三章 工場の記憶
久保田誠一の家は町の南端、田畑の広がる地域の外れにあった。冴優は宮本の自転車を借りて一人で向かっていると、雪は朝のうちに止み薄日が差し込んでいる。土の道は雪解けで泥だらけであり自転車のタイヤが何度も滑りかけるも、冴優は足を地面につきながら慎重に進む。町の中心部を抜ける。と、両側に田畑が広がる。冬枯れの田んぼに藁が刈られた跡だけが残っており、畝の間に雪解け水が小さな川のように流れていた。遠くの方で犬が吠える声が聞こえてくる。自転車を漕ぎながら冴優は朝の澄江の顔を思い出している。「綺麗ですね」と、雪を見て言った女性。十五年間、夫から殴られ続けてきた女性。彼女が雪に向かって何を見ていたのか。冴優にはまだ、見えていない。
途中、田畑の中に立つ案山子が視線に入ってくる。雪の重みで片方に傾いているが、それでも倒れずに踏ん張っているように見える。糸原町の冬をこの案山子も越えてきたのだろう。冴優はその案山子をしばらく目で追う。傾いたまま、立ち続けるもの。
——澄江という人が心の中で重ねるイメージに、それは似ている気がした。久保田の家は古い農家だった。母屋の屋根に苔が生え、庭先に薪が積まれ、その隣に錆びた農具が並んでいた。生活感のあるしかし手入れまでは行き届かない家。玄関の戸を叩く。と、しばらく経ってから内側で足音が聞こえてくる。足音は遅く、慎重に歩く、年齢のある男の足音。冴優は戸の前で待つも冬の朝の寒さが、足元から這い上がってくる。戸が開く。と、そこには、中年の男が立っている。四十代後半、痩せ型、無精髭。目に深い疲れがあり、冴優を見るなり男はわずかに眉をひそめる。
「猿島と申します。東京から来た刑事です。少しお話を伺えますか」
男は冴優を見つめ、それから低い声で、
「久保田です。梶原のことですね」
「ええ」
男は深い溜息を吐きながら、冴優を中に通すかどうか、しばらく迷っているように見えた。やがて、戸を大きく開け、無言で背を向ける。来い、ということだろう。冴優は中に入っていく。玄関を上がってすぐ、囲炉裏のある板の間に出る。と、火が小さく燃え、冴優は囲炉裏の前に座る。久保田は向かいに腰を下ろし、煙草を取り出した。
「お茶も出せませんが」
「結構です」
久保田は煙草に火をつけ、深く吸い込む。煙が、囲炉裏の煙と混ざって天井に上っていく。囲炉裏の薪が、ぱちり、ぱちりと音を立ててながら跳ねている。冴優はその音を聞きながら、久保田を観察していた。痩せた肩、無精髭、目の下の影。男の顔には長く積み重なった疲労の層がある。怒りではない。憎しみでもない。もっと深いところで、何かが擦り切れているような顔。
「——梶原が、殺された。正直、ざまあみろと思いましたよ」
久保田は隠そうとしない言葉を口にする。
「久保田さん、最初に伺います。梶原さんが殺された夜——十二月十四日の夜、どこにいらっしゃいましたか」
「家にいた。一人で」
「証明できる方は」
「いない。わしは独り暮らしだ。家族はみんな先に死に隣の家までは歩いて十分以上かかる。誰もわしの夜のことなど見ていない」
久保田は煙草の灰を囲炉裏に落とす。
「家族はみんな先に死んだ、というのは」
「妻と息子だ。息子は四歳のときに病気でな。妻は——息子が死んでから三年後、自分で命を絶った。それ以来、わしは独りだ」
冴優は短く頷き、それ以上、踏み込まなかった。久保田の言葉にはもうこの話はしたくないという気配がある。冴優は手帳を取り出し、
「率直に伺います。梶原さんを恨んでいらっしゃいましたね」
「恨んでいた。死ねばいいと思っていた。だから殺されたと聞いて、嬉しかった。それは間違いなく本心だ」
「殺したい。と、思ったことは」
「あった。何度もな」
「実行したことは」
久保田は煙草の煙をゆっくりと吐き出し、
「ない」
声に揺らぎはなく、冴優はその目を見つめる。
「殺したかった、しかし殺さなかった。それはなぜですか」
久保田は少し考え、
「殺す価値もないと、ある時思った。あいつはわしの人生を奪った。しかし、わしがあいつを殺したら、わしの残りの人生もあいつに奪われる。そう考えるようになって——殺す気は失せた。今は、ただ生きている。それだけだ」
冴優は手帳に書き込む。久保田の言葉には独特の説得力が混じり怒りを通り越した諦めと達観が混ざっている。これは、最近殺意を実行した人間の言葉ではない。
——————
「久保田さん、解雇された経緯を聞かせてください」
久保田は少し間を置き、話し出す。
「わしは梶原工場で二十年間働いた。経理部に所属し最初は下働き、後に帳簿をつける仕事を任された。先代の旦那様の頃はまあ——居心地の悪くない職場だった。給料は安かったが、人を人として扱ってくれた」
久保田の声が少しだけ柔らかくなる。先代の話をするときの声には敬意のようなものが宿っていた。
「先代、というのは恒夫さんのお父様ですね」
「ああ。立派な方だった。工員の名前を全員覚えていてな、廊下ですれ違えば必ず声をかけてくれた。冬になれば家から温かい汁を持ってきて女工たちに振る舞った。そういう方だ」
「先代は、いつ亡くなりましたか」
「十一年前、心筋梗塞で。あっけなかった。朝出勤して、昼前に倒れて、そのまま、病院に運ばれる前に——亡くなった。工場の中で皆が泣いた。わしも泣いた。あんなに人に泣かれた経営者をわしは他に知らない」
