていている。煙草はまだ吸っていない。朝の一本目を吸う前に、清水は必ず何かを書く。それが習慣らしい。

「おはようございます」

「….座れ」

冴優は向かいに座る。運ばれてきた朝食に箸をつけながら、昨夜のことを頭の中で整理した。遙堪綾奈。波多野医師。堂島源蔵。それぞれの目に浮かんだものを、冴優なりに反芻していると、

「今日の段取りを話す」清水は手帳から目を上げる。「午前中に村人への聞き込みをする。俺とお前で手分けして回る。ただし——」

「ただし?」

「聞くだけでいい。責めるな、追い詰めるな、答えを急かすな。相手が話したいことだけ話させろ。今日は情報を集める日だ。絞る日じゃない」

冴優は黙って頷く。それが不満であることは、清水にもわかっていただろう。しかし清水は気にしない様子で、手帳に目を落とす。

情報を集める日。

冴優にはその慎重さが、もどかしかった。来栖恭一郎は昨夜死んだ。時間が経てば経つほど、証拠は薄れる。記憶は曖昧になる。犯人は逃げる——とは言っても、この霧無村から逃げ場はほとんどないのだが。

しかし清水がそう言うなら、従うしかなかった。



——————



聞き込みは難航した。

冴優が最初に訪ねたのは、霧乃屋から最も近い農家。六十代とおぼしき夫婦が住んでおり、夫は畑仕事に出ており妻だけが家にいた。

「来栖さんのことで、少しお話を聞かせていただけますか」

妻は土間に立ったまま、冴優へと視線を向ける。その目は最初から固く閉じられているようだった。

「存じません」

「来栖さんが村に来たことはご存知ですよね。昨日亡くなられた——」

「存じません」

同じ言葉。表情も変わらない。まるで機械のように繰り返されるだけ。冴優は次の言葉を探したが、その間に妻は静かに戸を閉めた。

次に訪ねた家でも同じだった。その次も。その次も。

村人たちの態度は一様だった。冴優の顔を見た瞬間に表情が固まり、「存じません」か「わかりません」か「何も」という言葉を返して、会話を終わらせる。追いすがろうとすると、無言で戸を閉める。怒鳴ったり、あからさまに敵意をむき出しにするわけではない。ただ、静かに、完璧に、拒絶する。

それが余計に不気味と感じる。

怒鳴られるほうがまだ楽だ、と冴優は思う。感情をぶつけてくる相手には、こちらも感情で対応できる。しかしこの静けさは、どこにも引っかかりがない。石の壁に向かって話しているように感じる。

三時間ほど歩き回ったが、冴優が得たものはほとんどなかった。

来栖が村に着いたのは一昨日の夕刻だということ。霧乃屋に一人で泊まっていたこと。到着した夜に堂島源蔵と話していたらしいこと——これは、ある老人がうっかり口を滑らせたようにこぼしたものだった。老人はすぐに気づいて口を閉じたが、冴優はしっかり聞き取っていた。

昼過ぎに宿に戻ると、清水はすでに食堂で座っていた。

「どうだった」

冴優は苦い顔で座り、

「壁でした。誰も何も話さない。まるで口裏を合わせたみたいに」

清水は静かに言った。「昨夜のうちに、誰かが村人たちに口止めをした」

「誰がそんなことを——」

「堂島源蔵だろうな」


清水は自分が回った結果を話しだす。

清水の聞き込みも、大筋では冴優と変わらなかった。村人たちは口を閉ざしている。しかし清水は三つのことを掴んでいた。

一つ目。来栖恭一郎は今回が初めての霧無村訪問ではなかった。と、いう可能性だ。ある農家の軒先に干されていた菊の花束が、明らかに昨日今日のものではない。清水はそれを見て、村の古老を訪ねた。九十近い老婆で、聞き込みを拒否するには年を取りすぎていた。老婆は「あの人はもう二度目だ」とつぶやき、すぐに黙る。来栖はこの村に以前にも来ていたようだ。


