一章 霧無村への招待
十月の雨は冷たかった。
県警捜査一課の古びた庁舎を出た猿島冴優は、コートの襟を立てながら空を見上げた。鉛色の雲が低く垂れ込め、街路樹の葉がアスファルトに張り付き、昭和三十四年の秋は、どこか世界全体が湿気を含んでいるように感じる。
冴優が県警に配属されてからまだ三年目。二十六歳。同期の中では最も早く捜査一課に上がったと自負していたが、それがかえって彼を焦らせていた。
早く実績を作らなければ。早く一人前と認められなければ。
その焦りがいつも背中に張り付いて離れない。
「猿島」
背後から声がし振り返ると、清水雅哉が煙草を口の端に咥えたまま立っていた。五十がらみの、いかにも刑事然とした男。頬の肉が削げ、目の下に深い皺が刻まれている。若い頃はさぞ精悍だったろうと思わせる骨格をしていたが、今はその上に年月という名の疲労が重ねられていた。
清水とコンビを組まされてから半年が経つ。最初、冴優は正直なところ不満であった。清水雅哉といえば、一課の中でも異色の存在として知られ、捜査能力は誰もが認める。しかし昇任試験を何度も蹴り、係長への打診も断り続け、定年まで現場の刑事として生きると公言している。上の覚えがめでたいわけではなく、かといって同僚から嫌われているわけでもない。ただ、どこにも属さないような男だった。
そういう男と組まされたとき、冴優は「干されたのか」と、思った。が、しかし半年経って、その見方は少しずつ変わっていた。清水は何かを教えようとするわけでもなく、ただそこにいた。それなのに、清水の隣にいると冴優は自分の粗さに気づかされることが多かった。焦り、思い込み、先走り——そういうものを、清水は言葉ではなく存在で映し出してくる。
「出るぞ。車が待っとる」
それだけ言って清水は歩き出した。説明も、労いも、余計な言葉も一切ない。冴優は慌てて鞄を掴み、その背中を追う。
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霧無村。
その名前を係長から告げられたとき、冴優は正直なところ聞き覚えがなかった。地図で確認すると、県の北部、山脈の懐に抱かれるようにして存在する小さな集落。最寄りの鉄道駅からでも車で一時間以上かかる。人口は三百にも満たない。
そこで昨夜、男が死んだ。
被害者の名は来栖恭一郎。四十八歳。中央省庁に籍を置く官僚で、ダム建設計画の現地視察のために霧無村を訪れていた。発見されたのは今朝の早朝、宿の主人が朝食を届けようとして部屋に入ろうとしたところ、鍵が内側からかかっていたという。不審に思った主人が窓から覗き込むと、来栖は布団の上に仰向けに倒れ、すでに息をしていなかった。
「….密室か」と冴優は車中で無意識に呟いていた。
助手席の清水は窓の外を見たまま、煙草の煙をゆっくりと吐き出し、
「まだそうと決まったわけじゃない」
「でも内側から鍵が——」
「現場を見てから言え」
それきり清水は黙り。冴優も黙る。ワイパーが雨を払い続ける音だけが車内に響く。
清水は窓の外を流れる景色を眺めながら、内心で溜息をついていた。
猿島冴優という男は、悪くない。むしろ、素材だけでいえばこれまで組んできた若手の中でも上位に入る。観察眼はある。記憶力もある。何より、正義というものをまだ信じている。それは刑事として最も大切なものの一つだと清水は思っていた。しかし、それと焦りは別物だ。
三年目の刑事が「早く一人前に」と焦るのは自然なことだ。だが、焦りは判断を曇らせる。先入観を生む。最初に「密室」という言葉が頭に浮かんだとき、人間は無意識にそこへ向かって証拠を集めようとしてしまう。それが罠だ。
清水は長年の経験から知っていた。事件は、刑事が思い描いた絵の通りには動かない。むしろ、最初の絵を疑い続けた者だけが、真実に近づける。
霧無村、か。
清水はもう一度その名を心の中で転がす。名前の響きに、何か引っかかるものがあった。具体的な記憶ではない。もっと古い、曖昧な何かだ。以前に似たような山間の村の事件を担当したことがある。人が少ない場所では、人間関係が密になりすぎる。誰もが誰かのことを知りすぎていて、だから誰も何も話さない。そういう沈黙の重さを、清水は知っていた。
「清水さんは、地方の事件って多く経験されましたか」
冴優が遠慮がちに問うてくる。沈黙に耐えきれなかったのだろう。
