表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
散りぬる霧に  作者: masaya
二つの自白
14/14

六章 第三の影

隣町の電話局は町の中心にある古い煉瓦造りの建物だった。冴優と宮本は宮本の自転車を駅前の駐輪場に止め、徒歩で電話局に向かう。冬の朝の隣町は糸原町よりわずかに賑やかだった。商店の前で女性が立ち話をしたり、子供たちが学校に向かって走っていく。日常の風景。しかし冴優の目には、その日常が、糸原町よりも一層輝いて見えた。糸原町は——どこかが影を引きずっている町に感じていた。

町を歩きながら冴優は宮本に尋ねる。

「この町は糸原町と関わりが深いのですか」

「ええ。糸原町から峠を越えてすぐの距離ですから。糸原町の人間も買い物や用事でよくこちらに来ていました。梶原工場の取引先もこちらにいくつかあります」

「梶原恒夫さんはこちらに来ることが多かったのですか」

「町の人間ほどではありませんが、月に何度かは来ていたようです。電話局を使うこと以外にも、銀行や、取引先回りで」

冴優は頷く。それなら隣町の電話局を選んだことは自然な選択だ。糸原町の小さな郵便局では人目につくが隣町なら紛れることができる。電話局の正面玄関は重く、両開きの木の扉。冴優は宮本の後について中に入る。と、中は天井が高く声がよく響いた。受付のカウンターには五十代の男性職員が立っている。

天井から下がる古い真鍮の照明、磨かれた木のカウンター、奥には電話交換機の音がかすかに聞こえる。昔ながらの電話局の風景。冴優は深く息を吸いここで何人もの人々が誰かと繋がるために訪れたであろうことを感じた。

「ご用件は」

宮本が名乗り冴優を紹介する。職員は驚いた様子ですぐに局長を呼びに奥へと小走りで消えていく。冬の朝の電話局に刑事が二人。それは町の人にとって珍しい風景なのだろう。局長は痩せた六十前後の男だった。眼鏡の奥の目に警戒と好奇心が混ざっている。冴優たちを別室に通し椅子を勧める。

「梶原工場の事件のことでお話を伺いたいのです」

局長は深く頷く。新聞ですでに知っている、というふうに。

「お話できることがあれば」

「梶原恒夫さんがこちらの電話局を月に一度、利用していらしたという話があります。決まった日に来て長距離電話をかけていた、と」

局長は少し考えてから答える。

「梶原さんが確かにここに来られていたことは——存じております」

「いつから、ですか」

「五年ほど前から——だと思います。月に一度、二十日前後に。一度の通話は短いときは数分、長いときは三十分ほど」

冴優は手帳を開く。

「相手先の番号は記録に残っていますか」

局長はわずかに顔を硬くし、

「申し訳ありません。長距離通話の記録は料金の関係で残しておりますが——個人の情報になりますので警察の正式な照会がなければお見せできません」

「正式な照会の手続きは可能ですか」

「ええ。県警を通していただければ、すぐに」

冴優は宮本へ視線を送る、と宮本は頷きメモを取る。今日中に手続きを進めると無言で約束する。

「最後に梶原さんが来られたのはいつですか」

局長は記録を確認する。

「先月——十一月二十一日です」

事件の三週間ほど前。隆が話していた最後の取引の時期と一致する。

「その日、梶原さんにいつもと違うところはありましたか」

局長はしばらく考え、

「具体的には——記憶しておりません。ただ、受付の者が何か覚えているかもしれません。少しお待ちください」



——————



局長が呼んできたのは三十代後半の女性職員であった。痩せた体に黒い制服。白い襟元。冴優の前に立ち丁寧に頭を下げる。

「桐谷と申します。受付を担当しております」

「お忙しいところ、すみません」

冴優は彼女に椅子を勧め、桐谷は端正な姿勢で座り、両手を膝に揃える。

「梶原恒夫さんのことを、覚えていらっしゃいますか」

「ええ。月に一度、いらっしゃるお客様でした。背の高い立派な身なりの方で——お顔も覚えております」

「最後に来られたとき——十一月二十一日のことですが、何か覚えていらっしゃることは」

桐谷は記憶を辿るように目を伏せ、

「あの日は——少し、いつもと違っていらっしゃいました」

冴優は身を乗り出しながら、

「具体的には」

「いつもの梶原様は寡黙な方でした。受付で電話の申し込みをされてボックスに入り出てこられ、料金をお支払いになる——その間、私とほとんど言葉を交わさず、ご丁寧な方ですが必要以上の会話はなさらない方でした」

