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散りぬる霧に  作者: masaya
二つの自白
13/14

五章 隆という男

朝の駐在所は霜で凍っていた。木の窓枠に白く繊細な模様が浮かび、冴優は手袋を脱ぎ、指先で触れてみる。と、冷たさが血管を遡って肩まで伝う。糸原町の冬は東京とは違い、空気そのものが、骨に染みる種類の冷たさだった。窓の外、町はまだ薄暗い。商店の戸も閉まったままで、雪解けの土の上に新しい霜が降りていた。冴優はその白い地面をしばらく眺めてしまう。糸原町に来てからもう五日。一日ごとに町の表情が変わっていき、表面の静けさの下で何かが動いている町。ストーブはまだ暖まりきらず、冴優は手をかざし、宮本が淹れてくれた茶を口に含む。と、茶葉の苦みが寝起きの口の中を整えていく。

「猿島刑事、隆さんは九時に来られるそうです」

宮本は手帳を確認しながら、新しい炭を継ぎ足す。火箸で炭を整える音、ぱちりと火が爆ぜる音、冬の朝の駐在所にはその小さな音だけがあった。

「澄江さんは」

「奥様は午後に。今朝は頭が重いとのことで」

昨夜の縁側の話が澄江の体に残っているのだろう。十五年分の言葉を一晩で吐き出した。それは体力のいる作業だ。冴優は黙り頷き、机の上には昨日精査した経理書類が積まれている。一晩寝て、もう一度見ると昨日見えなかった点が見えるかもしれない。冴優は書類を引き寄せページを繰る。

不正の支払い先——協栄商事、日本繊維開発、三洋経済研究所。三つの実態のない会社。冴優は名前を呟きながら、ふとペンを止め、似ている、と思う。

名前の付け方が似ている。「商事」「開発」「研究所」。経済関係の硬い名前を選んでおり、同じ人間が同じ感覚で付けたのではないか。

そして、もう一つ気になるのは——三つとも地名が違うことだ。東京、名古屋、大阪。離れた都市にそれぞれ実態のない会社を作っている。これは、一人の人間の手で作られたならなぜ離れた地に置く必要があったのか。

「宮本さん」

冴優は書類を持ち宮本のところへ行き、

「これらの会社の名義人を調べることはできますか」

「名義人——」

「会社を作るには誰かの名前で登記する必要があります。実態がなくても書類上は誰かの名前が必要なはずです」

宮本は書類を覗き込み、しばらく考える。

「県警の経理担当に問い合わせます。少し時間がかかるかもしれませんが」

「お願いします」

もし、三つの会社の名義人が分かれば——その人物が不正の共犯者かもしれない。あるいは、その人物の近くに共犯者がいる。

冴優は手帳に書き留める。「会社名義人を確認」と。




——————




九時前、駐在所の戸が開くと、立っていたのは隆ではなかった。六十がらみの女性が頭巾を被って立っている。痩せた体に黒っぽい着物。手にした風呂敷包みがわずかに揺れていた。

「あの——猿島刑事さんでいらっしゃいますか」

「ええ」

「梶原家で家政婦をしておりました、矢沢と申します。宮本さんからお話を伺いたいと——」

冴優は宮本は視線を向ける、と宮本が頷いた。昨夜のうちに矢沢を呼んでくれていたらしい。矢沢は遠慮がちに駐在所に入り、冴優の向かいの椅子へ座る。風呂敷包みを膝に置き両手をその上に揃える。

「お忙しいところ、すみません」

冴優は柔らかく声をかけ、矢沢は深く頭を下げそれから顔を上げた。皺の刻まれた顔。長く家事に従事してきた人特有の節くれだった指。

「梶原家には何年お勤めでしたか」

「先代の旦那様の頃から、二十五年ほどになります」

「お変わりなく、ずっと」

「ええ。先代の奥様にも可愛がっていただいて、それから恒夫さんが当主になられても続けてまいりました」

先代の頃から梶原家の中を見てきた人。冴優の中で矢沢の存在の大きさが見えてくる。

「失礼ですが、矢沢さんは——梶原家の中の事情をどこまでご存知でしたか」

矢沢は少し躊躇うように目を伏せ、それから低い声で答える。

「奥様が——お辛い思いをなさっていることは存じておりました」

「ご主人の暴力のことですね」

「ええ。家政婦という立場でいつも家の中におりましたから——隠そうにも、隠せないことがありました」

矢沢の声には長く我慢してきた人の重みがある。冴優は黙って次の言葉を待つ。

「奥様の腕や首に痣ができていることは——何度も見ました。私が見るたびに奥様は袖を引っ張って隠そうとなさいました。何も言わずに。私も何も言いませんでした」

「言えなかった、ということですね」

「ええ。家のことに口を出す立場ではありません。それに——もし口を出せば、私も家を追い出される。家のことを誰よりも知っている家政婦が辞めれば奥様がもっとお辛くなる。だから、黙ることが奥様への——せめてもの忠義だと思っておりました」

矢沢は風呂敷包みの上で、両手を握りしめ、

「卑怯だったかもしれません。しかし——他にやりようがありませんでした」

林治雄と同じだ、と冴優は思う。彼らはそれぞれ、自分の場所で自分の弱さを抱えながらそれでも梶原家の周りで生きてきた。

そういう人間に囲まれて、澄江は十五年を耐えていた。誰もが見ていた、誰もが知っていた。しかし、誰も止められなかった。家の中の暴力には外から手を差し入れる作法が——なかった。