「….いくつかな」
「難しいですか、やっぱり」
清水は少し考え、
「都会と違うのは、逃げ場がないことだ。犯人も、被害者も、目撃者も、みんな同じ場所に縛られとる。だから秘密は深く根を張る。引っこ抜こうとすると、根ごと村が揺れる」
冴優は黙って聞いていた。こういうとき、すぐに「なるほど」と返してこないのは悪くない、と清水は感心する。そう、咀嚼しようとしているのだ。
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霧無村への道は、山道に入った途端に細くなった。舗装はされているが、すれ違いもままならない一車線が延々と続く。左手は切り立った崖、右手は深い谷。眼下に見える川は増水しており、濁った水が岩に砕け、白い飛沫を上げていた。
そして霧が立ちこめる。
山の中腹あたりから、霧が出始めていた。最初は薄い膜のようなものが漂っていた程度だったが、高度が上がるにつれてそれは濃くなり、やがてヘッドライトの光が五メートル先で白く溶けるほど。
「こんな場所があるんですね」
冴優は思わず口にする。
「ある」清水は短く答え。「こういう村が、この国にはまだいくらでもある」
何かを含んだ言い方だった。冴優は横顔を盗み見たが、清水の表情は読めなかった。
村の入り口に差し掛かると、道の脇に人影があった。雨合羽を着た中年の男が、傘も差さずに立っている。車が止まると、男は駆け寄ってくるなり、
「県警の方ですか。お待ちしておりました。駐在の田辺です」
田辺巡査は人の良さそうな顔をしていた。五十近い、少し腹の出た男で、敬礼の仕方がどこかぎこちない。長年この村に根を張って生きてきた人間の、のんびりとした空気をまとっていた。が、その目の奥には何か別のものが揺れているように感じる。困惑、とも不安とも取れる、曖昧な翳りだ。
「現場はすぐそこで。ただ——」
田辺は言い淀んだ。
「ただ?」冴優が促す。
「村の衆が、あまりいい顔をしておりませんで。よそ者が来ることを、あまり好まない人たちなもんで」
清水は田辺をまっすぐ視線を向け、
「われわれはよそ者じゃない。刑事だ」
田辺は曖昧に笑って、先に立って歩き始める。
清水は田辺の背中を眺めながら、その「困惑」の質を測っていた。
田辺巡査は嘘をついていない。それはわかる。しかし、全てを話しているわけでもない。「村の衆が好まない」という言い方は、田辺自身の感情を村人全体の感情にすり替えている。つまり、田辺自身もよそ者の介入を望んでいない部分がある。それはこの男が村寄りだからか。それとも、別の理由があるのか。
田辺を責める気にはなれなかった。
駐在というのは難しい仕事だ。警察官でありながら、村人でもある。どちらかを裏切れば、どちらかを失う。その板挟みの中で、この男は何年も生きてきたのだろう。清水にはその苦さが想像できた。
冴優はまだそれがわかっていないだろう。あの若さでわかれというのも酷な話だが。
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宿は村の中心部にある二階建ての木造建築「霧乃屋」という屋号の板が軒先に下がっていた。玄関先に村人が数人集まっており、刑事たちの姿を見ると、蜘蛛の子を散らすように引いていく。冴優はその視線の冷たさに、思わず足を止め、
敵意、というより——恐怖だろうか。何かを恐れているような目だ。
清水は足を止めなかった。ただ、歩きながら村人たちの顔を一人一人、静かに見ていた。老婆が一人、視線を逸らさずに清水を見返した。白髪を後ろで束ね、着古した綿入れを羽織っている。その目は濁っておらず、むしろ妙に澄んでいた。清水はその老婆の顔を記憶の引き出しにしまいこむ。
部屋は二階の奥。鑑識はまだ到着しておらず、田辺が一人で現場を保存していたらしい。扉の前に立った清水は、しばらくその場で動かなかった。扉を、鍵穴を、蝶番を、順番に眺めている。冴優には何が見えているのかわからなかったが、清水の目が何かを確かめているのは分かった。
やがて清水は田辺に目配せし、合鍵で扉を開ける。
部屋に入った瞬間、冴優の鼻を刺激したのは、消毒液に似た、しかしそれとは微妙に異なる匂いだった。薬品の匂い。それと、秋の夜の冷気が閉じ込められたような、淀んだ空気。