「あの日は、違った」

「ええ。電話を終えて、ボックスから出てこられたとき——梶原様はしばらく立ち止まっていらっしゃいました。受付に来られずホールの真ん中でただ立っておられた」

「立ち止まっていた」

「ええ。お顔は青ざめておられました。何かをお考えのご様子で。私はお加減でも悪いのかと心配し、声をおかけしました。『梶原様、お加減はいかがですか』と」

「梶原さんは、何と」

桐谷は少し考え、

「『大丈夫です』と。それだけでした。しかし、いつもの低く落ち着いたお声ではなく——少し震えておられました」

十一月二十一日。恒夫が電話の後に動揺していた。それは——隆が話していた「兄が苛立っていた」という証言と重なる。

「電話の中身を聞かれたことは」

「いえ、電話ボックスは防音されておりますので外には聞こえません。しかし——一度だけボックスから出てこられたときに梶原様の手が震えているのを見たことがあります」

「いつのことですか」

「それも十一月二十一日のことです。最後にいらした日です」

冴優は息を吸いながら背もたれに体を預ける。

「ボックスの扉が開いた瞬間、何か聞こえなかったでしょうか。電話の最後の声、とか」

桐谷はわずかに眉を寄せる。

「そう、申し上げますと——一言だけ聞こえた気がします。私が受付で書類を整えていた時、梶原様が出てこられた。その瞬間、ボックスの中から——『二十日に』という言葉だけが漏れ聞こえました」

「二十日に」

「ええ。それだけです。電話の相手の声か梶原様のお声か——判別できませんでした」

『二十日に』。十二月二十日——本来なら次の現金が届くはずだった日。恒夫は電話の最後でその日のことを話していた。それは、清算の意思を伝えていたのか。それとも向こうから何かを言われていたのか。



——————



「他に梶原さんに気づいたことはありますか」

桐谷はしばらく考えてから答える。

「梶原様のお話ではないのですが——気になることが一つございます」

「と、いうのは」

「梶原様がいらっしゃる日、決まって——もう一人、別の方も電話局にいらしていました」

冴優は息を止める。

「もう一人、というのは」

「ええ。梶原様より少し早く来られて別のボックスで電話をかけ、梶原様より先に帰られる。その繰り返しでした。梶原様と言葉を交わす様子もなく目も合わせない。しかし——同じ日に同じ電話局にいらっしゃる方でした」

冴優の指がペンの上で止まる。

「その方は、どんな方でしたか」

桐谷は記憶を辿る。

「四十代後半の男性です。中肉中背、髪は短く整えいつも黒っぽいスーツを着ていらっしゃいました。眼鏡をかけ——お顔立ちは普通ですが目つきが鋭い方でした」

「お名前は」

「申し訳ございません。お名前は——存じ上げません。長距離電話の申込書にお名前は書いていただいていますが、それは記録としては残っているはずです」

局長はすぐに記録を確認しに席を立つ。冴優は桐谷に続けて尋ねる。

「その方が来られていた日と梶原さんが来られていた日が毎月一致していたのですね」

「ええ。私が記憶している限り、五年ほど前から——ずっと、です」

「梶原さんとその方の間に何かのやり取りはありましたか」

「いいえ、表立っては。しかし——」

「しかし?」

「梶原様が電話を終えて受付にいらっしゃるとき、ホールの隅に座っているその方がわずかにこちらを見ていらしたことがあります。視線が合うか合わないか——その境目で目を逸らされる。そういう仕草を何度か拝見しました」

