二章 二つの声
駐在所の小さな部屋に三人が収まっている。冴優、宮本、そして梶原澄江。梶原隆にはいったん宿に戻って待つよう宮本が丁寧に伝える。「順番にお話を伺います」と。隆は一瞬、澄江を見る。が、澄江は隆を視線にも入れない。隆は頷き、駐在所を後にする。扉が閉まる音が静かに響く。澄江は椅子に座ったまま、まっすぐ前を向いている。膝の上で両手が重なっている。白い手。細い指。爪は短く飾り気がない。働く人間の手だ。と、冴優は思った。家の中で、長年、働き続けてきた手。冴優は向かいの椅子に座り、手帳を開く。
「梶原澄江さん」
「はい」
「本日、自首していただいたことは正式に記録します。しかしその前に——いくつかお話を伺わせてください。よろしいですか」
「ええ」
「まず確認ですが——弁護士を呼ぶことはできます。今すぐでなくても構いません。ご希望があればおっしゃってください」
澄江は少し考え、「——結構です」
「では、始めさせてください」
冴優はペンを持ち澄江を見る。澄江の目は冴優をまっすぐ見ていた。逃げていない目。しかし——どこか遠い目でもあった。ここにいるのにここではないどこかを見ているような。
——————
「事件の夜のことをお聞かせください。十二月十四日、夜の出来事です」
澄江は少し間を置き、話し始める。
「あの夜はいつもと変わらない夜のはずでした。夕食を作り、片付けをして、針仕事をして——そういう夜です。夫は夕食の後、いつものように書斎に行きました。書斎には家族は基本的に入れません。お茶を運ぶときだけ許されていました」
澄江の声は、低く、平坦であり、長く感情を抑えてきた人間の話し方。冴優は澄江の手を見ていた。膝の上で両手は微動だにしない。一見、落ち着いているように見えるが、その落ち着き方が——どこか不自然だった。本当に夫を殺した人間がこんなに落ち着いて話せるだろうか。
「夕食のメニューは、覚えていらっしゃいますか」
澄江は少し考え、
「ええ。鯖の塩焼き、白菜の煮物、豆腐の味噌汁、ご飯。お漬物は沢庵でした」
細かく覚えている。と、冴優は思う。これは——真実を話す人間の細部だ。料理のことは嘘をつく必要がない。
「夕食の席でのご主人のご様子はいかがでしたか」
「いつもより静かでした」
「静か。と、いうのは」
「夫は食事中によく話す人ではありませんでした。けれど、その夜は特に——何かを考えているような、そういう静けさでした」
「何かを考えている。と、感じたのはなぜですか」
「食事の途中で二度ほど夫が私の方を見ました。何か言いたそうな顔で。しかし、結局何も言わずに食事を終えました」
冴優は手帳に書き込む。「夫が妻を見た。何か言いたそうに」
それは——書斎で書きかけの手紙と符合する。梶原恒夫は妻に何かを伝えようとしていた。食事の席で言えなかった言葉を手紙に書こうとした?
「食後、ご主人は書斎に行かれた。その後、奥様は何をされていましたか」
「台所で片付けをして居間で針仕事をしていました。九時頃まで」
「九時頃まで、というのは」
「九時を過ぎた頃、私は書斎にお茶を運ぼうと思いました。夫は夜の作業が長くなるとき、お茶を一杯飲む習慣がありました。その日も、遅くなりそうだと感じたので、」
「ご主人が遅くなりそうだ。と、感じたのはなぜですか」
「書斎の灯りがまだ点いていたからです。離れの書斎の窓の明かりが居間から見えます。その明かりが九時を過ぎてもまだ点いていた」
冴優は頷き、
「お茶を運んだとき、書斎には入りましたか」
澄江の手がわずかに動き、膝の上で指が重なった。
「入りました」
「書斎では何があったのですか」
澄江はゆっくりと息を吸い、
「机の前に夫が座っていました。何かを書いており、私が入ると夫は顔を上げました。そして——いつもと違う顔をしていました」
「いつもと違う顔、というのは」
「夫は私が書斎に入るといつも不機嫌そうな顔をしました。邪魔をするな。と、いう顔です。しかしその夜は——少し、困ったような顔でした」
「困ったような」
「はい。私を見て、何か言いたそうで、しかし言えないでいる——そういう顔です。私は茶碗を机の脇に置いてすぐに出ようとしました。しかし夫が言いました」
「何と言ったのですか」
澄江は目を伏せ、
「『少し待て』と」
「それから」
「夫が立ち上がりました。私は——怖かった。夫が立ち上がると、いつも怖かった。しかし、その夜の夫は——殴ろうとする気配がなかった。ただ、私の前に立って、私を見ていました」
「どれくらい、そのまま立っていましたか」
「長く感じましたが——実際には短い時間だったと思います。夫が何か言いかけて、止まって、また言いかけて——そういうことを繰り返していました」
「結局、ご主人は何を言ったのですか」
澄江は少し間を置き、
「何も、言いませんでした」
「何も」
「ええ。夫は何も言わずに、また机に戻りました。私は書斎を出ました」
「奥様」冴優は静かに、「それが、事件の夜のお話ですか。奥様はご主人を殺した、とおっしゃいましたが——今のお話には、殺害の場面が出てきません」
澄江はゆっくりと顔を上げ、
「続きがあります」
「続きをお聞かせください」