久保田は囲炉裏を見つめ、火の中に何かを思い出しているような目だった。
「それから、息子の恒夫が当主になった」
「恒夫さんはお父様とは違ったのですね」
久保田は短く笑う、乾いた笑い。
「全くの別人だった。先代の血が本当にあの男に流れているのか。と、何度も疑った。先代の温情を恒夫は『弱さ』だと言った。『弱さで会社は経営できない』と。当主になって最初の年に給料を下げ、休みを減らし、嫌気のさした熟練工を何人も切った」
「久保田さんはその後も工場に残られた」
「残った。経理を任されていたから。恒夫はわしを切らなかった。帳簿を任せられる人間が他にいなかったからな」
「他にいなかった、と」
「先代の頃の経理は林治雄さんとわしの二人だった。先代が亡くなる前年に林さんが一度長期休暇を取られ、わし一人で帳簿を回した時期があった。その頃の動かし方を恒夫は覚えていた。だから恒夫はわしを必要としていた」
「不正経理の話を、伺いました」
久保田の目がわずかに動き、煙草を持つ手が、止まる。
「——誰から聞いた」
「町の噂です。具体的にどんな話だったのでしょうか」
久保田はしばらく黙り、煙草を灰皿に押し付け、消す。
「話します——ただし、これはわし一人の見たこと。証拠と言えるものはない。覚悟して聞いてくれ」
「結構です」
「恒夫が当主になって五年目の頃から帳簿に妙な動きが出始めた。工場の収支は明らかに悪化していたにもかかわらず、ある一定額が、毎月——どこかに流れていく。表向きは『仕入先への支払い』として処理されていた。しかし、その仕入先が実態のない会社だった」
「実態のない会社、というのは」
「住所だけはあるが、行ってみると空き家。電話番号もダミー。そういう会社に、毎月、決まった額が支払われていた」
「金額は」
「月に三十万から五十万。少ない月で十万」
当時の地方の物価では相当な金額だ。
「久保田さんは、それに気づいた」
「気づいた。経理を任されていたから、見えてしまった。最初は、わしの見落としかと思った。何度も確認した。しかし、間違いなく金が消えていた」
「それを恒夫さんに訴えたのですね」
「ああ。直接、社長室に行って言った。『この支払い先は実態がありません。何かのお間違いではありませんか』と」
「恒夫さんは何と」
久保田は少し笑う。今度は、苦々しい笑いを、
「『お前は経理だけ見ていればいい。余計なことを考えるな』。それが返事だった」
「久保田さんは引き下がらなかった」
「引き下がれなかった。会社の金がおかしな形で消えている。経理の責任者として見過ごせなかった。一週間後、もう一度直訴した。今度は書類を全て持って」
「結果は」
「翌週、解雇通知が来た。理由は『勤務態度不良』。具体的な話は何もなく、ただ通知だけ」
冴優は手帳に走らせるペンを止める。
——————
「久保田さんその流れていったお金は——どこに行ったとお考えですか」
久保田は少し考え、
「わしには分からない。しかし、確信に近い推測はある」
「お聞かせください」
「梶原家の暮らしぶりだ。工場の業績は明らかに悪い。にもかかわらず、梶原家の暮らしは先代の頃とほとんど変わらなかった。屋敷の維持、車の所有、ご親戚への付け届け——金がかかる暮らしを続けていた」
「その金は工場から流れていた、と」
「実態のない会社を経由して最終的には恒夫の懐に戻っていた——そうとしか思えない」
冴優は頭の中で図を描いてみる。工場から消える金、空っぽの会社、最終的に戻ってくる現金。よくある手口だ。会計の知識がある人間なら誰でも見抜く。
「久保田さんその経理操作は——恒夫さん一人でやれるものですか」
久保田は冴優へ視線を向ける。と、
「鋭いところを突きますね」
「と、いうのは」
「経理の操作は複数人の手を経る。書類の作成、判子、銀行への手続き。一人ではやりきれない。恒夫が指示をしたとしても実際に手を動かす人間が必要だ」
「その人間は誰でしょうか」
「わしが解雇された後、経理を任されたのは——隆さんだ」
冴優は息を呑み、
「梶原隆さんが」
「ああ。それまで隆さんは工場の現場の管理をしていた。経理経験はなかったが、それでも恒夫は隆さんを経理に据えた。理由は——わしの推測だが、恒夫が信用できる人間が家族しかいなかったからだ」
「信用できる、とは」
「不正に口を閉ざせる人間。家族なら外に漏らす心配がない」
梶原隆は——兄の不正経理の片棒を担いでいた?いや、片棒どころではない。実際に手を動かしていたのは隆の方だ。
「隆さんはそれを進んでやっていたのでしょうか」
久保田は少し首を振り、
「進んで、というのは違うだろう。隆さんは兄に逆らえる人ではない。命じられて断れずにやっていた——そう見ていた」
「他に、その不正に関わっていた人間は」
「いない、と思う。恒夫と隆さんの二人だけだ。書類は二人の判子で動かしていた」
冴優は手帳に書き込み、
「不正経理——恒夫と隆。二人の共犯」。
そして冴優はもう一つの可能性に思い至る。もし——梶原恒夫がその不正をやめようとしていたとしたら。
病気を知り自分の死期が近いと感じた恒夫がこれまでのことを清算しようとしていたとしたら。
不正を続けたい人間にとって変わろうとする恒夫は——邪魔な存在にならないか?