月に一度、同じ日に同じ電話局に来る二人の男。直接の言葉は交わさない。しかし、互いに何かを確認し合うような視線をわずかに送り合う。

これは——通信を分担していたのか。あるいは——同じ取引相手と別々に話していたのか。

「最後にその方を見たのはいつですか」

桐谷は少し考えてから答える。

「十一月二十一日です。梶原様の最後の日と同じ日に。そしてそれ以降——その方もいらっしゃっていません」

「事件後はまったく」

「はい。一度も」

十一月二十一日。恒夫がここに来た最後の日。同時に、もう一人の男も——同じ日に、姿を消している。



——————



局長が名簿を持って戻ってくる。

「ご指摘の方は長距離電話の申込書に名前を書かれています。確認したところ——」

局長は名簿を冴優に向け指で名前を指す。

「『山田太郎』」

冴優は名簿を見る。と、確かにそう書かれている。月に一度、決まった日に。

「偽名ですね」

「と、思われます。本名でこの名前を使う方は——稀でしょう」

局長の声にわずかな悔しさが混じっている。長年見ていた客が偽名で来ていた。それを止められなかった。

「電話の相手先は」

「相手の電話番号は——東京の番地です。一つの番号に毎回かけておられた」

冴優は身を乗りだし、

「その番号を教えていただけますか」

「県警の正式な照会があれば」

「すぐに、手配します」

宮本が席を立ち別室の電話を借り、県警に連絡を入れに行く。冴優は局長と桐谷に頭を下げ、席を立ちかけた——その時、桐谷が小さく言った。

「猿島刑事様」

「はい」

「もう一つ、思い出したことがございます」

「その『山田太郎』様は——いつも、革の鞄を持っていらっしゃいました」

「鞄」

「ええ。茶色のしっかりした革の鞄です。書類が入るくらいの大きさ。そして——電話を終えて帰られる時、その鞄がわずかに重たそうでした。来られる時よりも」

冴優の頭の中で点が繋がる。

「来た時より、帰る時の方が、重い」

「ええ」

つまり——電話局で何かを受け取って帰っていた。あるいは電話を終えた後、どこかで何かを受け取りその帰り道でこの電話局を通っていた。

「桐谷さん、ありがとうございます。大切な情報です」

桐谷は深く頭を下げる。

「お役に立てましたか」

「ええ、十分に」



——————



電話局を出ると、冬の昼の光が眩しい。冴優と宮本は駅前の食堂に入る。古い暖簾、薄暗い店内。出された熱いうどんの湯気が冷えた頬を温めた。冴優は箸を取りゆっくり食べ始める。店内には地元の人らしい客が数人。冬の昼の時間、商売人や農家の人々が昼休みに立ち寄っているようだった。冴優は周囲の声を聞きながら、頭の中で電話局で得た情報を整理していた。

「猿島刑事、どう見ますか」

宮本が自分のうどんに七味を振りながら尋ねる。

「電話の相手先と『山田太郎』の正体——両方を押さえる必要があります」

「県警にはすぐに照会をかけました。今日中には相手先の番号と契約者が分かるはずです」

「『山田太郎』の方は」

「電話局に来た日付の記録を私が県警に渡しました。梶原工場の経理書類の取引日と照合すれば何か見えてくるかもしれません」

冴優は深く頷く。

「もう一つ、気になることがあります」

「何でしょう」

「桐谷さんが言った『鞄が、帰る時の方が重かった』という話です」

「ええ」

「『山田太郎』は電話局で何かを受け取っていたわけではありません。電話局を出てからどこかで何かを受け取っていた可能性がある。そしてその後、どこに向かっていたか——」

「梶原家——ですか」

「分かりません。しかし、月に一度、隣町に来て電話をかけ何かを受け取って——どこかに行っていた。その行き先を追えば」

「『山田太郎』が誰のもとに金を運んでいたかが見えてくる」

「ええ」

冴優はうどんの汁をゆっくり啜る。冬の地方の食堂の濃いめの出汁。冷えた体に深く染みる。冴優はふと、

「もう一つ、不思議なことがあります。『山田太郎』は、なぜ電話局で電話をかけていたのでしょうか」

「と、いうのは」

「彼は東京に電話をかけている可能性がある。それなら、隣町まで来る必要はない。彼の自宅や事務所から直接かければ済む話です」

「確かに」

「彼がわざわざ隣町の電話局を選んでいる、ということは——彼自身も痕跡を残したくない人間です。彼にも上から見られている、という意識があったのかもしれない」

冴優は手帳に書き留める。「山田太郎、自分の電話番号も使えない立場」と。

「宮本さん、もう一つお願いがあります」

「何でしょう」

「電話局の周辺を聞き込みしてもらえないでしょうか。十一月二十一日、午後——『山田太郎』を見た人がいないか。彼が電話局を出てからどこに向かったか」

「分かりました。今日中に当たります」




——————




夕方、糸原町に戻った冴優は駐在所で県警からの連絡を待った。ストーブの炎を見つめながら冴優は手帳を開く。今日得た情報を整理していく。

『山田太郎』——五年前から月に一度、電話局に。革の鞄。帰る時に重い。

電話の相手先——東京の番号。

十一月二十一日——恒夫が清算を伝えた日。山田太郎も同じ日に最後の電話。点が繋がっていく。しかし、まだ——その先にいる人物の顔が見えない。

「猿島刑事」

宮本が駐在所の戸を開けて入ってくる。手に紙を持っている。県警からの連絡だった。

「電話の相手先、判明しました」

冴優は紙を受け取る。

「東京の——千代田区。契約者の名前は『協栄商事』」

冴優は息を止める。

協栄商事——梶原工場の経理書類で不正な仕入先として現れていた実態のない会社の一つ。その会社の名前で東京に電話番号が登録されていた。

「協栄商事——契約者名で登記もされていますか」

「されています。東京の千代田区に住所登録があります。しかし、住所は——マンションの一室です。商業用ではない」

「マンション、というのは」

「個人の住居が登記されている、ということです。会社が個人の自宅を本拠地にしている形です。実態のない会社の典型です」

「住居の名義人は」

宮本は、紙の二枚目を見せる。

「水沢——徹」

冴優はその名前をしばらく見つめていた。聞いたことのない名前だった。糸原町でも、梶原家の関係者の中でも、この名前は出てきていない。

「水沢徹——調べていただけますか」

「ええ。県警がすでに動いています」




——————




夜、冴優は宿に戻り、火鉢の前に座った。窓の外、糸原町の夜は静かだった。商店の灯りも落ち、町は深く眠りに入っている。雪はもう降らないが空気は氷点下に近い。冴優は炭の赤い光を見つめながら考えを巡らせた。

