四章 澄江の十五年
林治雄の家は糸原町から峠を越えた隣村の外れにあった。冴優は宮本の運転する車で向かっている。雪は溶けかけているが峠の道は所々まだ凍っており、車のタイヤが鈍い音を立てた。窓の外を冬枯れの木々が流れていき、曇った空の下、山の稜線がぼんやりと見えていた。
「林さんは最近どうしておられますか」
「奥様の介護をされていますね。隣村に転居されてからも、ずっと」
「息子さんは」
「県の高校を出てから家を継ぐと決められたようです。今は、町の小さな農協で働いておられます」
「お幾つくらいですか、息子さんは」
「二十二、三だと思います。林さんが辞められた時、まだ高校生でしたから」
冴優は窓を見ながら考える。林治雄は五年前に恒夫から脅され、家族を守るために黙って退職した男。今もなお、病気の妻と若い息子のために静かに暮らしている。そういう男に、これから話を聞きに行く。
「林さんにお電話で連絡は」
「昨夜のうちに、紹介の件をお話ししました。お困りの様子はなさそうでした。『協力する用意はあります』とおっしゃっていました」
「不正経理のことを林さんは話してくれるでしょうか」
宮本は少し考えてから、
「分かりません。林さんは長年、口を閉ざしてきた方です。家族のために黙ってきた人が急に口を開くか——」
「梶原さんが亡くなったことが何か変えるかもしれない」
「そうですね。脅迫の主が消えれば——口を開く理由ができたかもしれません」
車は峠の頂上に近づく。窓の外を見ると糸原町と隣村が両方の麓に見えていた。同じ山に挟まれた、二つの小さな町。
「峠を越えるだけで、林さんは『別世界』に逃げたつもりだった、ということでしょうか」
「そう、思いたかったでしょうね。——しかし、本当に逃げ切れたかどうかは——林さん自身も、分かっていなかったかもしれません」
車は峠を下り、小さな集落に入る。家々はまばらで田畑の合間に点在しており、林の家はその集落の最も奥、山に寄り添うように建っていた。
古い農家を改築した家。庭先に薪が丁寧に積まれており、久保田の家のような乱雑さはなく、手入れの行き届いた、きちんとした暮らしが見える家だった。
車を止め、冴優は降りる。と、冷たい空気が頬を刺してくる。
「私はここで待っております。林さんは人見知りされる方です。お一人で行かれた方がよろしいでしょう」
「ええ、そうします」
冴優は宮本の紹介状を持ち、引き戸の前で深く息を吸い、戸を叩いた。
——————
内側でしばらくしてから足音がする。慎重でゆっくりとした足音。戸が開く。と、立っていたのは五十代後半の男だった。痩せ型でしかし久保田のような疲労はなく、背筋を伸ばし、清潔な木綿の着物を着ていた。冴優を見るなり、男は無言で頭を下げる。
「林治雄様でいらっしゃいますか」
「林です」
声は静かで、しかし芯のある声であった。冴優は紹介状を差し出す。
「糸原町駐在の宮本様よりご紹介をいただきました。猿島と申します」
林は紹介状をゆっくり読み、それから冴優を見る、
「梶原のことですね」
「ええ」
林はしばらく黙り冴優の顔を見つめている。何かを試されているような、長い視線だった。やがて林は戸を大きく開け、静かに言う。
「お入りください。妻は奥で寝ています。声を落としていただければ、ありがたい」
「分かりました」
玄関を上がり、林に案内されて居間に通される。居間は、想像していたより明るく、南向きの窓から薄日が差し、畳の上に薄い光の四角が落ちている。古い卓袱台、座布団、茶箪笥。生活感のある、しかしすべてが整えられた空間だった。林は冴優に座布団を勧め、自分は向かいに座る。
「お茶を淹れます」
「お構いなく」
「いえ、淹れさせてください。私の習慣ですから」
林は静かに立ち上がり、台所に消えていく。冴優は居間の中を見渡す。と、壁に古い掛け軸がかかっており「忍」と一文字、達筆で書かれている。冴優はその字をしばらく見つめる。
耐え忍ぶこと——それが林治雄という男の生きる姿勢なのかもしれない。
やがて林が戻り湯呑みを冴優の前に置く。湯気が静かに立ち上った。
「梶原が、殺された。ご存知でしょうが、私は——あの男を恨んでいました」
林は隠そうとしなかった。
「率直に伺います。十二月十四日の夜、どこにいらっしゃいましたか」
「家にいました。妻の介護をしていました」
「証明できる方は」
「息子が家にいました。仕事から帰っていましたから」
「息子さんに確認させていただいてよろしいでしょうか」
「ええ、構いません。今は仕事で出ていますが、夕方には戻ります」
冴優は手帳を取り出し、ゆっくり開く。
「林さん、あなたは梶原工場で経理をされていましたね」
「ええ。先代の頃から、二十年ほど」
「五年前にお辞めになった」
「ええ」
「お辞めになった経緯をお聞かせいただけますか」
林は湯呑みを両手で包み、湯気を見つめている。長い沈黙が続き、やがて、林は静かに口を開く。
「私は——脅されて、辞めました」
——————
林は湯呑みを置き、深く息を吸って言葉を続ける。
「先代の頃、私と久保田さんで経理を担当していました。先代は立派な方で不正は一切ありませんでした。それが——恒夫さんが当主になられて五年ほど経った頃から帳簿に妙な動きが見え始めました」
「妙な動き、というのは具体的に」
「最初に気づいたのは私の方でした。月に一度、経理書類の総括をします。仕入先ごとの支払いを集計し、月の総出費を算出する。その際、見覚えのない仕入先からの請求書が混じっていました」
「久保田さんと相談されたのですか」
「ええ。同じ日の夕方、久保田さんに『この仕入先、覚えがありますか』と尋ねました。久保田さんも知らないと答えました。それで、二人で半年ほどその仕入先を調べました」
「半年、ですか」