「書斎を出て居間に戻りました。しかし——気になって。夫のあの顔が頭から離れませんでした。あんな顔をした夫を私は見たことがなかった。困ったような、何かを言いたいような、あの顔が」
「それで」
「三十分ほど居間にいました。その間、夫の書斎の灯りは点いたままでした。私は——もう一度、書斎に行こうと思いました。あの顔の意味を知りたいと思った。夫が何を言いたかったのか」
「もう一度、書斎に行ったのですね」
「はい。今度は、お茶の名目ではなく——ただ、行きました。扉の前に立ってノックをしました。が、返事がなかった」
「返事がなかった」
「ええ。もう一度ノックしてそれでも返事がなかったので——扉を開けました。夫は机の前の床に倒れていました」
冴優は澄江を見る、
「倒れていた。と、いうのは——すでに亡くなっていた、ということですか」
「はい。頭から血が出ていました。呼んでも動かなかった」
「そのとき、書斎に他の人間はいましたか」
「いませんでした」
「窓は」
「閉まっていました」
冴優はゆっくりと息を吸い、
「奥様。先ほど奥様はご主人を殺した。と、おっしゃいました。しかし今のお話では——奥様が書斎に入ったとき、ご主人はすでに倒れていた。と、いうことになります。どちらが本当のことですか」
澄江は冴優を見る。その目に——何かが揺れた。
「私が殺しました」澄江は繰り返す。
「どのように、殺したのですか」
「文鎮で打ちました」
「文鎮はどこにありましたか」
「机の上です」
「机の上の文鎮を取ってご主人を打った。そういうことですか」
「ええ」
「ご主人はその時、座っていましたか、立っていましたか」
「座っていました」
「机に向かって座っていたのですか」
「ええ」
「奥様が入ったとき、ご主人は気づきましたか」
「気づいていました」
「気づいていたご主人が背後から打たれた。と、いうことですか」
「ええ」
冴優は手帳にメモを取りながら、ゆっくりと考える。澄江の話には矛盾があった。最初の話では「書斎に行ったが夫は倒れていた」と話していた。しかし「殺した」と言い張る以上、もう一度別の話に修正しようとしている。しかし修正された話は——粗い。机に向かって座っている相手を気づかれないまま背後から打てるか。しかも書斎の扉を開ければ、机は正面にある。扉から入れば相手の顔が見える位置関係のはずだ。そして——澄江の手の動きが、わずかに、変わっていた。最初は微動だにしなかった手が修正された話を語り始めてから、指先が震えるように動き始めた。膝の上で、片手がもう片手を強く握りしめている。爪が皮膚に食い込みそうなほど、強く。嘘をついている人間の体は嘘をつき続ける緊張で固くなる。澄江の体は明らかに固くなっていた。
「奥様」冴優は静かに、「もう一度、最初から、順を追ってお話しいただけますか。書斎の扉を開けた瞬間から」
澄江は少し間を置き、
「扉を開けると夫が机に向かって座っていました。夫は振り返りました。私を見ました。私は——文鎮を取って、打ちました」
「文鎮は、最初から手に持っていたのですか。それとも、書斎に入ってから取ったのですか」
「書斎に入ってから」
「ご主人が振り返って、奥様を見ている。その状態で、奥様は机の上の文鎮を取って、打った、ということですか」
「ええ」
「ご主人は、抵抗しませんでしたか」
「しませんでした」
「なぜ」
「驚いていたと思います」
「驚いたまま、抵抗せずに、打たれた」
「ええ」
冴優は手帳にメモを取り続けペンを走らせながら、澄江の顔を時折、見た。澄江は答えている。しかしその答えは——後から作ったものの粗い質感があった。細部が甘い。場面の具体性が薄い。本当に体験したことを話している人間の言葉にはもっと細かいものがついてくる。
「奥様。一つだけ伺わせてください。ご主人を打った後、奥様は書斎を出ましたね。その時、ご主人はまだ息がありましたか、それとも息がなかったですか」
澄江はわずかに口を開く。が、——答えが、一瞬遅れた。
「息がありませんでした」
「確認しましたか」
「はい」
「どのように」
「触れました」
「どこに触れましたか」
「首、です」
「首の脈を確認した、ということですか」
「ええ」
冴優はペンを置く。
「奥様。今のお話の中でいくつか確認したいことがあります。今日はここまでにして続きは明日にしましょう。急ぎすぎると大切なことが飛んでしまいます」
澄江は冴優を見る。その目に、驚きに似たものが浮かんだ。
「続きが——あるのですか」
「ええ。大切なことをまだお聞きしていません。明日、改めて伺えますか」
澄江は頷き、
「では今日はここまでにします。宿に戻られてゆっくり休んでください」
澄江は立ち上がる。椅子から立つとき膝が少し震えていた。疲れているのか、緊張しているのか。あるいは——何か別の感情が、体に出ているのか。
「澄江さん」
澄江は振り返り、
「ご主人の書斎で見つかった手紙のことを、ご存知ですか。机の上に、書きかけで残っていた手紙です」
澄江の目が、わずかに揺れ、
「いいえ、知りません」
「そうですか。ありがとうございました」
澄江が駐在所を出た後、冴優は宮本と向かい合う。