———水沢徹。

協栄商事の名義人。東京のマンションに住む男。梶原恒夫が月に一度、電話していた相手。そして、もう一人——『山田太郎』が隣町の電話局で電話していた相手も同じだった可能性が高い。水沢徹は不正経理の構図の中でどこに位置していたのか。可能性はいくつかあった。

一つ——水沢徹が不正経理の真の首謀者。恒夫を糸原町から指揮し利益の大部分を東京で受け取っていた。

二つ——水沢徹はただの名義貸し。本当の首謀者は別にいる。水沢はその人物の身代わりとして書類上に名前を貸している。

三つ——水沢徹は組織の手先。背後にもっと大きな何かがある。

どれもまだ確証はない。しかし——どの可能性であっても水沢徹のもとに行けば一つ手がかりが得られる。

冴優は手帳を閉じ、布団の準備を始める。明日、東京で県警の手続きを進め、水沢徹の住むマンションに向かう。そう決め、冴優は布団に入った。しかし——なかなか眠れない。事件が深い場所へ向かっている、その感覚があった。



——————



翌朝、冴優は早く起きた。窓の外、糸原町は薄い朝霧に包まれている。冬の終わりに近い朝、空気の中にわずかに春の匂いが混じっており、つい、小さく微笑む。冴優は身支度を整え、宿の玄関に降りる、と女将が頭を下げながら、

「お早いお発ちで」

「東京に戻ります。短い間ですが」

「お気をつけて」

「澄江さんにお伝えください。私はすぐに戻ります、と」

「承知しました」

冴優は宿を後にし駐在所へ向かう。到着し宮本と二人で県警の車で県境の駅まで送ってもらった。途中、車中で宮本が言う。

「水沢徹について追加情報がありました」

「何ですか」

「四十七歳。職業欄には『投資家』と。確定申告の記録から結構な額の収入があります」

「投資家、ですか」

「ええ。ただし株や不動産の取引記録はほとんどありません。収入の出所が不明瞭です」

不正経理の現金が水沢徹のもとに流れそれが『投資家』としての収入として申告されていた、ということか。

「もう一つ、興味深いことがあります。水沢徹は独身です。家族はいません。両親もすでに亡くなっています」

「天涯孤独、というわけですね」

「ええ。住んでいるマンションも贅沢なものではありません。普通のサラリーマンが住むような中堅のマンションです」

冴優は車窓を見ながら、考える。

毎月数十万から数百万の不正な金が水沢徹のもとに流れていたはず。にもかかわらず、彼の生活は——特に贅沢ではない。

これは——どういうことか。

水沢徹は——その金をほとんど使っていない。あるいは別のどこかに流していた?これは——もう一段、奥がある。



——————



東京に着いたのは夕方近くポツポツと街並みに灯が灯され始めていた。冴優は警視庁本庁に立ち寄り、上司に短く報告を入れる。糸原町の事件の進展、水沢徹のマンションへの訪問の予定。上司は深く頷き、必要な手続きを了承する。

本庁を出る前、冴優は廊下で立ち止まる。半年前まで、ここで毎日、清水と顔を合わせていた。今、その清水はいない。療養中の家にいる。冴優は廊下の窓から外を見る。冬の東京の夕暮れ。糸原町の夕暮れと、空の色は同じだった。しかし、流れている時間は違う気がした。

冴優は本庁を出て駅に向かう。電車の中で清水の家に電話を入れた。

「俺だ」

「冴優です。今、東京に戻りました。明日、ある場所に向かうことになりました」

「東京に戻ったのか」

「ええ。糸原町の事件で、東京の人間に会いに行きます」

清水はしばらく沈黙する。それから、低く言う。

「時間はあるか」



——————



清水の家は変わっていなかった。夕暮れの庭。梅の木にまだ蕾はない。しかし、よく見ると枝の先がわずかに膨らんでいる。あと数週間で白い花が咲くのだろう。冴優は門を入り玄関の前で深く息を吸った。半年ぶり。霧無村の事件で清水が瀕死の傷を負って退院してから冴優は何度かこの家を訪ねている。しかし、糸原町に行く前の挨拶以来、しばらく会っていなかった。今、また戸の前に立っている。冬の夕暮れの中で冴優の指はわずかに震えていた。