二つ目。来栖が死んだ夜、霧乃屋の近くで人影を見たという者が一人だけいた。子供だった。小学生くらいの男の子で、夜中に便所に起きたときに、宿の裏口あたりで誰かが動いているのを見たという。「大人の男の人だった」とだけ言って、親に引っ張られて去ってしまった。


三つ目。来栖の荷物の中にあった手帳。清水は昨夜、中身を確認していた。そこに記されていた人名の一つに、見覚えがあった。県の薬務課に勤める官僚の名前だ。薬の流通を管理する部署の人間が、なぜ来栖の手帳に。

「….薬か」冴優は思わず口にする。

「まだ繋げるには早い」

しかし、清水は慎重に、

「….だが、頭に置いておけ」



——————



午後、冴優は一人で村を歩いている。清水は波多野医師のところへ再び足を運んでいた。

霧無村は小さい。家と家の間隔が広く、田んぼと畑が家々の間に挟まっている。中心部に霧乃屋と小さな商店、そして神社がある。その神社の裏手に、少し古びた石段があり、その先に小さな祠があった。冴優は何となくその石段を上ると、

祠の前に、人がいた。

遙堪綾奈であった。

彼女は石畳の上に膝をつき、祠に向かって手を合わせている。冴優の足音に気づいていないのかまったくこちらを気にしていない。雨はすでに上がっていたが、木々の葉から落ちる雫が、絶え間なく周囲を濡らしている。綾奈の肩にも、細かな水滴が積もっていた。

冴優は声をかけるべきか迷った。が、綾奈の横顔に何かを感じる。祈っているというより、耐えているような顔。眉がわずかに寄り、唇が薄く結ばれて。目は閉じているが、その閉じ方が——何かに抗っているように。