「宮本さん、どう思いましたか」
宮本は少し考え、「奥様が——本当に殺したとは、思えないんですよね」
「ええ、私もそう感じます」
——————
午後から、冴優は梶原隆と向き合う。隆は正午過ぎに駐在所に戻ってくる。宿で待っている間、何を食べたかも覚えていない、という顔をしている。落ち着きのない目つきで、何度か扉の方を見る。駐在所の小さな部屋の空気が午前と変わっていた。澄江がいた午前の空気は、静かで、冷たかった。が、隆が来た午後の空気は、揺らぎ、神経質な何かが、部屋に持ち込まれていた。冴優はそれを感じながら改めて隆を見る。中肉中背、四十二歳。コートを脱いで椅子に座っている。スーツの上着の襟がわずかに乱れていた。今朝、駐在所に来たときにはきちんと整えていた襟。それが半日経って少し崩れている。落ち着きのない指の動きが、襟を時々触っていたのだろう。
「落ち着いてください。ゆっくり、お話を伺います。梶原隆さん、今朝おっしゃっていたことを、もう一度確認させてください。兄の梶原恒夫さんを殺したのは、ご自分だ、とおっしゃっていましたね」
「そうです」隆は静かに答える。
隆の声は澄江と違って少し震えていた。落ち着いて見えるが内側で何かが揺れている、そういう声だった。冴優は隆の手を見る。膝の上で指がかすかに動き、爪をもう片方の指で軽く押す癖。緊張を抑える癖だ。
「事件の夜のことを詳しくお話しいただけますか」
隆は一度、深く息を吸い、
「私は同じ家の二階に部屋があります。その夜は部屋にいました。九時を過ぎた頃、兄の書斎の灯りがまだ点いているのが窓から見えました」
「二階の窓から離れの書斎の灯りが見えるのですか」
「ええ。私の部屋は離れに面した側にあります。夜になると書斎の窓の灯りが見える」
「いつからその部屋に住んでいらっしゃるのですか」
「子供の頃から、です。父が亡くなって兄が当主になった後も私はその部屋を使い続けました。兄は——私を独立させなかった。経理を任せて家に置き続けた」
梶原隆という男も、また、家から出られなかった人間だ。妻と同じく。彼にも、行き場がなかった。
「それから」
「私は——部屋を出て、書斎に向かいました」
「何のために」
隆は少し間を置き、
「確かめたいことがあって」
「確かめたいこと、というのは」
「あの夜、兄が工場のことで私に電話をしてきました。夕方のことです。工場の帳簿のことで。私が経理を任されているので、帳簿の確認をしろ。と、いう話でした。しかし電話の途中、兄の声に——何か変わったものがありました」
「変わったもの、というのは」
「いつもは威圧的な声で話す人です。しかしあの電話では、途中から声が——弱くなった気がして。話し終わった後も何か言いたそうな気配があったのにそのまま電話が切れた。それが気になっていたのです」
「弱くなった声、というのは——具体的には」
隆は少し考え、
「いつもの兄は命令する声でした。しかしあの夜は、後半になるとまるで——疲れたような、あるいは、何かを抱えたような声でした。途切れるような話し方をした。私は、兄が体調が悪いのかもしれないと思いました」
「電話で兄の声が弱くなった。隆もそれを感じた」
ここで澄江と隆の証言が初めて重なる。澄江も「夫はいつもと違う、何か言いたそうな顔をしていた」と言った。隆も「兄の声がいつもと違った」と話す。二人とも梶原恒夫の「変化」を感じていた。そしてその変化の理由が——おそらく、病気だろう。
「それで、書斎に確かめに行った」
「はい」
「書斎に向かう途中、廊下で誰かと会いましたか」
「会いませんでした」
「義姉さんは」
「居間にいらしたかもしれません。しかし、私は気づきませんでした」
「廊下を歩いている間、足音などは聞きませんでしたか」
「聞きませんでした」
「離れの書斎までは、母屋の廊下を抜けて、渡り廊下を通っていく。距離はどれくらいですか」
「歩いて、二、三分でしょうか」
「その途中、書斎の方から何か音は聞こえましたか。例えば誰かが書斎を出ていく音、扉が閉まる音」
隆は少し考え、
「聞こえませんでした」
もし澄江が二度目に書斎に行ったとき、隆も同時に書斎に向かっていたとしたら——どちらかが書斎を出るとき、もう一方が渡り廊下を歩いていた可能性がある。しかしすれ違わない経路はないはずだ。
つまり——時間がずれている。
どちらかが書斎に行った時、もう一方はまだ書斎に向かっていなかった。あるいは——どちらかが書斎を出た後でもう一方が向かった。
「書斎に着いたとき、どうでしたか」
隆は手帳を見つめ、冴優の手帳ではない。自分の膝を見つめていた。
「扉をノックしました。返事がなく、もう一度ノックして、やはり返事がなかったので、扉を開けました」
「扉を開けると」
「兄が床に倒れていました」
隆も——「扉を開けたら、倒れていた」と、
澄江と、全く同じだ。しかし隆も「殺した」と言っている。どちらかが——あるいは両方が「倒れていた」という最初の事実を語った後で「自分が殺した」という話に修正している。
「倒れていた恒夫さんの状態を確認しましたか」
「頭から血が出ていました。床に倒れて動かなかった」