——————
「久保田さん。最後に一つだけ。あなたは恒夫さんを殺していない。それは信じます。しかし——あの夜、誰が殺したかについて、心当たりはありますか」
久保田は少し考えながら、
「わしには、わからん」
「では、誰が殺さない、と言えますか」
「奥さん——澄江さんは、殺せない。あの方は、人を殺せる人ではない。十五年、あの男に殴られ続けて、それでも殺さなかった人だ。今更、自分から殺すとは思えない」
「弟さんは」
久保田は少し言葉に詰まりながら、
「隆さんも——殺さない、と思う。しかし——」
「しかし?」
「人間、追い詰められれば、何をするかわからない。隆さんは兄の不正に長く加担してきた。ご自身も心の底では苦しんでいたはずだ。何かのきっかけで——爆発する可能性は、ゼロとは言えない」
「では、外部の犯人の可能性は」
「ある。梶原を恨んでいる人間は町中にいる。わしだけじゃない。元工員、解雇された人間、不正の被害者——表に出ていないだけで、いっぱいいる」
「具体的に、思い当たる方は」
久保田はしばらく考え、
「林治雄」
「林さん、というのは」
「先代の頃に経理部にいた男だ。わしより年上で隆さんの前に経理を任されていた」
「林さんは、今どこに」
「町の隣の村に住んでいる。何年か前に妻を亡くして、息子と二人暮らしだ」
「林さんと、恒夫さんの関係は」
「複雑だ。林さんは、先代の頃から梶原家に仕えてきた。恒夫が当主になった後もしばらくは経理を続けた。しかし、五年ほど前——突然、辞めさせられた。理由は表向き『健康上の理由』だが、本当は——わしが思うに林さんも不正に気づいたんじゃないか」
「林さんは健康問題はあったのですか」
「妻の介護はあった。しかし、それは何年も続いていたことで突然辞める理由ではない。わしには林さんが何かを目撃して口封じに辞めさせられたように見えた」
冴優は手帳に「林治雄」と書きとめる。
「林さんに、お会いすることはできますか」
「会えると思う。隣村まで自転車で一時間ほどだ。話を聞きに行くなら、宮本さんに紹介状を書いてもらうといい」
「久保田さん、ありがとうございました。今日のお話は大変参考になりました」
立ち上がろうとする冴優を久保田が呼び止め、
「刑事さん」
「はい」
「あんたは——本当に、本当の犯人を、探しているんだな」
「と、いうのは」
「自首した二人で、終わらせるつもりじゃない。本当に殺した人間を見つけようとしている。それが、伝わってきた」
「それが、刑事の仕事ですから」
久保田は小さく笑う。今度は、苦々しくない笑い。少しだけ、温かい微笑みを。
「東京の刑事さんも悪くない人がいるんだな」
「ありがとうございます」
冴優は玄関を出ると、外の冷たい空気が、頬を刺す。久保田が見送りに出てきていた。
「気をつけて。雪解けの道は危ない」
「ええ」
「もう一つ、最後に」久保田は言う、
「はい」
「梶原を殺した人間が誰であろうと——わしはその人間に同情する。あんなに腐った男を殺すには、相当な何かが要っただろう」
冴優は何も答えず、久保田に頭を下げ、自転車にまたがりペダルに足をかけ、ゆっくりと漕ぎ出し、田畑の続く道を冴優は走り出す。久保田の家が後ろに小さくなっていく。帰り道、冴優は自転車をゆっくりと進める。急ぐ気持ちはなかった。むしろ、聞いた話を頭の中で整理する時間が欲しかったからだ。田畑の向こうに低い山並みが見え、雪がまばらに残り、麓に小さな集落が点在し、糸原町という小さな町と、その周辺の村々。みなが顔見知りで、しかし、その顔の下では何が起きているか、誰にも分からない。
梶原恒夫という男は——町の創業家の当主として、表向きは尊敬される立場にあった。が、実態は不正経理に手を染め、妻を殴り、弟を脅し、元工員を脅迫し、解雇していた。先代の温情を「弱さ」と呼んだ男。父の遺した工場を利己的な道具にしてきた男。そんな男が——死の予感を持って、変わろうとしていた。妻に「ありがとう」を書こうとしていた。弟に「これまでのことを清算したい」と言った。変化は人を救う場合がある。しかし、変化が——別の人間を追い詰める場合もある。不正経理に長年関わってきた人間にとって、突然の清算は——破滅を意味する。事実が表に出れば、自分も罪に問われる。家族にも累が及ぶ。だからこそ、変わろうとする恒夫を——殺さなければならなかった、誰かがいる。冴優は自転車を漕ぎながら、その「誰か」の輪郭を、頭の中で描いた。
——————
駐在所に戻ったのは、午後の二時を過ぎおり、宮本がお茶を淹れて待っていてくれた。冴優は一気に飲み干す。冷えた体に熱い茶が染みることなんの。湯呑みを置いた手にまだ自転車の振動の余韻が残っている気がした。
「どうでしたか、久保田さんは」
「興味深い話を、たくさん聞きました」
冴優は手帳を開き、宮本に内容を伝える。不正経理の疑い、隆がそれに加担していた可能性、林治雄という新しい人物のこと、宮本の顔が聞いている間に少しずつ硬くなっていった。聞き終わると、宮本は長く黙り込み茶碗を両手で包みながら、湯気を見つめた。
「不正経理——もしそれが事実なら大きな話です」
「ええ。事件の動機にも繋がってくる」
「と、いうのは」
「もし恒夫さんが病気を知って不正をやめようと考えていたとしたら——」
「不正を続けたい人間がそれを阻止しようとした、と」
「可能性として、です」
宮本は腕を組み、長い時間、目を閉じ、じっくりと、考えているのか、何かを思い出しているのか。
「猿島刑事——正直に申し上げます。私は——少し、戸惑っています」
「と、いうのは」
「私は糸原町で生まれ育ちました。梶原工場のことも、子供の頃から見てきた。先代の旦那様にも何度かお会いしました。立派な方でした。その息子の恒夫さんが不正経理に手を染めていたかもしれない——そう聞くと、町の歴史そのものが、足元から崩れていくような感覚があります」