「矢沢さん、最近——一ヶ月ほど前から、ご主人の様子に変化はありませんでしたか」

矢沢の表情がわずかに動く。

「変化は、ありました」

「具体的にどんな」

「ご主人が——奥様を殴らなくなりました」

矢沢は声を落とす。

「以前なら、月に何度も奥様の悲鳴が家の中に響いておりました。それが半年ほど前から少しずつ減って、最近の一ヶ月はまったく聞こえませんでした。私は——変だと思っておりました」

「変、と感じたのは、なぜ」

「家の中に、ご主人の苦しむ声が代わりに聞こえるようになったからです」

冴優の指がペンの上で止まる。

「苦しむ声、というのは」

「夜中、書斎で——低い呻き声が聞こえることがありました。胃を押さえているような、そういう声です。私は失礼を承知で何度か書斎の前で耳を澄ましました。お加減が悪いなら、何かお持ちした方がいいのか、と」

「中には入らなかったのですね」

「ご主人は書斎に人が入ることをお嫌いになりました。家政婦が許可なく入れば激しく叱責されます。私は、戸の前で立ち尽くすしかありませんでした」

「矢沢さんはご主人に直接お加減を伺ったことは」

矢沢は深く息を吐き、

「一度だけ、あります。あれは、十一月の終わり頃でした。ご主人が朝、書斎から出てこられない日があって。私は、思い切って戸の前で『旦那様、お加減はいかがですか』と声をかけました」

「ご主人は、何と」

「『余計な心配はするな』と。それだけでした。声に——力がありませんでした。怒鳴るだけの力も、なかったように聞こえました」

「ご主人は医者に通われていることをご存知でしたか」

矢沢は少し考えながら、

「直接は伺っておりません。しかし、月に何度かご主人がお出かけになる日がありました。お一人で車で、隣の県に。それが——病院通いだったのではないかと、後から思っております」

「いつから、その外出が始まりましたか」

「半年ほど前からです」

半年前——ちょうど、暴力が減り始めた時期と重なる。恒夫が病気を知り、自分の中で何かが変わり始めた、その時期。冴優は手帳に書き留めながら、次の質問へ移る。

「事件の前日のことを、伺います」

「はい」

「ご主人や、奥様、隆さんに——いつもと違うことはありましたか」

矢沢は記憶を辿るように目を閉じる。

「ご主人は——昼前から、お一人で書斎にこもっておられました。普段は午前中、工場におられるのにその日は工場にも行かれなかった。お昼に私が呼びかけても書斎から出てこられませんでした」

「お昼は」

「奥様が書斎にお盆でお持ちになりました。少しだけ戸の前で会話があったようですが内容までは——存じておりません」

「奥様は書斎の中に入られたのですか」

「いえ。戸の前でお盆を渡されただけのようでした。ご主人が戸を開けて受け取られた。その時、奥様の顔色が——少し赤くなっていらしたことを覚えております」

「赤く」

「はい。何か戸の前でお話があったのか——奥様は、戻る道でしばらく何度も振り返って、書斎の方を見ていらっしゃいました」

あの日の昼、恒夫と澄江の間にすでに何かの予兆が始まっていた。澄江がそれを語らなかったのはまだ自分の中でも整理できていなかったからかもしれない。

「夕方は」

「ご主人は夕食の時間まで書斎におられました。夕食の席では——いつもより静かでした。何か、お考えの様子で」

「隆さんは」

「隆さんは、その日、工場で仕事をされていました。夕食には間に合うように戻ってこられました」

「夕食の様子は」

「いつも通り、と申し上げたいのですが——少しだけ、空気が違っておりました。ご主人が奥様を時々ご覧になる。何か言いたそうな目で。それを隆さんが見ていらっしゃった。誰も口に出さない、しかし重い空気が、食卓にありました」

矢沢の証言は隆と澄江の話を裏付けている。あの夜、家の中で——何かが起きようとしていた。

「事件の夜、矢沢さんはどちらにいらっしゃいましたか」

「夕食の片付けを終えて、八時には家を出ました。夜は通いではなく、町の自宅に戻ります」

「家を出る前に何か気づいたことは」

矢沢は少し躊躇いながら、

「気づいた、というほどのことではありませんが——ご主人が書斎に戻られる前に奥様に何か言いかけて、止めて、そのまま書斎に行かれました。私はそれを、片付けをしながら見ておりました」

「具体的には」

「『澄江——』と、ご主人が呼びかけました。奥様が振り返ってご主人を見ました。ご主人は何か言おうとして、結局言わず書斎に向かわれました。それだけです」

『澄江——』。あの夜、恒夫は何度も妻に呼びかけようとしていた。そしてそのたびに言葉を飲んだ。

「矢沢さん、最後にお伺いします。事件の夜、家に出入りしていた人間は誰かいましたか」

「私が家を出る八時までは——どなたも。いつも通りです」

「八時以降のことは矢沢さんはご存知ない、と」

「ええ」

矢沢は深く頭を下げる。

「お役に立ちましたかどうか——」

「十分です。ありがとうございました」

矢沢は風呂敷包みを抱え駐在所を後にする。戸が閉まる小さな音、冴優は手帳を閉じ、宮本を見た。

「家政婦さんもご存知ない時間がある」

「ええ。八時以降——事件発生まで家の中には奥様、ご主人、隆さんの三人だけだった、ということになります」

「あるいは——他にも誰か、入った可能性がある」

宮本は頷く。それが、冴優の中で消えない疑いだった。



——————




九時を少し過ぎたころ、隆がやってくる。コートを脱ぎ、駐在所の椅子に静かに腰を下ろす。一日経って、隆の顔はまた少しやつれていた。眠れていないのだろう、目の下に深い影。それでも、背筋は伸びている。家の中で長く生きてきた男の習慣的な姿勢だった。