「脈は確認しましたか」
「触れませんでした。触れる気になれなかった」
「では、恒夫さんが亡くなっているかどうか、その時点では確認できていなかったのですね?しかし、殺したとおっしゃっています。が、どのように、殺したのですか」
隆は少し間を置き、
「文鎮で打ちました」
「書斎に入る前から文鎮を持っていたのですか。それとも書斎に入ってから取ったのですか」
「書斎に入ってから、取りました」
「恒夫さんはそのときどういう状態でしたか。床に倒れていたと言いましたが——」
隆の目がわずかに揺れ、
「倒れていたのは——後のことです。まず書斎に入ったとき兄は机の前にいました。それから——打ちました。そして、倒れた後に書斎を出ました」
隆の言葉は説明的であった。あの場で経験した人間の話し方ではない。後から組み立てた論理的な文章のような言い方に聞こえる。冴優は隆の目を見ていた。隆は冴優の顔を見ない。机の上の自分の手だけを見つめている。
「机の前で座っていましたか、立っていましたか」
「立っていました」
「立っていた兄を正面から打ちましたか。それとも背後から」
「正面から、です」
「抵抗はなかったのですか」
「驚いていて——その間に」
「驚いている恒夫さんを文鎮で正面から打った」
「ええ」
「恒夫さんの頭のどの辺りを打ちましたか」
隆は少し考え、
「頭頂部——です」
「正面から頭頂部を打ったのですね」
「ええ」
冴優は手帳に書き込む。正面から頭頂部——というのは不自然だ。正面から相手を打つなら、額か、こめかみが自然な打突点。頭頂部を打つには相手より自分が背が高くて、しかも文鎮を上から振り下ろす必要がある。隆は中肉中背、恒夫はやや大柄。立ち上がって正面から向き合うと隆が見上げる構図になるはず。それで頭頂部を打つのは力学的に難しい。これも——後から組み立てた話の整合性の悪さだ。
「恒夫さんを打った後、文鎮はどうしましたか」
「机の上に戻しました」
「血のついた文鎮を机の上に戻したのですね」
「ええ」
「文鎮は現場に残されおり、指紋は拭き取られていました。隆さんは文鎮を拭いたのですか」
隆は少し間を置き、
「拭きました」
「何で拭きましたか」
「ハンカチで」
「ハンカチはどうしましたか」
「持ち帰って燃やしました」
「いつ燃やしましたか」
「翌朝、自宅の囲炉裏で」
これも——細部が滑らかすぎる。本当に経験した人間が後で思い出して話すならもっと言葉に詰まる場面があるはずだ。「ハンカチで拭いた」「囲炉裏で燃やした」という流れがまるで予め用意された答えのように感じる。
「隆さん。もう一つだけ伺います。文鎮で恒夫さんを打ったとき衝撃はどう感じましたか」
隆は少し動揺し、
「衝撃——というのは」
「人を殴る、というのは——慣れていない人間にとって強い感覚を伴います。手応えがあるはずです。文鎮の重さ骨に当たった感触——どんな感覚でしたか」
隆は答えに詰まる。
「覚えていません」
「覚えていない」
「動転していて——」
冴優はペンを置き、
「隆さん。今日はここまでにします。続きは、また明日お願いします」
隆は立ち上がる。扉に向かいながら、一度振り返り、
「猿島刑事さん」
「はい」
「義姉を——梶原澄江を罰しないでください。義姉は何も悪くない。あの人は——十五年間、苦しんできた。これ以上、苦しめないでください」
隆の声は震えている。本当の感情。お決まりの言葉を口にする声ではなく、長く抑え込んできた感情がようやく溢れる声だった。冴優はその声を聞きながら、感じる。隆という男の中には、本当に、義姉への深い思いがある。それは男女の恋愛感情ではないかもしれない。同じ家の中で同じ苦しみを共有してきた者同士の、独特の絆だ。そして、その絆が——隆の自首の動機になっている。
「隆さん。真実を話すことが最も大切です。それだけは、お願いします」
隆はしばらく冴優を見つめ、
「真実——ですか——私には、真実が何かわからなくなっている気がします」
「と、いうのは」
「あの夜、書斎で何を見たのか。何をしたのか。後から考えると自分でもよくわからない。動転していて——記憶が曖昧で——だから、義姉が自首したと聞いて私も自首するしかないと思いました」
「義姉が自首したと、いつ知ったのですか」
「今朝です。お蔦さん——いえ、隣の家の婆さんから宿に伝わってきました。義姉が朝早く駐在所に向かったと」
「それで、ご自身も駐在所に来た」
「はい。義姉一人に、罪を背負わせるわけにはいかない、と思って」
やはり——隆は澄江を庇うために自首したのだ。本気で自分が殺したと信じている部分もあるかもしれない。しかし、決定的な動機は——澄江を一人にしないため、だった。
「ありがとうございます。今日はここまでにします」
隆はもう一度頭を下げ、駐在所を出た。
——————
二人の取り調べが終わった夕方、冴優は宮本と二人で駐在所の机を挟んで話しをする。宮本はお茶を淹れる。地元の茶葉で香りが強く、冴優は両手で湯呑みを包む。冬の地方の夕方、指先が冷えていた。駐在所の小さな窓から暮れていく町の光が差し込んでいた。商店の閉まる音、自転車のベル、犬の遠吠え。糸原町の夕方の音が、駐在所の壁を透かして聞こえてくる。冴優はその音を聞きながら、お茶の湯気を見ている。