「お辛いお話だと思います」
「いえ、お辛い、というのは違うかもしれません。私は自分が見ようとしてこなかったものを、今、見せられている。町の人間として何かに気づくべきだったのかもしれない。それを、ずっと、見ようとしてこなかった」
冴優は宮本の言葉を深く受け取る。地元の警察官として二十年以上糸原町を見てきた宮本。彼の中にも——町の人間としての複雑な感情があった。
「宮本さん、これは推測ですが、梶原恒夫さんを本当に殺した人間が誰であれ——その人もまた、長い時間をかけて追い詰められた人間だと思います」
「ええ」
「そういう人間を犯人として追うのは——刑事として、辛い仕事です」
「猿島刑事は、霧無村でもそういう経験を?」
冴優は少し考え、
「ええ。半年前、霧無村で——気の毒な犯人と出会いました。波多野医師という方でした。その方は、長い苦しみの末に、ある男を殺された。気の毒だ、と私は思いました。しかし——許せない、とも思った。両方の気持ちを、抱え続けることになりました」
「それが、刑事の仕事だと」
「私の上司——清水という人が、そう教えてくれました」
宮本は深く頷き、
「いい上司に恵まれたんですね」
「ええ」
二人はしばらく黙りお茶を飲む。駐在所の窓の外、午後の薄い光が町の屋根に差し、雪解けの水が、軒先からぽたぽたと落ちる音がする。冬の音、しかしどこかに春の気配を含んだ音。
「それが事実だとしたら、最も得をするのは——隆さんになりますね」
「ええ」
「しかし、隆さんは自首しています。その動機がもし不正経理を隠すためなら——なぜ自首するのか、分からない」
冴優は手帳を見つめ、
「動機が複数ある可能性があります。不正経理を隠すための殺害動機が一つ。そして、自首した動機が別」
「別、というのは」
「澄江さんを庇うため、と隆さんは言っています。それは本当だと私は感じています。しかし、それと、本当に殺したかどうかは——別の話です」
宮本は冴優の言葉をしばらく咀嚼し、
「つまり——隆さんは本当に兄を殺した。動機は不正経理の隠蔽。そして自首は、義姉を守るため」
「あるいは——隆さんは殺していない。自首は本当に義姉を守るため。本当の犯人は、不正経理に絡む別の人間」
「もう一つ、可能性は」
「澄江さんが本当に殺した。動機は十五年の暴力への復讐。隆さんは義姉が本当に殺したと知って自分も自首した。義姉を一人にしたくなかった」
——冴優は三つの可能性を並べた。どれも、現時点では否定できない。
「林治雄さんに、会いに行くべきですね」
「ええ。明日、伺います。ご紹介いただけますか」
「もちろん。今夜、紹介状をお書きしておきます」
冴優は頷き、
「もう一つ、宮本さんにお願いがあります」
「何でしょう」
「梶原工場の経理書類を押収できないでしょうか。不正経理の事実を確認するためには帳簿そのものを見る必要があります」
宮本は少し考え、
「殺人事件の捜査の一環として、ですね」
「ええ。事件の動機に直結する可能性があります」
「県警と相談して、明日中に手配します」
「ありがとうございます」
点が、線に繋がりつつある。しかし、まだ全体の絵は見えない。一つずつ、確実に、積み上げていくしかない。清水の言葉が、頭に浮かぶ。
「急ぐな。焦らず、丁寧に、積み上げろ」。
ええ、清水さん——冴優は心の中で答えた。私は、今、積み上げている、と。
——————
夕方、冴優は宿に戻ると、玄関で女将が冴優を迎える。
「お疲れ様でございました。お部屋に、お客様が、」
「お客様?」
「弟様が——梶原隆様が、お見えです」
冴優は驚いた。隆が自分から会いに来たということか。
「どれくらい、お待ちですか」
「一時間ほど、ですかね。お茶をお出ししたんですが、ほとんど手をつけていらっしゃらない」
「お通ししますか」
「いえ、私が下に降ります」
冴優は階段を降り宿の応接間に入る。と、応接間は狭いが清潔であった。古い木の椅子が二脚、低いテーブルを挟んで置かれ、壁に古い柱時計が掛かり、規則正しく時を刻んでいた。隆がソファに座っている。コートを膝に置き、両手を膝の上に組んでおり、冴優を見て、立ち上がろうとした。が、冴優は手で制した。
「そのままで結構です。お座りください」
冴優は向かいに座り、テーブルの上に湯呑みがあった。中の茶は、すっかり冷めている。隆は本当にほとんど口をつけていなかった。
「猿島刑事さん、突然申し訳ありません。お話ししたいことがあって」
「どうされましたか」
隆は深く息を吸い、
「実は——朝からお話ししていたことに、付け加えたいことがあります」
「どんなことですか」
隆は少し躊躇ったのか膝の上で両手が組み直される。
「事件の夜、私が書斎に向かったとき——廊下で義姉と会いました」
朝の取り調べでは、隆は「義姉とすれ違わなかった」と明言していた。それが——会っていた、と。
「正確には、いつ、どこで会いましたか」
「九時十分頃、母屋から離れに向かう渡り廊下で、です」
「義姉さんは、どちらの方向に歩いていましたか」
「離れの方から、母屋の方へ。つまり、私と逆の方向です」
「義姉さんは、書斎から戻る途中だった、ということですね」
「そうなります」
「義姉さんの様子は、どうでしたか」
「青ざめていました。私を見ると、何か言いたそうにして——でも、何も言わなかった。ただ、頭を下げて、通り過ぎていった」
「あなたは、何か声をかけましたか」
「かけませんでした。義姉のあの顔を見て——何かあったのだと、すぐに分かりました。問い詰めるような気持ちには、なれなかった」
「それで、書斎に向かった」
「はい」
冴優はペン止める。これが事実だとすれば——澄江は、隆が書斎に向かう前に、すでに書斎から戻っていた。澄江の二度目の訪問と、隆の訪問の間に、時間差があった。
そして澄江は、書斎で何かを見た——あるいは、何かをした——後で、戻ってきていた。