「ええ。確実な証拠を集めるために、です。書類だけ見て『不正だ』と言うのは早い。納品の有無、商品の流れ、銀行口座の照合——できる範囲で確認しました」
林は静かに語る。経理を長年担当してきた男の緻密な仕事ぶりが伝わってくる声だった。
「不正経理ですね」
「ええ。実態のない会社への支払い。最初は私の見落としかと思いました。久保田さんと一緒に確認し、二人で恒夫さんに話に行きました。『この支払い、何かのお間違いではありませんか』と」
「恒夫さんは、何と」
「『お前たちには関係ない。黙って書類を処理しろ』と。それだけでした。久保田さんは納得しませんでした。何度も恒夫さんに直訴に行きました。が、——私は、それを見ていました。久保田さんが何度も追い返されるのを」
「林さんご自身は、再度直訴されなかったのですか」
「しませんでした。私には、家族がいた。妻が病気で、長く床に就いていました。息子はまだ高校生で、教育費がかかった。仕事を失えば、家族が路頭に迷う。それが——分かっていましたから。私は卑怯でした。久保田さんが追い詰められていくのを見ながら、声を上げなかった。久保田さんが解雇された時、私は——何も言えなかった」
「久保田さんに、何かお伝えになりましたか」
林はしばらく黙り、
「久保田さんが解雇された日、私は会社の門の前で、久保田さんを待ちました。何か言葉をかけたかった。しかし——会えませんでした。久保田さんはその日のうちに荷物をまとめて去ってしまわれた」
「その後、久保田さんとは——」
「会っていません。何度か手紙を書こうとしましたが、書けませんでした。何を書いても、自分の卑怯さの言い訳にしかならない、と思って」
林は責めるような口調ではなかった。ただ事実として、自分の卑怯さを認めていた。それが、この男の誠実さでもあった。
「久保田さんが解雇されてから林さんが経理の責任者になられた」
「ええ。そして——不正経理は私の手を経るようになりました」
「ご自身も、関与することになった」
「ええ。書類を作り、判子を押す。私の名前で実態のない会社に金を流す。最初は抵抗しました。しかし——」
「しかし?」
林は深く息を吐き、
「ある朝、出勤したら机の上に手紙が置いてありました。差出人は書かれていませんでした。中には私の家族のこと——妻の入院先、息子の通う高校、家の住所、毎日の通学路。それらが、克明に書かれていました。最後に、こう書かれていました。『お前の家族は、いつでも消すことができる』と」
「恒夫さんが書いたのですか」
「直接の証拠はありません。しかし——書かれていた情報は社内で私の家族のことを知っている恒夫さん以外には書けないものでした」
「その手紙は今もお持ちですか」
林は少し考え、ゆっくり答える。
「焼きました」
「焼いた」
「ええ。あの日のうちに囲炉裏で焼きました。手元に置いておくのが——耐えられなかった。家族への脅迫を、家の中に置くことが、できなかった。その日から私は——恒夫さんに逆らえなくなりました。不正経理に協力し、書類を作り、口を閉ざしました。家族のために、です」
「眠れない夜が、続いたのではないですか」
「——眠れませんでした。三年ほど、ろくに眠れなかった。妻は私の様子を心配し、何度も尋ねました。『お父さん、何かあったのですか』と。私は——何も言えませんでした。妻に話せば、妻が私を救おうとして動く。動けば、家族が危険にさらされる。だから、黙るしかなかった」
「妻は、お気づきになっていたと思いますか」
林はわずかに微笑み、長い結婚生活を経た男の、深い微笑みだった。
「妻は何かあると気づいていました。具体的には知らなかったでしょう。しかし——夫が苦しんでいることは見ていました。妻は、何も言わずに、夜中に台所で温かいお茶を淹れてくれた。それを、何も言わずに飲ませてくれた。それが——私を生かしてくれました」
「五年前、辞められたきっかけは何でしたか」
林はしばらく考えてから、
「妻の容態が急に悪化しました。介護に専念しなければならなくなった。私はもう工場に通えない状態でした。それで、辞表を出しました」
「恒夫さんはすんなり受け入れたのですか」
「いえ。最初は激しく反対されました。『お前を辞めさせるわけにはいかない。経理を任せられる人間が、お前以外にいない』と。私は——必死に頭を下げました。『妻が長くないかもしれない。最期は、家で看取りたい』と」
「結果は」
「条件をつけられました。『辞めてもいい。しかし——一切、口外するな。家族の命が惜しいなら』と」
林の声がわずかに震え、
「私は頷きました。それ以外、選択肢がなかった。妻と息子を守るためには——黙るしかなかった」
「そして、隣村に転居された」
「ええ。糸原町に住み続けるのが——耐えられなかった。町の中で恒夫さんと顔を合わせる可能性がある。私はもう、あの男と会いたくなかった。家族の命を握られている、という事実を——日々、突きつけられたくなかった」
冴優は手帳に書き込み、それから静かに尋ねる。
「林さん、あなたが辞めた後、不正経理は誰が引き継いだのでしょうか」
「隆さんです。恒夫さんの弟さん」
「隆さんも脅されていたと思いますか」
林は少し考えた後、ゆっくりと、
「隆さんは私とは違います。家族——というより、義姉の澄江さんを、盾に取られていた、と聞いています」
「林さんはそれをご存知だったのですか」
「噂として、です。確証はありません。しかし、隆さんが恒夫さんに逆らえない理由が、それだったとしても——驚きません」
——————
「林さん。梶原恒夫さんが、最近変わってきていた、ということをご存知ですか」
林は意外そうな顔を浮かべ、
「変わってきていた、というのは」
「病気を患い、不正経理をやめようとしていた、ということです」
「本当ですか」