来栖恭一郎は、畳の上に敷かれた布団の中で、まるで眠っているかのように横たわっていた。ただし、その顔色は蒼白を通り越して、紫がかっている。唇の端に、乾いた泡の跡。
「苦しんだ様子はない」冴優は眉間に皺を寄せながら口にする。
「ああ」清水は部屋の隅に歩いていき、枕元の小卓を覗き込んだ。湯呑みが一つ。急須が一つ。「眠るように死んでいる」
「毒、ですか」
「波多野先生に聞け。あの先生が最初に診たんだろう」
冴優が窓に近づく。雨戸は閉まっている。試しに開けようとすると、内側に閂がかかっていた。
完全な密室。
「清水さん」
「わかっとる」清水は煙草に火をつけようとして、思い直してしまった。現場では吸わない。それは彼の流儀だった。「トリックがある。必ずある。問題は、この村の誰がそれをやれたかだ」
清水は部屋の中をゆっくりと歩いた。畳の目を見る。壁のシミを見る。天井の板の継ぎ目を見る。窓枠の木材を指で撫でる。
来栖恭一郎。中央の官僚。
こういう男が地方の村に来るとき、その目的は表向きと裏向きの二つがある。それは清水の長年の経験則だった。官僚が「視察」と言うとき、その視察の中身には必ず何かが混じっている。利権、天下り先、あるいはもっと別の何か。
来栖の荷物はまだ部屋に残っていた。鞄の中身は田辺が確認済みだというが、清水は自分の目で見たかった。革の鞄を開けると、書類が数枚、万年筆、そして小さな手帳が入っていた。手帳のページを静かにめくると、数字と、地名と、人名が記されていた。霧無村の名前もあった。そして、清水が見知らぬいくつかの名前が。
これは後で詳しく調べる必要がある。
清水は手帳をそっと元の位置に戻した。まだ触ったことを悟られてはいけない。証拠は証拠として、正しい手順で押さえなければならない。
冴優はまだ窓の周辺を調べていた。熱心なのはいいが、少し目線が近すぎる。木を見て森を見ていない状態だ。しかし、今は何も言わない。気づくまで待つ。それが清水のやり方。
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そのとき、廊下で物音がした。
冴優が振り返ると、扉の隙間から誰かが覗いていた。女だった。年の頃は二十代後半か。色白で、切れ長の目をしている。濡れた黒髪が頬に張り付いていた。まるでこちらを品定めするような、静かな眼差しだった。
「あんた、誰だ」冴優は思わず声を上げる。
女は驚く様子もなく、ただ冴優を見つめ、それから、ゆっくりと口を開く。
「来栖さんが、死んだんですね」
感情のない声だった。悲しみでも、驚きでも、安堵でもない。何かもっと深いところから絞り出してきたような、乾いた声。
「知り合いか」
女は少し間を置いてから口を開く。
「知り合い」彼女は静かに繰り返した。「そう呼べるなら、そうかもしれません」
清水が冴優の肩に手を置いた。落ち着け、という意味だとわかった。
「名前を聞かせてもらえるか」清水が穏やかに問う。
女は清水へ視線を向け、それから冴優は視線を向け、
「遙堪綾奈です」
清水はその名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが小さく鳴った気がした。
遙堪。見慣れない苗字だ。この村の生まれか、あるいは流れ者か。そして彼女の目——来栖の名前を出したとき、あの目は一瞬だけ揺れた。悲しみではない。恨みでも、恐怖でもない。もっと複雑な、長い時間をかけて積み重なってきた感情の色だった。
清水は刑事として三十年近く生きてきた。その中で学んだことがある。人間の目は、訓練された嘘はつける。しかし、その感情の「種類」まで偽ることは難しい。悲しみの演技をする人間の目は、本物の悲しみとは微妙に違う。そして今、綾奈の目にあるものは——演技ではない。
この女は、来栖恭一郎の死を知っていた。
知っていて、今ここに来た。
それは何故か。
清水は表情を変えずに、綾奈に一歩近づき、
「綾奈さん。少し話を聞かせてもらえますか。こちらが落ち着いてからでいい。今夜、時間をとってもらえますか」
綾奈は清水の目をまっすぐに見ている。逃げない目であった。それが清水にはかえって気になっていた。
「構いません」
その一言だけ言って、綾奈は廊下から姿を消した。足音がない。まるで霧の中に溶けるように、いなくなる。
冴優が清水に小声で、
「怪しいですよね、あの女」