「隆さん、なぜ朝はその話をされなかったのですか」
隆は目を伏せ、
「義姉に不利になることを、話したくなかったからです」
「では、なぜ今、話す気になったのですか」
隆はしばらく黙り、そして、ゆっくり顔を上げる。
「猿島刑事さん。あなたは——本当のことを知ろうとされている。それが、伝わってきました。私が嘘をついたまま事件が終わっても、本当のことが分からないままになる。それは——義姉のためにもならない、と思いました」
「と、いうのは」
「もし義姉が本当に殺したのなら、その理由を、誰かに分かってもらうべきです。十五年の暴力に耐えてきた女性が、最後に何をしたか、なぜしたか——それを、誰かが知るべきです。事件が中途半端に終わると、義姉の十五年も中途半端なまま埋もれてしまう」
「隆さんが今、お話しくださったことは、義姉さんに不利になる可能性があります。それを承知の上でお話しくださったのですね」
「はい」
「ありがとうございます」
「もう一つ、お話ししておきたいことがあります」
「何ですか」
「お兄様のことです」
隆は少し間を置き、
「兄は——最後の数ヶ月、変わってきていました」
「変わる、というのは」
「以前のような、暴力を振るう兄ではなくなっていました。義姉に対しても、以前ほど厳しくなくなっていた。私に対しても命令する声が弱くなっていた。何か——抱えているものがあるように、見えました」
「病気のこと、ご存知でしたか」
隆は驚いた顔を浮かべる。
「病気——」
「澄江さんから伺いました。恒夫さんは、県の病院の消化器科に通っていらしたと」
「——知りませんでした。兄は、私にも何も言わなかった。しかし——確かに、最後の数ヶ月の兄の変化は何か病気を抱えている人の変化に似ていたかもしれない」
「恒夫さんは不正経理についても、変えようとしていましたか」
隆の顔がわずかに固まり、
「不正経理——」
「久保田誠一さんから、伺いました」
隆は深く目を閉じ、長い時間、目を閉じたままだった。やがて、ゆっくり目を開け、
「お話しします。兄は、不正をやめようとしていました」
——————
「兄が私に、その話をしたのは——事件の三日前です。夕食の後、書斎に呼ばれました。書斎には滅多に呼ばれません。何かあったのだと、すぐに分かりました」
冴優は身を乗り出すようにして、
「兄は私に言いました。『隆、これまでのことを、清算したい』と」
「清算、という言葉を使った」
「ええ。続けて、『俺はもう長くないかもしれない。死ぬ前に、できることをしておきたい。お前を、これ以上巻き込みたくない』と。兄がそんな言葉を言うのを——私は、初めて聞きました。父が亡くなって以来、兄は強い言葉しか発しなかった。命令、叱責、罵倒——それらしか、兄の口からは出なかった。それが——『お前を巻き込みたくない』と言った。私は、戸惑いました」
「あなたは、何と答えましたか」
「最初は何も言えませんでした。兄の言葉が現実のものとして頭に入ってこなかった。やがて私は、兄に問いました。『病気なのですか』と」
「恒夫さんは何と」
「『俺の病気のことは、お前は知らなくていい』と。それだけ言いました」
「不正経理について具体的にどうするおつもりだったのですか」
やはり——恒夫は病気を知っていた。そして、不正経理から手を引こうとしていた。
「恒夫さんは具体的に何をするつもりだったのですか」
「不正経理を、止める。これまで流していた金を可能な範囲で工場に戻す。そして——澄江に本当のことを話す」
「澄江さんに、不正経理のことを?」
「いえ、それも含めて——もっと広い意味で、です。兄は私に言いました。『澄江には、長く苦労をかけてきた。死ぬ前に、何か——償いをしたい』と」
「澄江への償い」——あの書きかけの手紙の意味が、ここで見えてくる。
「ありがとう、と言わねばならぬのだろうか」——恒夫は、十五年間殴り続けた妻に感謝と謝罪を伝えようとしていた。死を意識した男の最後の清算として。
「隆さん、その恒夫さんの決意を聞いて、あなたはどう感じましたか」
「複雑でした。兄が変わろうとしていることは——嬉しかった。義姉のためにも、私のためにも。しかし同時に——」
「同時に?」
「これまでの十数年が、何だったのか、と思いました。兄が私に経理の不正をさせ続けてきた、その十数年が。今更、清算と言われても——失われた時間は、戻ってこない」
被害者の家族——あるいは加害者の家族と言うべきかもしれない——複雑な感情がそこにあった。憎みながら、愛していた。澄江が言っていた言葉がここでも当てはまる。
「率直に伺います。恒夫さんの清算を止めたいと思いましたか」
「思いませんでした。むしろ、清算してほしかった。兄が清算してくれれば——私の心の重荷も、下りる気がしていた」
「あなた自身が清算に賛成していた、ということですね」
「ええ」
「では、不正経理を継続したい人間は、他に誰がいますか」
「分かりません。私と兄、二人だけが——直接の関係者でした。書類上は、ですが」
「実態のない『仕入先』には、誰かいるはずです。金が流れていた以上、それを受け取って、また恒夫さんに戻す人間がいた」
「それは——私には、分かりません。書類上の取引は私が処理していました。しかし、現金がどう動いていたかは——兄が直接、扱っていた」
「現金を扱っていた、と」
「ええ。書類上の支払いの後、現金がどう兄に戻っていたかは、私の関与外でした。兄は『お前は、書類だけやっていろ』と、
——————
「林さんが辞めた経緯を、お聞かせください」
「五年前のことです。林さんがある日突然、兄に直訴に行きました。私は別室で書類を確認していたので、内容は聞こえませんでした。しかし、兄の怒鳴り声だけが、廊下まで響いていました」
「怒鳴り声の内容は、覚えていますか」