「弟さんの隆さんから、伺いました。事件の三日前、恒夫さんは隆さんに『これまでのことを、清算したい』と話していたそうです」
林はしばらく黙り、それから深く息を吐いた。
「そうでしたか——そうだったのですね」
「林さんも、何か気づかれていたのですか」
「いえ、直接は。ただ——一ヶ月ほど前、町で恒夫さんを見かけた。偶然です。近所の郵便局の前でした。恒夫さんは私を見て——驚いた顔をされた。そして、何も言わずに、頭を下げて去られた」
「頭を下げた?」
「ええ。これまで、恒夫さんが私に頭を下げたことなど一度もありませんでした。私を脅して家族を盾にして不正に巻き込んだ男です。その男が、町の道で——私に頭を下げた。私は、その意味が分からなかった。あの男が頭を下げる理由が——分からなかった。しかし、今、お話を聞いて思います。あれは——恒夫さんなりの、謝罪だったのかもしれない」
梶原恒夫は林にも何かを伝えようとしていたのかもしれない。直接の言葉ではなく、頭を下げるという行為で。
「林さん、あなたは——恒夫さんが死んだとき、どう思われましたか」
「正直に申し上げます。最初に聞いたとき——少し、ホッとしました。あの男がもう、私の家族を脅すことはない。長年の重荷が少しだけ軽くなった気がしました」
「ええ」
「しかし、すぐに——複雑な気持ちになりました。あの男が変わろうとしていたとは知らなかった。今、それを聞いて——恒夫さんもまた、苦しんでいた人間だったのかもしれない、と思います」
冴優は林の言葉を、深く受け取る。林治雄という男は、自分を傷つけた相手にも、同情を寄せられる人間だった。それは、長い忍耐の中で養われた深い人間性なのかもしれない。
「林さん、最後に伺います。あなたは恒夫さんを殺していませんね」
「殺していません。私は、家族を守ることを最優先してきました。今更、人を殺して家族を不安にさせることは、しません」
「分かりました」
冴優は手帳を閉じ、湯呑みを取って、お茶を一口飲む。林の淹れたお茶は深い香りがあった。久保田の家のお茶とも、駐在所のお茶とも違う、丁寧に淹れられた、上等な茶葉の味だった。
「ありがとうございました。お時間をいただき、感謝いたします」
「いえ。お役に立てたかどうか、わかりませんが」
「十分、役に立ちました」
冴優は立ち上がると、林も立ち上がり、玄関まで見送りに来た。玄関で奥の部屋から微かな声が聞こえてくる。
「あなた、お客様は——」
林の妻の声だろうか。細い、しかし確かな声。
林は「警察の方だよ。心配ない」と奥に答え、冴優に向き直る。
「妻が、目を覚ましてしまいました。最近、調子のいい日が増えています。声を聞くだけで、気にして起きてしまうのです」
「お辛い状態ですね」
「いえ。妻が起きていてくれること自体が、私の救いです。医者にはもう長くないと言われています。しかし、私たちは——一日一日を、大切に過ごしています」
林治雄という男は家族のためにすべてを耐えてきた。十五年前から自分の良心を売り渡してまで——家族を守ってきた。その家族と、今、彼はようやく静かな日々を過ごしている。
「猿島刑事さん。もし、犯人が見つかったら——その人が誰であろうと——どうか、人として扱ってください。あの男に追い詰められた人間がいっぱいいます。誰が殺したとしても——ただ悪人として処理しないで欲しい」
「ええ」
「お元気で」
林は深く頭を下げてくる。冴優も深く頭を下げ、林の家を後にし、宮本の待つ車に戻った。
車に乗り込んでドアを閉めるとき、冴優は林の家を振り返る。古い農家の屋根、丁寧に積まれた薪、白い椿。すべてが、家族を守ろうとした男の痕跡だった。
——————
「どうでしたか」宮本が車を発進させながら尋ねてくる。
「事件の動機についてもう一つの層が見えてきました」
冴優は手帳を膝に置き、林の話を整理しながら、宮本に伝える。脅迫の手紙、家族を盾にされた経緯、恒夫が一ヶ月前に頭を下げた話。
宮本はハンドルを握りながら、静かに聞いている。
窓の外を、冬枯れの景色が流れていく。峠を上る道は曲がりくねり、所々に雪解けの水が小さな川のように流れ、車のエンジン音が低く一定のリズムで鳴っている。
「町を出てから林さんはずっと——あの恐怖を抱え続けていたのですね」
「ええ」
「梶原恒夫という男は——本当にどれだけの人を傷つけたのか」
「久保田さん、林さん、隆さん、澄江さん。私たちが知っているだけでも、四人。実際はもっと多いのかもしれません」
「町の人間として、申し訳ない気持ちになります。私は糸原町で生まれ育ったのに——あの家の中で何が起きていたか、何も気づけなかった」
「警察官だからといって家の中まで見えるわけではありません」
「いえ。本当は、見ようと思えば、見えたかもしれない。澄江さんの腕の痣を、町の人間は皆、知っていました。私も何度か駐在所で見かけて——気にはなっていた。しかし、家庭のことは『他人が口出しすることではない』と——そう自分に言い聞かせて、目を逸らしていた」
宮本の声に深い後悔が滲んでいた。
「宮本さん。それは宮本さんだけの責任ではありません。当時の社会全体がそう考えていた。家庭の中の暴力を外から止める仕組みも、文化も、なかった」
「分かっています。しかし——後悔は残ります」
二人はしばらく、無言で峠を下る。車は糸原町に向かって戻っていく。冴優は窓の外を見ながら考えていた。梶原恒夫を恨む人間は町中にいる。動機を持つ人間は何人もいる。林治雄、久保田誠一——彼らに直接の動機がある。
しかし——林治雄は今夜、息子と一緒に家にいた。不在証明がある。息子に確認を取れば確定するだろう。久保田は一人暮らしで、不在証明がない。動機もある。文鎮で殴る体力もある。そして、隆と澄江。家の中で、最も近くにいた二人。
点が、増えていく。線が、まだ繋がらない。
「宮本さん、もう一つお願いがあります」