「綾奈さん」

綾奈は驚かなかった。ゆっくりと立ち上がり、冴優を振り返る。

「刑事さん」

「少し話せますか」

綾奈は少し考えてから、石段の端に腰を下ろす。座れ。と、いうことだろう。冴優は少し間を開けて隣に座った。

しばらく、二人の間に沈黙が流れる。木々の間から、村の屋根が霧の中に浮かんでいるのが見えた。

「来栖さんとはどういう関係でしたか」冴優は静かに問うた。昨日とは違う聞き方を意識する。責めるな、追い詰めるな——清水の言葉を思い出しながら。

綾奈はすぐには答えなかった。膝の上に手を置き、その手を見つめているだけ。細い指だった。

「兄が、いるんです」綾奈はぽつりと口にする。

「今は施設にいます。もう、ほとんど私のことも分からない」

「施設、というのは」

「精神科の病院です。六年前から」

冴優は黙って聞いた。

「兄は、薬を使っていました。自分で望んでそうなったわけじゃない。誰かに勧められて、気づいたときには抜け出せなくなっていた。その薬が、どこから来たのか——」

綾奈はそこで止まった。

冴優の胸に、何かが落ちてきた事を感じる。昨日から積み重なっていたものが、一つの形を取り始めるような感覚だった。

「来栖さんが関わっていた、と?」

綾奈は答えなかった。しかしその沈黙は、肯定だった。

「証拠はあるんですか」

「証拠」綾奈は静かに繰り返した。「証拠があれば、六年前に動いていました。私が持っているのは、確信だけです」



確信。



冴優はその言葉の重さを感じた。六年間、証拠のない確信を抱えて生きてきた女の重さを。

「それで、ここへ来た?」

「来栖さんが村に来ると聞いて。ダム計画の視察と言っていたけれど——私には、別の目的があると思えた。この村を通る、何かのルートを確認しに来たんだと」

「ルート」

「薬の、ルートです」

冴優は息を呑んだ。それを悟られないように、ゆっくりと呼吸する。

「綾奈さん」冴優は言った。「あなたが昨夜、来栖さんに会いに行ったということはありますか」

綾奈の目が、まっすぐ冴優を見た。

「会いに行こうとしました。でも行けなかった」

「なぜ」

「怖かったから」綾奈は静かに言った。「憎しみと、怖さは、別物です。会ったら何をするかわからなかった。だから行けなかった」

それは——本当のことのように聞こえた。冴優には嘘を見抜く自信はまだなかった。しかし、この言葉の質感は、作られたものではない気がした。



——————



夕方、清水と合流した冴優は、綾奈との会話を報告する。清水は黙って聞いていた。

「薬のルート、か」清水は呟く。

「清水さん、やっぱり来栖は麻薬の密売に絡んでいるんですかね」

「可能性は高い。波多野先生のところで、もう少し話が聞けた」

波多野は今日も慎重だったが、清水が時間をかけて話し込む中で、少しだけ口が緩んだ。来栖が以前にも霧無村を訪れていたこと、そしてそのとき、村の若者の一人が薬物中毒で倒れる事件があったこと。それは表沙汰にならずに処理された。誰が処理したのか——波多野はそこまでは言わなかったが、清水には察しがついた。

「…堂島源蔵、ですか」冴優が言った。

「おそらく。あの男は村の顔役だ。表沙汰になれば村の評判に傷がつく。だから揉み消した。しかしその引き換えに、来栖に何かを握られた可能性がある」

「弱みを握られて、密売のルートを黙認させられていた」

「あるいは、もっと積極的に協力させられていた可能性もある」

冴優は腕を組み、なにやら絵が見えてきた気がした。来栖は霧無村を麻薬密売のルートとして利用していた。堂島はそれを知りながら、あるいは関与しながら、口を閉ざしていた。そして来栖が再び村に来た——何かを確認するために、あるいは何かを要求するために。

「動機は、堂島さんにありますよね」冴優は言う。

「ある。しかし動機があるからといって、犯人とは限らん」

「でも——」

「冴優」

清水は静かに、しかしはっきりと言った。「お前はもう、堂島が犯人だと決めてかかっとる。そうだろう」

冴優は言葉に詰まった。

「動機がある。機会もあるかもしれない。だからといって、そこで思考を止めるな。本当の捜査はそこからだ。なぜ密室なのか。なぜ薬物なのか。なぜ今夜だったのか。一つ一つ、丁寧に積み上げろ」

清水の言葉は厳しくはなかった。が、冴優の胸には刺さった。

自分は焦っている。答えを早く出したくて、最初に「これだ」と思ったものに飛びついている。清水はそれを見抜いている。

「……わかりました」

「わかったなら、それでいい」清水は立ち上がった。「今夜、もう一度現場を見に行く。鑑識の報告も届いた。一緒に来い」



——————



鑑識の報告書は、思った以上に多くのことを語っていた。

来栖の血液から、睡眠薬の成分が検出され、量は致死量を超えている。外傷はない。死亡推定時刻は、当初の報告より二時間ほど前にずれる可能性があるという。つまり、宿の主人が「いつも通り部屋に灯りがついていた」と証言した時刻には、来栖はすでに死んでいたかもしれない。

「灯りがついていた」冴優は繰り返す。「でも来栖はもう死んでいた?」

「電灯にはタイマーをつけることができる」清水は言った。「あるいは、別の方法で灯りを操作した可能性がある。いずれにせよ、死亡時刻がずれるなら、アリバイの見直しが必要だ」

冴優は頭の中で計算をする。もし死亡時刻が二時間前にずれるなら、その時間帯に来栖の部屋に近づける人物は誰か。

「堂島さんには、その時間帯のアリバイを確認していますか」

「まだだ。明日の朝一番で確認する」

現場の部屋に入ると、昨日より空気が澄んでいた。鑑識が入った後の、整理された感じがある。冴優は窓に近づき、閂を見た。内側からかけられた閂。これをどうやって外側から操作するのか。