「『黙っていろ』『口外したら、家族にも害が及ぶ』——そういう言葉が、断片的に聞こえました」
「家族に害が及ぶ、と恒夫さんが言ったのですね」
「ええ」
「林さんの家族に、何か脅しをかけた、ということでしょうか」
「そう推測しています。林さんはあの日から人が変わったようになりました。以前は穏やかでよく話す方でした。それが——黙り込むようになった。一週間後、健康上の理由で退職する、と届け出を出されました」
「林さんの家族構成をご存知ですか」
「奥様と息子さんが一人。当時、息子さんはまだ高校生でした。今は二十代の前半だと思います」
「奥様は、ご病気でしたね」
「ええ。長く床に就かれていた。林さんが介護をしながら工場勤めを続けていらした」
病気の妻、若い息子。林治雄にとって家族は守るべき全てだった。恒夫はその急所を狙ったのだ。
「恒夫さんは林さんの何を握っていたのでしょうか」
「具体的なことは、私には分かりません——ただ、兄が誰かを脅すときは——その人の最も大切なものを使うのが常でした。林さんの場合、それは家族だった」
「恒夫さんはその手口を、他にも使っていましたか」
隆は黙る。長い沈黙が応接間を満たし、やがて、隆は静かに、
「私にも、です」
「あなたに?」
「兄は私に、不正経理を強いるとき——義姉を引き合いに出しました。『お前が断れば、澄江がどうなっても知らんぞ』と」
「恒夫さんは、義姉さんへの暴力を、あなたへの脅迫材料にしていたのですか」
「ええ。私が経理の不正に加担していた本当の理由は、それです。義姉を、これ以上酷く扱わせないために——私は兄の言いなりになっていた」
家の中の暴力が、家の外の犯罪と——直接繋がっていた。恒夫は妻への暴力を、弟への支配の道具に使っていた。隆は妻を守るために、不正に手を染めていた。
「義姉さんは、それをご存知でしたか」
「いえ。兄が私を脅していたことは義姉には知られたくありませんでした。義姉に自分のせいで誰かが苦しんでいると——思わせたくなかった」
「あなたが、義姉さんを長く守ってきたのですね」
隆は少し首を振りながら、
「守ったとは言えません。本当の意味では、何も守れなかった。義姉は十五年、殴られ続けてきた。私はそれを止められなかった」
隆という男の、十数年の重さが応接間の空気に滲んでいた。
「林さんは、その後、町を出ましたか」
「いえ。隣の村に転居されました。すぐ近くです。しかし——町には、ほとんど来なくなりました。工場の関係者と距離を置いている様子でした」
「林さんは、兄上を恨んでいたと思いますか」
隆は少し考えながら、
「恨んでいたでしょうね。健康な体で家族と平和に暮らしていた林さんを兄は脅して仕事を奪い心を傷つけた」
「林さんに、復讐の動機は十分にある、ということですね」
「動機としては——あります。しかし、林さんは穏やかな方です。本当に殺すかどうかは——わかりません」
冴優は手帳を閉じ、
「隆さん、今日はたくさんのお話を聞かせてくださいました。ありがとうございます」
「いえ」
「明日、林さんに会いに行きます。そして——その後、改めて、あなたとお話ししたい」
「分かりました」
隆は立ち上がりコートを羽織った。
「猿島刑事さん。義姉のことを——よく見てやってください。あの人は長く苦しんできた人です。何があったとしても、最後まで——人として、扱ってあげてください」
「ええ」
隆は深く頭を下げ、応接間を後にする。冴優は応接間に一人、残され、テーブルの上の冷めた茶をしばらく見つめる。隆は、結局ほとんど飲まなかった茶。一時間以上、ここで待っていた男の——湯気の消えた茶。
冴優はその茶を自分の前に引き寄せ、一口、飲んでみたが、冷たかった。しかし——苦くはなかった。隆という男のような、静かな、しかし芯のある味だった。
隆は家族のために自分を犠牲にし続けてきた男。兄に脅され、妻を守るために不正に加担し、義姉を庇うために自首した。誰のためでもなく、ただ——壊れる役を引き受けてきた人。そういう人を犯人として疑い続けるのは——刑事として辛い仕事だった。
しかし、辛いことを抱える、それが刑事の仕事だ、と冴優は自分に言い聞かせる。
——————
その夜、冴優は夕食の後、宿の縁側に出てみると雪はすっかり溶けていた。庭の地面は黒く濡れ、空には星が出ていた。糸原町の冬の星空は、東京とは比べものにならないほど深い。冴優は息を白く吐きながら、空を仰いだ。北斗七星がはっきりと見え、子供の頃、父から教わった星の位置を冴優は思い出した。父はもう亡くなっている。星を一緒に見てくれた人は、清水だけが残っていた。霧無村の宿で、清水と二人、夜空を見上げたことが——あった気がする。記憶の中で、それは確かなものなのか、自分の願望が作ったものなのか、冴優にはもう分からなかった。冴優は手帳を開き、今日聞いた話を、整理する。
——不正経理。久保田の解雇。林の脅迫退職。隆の関与。恒夫が病気を知り清算しようとしていた。書きかけの手紙。澄江への謝罪と感謝。
そして——隆が新たに証言したこと。澄江と渡り廊下ですれ違った、ということ。点が、増えていく。線が、ゆっくり繋がり始めていた時、後ろで足音が聞こえた。冴優は振り返ると、澄江が立っていた。地味な紺色の着物。少し疲れた顔。しかし、目には、何か——強い光があった。
「澄江さん」
「猿島刑事さん。お時間、よろしいですか」
「ええ。どうぞ」
澄江は冴優の隣に、少し離れて座り、膝に毛布をかけた。二人はしばらく、星空を見ていた。
「猿島刑事さん。今日、隆さんが——あなたに会いに来ましたね」
「ご存知でしたか」
「宿の女将が、教えてくれました。隆さんが、何を話したか——大体、想像がつきます」
「と、いうのは」
「私と廊下で会った、ということ。そして——夫の不正経理のこと、でしょうか」
「澄江さん、不正経理のことをご存知だったのですか」
澄江は少しだけ笑う。乾いた、しかし冷たくはない笑い。