戸を叩く。中から足音が聞こえしばらくすると、戸が開く。

「来たか」

半年ぶりに会う清水の顔は痩せ、髪に白いものが増えていた。しかし、目だけは——変わらなかった。深く、静かに冴優を見ている。

「お邪魔します」

「上がれ」

家の中は変わらない木の匂いがした。清水は縁側に冴優を案内する。火鉢の前に座布団が二つ。一つにはすでに座っていたらしい清水の煙草盆があった。

「茶を持ってこよう」

「いえ、お構いなく」

「俺が飲みたいんだ」

清水はそう言い台所へ消える。冴優は座布団に腰を下ろし庭を見る。冬の夕暮れの静かな庭。半年前までここで何度も清水と話した。あの時と、何も変わっていない。しかし——今は清水が動く速度がわずかに遅い。療養の影が確かに体に残っている。

台所から急須に湯を注ぐ音。湯呑みを取り出す音。それらの小さな音を聞きながら冴優はふと、清水の妻のことを思い出した。十二年前に亡くなった、節子という女性。教師だったという。冴優は会ったことがない。しかし、清水の家の中には節子の気配がずっと残っている気がした。家具の置き方、台所の使い方、すべてに、節子の残した形が、見える気がする。

やがて清水が湯呑みを二つ持って戻ってくる。冴優の前に置き、湯気が冬の空気の中で、ゆっくりと立ち上がる。

「糸原町の話を聞かせろ」

冴優はすべてを伝える。澄江と隆の自首から、林治雄、久保田誠一、矢沢の証言、不正経理、電話局、そして水沢徹のことまで。清水は煙草を吸いながらただ黙って聞いている。冴優の話が終わる、と清水はしばらく庭を見ていた。煙草の煙がゆっくりと夜の空に流れていく頃、清水が口を開き、

「お前はよく走った」

「ありがとうございます」

「水沢に会うのは明日か」

「はい」

「一人で行くのか」

「はい。県警の許可も取りました」

清水は深く頷き、煙草を消した。火鉢の灰の中で煙草の先がしばらく赤く光りそれからゆっくりと消えていく。

「冴優」

「はい」

「水沢という男に会ったとき、注意することがある」

「何でしょう」

「お前が今まで会ってきた糸原町の人間とは種類が違う」

冴優は清水が伝えたいことにまだピンときていないのか、ほんの少し首を傾げ、

「と、いうのは」

「澄江、隆、林、久保田——彼らは皆、苦しみの中で生きてきた人間だ。お前は彼らの苦しみを見て彼らに寄り添うことができた。それはお前の良いところだ」

「ええ」

「しかし、水沢は——苦しんでいない人間かもしれん」

冴優は息を呑む。

「苦しんでいない、というのは」

「不正経理で得た金を贅沢にも使わず家族にも与えずただ持っていた——そういう男は目的のために動いている人間ではない。何かに駆られている人間でもない。ただ、ある仕組みの中で機能している人間だ」

「機能している」

「ああ。そういう人間は感情で揺れない。お前が彼らの背景に同情を寄せても——響かない。だから、向き合い方を変えろ」

清水の声には三十年の現場で見てきた人間への深い分類があった。冴優は清水の言葉を頭の中で噛み締めた。

「具体的には」

清水は少し考え、

「水沢に向かい合うときお前は——刑事としてただ事実を確認しろ。同情も、共感も、いらん。彼の口から何が語られるか、何を語らないか——それを、ただ、観察しろ」

冴優は深く頷く。

「分かりました」

「もう一つ———水沢はおそらくお前を試してくる」

「試す」

「ああ。お前がどこまで知っているか、お前が何を狙っているか——それを彼は確かめようとする。お前が動揺すれば彼は逃げる。お前が冷静でいれば——少し口を開く」

「分かりました」

清水は頷き湯呑みを取った。冴優も湯呑みを取り茶を口に含む。冬の夕暮れの茶。清水の家のいつもの味だった。

「清水さん。最近、お加減はいかがですか」

清水はわずかに微笑み、

「悪くない。庭仕事も少しずつ始めている。春には梅の世話をしようと思っている」

「春には私もお手伝いに伺います」

「ああ」

二人はしばらく庭を見ていた。冬の日が落ち、夜が深くなっていく。火鉢の炭の音、小さな風の音。それだけが、二人の周りにある。

「冴優」

「はい」

「お前は、糸原町で、何を学んだ」

冴優は少し考え、

「家の中で起きることは外からは見えない、ということです。そして——見えないものに関わってはいけない、と思っていた人々がそれぞれ何かを背負っていた、ということです」