「どう思いますか」冴優は宮本に問うた。
宮本は腕を組み、長く考え、ようやく口を開く。
「二人とも、最初に『倒れていた』と言いましたね」
「ええ」
「それが、気になります。本当に自分が打った人間なら最初から『打った』と言うはずです。なのに二人とも最初に現場の状況を話そうとして——それから自分が犯人だという話に修正した」
「そうです。私も同じことを感じています」
「ということは——二人とも、本当は犯人ではなく、相手を庇うために自首した可能性がある」
「それが一つの可能性です。しかし——」
「しかし?」
「もう一つの可能性があります。二人とも本当に自分が犯人だと信じている。しかし、実際には二人の知らないところで——別の何かが起きていた」
宮本は眉をひそめ、
「どういうことですか」
「澄江さんは書斎に行き、夫が倒れているのを見つけた。そして——自分が何かをしたのだと思い込んだ。隆さんも同じように書斎に行き、兄が倒れているのを見つけた。そして——自分が何かをしたのだと思い込んだ」
「けれど、二人とも文鎮で打ったと言っていました」
「その記憶が、本当に正確かどうか——人は、強い感情のある場面では記憶が歪むことがあります。自分が『打ちたかった』という強い感情があれば、実際には打っていなくても、打ったという記憶が形成されることがある。それは精神的な話です。私には専門的なことはわかりませんが——」
「つまり、二人とも、夫の死に自分が関わったという——幻の記憶を持っている?」
「可能性として、断定はできません。しかし——もし本当に二人とも犯人ではないとしたら本当の犯人は別にいる」
宮本は長く黙る。
「外部からの犯人ということですか」
「あるいは——家の中の、別の人間です」
「家の中の別の人間、というのは——家政婦さんですか。あの方は日中だけで、夜は——」
「それも含めて、調べる必要があります」
冴優は手帳を閉じ、
「宮本さん、梶原恒夫さんと、恨みを持っていた人間について、もう少し詳しく教えてもらえますか。工場の人間、町の人間——思い当たる方はいますか」
宮本は少し考え、
「一人、気になる人物がいます」
「誰ですか」
「工場の元工員で——三年前に、梶原恒夫さんに解雇された男がいます。解雇の理由が不当だったという話があって。その男は今も糸原町にいて梶原家を恨んでいると聞いています」
「名前は」
「久保田誠一と申します。四十代の男で今は農業を手伝いながら暮らしています」
「解雇の理由は何だったのですか」
「表向きは勤務態度の問題でした。しかし町の噂では——久保田が工場の不正経理を見つけてそれを梶原恒夫さんに訴えたことが、本当の理由だ、と」
「不正経理。と、いうのは」
「町でも噂程度の話で確証はありません。しかし——梶原工場は、最近、業績が悪化しているのに梶原家の暮らしぶりは変わらない。町の人間は何か裏があるのではないか。と、疑っています」
「不正経理」——もしそれが事実だとしたら、隆が経理を任されている。と、いう事実が引っかかる。隆は工場の経理に関わっている。もし不正があったとしたら隆もその事実を知っていた可能性がある。
「久保田さんは解雇されてから梶原さんと接触を持ちましたか」
「いえ、表立っては。しかし町で偶然会うと久保田は梶原さんに罵詈雑言を浴びせていた。と、いう話があります」
「それは最近のことですか」
「事件の一週間ほど前にも町の通りで二人が言い争いをしているのを見た人がいます」
「明日、話を聞きに行きます」
——————
その夜、冴優は宿で清水に電話をかける。冴優は十円玉を握りダイヤルを回す。耳に押し当てた受話器は冷く、糸原町の夜は静かだ。電話の呼び出し音が廊下の木の壁に反響して聞こえる気がする。
「はい。」
「猿島です。今日、二人の話を聞きました。澄江さんと、弟の隆さんと」
「どうだった」
冴優は順を追って話す。二人が最初に「倒れていた」と言いかけたこと。その後で「自分が打った」という話に修正したこと。証言の細部が粗いこと。澄江は夫が「座っていた」と言い、隆は兄が「立っていた」と言ったこと。清水は黙って聞いていた。時々、煙草の煙が漏れるような、息を吐く音が聞こえてくる。清水は自宅の縁側で電話を受けているのだろう。と、冴優は想像した。
「一つ聞いてもいいか」
「はい」
「二人の話の中で、時間の矛盾はあったか」
「澄江さんは九時過ぎに書斎に行ったと言っています。隆さんは九時を過ぎた頃に部屋を出たと言っています。二人がほぼ同じ時間に書斎に向かったことになる」
「それぞれ書斎に行ったのは一度だけと、言っているか」
「澄江さんは二度行ったと言っています。最初が九時前、二度目が九時過ぎ。隆さんは一度だけと言っています」
「二度目に澄江が書斎に行った時間と、隆が書斎に行った時間が、重なる可能性はあるか」
「あります。二人の時間の証言がどちらも曖昧です。九時前後というくらいしかわからない」