「妻ですから。家の暮らしぶりと夫の様子を見ていれば、何かおかしいことは——分かります。具体的なことは知りませんでした。しかし、夫が何か危ないことをしている、ということは——感じていました」
「直接、ご主人に確認はされなかったのですか」
「できませんでした。聞けば殴られる。それが私たちの結婚生活でした」
「澄江さん、もう一つ伺ってもよろしいですか」
「ええ」
「隆さんが、兄上から——あなたを盾に脅されていたことを、ご存知でしたか」
澄江はしばらく星を見ていた。そして、ゆっくり首を振る。
「知りませんでした」
「隆さんは、不正経理に加担することで——あなたへの暴力を、これ以上酷くしないように、と兄上に従っていた、と」
澄江の目に、わずかに何かが光った。涙のようだったが、こぼれなかった。澄江はそれを、瞬きだけで止めた。
「そうでしたか。隆さんは、そういう方なのです。誰にも、本当のことを言わずに、自分一人で——抱える方なのです」
「あなたを、守るためだったと」
「私を、というよりは——あの人は、家族を守るために、自分が壊れることを選び続けてきた。子供の頃から、ずっと」
冴優は澄江の言葉を聞きながら、隆という男のもう一つの姿を見ていた。家族の中で、自分が壊れることで全体を保ってきた弟。夜風が二人の間を通り過ぎていく。冬の夜の冷気が澄江の襟元を撫でる。
「澄江さん。今夜、確認させてください。事件の夜、あなたは渡り廊下で隆さんとすれ違いましたか」
澄江は少し間を置き、
「すれ違いました」
「では、朝の取り調べでお話しになったこと——隆さんと会わなかった、というのは、嘘だったということですね」
「嘘です。隆さんを巻き込みたくなかった。それで、隆さんに会わなかったことにしました」
「あなたが、隆さんと会ったとき、書斎から戻る途中だった——それで間違いないですか」
「はい」
「書斎で、何があったのですか」
澄江はしばらく、星を見ていた。そして、ゆっくり告げる。
「夫が、倒れていました」
「恒夫さんを打ちましたか」
澄江はしばらく答えなかった。夜風が、また二人の間を通り過ぎ、庭の枯れた木が、わずかに揺れた。
「分かりません」
「分からない、というのは」
「打ちたいと思いました。確かに思いました。文鎮を取った——記憶があります。しかし、振り下ろしたかどうか——本当に、分からないのです」
澄江の目に初めて——本当の困惑が浮かんでいた。
「夫が倒れていたのを見つけました。夫は——息をしていなかった。私は自分が打ったのだと思いました。あんなに長く、打ちたいと思ってきた。だから、自分がやったのだ、と」
「しかし、振り下ろした記憶は、ない」
「曖昧です。夢を見たような感覚で——文鎮を握った瞬間と、夫が倒れている姿が、頭の中で混ざっています。どちらが先で、どちらが後か、分からない」
やはり——澄江は、自分が殺したかどうか、本当には分からないでいる。
「澄江さん。事件の夜のことを、もう一度、ゆっくり話していただけますか。今度は、無理に『殺した』という結論に持っていかなくていい。覚えていることだけで、結構です」
澄江はしばらく星を見ながら、そして、語り始める。
十五年間の結婚生活が一晩でほぐれていくような——そんな話し方で。
「夕食のとき、夫の様子がおかしかったのは、お話しした通りです。何か言いたそうで、しかし言えないでいる夫を、私は不思議に見ていました。十五年、あんな顔の夫を見たことがなかった」
「夕食の後、夫は書斎に行きました。私は片付けをして、針仕事を始めました。九時前——お茶を運ぶことにしました。書斎の灯りがまだ点いていたから、です」
「最初に書斎に入ったとき」
「夫は机に向かっていました。私が入ると、振り返って——『少し待て』と言いました。私は、怖かった。何を言われるか、分からなかったから」
「ご主人は、何を言ったのですか」
「夫は、立ち上がって、私の前に来ました。そして——私を抱きしめようとしました」
「抱きしめようと?」
「ええ。手を伸ばして私の肩に触れようとしました。私は——反射的に、後ろに下がりました。夫の手が、空を切った。夫はそれを見て、止まりました。手を下ろし、何も言わずに、また机に戻りました」
梶原恒夫は——妻に触れようとしていた。十五年間殴り続けた手で、今度は、抱きしめようとした。妻はそれを、暴力と区別がつかず、反射的に避けた。恒夫は、その距離の遠さに——気づいた。そして書斎に戻り、書きかけの手紙を始めた。
「ありがとう、と言わねばならぬのだろうか」と。
「私は、書斎を出ました。居間に戻って——震えていました。夫があんな目をしたのは、初めてだった。私は、夫を理解できなかった。怖かった、ではなく、混乱していました」
「それから、二度目に書斎に向かったのですね」
「三十分ほど居間で考えていました。夫が何かを言いたかったのなら——私の方から聞きに行くべきかもしれない、と思いました。十五年で初めて、私から夫に近づこうとしたのです」
「書斎に二度目に向かったとき、何を見つけましたか」
「夫が机の前に倒れていました。文鎮が、床に転がっていました。血が夫の頭から流れていました」
「あなたは、何をしましたか」
「文鎮を、拾い上げました。拾い上げて、握りしめました。手に、血がついた——記憶があります。それから——」
「それから?」
「気づいたら、文鎮を持ったまま書斎の真ん中に立っていました。夫の死体を見下ろしていました。何分、そうしていたか分かりません。やがて、廊下で足音がして、私は文鎮を床に置いて、書斎を出ました」
冴優は手帳を握る指先が、強くなる。澄江は——文鎮を拾い上げた。しかし、振り下ろした記憶はない。倒れていた夫を見つけて、文鎮を握り、しばらくその場に立っていた。それから、隆と廊下ですれ違った。
つまり——澄江は、殺してはいない。