清水は深く頷く。

「それを忘れるな。お前は糸原町でその姿を見た。これから先も家の中の声を聞ける刑事になれる」

「ええ」

「明日、行ってこい」

清水はどこか誇らしそうな、嬉しそうな微笑みを浮かべていた。



——————



冴優が清水の家を出たのは夜の九時近かった。月が空に出ている。冷たい東京の冬の月。冴優は駅まで歩きながら、清水の言葉を頭の中で反芻した。



——水沢徹は苦しんでいない人間かもしれん。



これまで会ってきた糸原町の人間は、皆、何らかの苦しみを抱えていた。澄江の十五年の暴力。隆の家族への沈黙の絆。林の家族を盾にされた屈辱。久保田の妻と息子を失った孤独。彼らは皆、苦しみの中でそれぞれの選択をしてきた。そして冴優は彼らに寄り添うことで——少しずつ真相に近づいてきた。


しかし、水沢徹は、違う。


贅沢にも使わず、家族にも与えず、ただ金を受け取り続けてきた男。動機が見えない。動機がないかのように見える。それが最も——危険な相手かもしれない。

冴優は深く息を吸う。

駅に着き、電車に乗る。窓の外、東京の夜が流れていく。明日、水沢徹に会う。冴優は手帳を取り出し新しいページを開き、そして、書く。

「水沢徹——同情はいらない。事実をただ確認する」

「彼が語ること、語らないこと、両方を観察する」

「動揺するな。冷静でいろ」

清水の言葉を自分のものにしていく。それが冴優の準備であった。



——————



翌朝、冴優は水沢徹のマンションに向かった。千代田区の古めの中堅マンション。十階建ての煉瓦タイル貼りの建物。冬の朝の光がその壁に薄く差している。冴優はマンションの入り口に立ちしばらく建物を見上げてみる。

ここに——梶原工場から流れた金の最終的な行き先がある。あるいは、その先にもう一段ある。冴優は深く息を吸い、エントランスへ向かう。エントランスは思ったより清潔であった。郵便受けの並び、観葉植物、磨かれた床。住人はそれなりに身だしなみを整えた人々だろう。サラリーマン、若い夫婦、独身の社会人——そういう人々が住む中堅クラスのマンション。

七階の七〇五号室。冴優はエレベーターで上り廊下を歩く。古い建物だが清掃は行き届いているようだ。廊下の両側に並ぶ扉。それぞれの後ろに別々の人生が息を潜めている。七〇五号室の前で冴優は立ち止まった。扉は他の部屋と変わらない、普通の鉄の扉。表札には「水沢」とだけ、控えめに書かれている。何の特徴もない何の主張もない扉。

ここに住んでいる男が、何百万もの不正な金を月々受け取り続けてきた。そんな男がこの何の特徴もない扉の奥にいる。冴優の頭の中で清水の言葉が響いた。「水沢は苦しんでいない人間かもしれん」と。

呼び鈴を押す。

中でわずかに音がした。足音が近づき扉のチェーンが外される音。扉がゆっくりと開く、と立っていたのは四十代後半の男だった。

中肉中背、髪は短く整え、黒っぽいセーターにスラックス。眼鏡の奥の目が冴優を見ている。冷静なしかし読み取れない目だった。電話局の桐谷さんの証言と姿が一致する。

「猿島さん、ですか」

男の声は、低く、滑らかだった。冴優が事前に電話で約束を入れていたことを知っている、という落ち着いた声。

「ええ、猿島冴優です」

「水沢です。お入りください」

水沢は冴優を中に通した。玄関で靴を脱ぎ、廊下を歩く。家の中は想像していたより——簡素だった。装飾品はほとんどなく、必要な家具だけが整然と置かれている。家具の趣味も奇抜なところはなく控えめで上品であった。

水沢は冴優をリビングに通す。革のソファ、低いガラスのテーブル、本棚。本棚には経済書、法律書、外国語の書物。趣味で読んでいる、というより、仕事のための本のように見える。冴優はソファに腰を下ろす。水沢は向かいに座り、両手を膝に揃えた。落ち着いた姿勢。動揺の気配はない。

「お茶を、お持ちしましょうか」

「お構いなく」

「では、本題に入りましょうか」

水沢は冴優を見る。眼鏡の奥の目にわずかな光がある。何かを試しているような、観察するような光。清水の言葉が、冴優の頭の中に響いた。「水沢はおそらくお前を試してくる」と。

「水沢さん梶原工場の事件のことでお話を伺いたいのです」

「梶原工場——」

水沢の表情は変わらなかった。少し、考えるような顔。しかし、驚きや動揺は——一切ない。冴優は水沢の指の動きを見ていた。膝の上で両手は微動だにしない。落ち着いている、というより——感情が最初から動いていない。普通の人間が緊張するときに見せるわずかな筋肉の硬直すら彼には見えない。