「ということは、二人が、ほぼ同時に書斎に向かった可能性がある。そして、一方が書斎に着いたとき——もう一方が、すでに書斎から出た後だった。あるいは——鉢合わせた」
「鉢合わせた」
「二人が書斎で出会った可能性はあるか」
「二人とも書斎に他の人間はいなかったと言っています」
「両方が言っているなら——両方が嘘をついているか、本当に会っていなかったかだ。しかし」
「しかし?」
「二人が本当に会っていなかったとしたら——一方が書斎に行って夫が倒れているのを見つけた後に出た。その後、もう一方が書斎に入り夫が倒れているのを見た。それぞれが自分が何かをしたと思い込んでいる」
「その場合、夫を実際に殺した人間は——二人の前後に書斎にいた別の人間だということになる」
「そうだ。お前が感じた違和感は、正しい。この事件には——まだ見えていない人間がいる」
「清水さん、書斎にあった手紙のことを、お話しします。机の上に書きかけの手紙がありました。『澄江へ。ありがとう、と言わねばならぬのだろうか。お前と』——そこで終わっていました」
電話の向こうで清水が少し沈黙し、
「恒夫は——その手紙を書いているときに、殺された、ということか」
「ええ」
「それは——大切なものだ。恒夫という男が、何者だったのかをその手紙が示している可能性がある」
「どういうことですか」
「暴力を振るっていた男が妻に『ありがとう』と書こうとしていた。それは——どういう意味かを考えろ。その手紙を書くきっかけになった何かがあったはずだ。その何かが事件のきっかけになっているかもしれない」
冴優は手帳に書き込む。
「恒夫の手紙を書くきっかけ——」
「お前は明日、何をする予定だ」
「元工員の久保田という男に話を聞く予定です。あとは、工場の人間にも。恒夫という男の人物像をもっと掘り下げたい」
「それでいい。それと——澄江と隆、もう一度それぞれに話を聞け。今日とは別の角度から。証言の細部を、もっと詰めろ。粗い部分に真実が隠れている」
「はい」
「冴優」
「はい」
「急ぐな。この事件は急いで解こうとすると必ず何かを見落とす。二人が自白している以上、逃げる心配はない。焦らず、丁寧に、積み上げろ」
「わかりました」
「何かあれば、また連絡しろ」
「清水さん。一つだけ、お聞かせください」
「何だ」
「あなたが現役の頃、同じような事件はありましたか。二人が自首してきて、しかしどちらも本当の犯人ではないかもしれない。と、いうような」
清水は少し考えてから言った。
「似た構造の事件は何度かあった。しかし、こういう形で二人が同じ朝に別々に自首してくる——というのは聞いたことがない」
「そうですか」
「お前が初めて出会う種類の事件だ。お前自身がお前の解き方を作る事件になる。三十年前の俺が解けない事件だ」
「清水さんなら、解けると思います」
「俺はもう、現場にいない。お前が解け。それが、俺の手帳を引き継いだお前の仕事だ」
冴優は深く頷き、電話が切れる。冴優は受話器を置いて、窓の外へ視線を向ける。糸原町の夜は静かだった。雪はなかったが、空気の中に雪の気配があった。もうすぐ降る。と、いう冷たさだった。冴優は布団に入ったが、眠れなかった。頭の中で、澄江の顔と、隆の顔が交互に浮かんだ。二人とも——何かを隠している。しかし、隠しているのは、犯罪ではなく——もっと別の何かだ。その「別の何か」が、まだ見えない。冴優は天井を見上げる。古い旅館の天井板の木目が、薄暗い豆電球の光の中で、複雑な模様を作っていた。冴優はその模様を辿りながら、手帳の中の言葉を反芻した。
「澄江さんと隆さん、両者自首」
「証言の細部に矛盾」
「両者最初に『倒れていた』と発言、後に修正」
「久保田誠一——元工員、梶原を恨む」
「不正経理の噂——隆が経理を担当」
「恒夫の病気——消化器科」
点が、いくつもあった。
しかし——線にはならない。点を線にするにはもう一つ、何かが必要だ。それが何かはまだ分からない。外で風の音がした。冬の地方の風は、強く、深い。木々を揺らし、屋根を撫で、家全体を、わずかに揺らす。冴優はその音を聞きながら、ようやく目を閉じる。眠りに落ちる前、冴優は一つだけ、明日の予定を心の中で確認した。
久保田誠一に会う。
そして、もう一度——澄江と話す。
冴優は深く息を吐く。
——————
翌朝、冴優は早く起きる。窓の外を見ると——雪が降っている。夜のうちに降り始めたらしい。薄く、屋根に白い層ができていた。地面も白くなり、糸原町の最初の雪であった。冴優は冬の朝の清浄な空気を吸ってみる。窓を開けると雪の冷気が部屋に流れ込んでくる。火鉢の熱が、わずかに揺らぐ。冴優は身支度を整えて、一階に下りる。玄関の前で女将が朝の掃除をしていた。冴優を見て、頭を下げてくる。
「お早うございます。雪が積もりましたねぇ」
「ええ」
「お朝食はもう少しでお出しできます」
「ありがとうございます」
玄関の脇に白い椿が一輪咲いていた。雪をかぶった鉢の中で、冬の花が一つだけ咲いている。冴優はその花が視線に入る。雪の中でひとつだけ咲く花。それは寒さの中の小さな抵抗のように見えた。
「綺麗な椿ですね」
「澄江さんが毎朝水をやっていらっしゃるんです。滞在中も忘れずに」