「何でしょう」
「久保田さんの不在証明をもう一度洗ってもらえないでしょうか。事件の夜、本当に家にいたのか。誰か、彼を見かけた人はいないか」
「分かりました。今日中に当たります」
「それと——梶原家の家政婦さんにも改めて話を伺いたい。事件の前日、何かいつもと違うことがなかったか。恒夫さんの様子に変化はなかったか」
「明日、お連れします」
「もう一つ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「事件の夜、梶原家の周辺で不審な人物を見かけたという報告は——ありませんでしたか」
宮本は少し考え、
「事件の夜、梶原家の近くを通った人がいないか——一通り聞き込みはしました。しかし、夜の十時前後となると人通りもほとんどなく、目撃証言は得られていません」
「梶原家に、外から侵入することは、可能でしょうか」
「鍵がかかっていないことが多かったので侵入自体は可能だったでしょう。しかし——書斎は離れにあります。母屋を抜けて渡り廊下を通る必要がある。家の中の人間に気づかれずに、書斎まで行くのは、難しい」
「と、いうことは——犯人は家の構造を知っている人間」
「ええ。梶原家の家のことを知っている人間でなければ、そう簡単には書斎まで行けません」
「犯人は梶原家の構造を知っている」
「家の中の人間か、家にしばらく住んでいた人間。あるいは、家を出入りしていた人間」
「そうなりますね」
「林さんは、家を出入りしていたでしょうか」
「いえ。林さんは経理担当でしたが仕事は工場で行っていました。梶原家の中までは入っていなかったはずです」
「久保田さんは」
「同じです。久保田さんも工場には来ていましたが、家の中までは——入っていない」
冴優は深く息を吐く。林も久保田も家の構造を知らない。となると、犯人候補は——家の中の人間に絞られる。澄江、隆、家政婦、そしてもう一人——誰か。
車は糸原町へ入る。町の中心通りを抜けるとき、冴優は窓の外の景色を見ていた。雪はもうほとんど溶け、地面が黒く濡れている。商店の前で女衆が立ち話をしていた。日常の風景。しかし、その風景の下に——何重もの層がある町。駐在所に着いたのは、午後の三時を過ぎていた。宮本は冴優を駐在所に降ろし、林の息子の確認に向かう。冴優は一人、駐在所に入る。と、机の上に書類が積まれていた。県警から届いた、梶原工場の経理書類のコピー。冴優は腰を下ろし、書類をめくり始める。
数字の海。冴優は経理の専門家ではないが、清水から教わった「異常を見つける目」は持っていた。書類の流れを追い、不自然なものを探す。
駐在所のだるまストーブが静かに燃えていた。冴優はストーブの近くに椅子を寄せ書類に目を落とす。窓の外、午後の薄日が町の屋根を照らされ商店の前で、犬が吠える声が、遠くから聞こえてくる。
不自然な点は、すぐに見つかった。
実態のない会社——「協栄商事」「日本繊維開発」「三洋経済研究所」——への定期的な支払い。月に何度も、決まった金額。仕入先としての名目があるが商品の納品記録がない。
冴優はそれぞれの「仕入先」の住所を確認する。協栄商事——東京の住所だが、地番が曖昧で、実在するかどうか怪しい。日本繊維開発——名古屋の住所、これも実在しなさそうな番地。三洋経済研究所——大阪の住所、しかし業種が「経済研究」となっており、なぜ繊維工場と取引があるのか説明がつかない。これらの会社からの請求書はすべて似た様式だった。書体が同じ印鑑の押し方も似ている。同じ人間が作っている、と冴優は感じた。
そして——もう一つ、興味深い動きがあった。
事件の三日前——つまり恒夫が隆に「清算したい」と話した日——を境にそれらの会社への支払いが一つも行われていない。
「清算したい」と言った日から、本当に、不正の動きが止まっていた。
「恒夫、本気で清算しようとしていた」
そして——その三日後に恒夫は殺された。もし、不正を続けたい人間が殺したのなら——その人間は清算を止めようとしていた。点が、線になりかけている。
冴優は書類をもう一度繰る。一つの取引をたどっていくと、書類の最後に判子が二つあった。一つは恒夫の判子。もう一つは——隆の判子。
二人の判子で、不正の取引は動いていた。
しかし、判子だけでは書類は完結しない。実際に金を流すには銀行への振込手続きが必要だ。冴優は銀行関連の書類を引き出す。振込指示書には書類を作成した者と、確認した者の二つの欄がある。作成者は——隆。確認者は——恒夫。つまり、隆が書類を作り、恒夫が承認していた。そして、現金は——どう動いていたのか。冴優は領収書の束を確認する。実態のない会社からの「領収書」が定期的に発行されていた。しかし、領収書だけがあって、現金がどう戻ってきたかの記録はない。おそらく、現金は恒夫が直接受け取っていた。隆が話していた通りだ。書類だけが隆の手を経ていた。これで不正の構図が見えた。隆は書類を作っており、恒夫が承認していた。現金は恒夫が受け取り、それが——どう流れていたかは、まだ分からない。一つだけ確かなのは、恒夫がその「現金の流れ」を一人で握っていた、ということ。隆は、その流れを知らなかった可能性が高い。
冴優は手帳へ「不正経理——隆は書類のみ。現金は恒夫が独占」。
そして、清算が始まった三日前から——その流れが完全に止まっていた。点が、繋がりかけている。
——————
夕方、冴優は宿に戻る。と、玄関で女将が冴優を迎え、「奥様が、お待ちですよ」と告げた。
「澄江さんが?」
「ええ。お部屋ではなく、離れの縁側で、と」
冴優は荷物を部屋に置き、離れに向かう。雪はもう完全に溶け、庭の地面は黒く濡れており、冬の夕方の薄い光が、庭に長い影を落としている。澄江は縁側に座っていた。膝に毛布をかけ、両手を膝の上に揃えている。冴優を見るなり、わずかに頭を下げた。