これが、清水が言っていたことか、と冴優は思う。彼は苦しんでいない。だから、揺れない。揺れないものにこちらの感情をぶつけても響かない。

「糸原町という町に梶原工場という紡績工場があります。その工場主、梶原恒夫さんが十二月十四日に殺害されました」

「新聞で、読みました」

「ご存知でしたか」

「ええ。中央紙に小さな記事として載っていましたから」

水沢の声に感情の揺れはない。事実を淡々と認める声。

「水沢さんは梶原恒夫さんと面識はおありですか」

水沢はしばらく考え、

「面識——というほどのものではありません。しかし、ある仕事を通じて何度かやり取りはしました」

「やり取り、というのは」

「お電話でのやり取りです。直接お会いしたことは、 ありません」

「電話の頻度は」

「月に一度、ほど」

水沢の声は依然として平坦だった。冴優が問い詰めている事実を彼は認める。隠すつもりはない。しかし、それ以上のことを自ら進んで語る気もない——という姿勢だった。

「電話の内容は」

「仕事の打ち合わせです」

「具体的には」

水沢は冴優を見る。眼鏡の奥の目がわずかに細くなった気がした。

「猿島刑事——あなたは、すでに何かをご存知のようですね」

「と、いうのは」

「そうでなければ、私の家まで来られない。失礼ですがここに来られた以上、ある程度の情報をお持ちなのでしょう。あなたが私から何を引き出したいのか——率直にお話いただけませんか」

水沢は冴優に自分が知っていることをすべて出させようとしている。それで、自分が答えるべき範囲を計っているのだ。これが清水の言っていた「試し」であった。

冴優はわずかに微笑み、

「水沢さん、私は——ある事実を確認しに来ています。あなたがそれを認めるか、否定するか——それを伺いたい」

「事実、とは」

「梶原工場には長年、不正な経理が行われていました。実態のない仕入先への支払い。協栄商事、日本繊維開発、三洋経済研究所——これらの会社に月に数十万から数百万の金が流れていました」

水沢の表情は変わらない。が、冴優は続ける。

「協栄商事の登記住所はこのマンションです。契約者の名前は——あなたです」

水沢はしばらく冴優を見つめ、そして、深く息を吐いた。

「そうですか」

声に、否定は、ない。

「あなたが不正経理の受け皿になっていたのですね」

「受け皿、ですか」

「協栄商事という実態のない会社の名義をあなたが提供していた。梶原工場からその会社の名義に月々の支払いが行われていた。書類上、それは仕入の支払いとして処理されていたが実態は——」

「実態は」

「裏に流れる金です。そしてあなたは——その金のどこかに位置していた」

水沢はしばらく何も言わず、窓の外を見る。冬の朝の東京の景色。マンションの七階から見える灰色の街並み。

やがて水沢はゆっくりと口を開く。

「猿島刑事、あなたは——どこまで、ご存知ですか」

「先ほど申し上げた事実までは確認しています」

「それ以上は」

「これから、伺います」

水沢は深く頷き、

「では、お話します。私がお話できる範囲のことを」

水沢は両手を膝に揃えたまま、語り始めた。声は依然として平坦だがわずかに重みが加わった気がした。

「協栄商事は私の名義で登記されています。その通りです。月々の支払いを梶原工場から受けていたことも事実です。しかし——」

「しかし」

「私はその金のほんの一部しか受け取っていません」

冴優の指がノートの上で止まる。

「ほんの一部、というのは」

「私が受け取っていたのは月々の支払いの——一割ほど。残りは別のところに流れていました」

「別のところ、というのは」

水沢はしばらく考え、話す内容を慎重に選んでいる様子だった。

「具体的な相手の名前は申し上げられません。私自身、契約上、口外しないことになっています。しかし——」

「しかし?」

「私はただの『窓口』です。書類上の名義人であり電話を受ける窓口。それだけが私の役割でした」

「窓口——」

「ええ。月に一度、梶原さんから電話を受けそれを別のところに伝える。書類上の処理を私が代行する。それが私の仕事です。仕事の対価として月々の支払いの一割を受け取っていました」

冴優は水沢の言葉を注意深く聞いている。彼が「契約」と呼ぶその仕組み。月々の不正な金の流れの中で彼はただの中継地点だった。それは——彼の動機の希薄さを説明する。動機がないように見えたのは彼自身が動機を持つ立場ではなかったからだ。

「水沢さんが月々受け取っていた『一割』はいくらほどでしたか」

「月によりますが——三万円から五万円ほどです」

当時の三万円から五万円。サラリーマンの月給と同程度の額。それなりに大きいが不正の金としては確かに『一割』に過ぎない。残りの大部分は——別の人物のもとに流れていた。

「では、その『別のところ』は誰ですか」

「申し上げられません」

「あなたが法的に追及される可能性もあります」

水沢はわずかに微笑んだ。冷たい、しかし読み取れない微笑み。

「猿島刑事。私は不正経理の関係者としていずれ追及を受けるでしょう。それは、覚悟しています。しかし——『別のところ』を語ることは私の身の安全を脅かします」

「身の安全」

「ええ。私が口を開けば——私は消されるかもしれません」

冴優の背筋がわずかに冷えた。水沢の声に初めて——わずかな緊張が宿った。彼は本当にそう感じている。これは演技ではない。

ここで水沢が初めて感情の片鱗を見せた。「身の安全」——それを脅かされる立場にいる、という事実。彼が苦しんでいないように見えたのは感情を持たないからではなくある種の覚悟の中で感情を凍らせているからだった。