「ご足労、ありがとうございます」

「いえ」

冴優は向かいの椅子に座る。今日の取り調べは隆を追い詰めるためではない。彼の口から不正経理の現場で何が起きていたか、もっと深く聞き出したかったのだ。

「隆さん、今日は——あなた自身の話をもう少し聞かせてください」

隆は冴優へ視線を向け、

「自分の、というのは」

「子供の頃のこと。お兄さんとの関係。経理を任されてからのこと。順を追って話していただけますか」

隆は少し驚いた様子でそれから深く息を吸う。

「事件と関係がありますか」

「あります。あなたという人を私はまだ十分に知らない。あなたを知らずに事件を解くことはできません」

隆はしばらく黙る。何かを決めるような、長い沈黙だった。やがて、ゆっくり口を開く。

「お話します」

隆は自分の子供時代を語り始める。生まれは糸原町、父は梶原工場の二代目当主。母は隣町の旧家の出であり、兄の恒夫は隆の十歳上。

「兄とは年が離れていました。物心ついたとき兄はもう中学生で私の目にはほとんど大人に見えていました」

隆の声には不思議な懐かしさがある。語ること自体が長く封じ込めてきた何かを解く作業のように見える。

「兄は——子供の頃の私にとって世界の中心のような人でした。背が高く、勉強もでき、運動もできる。父も母も、兄を頼りにしていた。私は兄の影で少しでも兄に近づきたいと思って育ちました」

兄を、慕っていた。

最初の純粋な感情。隆の口からそれが自然に出てくる。冴優はただ黙って聞いていた。

「小学生の頃、私は兄について行くのが楽しみでした。兄が川で釣りをするときも、町を歩くときも、私は後をついて歩いた。兄は口数の多い人ではありませんでしたが、たまに振り返って、『来たか』と一言、言ってくれる。それが嬉しかった」

「優しい兄さんでしたか」

「優しい、というのは違うかもしれません。厳しい兄でした。しかし——子供の頃の私はその厳しさが兄が私を大切に思ってくれている証だと感じていました」

「具体的に厳しさを覚えていらっしゃいますか」

隆は少し考え、口を開く。

「私が小学校三年生のとき夏に川で泳いだ後、家に帰る道で兄に殴られました。私が川の浅瀬で滑って足を擦りむいたんです。家に帰る途中、兄は私の頬を平手で叩き、『お前が不注意だからだ。父さんに余計な心配をかけるな』と言いました」

「殴られた」

「ええ。痛かったけれど——その時の私は兄が私を大切に思ってくれていると、感じていました。心配をかけまいとしてくれている、と。八歳の頭でそう解釈していました」

子供の理屈。暴力を愛情として受け取ってしまう子供の頭の働き。それが後の隆の十数年を決めていった気がする。

「変わったのはいつ頃ですか」

「兄が東京の大学に進学した頃です。私が小学校六年生でした。兄が家を離れて、四年間、私は兄を見ずに過ごしました。その四年間で——兄は別人になって戻ってきました」

「別人、というのは」

「東京で兄は何かに傷ついて戻ってきたようでした。具体的には知りません。しかし、戻ってきた兄は目つきが違っていました。冷たく、固く、人を見下す目でした」

「家業を継ぐために戻られたのですね」

「ええ。父が大学卒業と同時に呼び戻しました。家業を学べ、と。兄は——逆らわなかった。しかし、心の中では納得していなかったように見えました」

隆の声にわずかに苦みが滲む。

「兄は自分の人生を奪われた、と感じていたのかもしれません。東京で何か別の道を歩みたかったのに家業に縛られた。そして——その怒りを家族に向けた」

「具体的には」

「父にも母にも口応えするようになりました。私には——命令ばかりするようになった。子供の頃のような『来たか』ではなく、『お前は黙っていろ』と」

「それをどう感じていましたか」

「最初は——兄が変わったことが寂しかった。十六歳の私は兄に憧れたまま家にいました。それが兄が戻ってきて私を家具のように扱うようになった。兄に近づこうとすると、邪険にされる。私は兄の中で何かが壊れたのだ、と思いました」

「許そうと思いましたか」

「許す、というよりは——理解しようとしました。兄は、東京で何か辛い経験をしたのだ、と。家業を継ぐことに不満があるのだ、と。理解すればいつか兄は元に戻る。子供の頃の『来たか』をもう一度言ってくれる。私はそれを待ちました」

「待ち続けた」

「ええ。十年以上、待ち続けました。しかし、兄が戻ることはありませんでした」

冴優は手帳に書き留める。隆という男の中で兄への感情が慕いから恐れに変わっていく節目。しかしそれでも心の底に子供の頃の慕いの灯が——消えずに残り続けていた。それが隆を縛り続けた。