「猿島刑事さん。お疲れ様でございます」
「澄江さん、お待たせしました」
冴優は澄江の隣に、少し離れて座る。庭の枯れた木が、夕日の光の中で、影を伸ばしていた。
「林さんに、お会いになりましたか」
「ええ」
「林さんも——お辛い思いをされていたのですね」
「ご存知だったのですか」
「具体的なことは知りませんでした。しかし、夫が誰かを脅していたことは——感じていました」
冴優は澄江を見る。澄江は庭を見つめ、言葉を選んでいらように見えた。
「澄江さん、今夜は——あなたのお話を、聞かせていただけませんか」
「私の、ですか」
「ええ。十五年間の結婚生活のことを、お聞かせください」
澄江はしばらく考え、それから静かに頷き、
「分かりました。お話します」
——————
「私は隣町の小さな商家の生まれでした。十六歳のとき、父が病気で亡くなり、家業が傾きました。母は私を結婚させて家計を助けようとしました。私は——逆らうつもりはなかった。家のために、自分が役に立つなら、と思っていました。梶原家との縁談は母が遠縁を通じて持ち込みました。糸原町の名家で立派な経営者の家。私は、ろくに恒夫さんに会わないまま、結婚しました。二十一歳のときです」
「ご結婚のとき、恒夫さんはどんな印象でしたか」
澄江は遠くを見るように目を細め、
「立派に見えました。背が高く、顔立ちも整っていて、声も低く落ち着いていました。母は『立派なお方を見つけたわね』と喜んでいました。私自身も、悪い印象は持ちませんでした」
「結婚式は」
「町の神社でささやかに行いました。先代の旦那様も、奥様も、温かく迎えてくださいました。私は——これから、新しい家族の中で、新しい人生が始まるのだ、と思っていました」
「結婚後、すぐに——」
「ええ——最初の暴力は結婚後三ヶ月目でした。何が原因だったかも、もう覚えていません。些細なこと——夕食の味付けが気に入らなかったか、私の所作が気に食わなかったか——そんなことだったと思います」
「最初に殴られたとき、何を感じましたか」
澄江はしばらく考え、ゆっくり、と、
「驚きました。そして、混乱しました。立派に見えた夫が突然——別人のようになって私を打った。私は、自分が悪いことをしたのだ、と思いました。何か、夫を怒らせるようなことを、私がしてしまったのだと」
「先代のご両親には、相談されなかったのですか」
「できませんでした。先代は、結婚から数ヶ月後、心臓の発作で倒れて、そのまま亡くなりました。先代の奥様も、その後を追うように一年で亡くなりました。私が結婚して一年と少しで、家には——夫と私と、隆さんだけになりました」
「実家のお母様には」
「最初の頃、何度か手紙を書こうとしました。しかし、夫が手紙を確認するようになりました。『どこに何を書くか、俺が許可する』と。実家に、本当のことは書けなくなりました」
「恒夫さんは、なぜ暴力を振るったのでしょうか」
澄江はしばらく考え、
「分かりません。あの人の中に——溜まったものが、あったのでしょう。父である先代と比べられ続けて、自分の力で何かを成し遂げられない焦り。経営者としての重圧。家を継いだ責任。それらが捌け口を求めて——私に向かったのだと思います」
「あなたは、どう感じていましたか」
「最初は自分が悪いのだと思っていました。私の何かが、夫を怒らせている。私が直せば、暴力は止まる、と。だから、必死で家事をしました。料理を上達させ、所作を整え、夫の機嫌を損ねないように——あらゆる努力をしました」
「効果はあったのですか」
「ありませんでした」澄江はわずかに笑う。乾いた、しかし苦くはない笑い。
「むしろ、私が完璧に近づくほど——夫は怒るようになりました。完璧な妻に自分が見劣りするのが——許せなかったのでしょう」
「殴られる頻度はどれくらいでしたか」
「初めの数年は、月に一度か二度。その後、徐々に増えていきました。夫の事業が傾き始めた頃から——週に一度になりました。最後の数年は、ほとんど週に二度三度。理由のないこともありました」
「理由のない、というのは」
「ある夜、夫が酔って帰ってきて、いきなり私を叩きました。私は何もしていませんでした。ただ、夫が帰ってきたから、玄関で迎えただけです。それでも夫は私を打ちました。後で、夫は『お前の顔が、不愉快だった』と言いました」
澄江の声に感情の揺れはない。長い時間をかけて感情を語る術を学んできた女性の淡々とした語り方だった。涙すら、もう流れない、深い場所からの語り。
「結婚生活を、続けようとは——」
「家を出ようと思った夜は、何度もあります。実家に戻ろうか、駆け落ちしようか、自殺しようか——そういう夜は、何度もありました。しかし——」
「しかし?」
「実家には母と妹がいました。私が出戻れば家の評判が落ち、妹の結婚に響く。母は私を受け入れてくれなかったでしょう。実家に居場所はなかった」
「他には」
「金がなかった、ということもあります。家を出るには、お金がいる。働いた経験のない私が、女一人で生きていく方法が——分からなかった。十五年前の田舎の女には、選択肢がなかった、と言うべきかもしれません」
十五年前。昭和三十年代の前半。女性が一人で生きていくことが、今より遥かに難しかった時代。澄江はその時代の制約の中で選択肢を奪われていた。
「自殺しようと、何度思いましたか」
「数えきれません。台所で包丁を持ったとき、川の傍に立ったとき、屋根の上に上ったとき。具体的に、死ぬ手段を考えた夜は、何度もあります」
「実行しなかった理由は」
「いくつか、あります。一つは——死ねば、母が悲しむ、ということ。家のために結婚した私が、死んで母を悲しませることは——許されない、と感じていました」
「他には」