清水は部屋の中央に立ち、ゆっくりと回転するように周囲を見渡していた。何を見ているのか、冴優にはわからない。しかし清水の目が何かを追っているのはわかった。

「清水さん、閂のトリックはどう思いますか」

「急くな」清水は静かに言った。「今は見るだけでいい」

冴優は黙りただ、見るだけ。情報を集める。絞り込むのはまだ先だ。

清水は畳に膝をつき、畳の目を、指で撫でている。それから、部屋の隅の柱を調べた。天井を見た。押し入れの中を覗いた。

やがて清水は立ち上がり、冴優へ視線を向け、

「一つ、気になることがある」

「何ですか」

「湯呑みだ」清水は枕元の小卓を指す。「来栖は一人だった。湯呑みは一つしかない。しかし急須には、二人分くらい茶が残っていた痕跡がある。つまり——」

「誰かと一緒に茶を飲んだ」冴優は息を呑んだ。「でも湯呑みは一つしかない。ということは、来た人間が自分の湯呑みを持ち帰った?」

「あるいは、最初から二つあった湯呑みの片方を持ち帰った。証拠隠滅のために」

冴優の心臓が速くなった。来栖を訪ねた人物がいる。そしてその人物は、証拠を消して立ち去った。来栖の茶に睡眠薬を盛ったのも、その人物だろう。

「その人物が犯人ですよね」

「犯人かどうかはまだわからん。しかし、重要な関係者であることは間違いない」



——————




夜、冴優は自分の部屋で手帳を開いた。今日わかったことを、整理して書き留める。

来栖恭一郎は麻薬密売に関与していた可能性が高い。霧無村はそのルートの一部だった。遙堪綾奈の兄は六年前に薬物中毒になり廃人となった。綾奈は来栖への恨みを持ちながら、昨夜は接触できなかったと言っている。堂島源蔵は村の顔役で、来栖と何らかの関係があった。波多野医師は何かを知っているが、話すことをためらっている。来栖の部屋には訪問者がいた形跡がある。死亡時刻は当初の報告より二時間早い可能性。

書き出してみると、糸が多すぎる。どれとどれが繋がっているのか。どれが本筋で、どれが枝葉なのか。

冴優は天井を見上げた。

清水ならこの糸をどう整理するだろう。あの男は感情を見せない。しかし、何かを確実に掴んでいる。冴優にはそれが伝わった。清水が「気になる」と言ったとき——あの男が感情を出すのはそういう瞬間だけだ——それは必ず何かを意味している。

湯呑みの話。

来栖のもとを訪れた人物。その人物は誰か。

冴優は手帳に名前を書き出す。堂島源蔵。波多野医師。田辺巡査。遙堪綾奈。そして、まだ見えていない誰か。

窓の外で、風が鳴った。霧が流れる音のような、低い唸りだった。

翌朝、清水は珍しく早くに冴優の部屋を叩いた。

「起きろ、冴優。動きがあった」

扉を開けると、清水の顔が硬い。いつも感情を見せない男が、明らかに何かを感じている顔をしている。

「何があったんですか」

「堂島源蔵が、今朝から姿を消した」

冴優は目が覚めた。

「逃げた?」

「わからん。ただ、家にいない。奉公人のお蔦という老女が、朝に見当たらないことに気づいたらしい。田辺巡査から連絡が来た」

冴優は急いで支度をしつつ頭の中で何かが動き始める感覚があった。昨日まで静かに積み上がっていたものが、今朝から形を変えようとしている。

「清水さん」冴優は廊下に出ながら言った。「堂島さんが逃げたなら、やっぱり犯人は——」

「まだだ」清水は静かに、しかし確固として言った。「逃げた理由は、一つじゃない。自分が犯人だからかもしれない。しかし、犯人を知っているからかもしれない。あるいは、自分も狙われると感じているからかもしれない」

冴優は黙る。

清水は先に廊下を歩き出す。その背中に、冴優は無言でついて行く。

霧無村の朝は、今日も白かった。しかし昨日より、その白さの中に何かがある気がした。霧が晴れかけているのか、それとも濃くなる前の静けさなのか——冴優にはまだ、わからなかった。

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