「父が亡くなって兄が当主になられた頃のことを伺えますか」

「父が倒れたのは私が二十五歳のときでした。兄は三十五歳。父の死後、兄は当主として家を、工場を継ぎました。私は——兄の下で工場の現場の管理をすることになりました」

「兄上の経営の仕方はどのようでしたか」

「先代——父とはまったく違いました。父は人の面倒をよく見る人でした。工員にも、地元の人にも、優しかった。兄は——その逆でした」

「給料を下げ、休みを減らし、解雇も増えた、と」

「ええ。私は兄の方針に違和感を持っておりました。しかし、口を出せませんでした。兄は当主で私は弟。家の中の上下関係がはっきりしていました」

「兄上の決定に反対されたことはありますか」

「一度だけあります。父の代から二十年勤めていた老工員を兄が解雇すると言ったときです。私はそれは違うと思って、兄に直訴しました」

「結果は」

「兄は私を書斎に呼びました。そして——殴られました」

「殴られた」

「ええ。兄は私の頬を思い切り殴りました。そして言いました。『お前には、何も決める権利はない。お前は俺の弟だ。それで十分だ』と」

「『それで十分だ』」

「兄の口癖でした。それから——兄は私が口を挟むことを決して許さなくなりました」

隆の手が無意識に頬へ触れる。三十数年前のその日の感触をまだ覚えているのだろう。

「澄江さんがご結婚で家にいらしたのは——その頃ですか」

「ええ。父が亡くなった翌年です。兄が三十六歳、義姉が二十一歳。兄が結婚したいと言い母が縁談をまとめました」

「最初の暴力をいつ知りましたか」

隆は深く目を閉じ、

「結婚から三ヶ月目の夜です。私は二階の自分の部屋にいました。下から—— 義姉あねの悲鳴が聞こえました」



——————




隆はその夜のことを語った。

「最初は何が起きたか分かりませんでした。物音がして、悲鳴が聞こえて、それから——静かになりました。私は階段を降りて居間の方を覗きました」

二階の部屋から、一階の居間まで。隆の見た景色を、冴優は頭の中に浮かべる。

「何が見えましたか」

「兄が、義姉の上に立っていました。義姉は床に倒れていました。兄は——息を荒く、しかし冷静な顔で、見下ろしていました」

隆の声が、わずかに震える。

「冷静な顔——というのが奇妙でした。怒っているわけではない。憎んでいるわけでもない。ただ、何かを処理した後のような淡々とした顔でした。それが、何より——恐ろしかった」

感情の波で殴ったのではない。冷静に、計算して、暴力を行使した。それが恒夫という男の本性だったのかもしれない。冴優は息を詰め、隆の言葉を待つ。

「私は声を上げました。『兄さん、何をしているんですか』と。兄は私を見て——笑いました」

「笑った」

「ええ。冷たい笑いでした。そして言いました。『お前には関係ない。家のことだ。立ち入るな』と」

『家のことだ』——それは、家庭内の暴力を外に出さないための呪文だった。当時の社会の中で家の中の出来事を外から止める仕組みはなかった。隆も、矢沢も、町の人間も、その呪文の中で見て見ぬふりを選ぶしかなかった。

「あなたはどうされましたか」

隆は黙る。長い沈黙。やがて、絞り出すように、

「私は——立ち去りました。何もできずに自分の部屋に戻りました」

「奥様の方を見ましたか」

「見ました。一瞬だけ。義姉は床から私を見上げておられました。瞳に——何も入っていない目で。助けを求める目でもなく、責める目でもなく、ただ——空っぽの目でした」

冴優は黙り、その重みを受け取る。二十一歳で家に来た若い妻。三ヶ月でその目から何かが抜け落ちた。

「次の日の朝、義姉はいつも通り朝食を作っておられました。顔に小さな痣がありました。私は何も言えませんでした。義姉も何もおっしゃいませんでした」

「お味噌汁をいつも通り出されたのですね」

「ええ。何事もなかったかのように。それが——一番恐ろしいことでした。何事もなかったかのように、日常を続けるしかない、という事実が」

「それから暴力は続いた」

「ええ。月に何度も。私が階段を降りて止めようとしたこともあります。そのたびに兄に殴られました。そして、義姉にもっと強く当たるようになりました」

「あなたが止めると、奥様への暴力がひどくなる」

「ええ。それで——私は、止めることをやめました」

隆の声が静かに割れる。

「私は、卑怯でした。十五年間、義姉が殴られるのを隣の部屋から聞きながら何もしなかった。耳を塞ぎ、布団に潜り込んで、夜が明けるのを待ちました」

「奥様の悲鳴を聞きながら」

「ええ。最初の頃は悲鳴がありました。やがて——それも消えていきました。義姉は声を上げなくなった。痛みに耐えるとき、人は、ある時期から声を上げなくなるようです。私は、それを学びました。家の中で、音もなく行われる暴力ほど恐ろしいものはありません」

冴優は深く息を吐く。隆の言葉は聞いている冴優の胸にもずしりと降りてくる。

「あなたを責めるつもりは、ありません」

冴優は静かに言う。隆を糾弾するためにこの場にいるのではない。ただ、彼の中で起きていたことを知りたかった。

「奥様と、何かやり取りはありましたか」

隆はしばらく考え、

「言葉ではほとんど。家の中で兄の目があるとき、義理姉と私が話すのは——危険でした。兄は二人で話しているとそれだけで義姉を疑いました。だから、私たちは、ほとんど話しませんでした」