冴優は驚いた。事件のあった翌朝から澄江は毎朝、椿に水をやっている。そういう人なのだ。と、冴優は思った。何が起きても目の前の小さなものをきちんと世話する。それが——澄江という女性の核にあるものかもしれない。冴優は朝食の前に女将と少し話しをする。
「澄江さんは、今朝、起きていましたか」
「ええ。いつもより早く起きていらっしゃいました。朝の五時過ぎにはもう起きていらっしゃって——縁側に座って、雪を見ておいでで」
「一人で?」
「ええ。私が声をかけると、『綺麗ですね』とだけおっしゃいました」
縁側で、一人、雪を見ていた澄江。夫を殺したかもしれない女性が——雪を見て、「綺麗ですね」と。そこに——どんな感情があったのか。解放感か、罪悪感か、あるいは——ただの疲れか。
「女将さん。澄江さんを、長くご存知ですよね」
「ええ。梶原家に嫁いでこられてから——もう十五年以上になりますから」
「澄江さんは、幸せでしたか」
女将は少し間を置き、
「幸せ——という言葉が当てはまる方だったか分かりません。しかし——強い方でした。あんな状況の中でも、折れなかった。それは確かです」
「折れなかった、というのは」
「梶原の旦那様は暴力を振るう方でした。それはもう、誰でも知っていました。しかし澄江さんはその度に立ち上がった。表には出さなかった。ただ、淡々と日々を送り続けた。その強さが私には——胸に刺さるものがありました」
冴優は女将の言葉をしばらく噛み締める。淡々と日々を送り続けた強さ——それが、澄江という人間の核心にあるのかもしれない。そして、その強さが——どこかで限界を迎えたとしたら。
「女将さん。隆さんのことはご存知ですか」
「ええ。隆さんも何度か当館にいらっしゃったことがあります。お兄さんの代わりにお客様のご接待で」
「隆さんは、どんな方でした」
「優しい方でした。お客様にも丁寧で酒を強く勧めない方でした。お兄さんとは対照的に」
「お兄さんとは対照的——ですか」
「ええ。お兄さんはお客様にもよく酒を勧めて押しの強い接待をなさいました。隆さんはその横で控えめに座っていらっしゃった。お兄さんが何か言うとすぐに頷いて従順に動かれた」
「兄を恐れていたのですね」
「恐れて、いえ——『従順』という言葉が一番近い気がします。怖がっているというよりそれが当然だと子供の頃から染み付いているような——そんな感じでした」
「澄江さんと、隆さんの関係は」
「お二人は家の中で——同じ立場でいらしたのではないでしょうか。お兄さんに従う、という意味で。だからお二人はある種の連帯感を持っていらしたかもしれません」
「連帯感」
「ええ。同じ空気の中で生きている——そういう」
冴優は手帳に書き込む。澄江と隆。家の中で同じ立場の二人。連帯感のあった二人。そういう二人が同じ朝に別々に自首してきた。
「女将さん。今日の朝食後、澄江さんとお話しする機会を作っていただけますか。正式な取り調べではなく、ただ話し合うような形で」
「承知しました。それが、あの方のためになるなら——ぜひ」
冴優は窓の外の雪を見る。薄い雪だ。積もるほどではないかもしれない。しかし、確かに降っていた。糸原町の冬が深くなっていく。そして、この事件の真相も——もう少し奥に向かって冴優を引き込もうとしている。
——————
朝食後、冴優は女将に案内されて離れの縁側に出る。澄江が座っていた。膝に薄い掛け物を乗せ、両手を膝の上に揃えて、雪の残る庭を見ている。冴優の足音に気づき、振り返る。
「猿島刑事さん」
「お邪魔します。雪が降りましたね」
「ええ。糸原町の冬はもっと雪が積もります。これはまだ序の口で」
「そうですか」
二人はしばらく雪の庭を見ていた。薄い朝の光が、白い地面に静かに落ちている。旅館の庭の枯れた木が一本、雪をかぶって立っていた。
「澄江さん。昨日お話をお聞きして——一つ、確認させてください。正式な話ではなく私個人のお聞きです」
「ええ」
「ご主人が、あの夜、あなたに何かを言いたそうにしていた——夕食の席でも書斎でも。そのことがずっと気になっています」
澄江は庭を見たまま、答えなかった。
「ご主人はいつもと違うところがあった。書きかけの手紙もあった。あの夜、梶原恒夫という人間に何か変化があったのではないかと感じています」
しばらく、沈黙が続く。雪の落ちる音はしない。雪は音を立てない。しかし、その静けさの中に、何か重いものが流れていた。冴優は澄江の横顔を見る。と、化粧をしていない顔。年齢相応の小さな皺。しかし、その横顔には、何か——美しいものが確かにあった。長く苦しんできた人間がその苦しみの果てに辿り着いた、静かな美しさだった。
「夫は——医者に、行っていました」
「医者に?」
「ええ。この町ではなく県の病院に。三ヶ月ほど前から」
「病気だったのですか」
澄江は少し間を置き、
「私は知らされていませんでした。夫は私に何も言わなかった。しかし——先月、偶然、夫の鞄の中に病院の診察券が入っているのを見てしまいました。県の病院の。消化器科の、診察券でした」
「消化器科——」