「もう一つは——隆さんがいたから、です。私が死ねば、隆さんが、家の中で一人になる。隆さんも夫から虐げられている人でした。私が消えれば、隆さんへの暴力が、もっと激しくなる。それは——避けたかった」
澄江は自殺を考えながらも隆を一人にしないために生き続けた。十五年の中で彼女と隆は——互いに、互いを生かし合っていた。
「隆さんは、いつから家にいらしたのですか」
「結婚した時からずっと一緒に住んでいました。先代が亡くなる前から、隆さんは家を継ぐつもりはなく、兄を支えるつもりだった、と聞いています」
「あなたと、隆さんの関係は」
「言葉では説明しにくいのです。私たちは夫婦のような関係ではありません。しかし——兄妹のようでも、ありません。同じ家の中で、同じ重さを抱えてきた、二人です。仲間、と言うべきかもしれません」
「——仲間」
「ええ。十五年、私たちは互いに、互いを見守ってきました。夫が私を殴った時、隆さんは離れた部屋から、それを聞いていた。次の日、隆さんは何も言わずに、私の好きな饅頭を買ってきてくれた。それだけです」
「それだけ、というのは」
「私たちは、お互いを助けるすべを——持ちませんでした。隆さんが私を庇えば、夫はもっと激しく暴力を振るう。私が隆さんを庇えば、隆さんがもっと脅される。だから——私たちは、何もしないことで、互いを守った」
「何もしないことで、守った」
「ええ。それは、奇妙な絆です。お互いに何も言わない。何もしない。ただ、隣の部屋にいる、ということだけで——互いを支える。十五年、私たちはそういう関係でした」
「沈黙の中での、絆だったのですね」
「ええ。それが——私たちの十五年でした」
——————
澄江は星空を見上げ、ゆっくり言葉を続ける。
「最近、夫が変わってきていることに、私は気づいていました」
「いつ頃から」
「三ヶ月ほど前から、です。夫の機嫌の悪い日が——少しずつ減っていました。以前なら殴られたであろう場面で夫が手を上げない。台所で皿を割ってもただ眉をひそめて書斎に戻る。そういうことが、続きました」
「あなたは、どう感じていましたか」
「最初は警戒しました。何か別のことで怒るための準備をしているのか、と。十五年、暴力に耐えてきた人間は——優しさを警戒します。優しさは、後で来る暴力の予兆かもしれない、と。しかし、優しさが続きました。一週間、二週間、一ヶ月——夫は、私を殴らなくなりました。それで、私は——病気を疑い始めました」
「病気を、疑った」
「ええ。元気な恒夫さんなら、必ず私を殴っていたはずです。殴らない、ということは——殴る体力がないか、殴る気力がない、ということ。それは、何か体に変化が起きている、という意味でした」
「夫の体調の変化を、他に何か感じましたか」
澄江はしばらく考え、ゆっくりと、
「食欲が明らかに落ちていました。十五年、夫の食事を作ってきました。夫がどれくらい食べるか、私には分かります。それが——半年ほど前から、少しずつ減っていた。最後の一ヶ月は半分も召し上がらない日が増えていた」
「他には」
「夜中、書斎で苦しむ声が、何度か聞こえました。胃が痛むような、低い呻き声です。私は心配でしたが、書斎に入ることは許されていなかった。ただ、寝室で——夫の苦しむ声を、聞いていました」
胃癌、あるいは胃潰瘍。消化器系の重い病気の症状で恒夫は確実に病気を抱えていた。
「診察券を見つけたのは、その後ですね」
「ええ。先月、夫の鞄を整理しているときに、偶然見つけました。県の病院の消化器科の診察券。私は、夫の予感が当たっていることを——確信しました」
「あなたは、夫が病気であることを——どう感じましたか」
澄江はしばらく星を見上げ、それから言葉を選んで答える。
「複雑でした。十五年、殴られ続けてきた相手です。死ねばいい、と思った夜は数え切れない。実際、夫が死ねば——私は自由になる。それは、紛れもない私の本心でした」
「しかし、別の感情もあった」
「ええ。十五年、共に生きてきた相手です。憎みながら、それでも——一緒に過ごした年月がありました。夫が苦しんでいる、と知ったとき、私の中に——何か、別の感情が芽生えました」
「同情、ですか」
「同情、というのは違うかもしれません。もっと——複雑な、何かです。憐れみ、安堵、悲しみ、解放感——すべてが、混ざっていました」
「ご主人にお話するつもりは、ありませんでしたか」
「ありませんでした。話せば、夫が私の介護を求めるかもしれない。十五年殴られた手で私を頼ろうとするかもしれない。それを——私は、引き受けたくなかった」
「自分の手で、夫の介護をすることは——」
「できなかった、と思います。夫が苦しむ姿を見ても、私はおそらく——何の感情も湧かなかった。自分でも怖いほど、感情が動かなかった」
十五年の暴力は、澄江の中の感情を——擦り切れるほどに摩耗させていた。憎しみすら、もう純粋には残っていない。ただ、深い空虚があるだけ。
「事件の夜、夫があなたを抱きしめようとした、とおっしゃいましたね」
「ええ」
「あの瞬間、あなたは何を感じましたか」
「恐怖、でした。最初は」
「恐怖」
「夫の手が伸びてくる——それは、十五年間、私を打ってきた手でした。その手が私に近づくことが恐ろしかった。私は反射的に後ろに下がりました」
「夫の手が、空を切った」
「ええ。そして、夫が止まった。私を見つめ、それから、ゆっくり手を下ろしました」
「夫の表情は」
「悲しそうでした。初めて見る、夫の悲しい顔でした。私は——その顔を見て、後悔しました」
「後悔」
「ええ。夫が、私を抱きしめようとしていたのなら——その手を、避けるべきではなかったのかもしれない、と。十五年の暴力の手であったとしても、最後にもう一度——私に触れたかったのなら」
澄江の目に再び涙が浮かぶ。しかし、こぼれなかった。
「私は、夫の最後の手を、避けてしまいました。それが、夫の決意を——揺るがせたかもしれない」