「それでも、何か」

「ええ——」

隆の表情がわずかに緩む。何か、温かい記憶を引き出すような顔で、

「暴力を受けた次の日、台所で。兄が出かけているとき私は義姉に何も言わずにおまんじゅうを置いておきました。義姉は——何も言わずにそれを受け取られました。次の日、私の机の上に繕い直された靴下が置いてありました。穴があいていた古い靴下です」

「それが——返事だった」

「ええ。それから十五年間、私たちはそういうやり取りで——お互いの存在を確かめ合っていました。言葉では何も言わない。しかし、互いに何かを置く。それで、生きていることを伝え合っていました」

十五年間、二人の沈黙の絆。家の中で兄の暴力の影で互いに置く小さな贈り物。それは、なんと哀しい、しかし確かな愛情の形だろう。

「経理を任されたのは、その頃ですか」

「ええ。私が三十七歳のときです。林さんが辞めて——兄は私に経理を引き継げと命じました」

「最初から不正があったのですね」

「ええ」

話の核心に近づいていくその重みが声に表れる。

「経理を引き継いだ最初の日、兄は私を書斎に呼びました。兄は机の上にいくつかの書類を並べ、そして、言いました。『これは、お前にしか見せられないものだ。林もこれを知っていた。しかし、林は辞めた。これからはお前がやれ』と」

隆はその夜の書斎の景色を目を閉じて思い出している。

「書斎は暗かった。電灯の下に書類が並んでいて兄の顔が机の向こうから——見下ろすように私を見ていました。子供の頃、川辺で殴られた時の兄と同じ目でした。お前を大事に思っているから、と勝手に解釈していた、あの目」

「不正の書類ですね」

「ええ。実態のない会社への支払いの書類。判子の押し方、書類の作り方、銀行への手続き——兄は私に一通り教えました」

「それをどうしたのですか?」

「最初は抵抗しました。『これは、不正経理ですよね』と兄に問いましたが、兄は——笑いました」

「笑った」

「ええ。そしてこう言いました。『お前は俺の弟だ。それで十分だ。家のためにこれをやれ』と」

『それで十分だ』。隆を縛り続けてきた兄の言葉。子供の頃、川辺で殴られた時に言われた言葉と同じ響き。

「私はもう一度、断ろうとしました。すると、兄は——」

隆は声を詰まらせる。

「——何と言ったのですか」

隆は深く息を吸い、ゆっくり言葉を続け、

「『お前が断れば澄江がどうなっても知らんぞ』と」

冴優は手帳を握る指に力が入る。

「奥様を盾にされた」

「ええ。兄は——私の弱点をよく分かっていました。私が義姉を家族として大事に思っていることを。あの瞬間、私は——抵抗を諦めました」

「あなたが奥様を思っていることを知っていたのですね」

「ええ。それは家の中で隠せないことでした。兄は私と奥様の沈黙のやり取りを——おまんじゅうと、繕った靴下のやり取りを——気づいていたのだと思います。気づいていながらそれを利用しました」

冴優は深く息を吐き、恒夫という男の、底知れない冷酷さ。弟と妻のわずかな絆さえ——支配の道具に変えていた。

「そして、不正に加担した」

「ええ。書類を作り、判子を押す。月に何度も。最初は手が震えました。書類を作るたびに——自分が壊れていく感覚がありました」

「五年間、続いた」

「ええ」

隆は両手で顔を覆う。長い、長い時間、そうして、冴優は黙って待つ。やがて、隆はゆっくり顔を上げ、

「私は——汚れました。誰にも言えない罪を五年間、抱えていました。家族を守るために、と自分に言い聞かせて。しかし、それは——言い訳でしかなかった」

「奥様のためだった」

「ええ。しかし——もし私が兄に逆らって不正を告発していたら、どうなっていたか。兄は法的に裁かれ、義姉は解放されたかもしれない。私が義姉の苦しみを長引かせたのかもしれない」

冴優は静かに、

「隆さん。それは後付けの考えです。あの時のあなたには選択肢がなかった。あなたは自分のできる方法で奥様を守ろうとした」

「しかし——」

「両方が、本当のことです。あなたは弱かった。同時に奥様を思っていた。両方があなたの真実です」

隆は冴優を見る。その目に、わずかに何かが揺れる。

「猿島刑事さん——あなたは、なぜそういうことを言ってくださるのですか」

冴優は少し考え、

「私の上司が教えてくれたからです。気の毒と、許せないは、別の話だ、と。あなたは罪を犯した。それは事実です。同時に気の毒な状況に置かれていた。それも事実です。両方を見続けることが刑事の仕事です」

隆は深く頭を下げる。

「ありがとうございます」



——————




「不正経理の現金は誰が受け取っていたか——お話しいただけますか」

本題へ戻る。隆は深く息を吸い、答え始める。

「兄がすべて受け取っていました。私は書類を作るだけでした。実際の現金は兄が一人で——」

「現金を受け取りに行っていた、ということですか」

「いえ。現金は毎月決まった日に兄宛に届きました。封筒で。兄はそれを書斎の金庫に入れていました」

「金庫の鍵は」

「兄が一人で持っていました。私には触らせませんでした」

「現金が届く、というのは——どこから、誰が」

隆は少し考え、

「私は見たことがありません。兄が人の出入りを管理していました。月に一度、決まった日の昼間、兄は工場を早めに切り上げ家に戻っていました。その日に現金が届いていたようです」