「私は夫に何も聞けませんでした。聞いたら怒られると思って。しかし——あの夜の夫の顔を思い出すと、もしかして夫は自分の病気のことを私に伝えようとしていたのではないか。と、今は思います」
「ありがとう、と言わねばならぬのだろうか」——そうか。梶原恒夫は、自分が病気かもしれないと知っていた。そして、長年暴力を振るい続けてきた妻に——今更、感謝を伝えようとしていた。自分の死期が近いと感じた男が、最後に妻に何を残そうとしたか。
「ありがとう」という言葉。
そしてそれが——「ありがとう、と言わねばならぬのだろうか」という、躊躇いを伴っていた。十五年間殴り続けた妻に感謝を伝える資格が自分にはあるのか。彼はそういう自問の中にいた。そして、書きかけのまま——殺された。
「澄江さん。ご主人の病気については宮本さんに確認を取ります。澄江さんは今、それを教えてくれましたね。ありがとうございます」
澄江は小さく頷く。
「一つだけ、正直に教えてください。ご主人が倒れているのを見つけたとき——本当にご自分が打ったのだと思いましたか」
澄江は静かに庭を眺め、長い沈黙があった。そして——澄江は言う。
「思いました」
「なぜ」
「私は——あの夜、書斎に行く前から打ちたいと思っていました。ずっと打ちたいと思い続けてきた。だから——倒れている夫を見た時、自分がやったのだと、そう感じました」
「打ちたいと思っていた。しかし、実際に打ったかどうかは——」
澄江は答えなかった。答えない、という答えが、そこにあった。確信が、少しずつ、形になってくる。澄江は本当には打っていないのかもしれない。彼女は「打ちたかった」という強烈な感情の残像を「打った」という記憶として持っている。そして隆も同じかもしれない。二人とも、夫(兄)を「打ちたかった」という感情があった。そして夫(兄)が倒れているのを見て——自分がやったのだと、信じ込んだ。
では、本当に打ったのは——誰だ。
「澄江さん、ありがとうございました。今日はここまでにします。また、改めてお話を聞かせてください」
冴優が立ち上がろうとしたとき、澄江は、
「猿島刑事さん」
「はい」
「隆さんを——弟を許してあげてください。あの人は、何も悪くありません」
「隆さんは奥様を庇っているとおっしゃりたいのですか」
「私が庇っているのです。隆さんが犯人だとしても私は隆さんを庇う。あの人は——長年、苦しんできた人です。私以上に、苦しんできた」
「なぜ、隆さんの方が苦しんできたと」
澄江はわずかに目を細め、
「隆さんは——兄を愛していました。憎みながら愛していた。そういう苦しみは憎むだけよりずっと重い」
冴優はその言葉をしばらく反芻する。憎みながら愛していた。その言葉の意味が冴優にはまだ完全には見えない。しかし——何か大切なことがそこに含まれている気がした。
「隆さんは子供の頃から兄に憧れていました。兄は強くて、賢くて、家を支える存在でした。隆さんはその兄に従いながら——兄に認められたいという思いをずっと持っていた。しかし兄は隆さんを認めなかった。一度も」
「認めなかった、というのは」
「『お前は俺の弟だ。それで十分だ』というのが兄の口癖でした。隆さんを自分の影として扱った。隆さんが何かを成し遂げても兄は『それは当然だ』と言って褒めなかった。それで隆さんは——兄を憎みながら、それでも兄に認められたいと願い続けた」
そういう兄弟の関係——それは暴力を振るう兄と従順な弟の関係——以上に複雑なものだ。隆は兄を恐れ、しかし同時に兄を求めていた。
「澄江さん。隆さんがあの夜、本当に兄上を打った可能性は——ありますか」
澄江は静かに、
「あります」
「澄江さんは——」
「隆さんが打ったとしても私は驚きません。あの人は長く我慢してきました。十五年——いえ、もっとです。子供の頃から兄に支配されてきた。どこかで限界が来てもおかしくない」
「そして、奥様ご自身が打った可能性も、あるとお思いですか」
「私も、限界に来ていました」
冴優は澄江の言葉を受け止める。二人とも限界に来ていた。二人とも夫(兄)を打ちたいと願っていた。そして——夫が倒れているのを見つけた時、自分がやったのだと思い込んだ。では、本当に打ったのは、誰なのか。
「ありがとうございました」
澄江は再び、雪の庭を見ている。冴優は縁側を離れる。背中に雪の庭の静けさが残っていた。この事件の核心は——梶原恒夫という男の「本当の姿」にある。冴優にはそう感じられた。暴力を振るい、人を傷つけてきた男が、死ぬ直前に妻に「ありがとう」を書こうとしていた。その変化が何かを起こした。もしかすると——その変化を誰かが許せなかったのかもしれない。梶原恒夫が「変わる」ことを許せなかった人間。変わる前の恒夫を利用していた人間。変わってしまうと困る人間。冴優の頭の中で新しい仮説が形を持ち始めていた。その「何か」を見つけることが次の一手だろう。廊下を歩きながら冴優は雪の音のしない静けさを聞いている。糸原町は深い場所だ。表面は静かで、しかし、その下に——何重もの層がある町。そして冴優はその層を一つずつ、剥がしていかなければならない。剥がした先に、本当の犯人がいる。そう、確信していた。確信は、まだ静かなものだった。