しかし、文鎮に彼女の指紋がついている可能性はある。証拠としては、彼女が殺した、と判断されてもおかしくない状況だ。
「澄江さん。あなたは、夫を殺していません」
「殺していない、と」
「ご主人は、あなたが書斎に入る前に、すでに亡くなっていました。あなたは、文鎮を握っただけ。打ったのは、別の人間です」
澄江はしばらく、何も言わなかった。そして——澄江は、目を閉じると、涙が、頬を流れた。
十五年間、流せなかった涙が、ようやく流れているような、深い涙だった。震える声で、
「ありがとうございます。ずっと——分からなかった。自分が殺したのかどうか、分からなくて——苦しかった」
澄江はまた、星を見上げる。涙が頬を流れたまま、星を見ている横顔を冴優は見ていた。
「殺してもいい、と思っていました。夫を、殺してもいい、と。十年以上、毎日のように考えてきました。寝る前、台所で料理を作りながら、針仕事をしながら——殺すなら、どうやって、どこで、いつ、と。考え続けてきました」
「澄江さん——」
「だから、夫が倒れているのを見たとき、私は『やってしまった』と思った。それが——私が殺した、という記憶として頭の中で形になった。文鎮を握ったのは——記憶として本当のことです。打った、というのは——望みが、記憶になっていただけなのですね」
「そうかもしれません」
澄江は涙を拭り、
「申し訳ありません。早く気づくべきでした」
「いえ。今、教えていただけて——救われました」
二人はしばらく、何も言わずに星を見ている。夜風が、もう一度、二人の間を通り過ぎると、
「澄江さん、まだ犯人は——見つかっていません。ご主人を本当に打った人間は別にいます」
「ええ」
「あなたは、誰だと思いますか」
「分かりません。しかし——隆さんではない、と思います」
「なぜ、そう思われますか」
「隆さんが廊下ですれ違ったとき、隆さんの服に——血はありませんでした。血を流させた直後の人間が、血のついていない服で歩くのは、難しい」
「ええ。私もそう思います」
「もう一つ、ありますか」
「隆さんはそういう人ではありません。兄を憎んでいたかもしれません。十数年、辛い思いを抱えてきたかもしれません。しかし、自分から手を下す人ではない。あの人は——壊れることはあっても、壊す人ではありません」
澄江の言葉には長年共に暮らしてきた女性の確信があった。義姉として、隆の本質をよく知っている人の言葉。
「では、誰が——」
「それを、これから探します」
「猿島刑事さん。お願いがあります」
「何ですか」
「真実を、見つけてください。私と隆さんのために、ではなく——夫のために」
「ご主人のために、ですか」
「夫は、最後に変わろうとしていました。それが、誰かによって——奪われた。夫は、十五年間、私を殴り続けた酷い男です。しかし、最後の三日間、夫は変わろうとしていた。その変化を、誰かが許せなかった」
澄江は星を見上げた。
「夫の最後の三日間を無駄にしないで欲しい。それが私の願いです」
冴優は深く頷き、
「分かりました。必ず、見つけます」
澄江は静かに頭を下げ、そして、立ち上がる。毛布を畳み、縁側を離れていった。冴優は一人、星空に残された。梶原恒夫——十五年妻を殴り続けた男が、最後に、変わろうとしていた。その変化を奪った人間が、いる。
不正経理。隆。林治雄。久保田。
点を、線にする。線を、絵にする。明日、林治雄に会いに行つもりだ。冴優は星をもう一度、見上げる。冬の空は、深い。霧無村で清水と一緒に見上げた星空のことが、ふと頭に浮かんだ。あの夜、清水は何を考えていたのだろう。半年たった今、清水は遠い。電話の向こうにいる人。それでも——清水の言葉は、冴優の中に残っている。
「気の毒と、許せないは、別の話だ」
梶原恒夫という男は、許せない。十五年、妻を殴り続けた。弟を脅し、不正経理に巻き込んだ。林治雄を脅迫し、家族を盾にして黙らせた。久保田を不当に解雇した。しかし——気の毒だ、とも思う。最後に変わろうとしていた男。清算を試みていた男。妻に「ありがとう」を書こうとしていた男。死を意識して、ようやく自分の人生を見直そうとした男。その変化が、誰かに奪われた。両方を、抱える。冴優は清水から教わった言葉を自分の中でゆっくり咀嚼するり
夜風が、もう一度、頬を撫で、冴優は立ち上がり、階段を上りながら、冴優は思った。梶原恒夫の最後の三日間は、その人の人生で——おそらく最も人間的な時間だったのだろう。死を予感し、自分のしてきたことを見つめ、変えようとした。短いが、確かな変化があった。
その変化を、奪った犯人。
その犯人を、必ず見つける。
冴優は部屋の障子を開けると、冷えた畳の匂いが、出迎えてくふ。布団を敷き、火鉢に新しい炭を足し手帳を枕元に置く。今日の聞き込みで増えたメモがページに重なっている。布団に入る前、冴優は窓辺に立ち、もう一度星空を見る。北斗七星。冬の星座。氷点下に近い夜の、澄み切った空。
清水なら、この空を見て何を思うだろう、と冴優はふと考えた。
「お前自身が、お前の解き方を作る事件になる」——清水の言葉が、頭に浮かび、布団に入る。糸原町の事件は——まだ、奥に向かっている。布団の中で冴優は目を閉じ、眠りに落ちる前、霧無村で清水と聞いた、雨の音を、なぜか思い出した。あのとき清水は、何を考えていたのだろう。今、自分は同じ場所に立っているのだろうか。
答えは出ない。ただ、明日が来る。そして冴優は明日に向かってまた一歩、進む、それだけだ。やがて、冴優の意識はゆっくりと深い眠りに沈んでいく。外で、冬の風が、糸原町の屋根を撫でていく音が聞こえ、誰にも聞かれない、夜の音。冴優にももう聞こえなかった。ただ、糸原町の冬の夜は、深く、続き、糸を紡ぐ町の長い夜。長く長く、夜が、続いていく。明日はすぐそこにあるのだろう。冬の朝はまた確かに来る。誰の上にも、等しく、冷たく。