「届ける人物を見たことは」

「ありません。兄は、その時間、家政婦の矢沢さんも下げ一人で書斎にこもっていました。私が外から見ても——分かりませんでした」

「家政婦さんを下げる、というのは矢沢さんもご存知でしたか」

「ええ。月に一度、その日だけは『今日は早めに帰っていい』と兄が告げていました。矢沢さんは訳を尋ねたことはなかったでしょう。家政婦の立場でそういう問いはできない」

月に一度、決まった日。家政婦も下げ、隆も近づけさせず、恒夫が一人で書斎にこもる時間。その時間に、誰かが現金を届けに来ていた。

つまり——その「誰か」が不正の共犯者の手先か、あるいは共犯者本人だ。

「最後に、現金が届いた日を覚えていますか」

隆は手帳を出し確認する。

「先月の——二十日です。十一月二十日。事件の約三週間前」

「次の月——十二月の予定は」

「いつもなら、十二月二十日に届くはずでした。しかし——」

「事件は十二月十四日に起きた」

「ええ。十二月の現金はまだ届いていません」

「十二月の取引を止めるつもりだった」

「ええ。事件の三日前に兄が私に『清算したい』と言いました。十二月二十日の取引は兄が止めようとしていた。先方に兄から連絡が行った可能性があります」

「先方、というのは——」

「現金を届けてきた人物、あるいはその後ろにいる組織です」

冴優の頭の中で、図が描かれていく。恒夫が清算を決意し、それを、現金の供給元に伝える。供給元は——自分たちの収入が止まることに気づく。そして、恒夫を排除しようとする。

「隆さんその『先方』のことを何かご存知ですか。手がかりになるようなことは」

隆は少し考え、

「私は書類だけを扱っていました。先方の正体は分かりません。しかし——一つだけ、気になることがあります」

「何ですか」

「兄が毎月二十日に書斎にこもる、その日の前後に——よく町から離れて電話をかけていました」

「町から離れて、というのは」

「家の電話ではなく、町の郵便局や、隣町の電話局から。兄は家の電話で重要な話はしませんでした」

「電話の相手は」

「分かりません。しかし、毎月決まった日に、決まった時間に、兄は出かけていました。家の電話を使わずに連絡を取る相手——それが、不正の現金の供給元だと、私は推測しています」

「その電話に出かける時、何か特別な様子はありましたか」

隆は記憶を辿る。

「いつもは、慎重な様子でした。誰にも気づかれないように町の道を選んで歩く。しかし——最後の月、つまり十一月の二十日前後の電話の時、兄は——少し、苛立っていたように見えました」

「苛立つ」

「ええ。電話から戻ってきた兄は書斎にこもって長く出てきませんでした。その夜、書斎で——何かを叩く音が聞こえた気がします。机を、強く叩いたのか、本を投げたのか。何かは分かりません」

「恒夫さんの計画を向こうに伝えた直後、ということでしょうか」

「そう、推測できます」

冴優はメモを取る。

「恒夫——月に一度、外から電話。連絡先を隠している。十一月の電話で、苛立っていた」

これは、追える線だ。電話の発信記録は残らないとしても電話局の人間が恒夫を見ていた可能性がある。決まった日に来ていた男なら、覚えている人がいるかもしれない。



——————




取り調べの後半、冴優はもう一つの問いに移る。

「隆さん、最後に伺います」

「はい」

「事件の夜、あなたは——本当に恒夫さんを打っていないのですね」

隆はしばらく冴優を見つめ、それから深く頷く。

「打っていません」

「あなたが朝、自首されたとき、『自分が殺した』と言われた。それは、義姉さんを庇うためだった、と」

「ええ。私は、家政婦の矢沢さんから、義姉が朝、駐在所に向かったと聞きました。それで、自首するつもりだと察しました。だから——私も自首しなければ、と思いました」

「あなたが書斎で見たものをもう一度、お聞かせください」

隆はゆっくり目を閉じ、記憶を辿る。

「あの夜、私が書斎に着いたとき、扉をノックしました。返事がありませんでした。もう一度ノックして、それでも返事がないので、扉を開けました」

「中には」

「兄が、机の前の床に倒れていました。頭から血が流れており、文鎮が床に転がっていました」

「他には、誰もいなかった」

「ええ。私一人でした」

「奥さんは、廊下ですれ違った後、どこにいましたか」

「私が書斎に着いたとき——義姉は、もう書斎にはいませんでした。私と廊下ですれ違った後、居間に向かわれたのだと思います」

「あなたが書斎に着いたとき、兄上はもう——」

「亡くなっていたと思います。脈は触れませんでした。呼吸もありませんでした」

「あなたは、何をしましたか」

隆はしばらく黙る。

「私は——文鎮を拾い上げました」

「拾い上げた」

「ええ。床に転がっていた文鎮を拾い上げました。手に血がつきました。私は——その瞬間、自分が殺したのだ、と思い込もうとしました」

「思い込もうと、というのは」

「義姉が殺したのなら、庇いたかった。だから、私が殺した、という記憶を作ろうとしました。文鎮を握り、自分が振り下ろした、と頭の中で何度も繰り返しました」

「具体的には、どのように」

「文鎮を握りました。重さを感じて——その重さを、自分の手の中に覚えこみました。そして、振り下ろす動作を、何度も頭の中で繰り返しました。兄が机に向かっていて、その背後から、私が文鎮を振り下ろす。一回、二回、三回——脳の中でそれを上書きしようとしました」