「揺るがせた、というのは」
「夫は、書斎に戻り、手紙を書き始めました。『澄江へ。ありがとう、と言わねばならぬのだろうか』——あの書きかけの手紙は、私が夫の手を避けたから——夫が、自分の決意に迷ったから——書かれたのかもしれません」
「あなたが避けたから、ご主人は手紙を書き始めた。書き始めたから——殺された」
「ええ。もし、私が夫を抱きしめ返していたら——夫は手紙を書かなかったかもしれない。書かなければ、書斎で長く一人にならなかったかもしれない。長く一人にならなければ——殺されなかったかもしれない」
「澄江さん、それはあなたの責任ではありません」
「分かっています。しかし——もしあの瞬間、私が違う選択をしていたら、と——考えずにはいられないのです」
十五年の暴力に対する反射と夫の最後の変化への対応。澄江は両方を抱えていた。彼女の悔いは彼女自身の十五年そのものへの悔いでもあった。
——————
二人はしばらく何も言わずに星を見ていた。夜風が、二人の間を通り過ぎていき、冬の夜の冷気の中に、わずかに春の気配が混じっていた。雪はもうない。土の匂いがする。
冴優は手帳を膝の上に置き、ゆっくり閉じる。澄江もまた、深い溜息を吐いて夜空を見上げる。
「猿島さん。お聞きしてもよろしいですか」
「ええ」
「あなたは——東京で、どういう刑事をしていらっしゃるのですか」
冴優は少し考え、それから言葉を選んで答える。
「半年ほど前まで、上司と二人で組んでいました。清水という人で、もう三十年も現場にいた人です。私はその人から、刑事の仕事を教わってきました」
「上司の方は、今は」
「ある事件で——大きな怪我をしました。今は療養中で、現場に戻れる体ではなくなりました」
澄江は冴優を見つめ、深く頷く。
「お辛い別れだったのですね」
「ええ。半年経った今でも、隣にいないことに——慣れません」
冴優は星を見上げ、深く息を吸って言葉を続ける。
「清水さんからたくさんのことを教わりました。中でも、忘れられない言葉があります。『気の毒と、許せないは、別の話だ』と」
「気の毒と、許せない」
「事件の犯人を見つけたとき、刑事はその人を気の毒に思うことがあります。長い苦しみの末に、罪を犯した人——その背景を知れば、誰でも同情します。しかし——同情と、罪を許すことは、別の話なのです」
澄江は静かに頷く。
「両方の感情を、抱え続けるのが、刑事の仕事だと——清水さんは教えてくれました。同情を捨ててはいけない。しかし、罪を見逃してはいけない。両方を抱え続ける」
冴優の声が夜の縁側に静かに溶けていく。
「私はまだ未熟です。両方を抱えるのは、重い。しかし——その重さを、抱え続けることが、刑事の仕事なのだと思います」
澄江はしばらく星を見上げ、それから低く、
「立派な、上司の方ですね」
「ええ」
「その方に、お会いしたい気がします」
「いつか、お引き合わせできるかもしれません」
澄江は微笑み、また星を見上げた。
冴優も星を見上げ、深く息を吸って空気を肺に取り込む。冬の冷たい空気が胸の奥を清めるような感覚があった。
「澄江さん。これから、どうされるおつもりですか」
澄江はしばらく考え、ゆっくり答える。
「分かりません。十五年、夫のために生きてきました。夫がいなくなった今——何のために生きるのか、まだ見えていません」
「家を出ることは、考えていますか」
「ええ。あの家には、もう戻れません。書斎に行くたびに、夫が倒れていた光景が——見えてしまうでしょう」
「実家に戻る、という選択肢は」
「実家は、もうありません。母は数年前に亡くなり、妹は嫁いで遠くに行きました。私が戻れる場所は、ありません」
冴優は澄江の言葉を深く受け取る。澄江は十五年の終わりに——どこにも居場所がない女性として、立っていた。
「澄江さん、もう一つだけ伺います。あなたは、隆さんと——これからも、共に生きていかれますか」
澄江は冴優を見る。と、
「猿島さん、変なことを聞きますね」
「変、でしたか」
「いえ——よく見ていらっしゃるな、と思いました」
澄江は微笑み、少し間を置いて続ける。
「隆さんとは、どうなるか分かりません。私たちは、同じ家の中で、同じ重さを抱えてきました。十五年、見守り合ってきました。これからも、共に生きていく可能性は——あるかもしれません。あるいは、お互いに距離を置いて、それぞれの道を歩むかもしれません」
「あなた自身は、何を望みますか」
「望む、ということが——まだ、上手にできないのです。十五年、私は望むことを禁じられてきました。望めば、夫に踏みにじられる。だから、望まないことに——慣れてしまった。今、自由になっても——何を望めばいいか、分からない」
「少しずつで、いいと思います。望むことを、思い出すまで、時間をかけてください」
澄江は冴優を見つめ、深く頷く。
「ありがとうございます」
二人はしばらく、また星を見ていた。やがて、澄江は静かに立ち上がり、毛布を畳み、冴優に頭を下げた。
「お休みなさいませ」
「お休みなさい」
澄江は離れに戻っていく。着物の裾が夜の廊下の薄暗さの中に消えた。冴優は縁側に一人、残され、夜風が、もう一度、冴優の頬を撫でていく。冬の夜の、冷たい風。しかし、その風の中に——わずかに春の気配が混じっていた。糸原町に、もうすぐ春が来る。十五年の冬を耐えてきた澄江にも、春は来るのだろうか。
冴優は深く息を吸い、空気を肺に取り込む。冬の夜の、清浄な空気。冴優の中に、何かが落ち着いていく。
澄江という女性はこれから自分の人生を取り戻していく。十五年の暴力の記憶は消えないが、新しい日々を、少しずつ作っていけるはずだ。
そのために、冴優にできることは——犯人を見つけることだった。澄江と隆を自首者として処理せず、本当の真実を明らかにすること。