清水は答えない。窓の外へ目を向ける。雨は続き、霧無村の空は、昼間でも薄暗い。
怪しい、という言葉は便利すぎる。刑事がその言葉を使い始めると、思考が止まる。あの女が怪しいかどうかより、あの女が何を知っているかを考えなければならない。そして、何を知っていて、それでも話さないでいるとしたら、その理由は何か。
清水は煙草を取り出した。今度こそ、外に出て吸うつもりだろう。
「飯でも食え、冴優。腹が減ってからでは、頭が働かん」
冴優は不満そうな顔をした。まだ現場にいたいのだろう。しかし清水は構わず廊下に出た。
この事件は、一筋縄ではいかない。
それだけは、部屋に入った最初の瞬間から分かっていた。
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夕刻、清水と冴優は村の診療所を訪ねる。
波多野医師は四十代半ば、都会的な物腰の男。白衣は清潔で、言葉遣いも丁寧。しかしこの村の雰囲気とどこかちぐはぐな印象がある。まるで、自分でもここに馴染もうとしていないかのように。
「来栖さんの死因については、まだ断定はできません」「解剖の結果を待つ必要がありますが、外傷はなく、状況から見て何らかの薬物が関与している可能性が高いと思います」
すかさず冴優が問う。
「どんな薬物ですか」
「睡眠薬、あるいはそれに類するものかと。ただ、量と種類によっては——」波多野はそこで言葉を選ぶように間を置き、
「致死量に達した可能性もあります」
「処方できるものですか」
「市販はされていません。医療用の、比較的入手の難しいものだと思われます」
清水は波多野の顔を見ていた。この男は正直に話している。しかし、何か言い淀んでいる部分がある。言葉を選びすぎている。
「先生は」
清水は静かに、
「来栖さんをご存知でしたか。今回の視察より以前に」
波多野の目が、一瞬だけ揺れ、
「いいえ」
短すぎる否定だった。清水はそれ以上は聞かなかった。今日はここまでにする。この男にはまた来る。
診療所を出ると、雨は小降りになっていたが、霧はむしろ濃くなっていた。
冴優が歩きながら、
「波多野先生、何か隠してますよね」
「そうだな」
「追及しなくて良かったんですか」
清水は少し考え、
「一度で全部吐かせようとするな。人間は、追い詰められると嘘をつく。でも、時間をかけて信頼を作ると、自分から話し始める。焦るな」
冴優は黙って歩いた。納得したのか、不満なのか、清水には判断できなかったしするつもりもさらさらない。
しかし、その沈黙の中で冴優が何かを考えていることはわかった。それでいい。考え続ける限り、この若い刑事はまだ伸びる。清水はそう思っていた。
宿に戻ると、帳場の前に初老の男が立っていた。恰幅がよく、着物の上に羽織を重ねており、一目でただの村人ではないとわかる佇まいだった。
「県警の方ですか」男は穏やかに言った。「堂島源蔵と申します。村の者たちの取りまとめをしておりまして」
清水は堂島の手を握りながら、その目を見た。温かみのある笑顔だ。歓迎しているように見える。しかし——その歓迎は、少し完璧すぎる。
「このたびは、大変なことになりまして」堂島は続け、「村の者たちも動揺しております。どうか早期解決をお願いしたい。われわれも全面的に協力いたします」
「ありがとうございます」清水は答えた。
「では、ぜひいろいろとお聞きしたい。改めて時間をいただけますか」
「もちろんです。いつでも」
堂島は深く頭を下げて、夜の霧の中に消えた。
冴優が小声で、
「感じいい人じゃないですか」
清水は宿の引き戸を開けながら、
「感じのいい人間ほど、気をつけろ」
冴優は怪訝な顔をしたが、清水はそれ以上は言わなかった。
感じがいい、ということは、見せたいものだけを見せているということだ。この堂島という男が、村の「取りまとめ」をしているなら——来栖の死に際して、この村が抱えている秘密を、最も深く知っている可能性がある。
霧無村の夜は、深く、静寂が包む。
雨の音だけが、絶え間なく続き、
清水は自分の部屋の窓から、霧に沈んだ村を眺める。
どこかで犬が鳴いた。
それきり、また静寂が戻る。
この村は何かを抱えている。
そして、遙堪綾奈という女は、その何かを知っている。
清水は煙草に火をつけ、
「…..」
煙が窓の外に流れ、すぐに霧に溶けていく。