「現実の記憶を、上書きする」

「ええ。本当の記憶は、扉を開けたら兄が倒れていた、というだけのもの。そこに、自分が打った、という偽の記憶を貼り付けようとしました。気持ちが本気だったのか、それとも演技だったのか、自分でも分からなくなるくらい——必死でした」

澄江と隆。二人とも相手を庇うために、「自分が殺した」という幻の記憶を作ろうとしていた。文鎮を握り、振り下ろした、と自分に言い聞かせていた。それで、本当に殺した気になっていた。

「文鎮をその後どうしましたか」

「拭いて、机の上に戻しました。指紋を消すために。そして、書斎を出ました」

「拭いた、ハンカチは」

「自宅の囲炉裏で翌朝燃やしました」

「自首するつもりだったのになぜ証拠を消したのですか」

隆は少し考えてから答える。

「自分が殺した、と本気で思い込んでいたからです。本気の犯人なら、証拠を消すはずだ、と。それで、より——自分が犯人だ、と自分を納得させようとしていました」

冴優は隆の言葉を、深く受け取る。

「隆さん、自首を決意されたのは、いつですか」

「あの夜、書斎を出てから自分の部屋に戻りました。そこで、何時間も文鎮を握った感触を思い出しながら——自分が殺した、と自分に言い聞かせていました。明け方、家政婦の矢沢さんから奥様が朝早く駐在所に向かったと、電話で伝わってきました」

「電話、ですか」

「ええ。家政婦さんが何かあったのではないかと心配して、隣の家から私の自宅に電話をくださった。それで、義姉が自首されることを、知りました」

「それで、あなたも駐在所に向かった」

「ええ。一人に罪を背負わせるわけにはいかない。それが、私の十五年の——せめてもの償いだと、思いました」

「奥様よりほんの数分、後に駐在所に着かれた」

「ええ。義姉が先に話し終わるのを駐在所の前で待っていました。そして、義姉が自首した直後に私も自首した」

「隆さんあなたは——本当は、あの夜の真犯人を、誰だと思いますか」

隆は冴優を見つめ、長い時間、何も答えない。やがて、ゆっくり、と

「分かりません。家の中の誰でもないとしたら——外の誰かです。しかし、家の中に外から入ることは、難しい。私には答えが出せません」

「不正経理の共犯者が関わっている可能性は」

「あります。兄が清算を決めてそれを共犯者に伝えた。共犯者が兄を排除しに来た——その可能性は十分にあります」

「あなたはその共犯者の名前も、顔も、知らない」

「知りません。兄は最後まで——私には相手を教えませんでした」

冴優は手帳を閉じ、

「あなたが、不正経理の共犯者の存在に、初めて気づいたのは、いつですか」

隆は少し考え、

「具体的に『共犯者がいる』と意識したのはつい最近——義姉が自首された後、私自身が駐在所に向かう道の中で、頭の中を整理していたときです」

「と、いうのは」

「兄が現金を一人で受け取り、誰にも見せずに金庫に入れていた。その金がすべて梶原家の暮らしに使われていたとは思えません。兄は質素な暮らしを好んでいました。屋敷の維持はするけれど、新しい車を買い換えたり、贅沢な物を買ったりは——あまりしていなかった」

「では、その金は——」

「どこかに流れていた。誰かが、もう一人、受け取っていた。月に何百万も流れる金が、兄の懐だけに入っていたとは、考えづらい」

「お心当たりは」

「ありません。兄は徹底的に隠していました。私には書類しか触らせなかった。現金の流れは兄一人の頭の中にだけありました」

「兄上の死で、その情報は——」

「失われました。兄が一人で抱えていた共犯者の正体は兄の死とともに——闇の中に消えた」

「闇の中に消えた共犯者」——しかし、生きている人間が消えるはずはない。どこかにその人物は今もいる。そして、自分の身を守るために恒夫を排除した。それが事実なら共犯者は、今、安堵しているはずだった。「秘密を知る恒夫が、消えた」と。

「隆さん、最後に伺います」

「はい」

「あなたは、これからどうされるおつもりですか」

隆はしばらく考え、

「自分が殺した、と申し上げました。それが嘘でも、本当でも——私は兄の不正に加担した罪を背負っています。それをこれから——どう償うかを考えます」

「奥様は」

「義姉には、自由に生きていただきたい。私のことは考えていただかなくても結構です。あの方は十五年、苦しんできた。その分、これから自分の人生を歩んでいただきたい」

冴優は深く頷く。

「分かりました。今日は、ここまでにします」

隆は深く頭を下げ、立ち上がり、コートを羽織りながら振り返る。

「猿島刑事さん」

「はい」

「姉を、よろしくお願いします」

いつもの言葉だった。隆という男が、繰り返し、繰り返し、誰かに頼んできた言葉。

「ええ」

「私のことは——どうなっても構いません。しかし、姉には、これからの人生があります。どうか、澄江さんを——」

「分かっています」

隆は深く頭を下げ、駐在所を出ていく。戸が閉まる音。冴優は机の上の経理書類へ視線を落とす。さっきまで隆が座っていた、空の椅子。窓の外、午後の薄日。すべてが、静かに、そこにある。