夜空に、星が広がっている。糸原町の冬の夜は、深く、静かだった。
冴優は手帳を開き、今日の出来事を整理する。林治雄の証言、不正経理の流れ、恒夫の清算の決意。そして——澄江の十五年。
点が、増えている。線が、見え始めている。
梶原恒夫が殺された理由は——彼が変わろうとしていたから。不正経理を清算しようとしていたから。それを許せなかった人間が、いる。
その人間は、誰か。
林治雄ではない。家族と一緒に家にいた。久保田誠一は——可能性がある。動機もある。しかし、彼は文鎮で殴る現場をどう実行したか。家の中に、どうやって入ったか。
そして——隆。澄江。家の中の人間。冴優は手帳を閉じ、深く息を吸う。そのとき、冴優の中で、ある違和感が生まれた。これまで聞いてきた話を、もう一度、頭の中で並べてみる。
林治雄——五年前に脅されて辞めた。家族を盾にされた。
久保田誠一——三年前に解雇された。家族はもうおらず、復讐する手段がない。
隆——書類だけ作っていた。現金の流れは知らない。
では、現金は——どこに流れていたのか。
恒夫が一人で受け取っていた。それは確かだ。しかし、そのお金は、ただ恒夫の懐に入っただけだろうか。
不正経理で出ていく金は、月に数十万。年に数百万。十年で——数千万。
梶原家の暮らしぶりだけで、それだけの金が消えていたとは思えない。立派な暮らしをしていたとはいえ、屋敷の維持と車程度の出費だ。では、残りの金は——どこに行ったのか。冴優は手帳を再び開き、新しいページに書き出す。
「恒夫の不正収益——本当に恒夫一人で受け取っていたのか」
「他にも、受け取っていた人間がいるのではないか」
もし、そうだとすれば——恒夫の清算は、その人間の収入も止めることになる。その人間にとって、恒夫の清算は——破滅を意味する。
動機の輪郭が、新しい形で見えてくる。
「不正の共犯者」
林でも、久保田でも、隆でもない、第三の共犯者。書類には名前が出てこないが、現金を受け取っていた誰か。明日、もう一度、隆と話す。今度は——不正経理について、もっと深く。隆は書類だけ作っていたと言ったが、本当にそれだけだったのか。少なくとも現金の動きを、何か知っている可能性がある。
そして、家政婦さんからも話を聞く。事件の前日、何があったか。家に出入りしていた人間は誰か。恒夫の友人や、知人で、家を訪ねてきた人間はいないか。
一歩ずつ、確実に。
冴優は立ち上がり、部屋に戻る。火鉢の前に座り、手を温めた。冬の夜は、まだ深い。しかし、その深さの中に、少しずつ——光が見え始めている。
梶原恒夫の最後の三日間。彼が変わろうとした三日間。その三日間に、何があったのか。誰が、彼の変化を奪ったのか。
冴優は、それを必ず見つける。そう、自分に誓いながら、布団に入る。布団の中で、冴優はもう一度、清水のことを思った。電話の向こうにいる、半年前まで隣にいた相棒。明日、清水に電話をかけよう。今日見えてきた「第三の共犯者」の話を、清水に聞いてもらおう。清水なら、きっと——この線の先を、見せてくれる。
冴優は目を閉じる。と、夜の音が、遠くから聞こえる。風の音、犬の声、戸を叩く何かの音。糸原町の冬の夜は、深い。冴優の意識は、ゆっくりとその深さに沈んでいった。
眠る前に、ふと——澄江の顔が浮かんだ。涙を流しながら、星を見上げていた澄江。十五年の重さを、ようやく言葉にできた女性。
そして、林の顔。長い忍耐の中で、それでも誠実さを失わなかった男。
そして、隆の顔。家族を守るために、自分が壊れることを選び続けた男。
梶原恒夫という男に、苦しめられてきた人々。彼らはみな、それぞれの形で、長い夜を耐えてきた。
そして、冴優は——彼らの夜の終わりに、立っている。
真実を見つけることが、彼らの夜を終わらせる、唯一の方法だった。冴優の意識は、深い眠りに沈んでいく。夢の中で、冴優は霧無村の夜に戻っていた。雨の音。清水の煙草の煙。波多野医師の灰のような目。綾奈の冷たい微笑み。半年前の、すべての記憶。
そして——清水の声が聞こえた。
「お前自身が、お前の解き方を作る事件になる」
冴優は深く頷く。夢の中で、そして眠りの中で、冴優は——糸原町の事件と向き合い続けていた。
夢は、やがて霧無村から離れ、糸原町の風景に変わっていった。雪解けの道、林の家の白い椿、駐在所のだるまストーブの炎、澄江の夜の縁側。様々な場面が、繋がりのない順序で流れていく。
そして、最後に——梶原恒夫の書斎の机の上、書きかけの手紙が浮かんだ。
「澄江へ。ありがとう、と言わねばならぬのだろうか。お前と——」
「お前と」の続きを、恒夫は書けなかった。書く前に、殺された。
冴優は夢の中でその続きを書こうとした。「お前と、過ごした時間が、私の人生で唯一——」と書きかけて、ペンが止まる。
そう、冴優にも書けない。恒夫が何を書きたかったのか、本人にしか分からない。
ただ、書きたいと願った言葉があった、ということ。それだけが確かなことだった。冴優は深い眠りに、ようやく沈んでいく。外で糸原町の冬の夜は、続いていた。長い、しかし、必ず明けていく夜。
明日、また、新しい一日が始まる。冴優は、その一日に向かって、また一歩、進む。糸原町の冬は、深い。しかし冴優は、その深さの中を、確かな足取りで歩いていく。清水が積み上げてきた道の、続きを。
そして、澄江と隆と林——三人の長い夜の終わりを冴優は見届ける。それが、冴優の仕事だった。
やがて、糸原町の朝が、明けてくる。冬の朝の薄い光が、町の屋根に静かに差してくるはずだ。冴優はその朝を待ちながら、深く眠っていった。糸原町の長い夜は、ここで一度、閉じる。明日の朝、冴優はまた、新しい一日を歩き始める。誰にも、まだ語られていない物語を、解き明かすために。それは、決して短くはない、長い旅となるはずだ。