隆という男は家族のために自分を犠牲にし続けてきた。子供の頃の慕い、家を継いだ兄への失望、義姉への沈黙の絆、不正経理への加担、そして自首。すべてが——一本の糸で繋がっていた。家族を守る、というたった一つの動機で。

そして、その糸の先にはまだ見えない一人の人物がいる。恒夫が一人で抱えていた現金の流れの相手。隆ですら正体を知らない闇の中の共犯者。

宮本がお茶を運んでくる。と、冴優は受け取り、両手で湯呑みを包み込むと茶の温かさが指先から伝わってくる。

「お疲れ様でした」

「ええ」

「隆さんも苦しい時間を過ごしてこられた方ですね」

「ええ。あの方が背負ってきたものを少し見ることができました」

冴優は窓の外へ視線を向けると、冬の空に、薄い雲が流れている。糸原町の上をゆっくりと、東から西へ。

「宮本さん。明日、隣町の電話局に行きたいと思います。月に一度、決まった日に電話をかけに来ていた男のことを、聞きに」

「分かりました。私もご一緒します」

「お願いします」




——————




夕方、冴優は宿に戻ると、玄関で女将が冴優に手紙を渡した。差出人は——清水雅哉。今朝届いたものだという。

「お部屋でゆっくり、お読みになってください」

冴優は手紙を握り、二階に上がり、火鉢の前に座り、封を切った。封の糊づけは、清水らしく丁寧だ。封筒の表に冴優の名前。住所は糸原町の宿で——どうやって調べたのだろう。宮本に問い合わせたのか。それとも署に確認したのか。療養中の体で、それだけのことを動かして、手紙を書いてくれた。

便箋一枚。清水の、几帳面な字。

「冴優、糸原町の事件、新聞で続きを読んでいる。お前の進め方は間違っていない。妻と弟のどちらかではなく、両方を疑わない、というところにお前の答えがある」

冴優はその一文を何度も読み直す。


———両方を、疑わない。


それは清水が三十年の現場で見てきた人間への眼差しだった。簡単に容疑者を絞らない。一人の犯人像を早く決めない。両方の可能性を抱えたまま歩く。それが——冴優が今、やっていることだった。清水がそれを認めてくれていた。

「不正経理の話、もしそれが事実なら現金を運んできた人間を追え。月に一度、決まった日。そういう取引は、必ず誰かの記憶に残っている。郵便局、駅、町の人——金を運ぶには道がある。その道を辿れ」

『金を運ぶには道がある』——清水らしい言い方だった。冴優は、その言葉を手帳に書き写す。経理書類の数字の海から人の動きへ。視点を切り替える、その合図だった。

「急ぐな。お前の足で、まず一歩、踏み出してみろ。」

半年前まで毎日声を交わしていた相手。その人が、今は離れた場所で、紙の上にそれを書いている。冴優の足で、まず一歩、踏み出してみろ、と。

清水が新聞で事件を追っている。電話で話さずに手紙を書いた。それは冴優を急かさないため。冴優の足取りを外から見守るため。療養中の体でそれでも冴優の隣にいようとする——清水という男の変わらない姿だった。

「ありがとうございます」

冴優は手紙に向かって小さく呟く。窓の外、夕方の薄い光が、町に差していた。冴優は手紙を畳み手帳に挟む。明日、電話局に行き、月に一度、隣町から電話をかけていた男のことを聞いてみる。それが冴優の次の一歩だった。

糸原町の冬はまだ続く。しかし冴優はその冬の中を、確かな足取りで歩いていく。隆という男を、ようやく一人の人間として見ることができた今日。冴優の中で、何かが、また少し、変わっていた。

町に夕方の鐘が鳴る。糸原町の小さな寺の鐘。十五年、澄江がこの鐘を聞きながら家事をしていたのだろう。鐘が鳴っても家の中の暴力は止まらなかった。鐘の音は町の表面の静けさだけを保つ役目を、十五年、果たしてきた。夕方が深くなっていき、商店の前で女衆が立ち話をしている。子供が走って通り過ぎる日常の風景。しかしその下に十五年の暴力があり、五年の不正があり、誰にも知られない共犯者がいる。立ち上がり窓の外をもう一度見る。冬の夕方の空に星が一つ、二つ。明日の朝がまた来る。清水の言葉が頭の中に響いていた。

『金を運ぶには道がある。その道を辿れ』

町の灯りが、一つずつ点いていく。雑貨屋、八百屋、宿の二階。糸原町の夜が、また始まる。冴優は火鉢の前に座り直し明日の段取りを手帳に書き始める。電話局、隣町、聞き込み——一つずつ、確実に。

清水が遺してくれた手帳と、冴優自身の新しい手帳。机の上に、二冊が並んでいた。

冴優は二冊をしばらく見つめ、そして、深く息を吸い、明日の朝に向かって、ゆっくりと——目を閉じる。

糸原町の夜は、深く、静かに、町全体を包んでいく。

そして、その夜の中で冴優は——明日への備えをゆっくりと整え、明日の朝がまた確かに、訪れるはずだった。

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