——————




「あなたを脅迫している人物がいるということですか」

「脅迫、という形ではありません。しかし——契約に背けば、私の安全は保証されない、という暗黙の了解があります」

「いつからその関係が始まったのですか」

「七、八年前、です」

「あなたがその関係を始めたきっかけは」

「金、です。私には当時まとまった金が必要でした。そんなときある人物から——『簡単な仕事をすれば月々定額の金を払う』という話を持ちかけられた。その『簡単な仕事』が、これでした」

「お金が必要だった理由を伺ってもよろしいですか」

水沢は少し考えてから答える。

「家族の借金を肩代わりするためでした」

「家族——」

「亡くなった両親が残した借金です。父は晩年、株式投資で大きな損失を出していました。両親が亡くなった後、私が相続人としてそれを清算する必要がありました」

水沢にも過去はあった。彼は両親の借金を清算するために不正の道に入った。当初は——『簡単な仕事』だと思って足を踏み入れた。

「借金はもう完済されたのですか」

「ええ。三年前に」

「では、この三年間は——」

「やめる機会を何度か考えました。しかし——契約は続いていました。やめると言って簡単にやめさせてもらえる関係ではありませんでした」

水沢徹も——別の形で囚われていた。彼は自分の選択で関係を始めたが、抜け出すことがもうできなかった。

「その人物の名前は——」

「申し上げられません」

「梶原恒夫さんがその不正の中でどこに位置していたかはご存知でしょうか」

「梶原さんは——『送金者』でした。私は『窓口』梶原さんは『送金者』。私たちの上にもう一段いる。梶原さんも私と同じくその上の人物の指示で動いていました」


梶原恒夫——送金者。

水沢徹——窓口。

そして、その上に——もう一人、いる。


「梶原さんはその『上』の人物が誰であるかを知っていたのでしょうか」

水沢はわずかに首を振る。

「私の見る限り知らなかったと思います。私たちは互いに『窓口』と『送金者』という役割で繋がっているだけ。上の人物との直接の接触はありませんでした。電話と書類のやり取りだけで——成立していた仕組みです」

「梶原さんが清算したいと申し出たのはいつですか」

「先月、十一月二十一日です」

「電話で、ですね」

「ええ。梶原さんは私に『来月の支払いを止めたい。これまでのことを清算したい』と告げました」

「あなたは、何と」

「私はその意向を上に伝える、と答えました。それが私の仕事ですから」

「上の人物は、何と」

水沢はしばらく沈黙する。眼鏡の奥の目が暗くなった気がした。

「梶原さんに、考え直すよう伝えろ、と」

「考え直す」

「ええ。具体的には『清算は認めない。これまで通り続けてほしい』という内容でした」

「あなたはそれを梶原さんに伝えましたか」

「ええ。十二月十二日にもう一度電話をしました。梶原さんに上の意向を伝えました」

「梶原さんは、何と」

「『考え直すつもりはない。十二月二十日の支払いは止める。それ以降の取引も止める』と」

「あなたは、それを上に」

「ええ。すぐに伝えました」

「上の反応は」

水沢はゆっくり、と

「『分かった』とだけ。それ以上は何も言いませんでした」

梶原恒夫が清算を譲らない、と上に伝わった。それから二日後——梶原恒夫は殺された。

「水沢さん、梶原さんが殺されたと聞いて何を感じましたか」

水沢はしばらく考え、

「驚きませんでした」

「驚かなかった」

「ええ。梶原さんが清算を譲らなかった以上——こうなるのではないか、と、内心で予想していました」

「上の人物が梶原さんを排除した、と」

「直接的な証拠はありません。しかし、状況からそう考えています」

「水沢さん、もう一つ伺います」

「はい」

「梶原工場から流れた金は、月々、上の人物のもとにすべて届いていたのですね」

「ええ」

「その金はどのような目的で使われていたのでしょうか」

「分かりません。私はただの窓口でしたから。金がどこに使われているか上の人物が何のためにこれをやっているか——それを知る立場にはありませんでした」

「上の人物が男性か女性か——分かりますか」

「電話の声は——男性のものでした。年齢は五十代から六十代、と推測しています」

「電話番号はお持ちですか」

「番号は頻繁に変わります。月に一度、新しい番号が知らされる——という方式でした。私がこちらから連絡を取ることはできません」

「次に連絡が来るのはいつですか」

「分かりません。梶原さんが亡くなって以降、上の人物からは連絡が来ていません」

「来ない、というのは」

「上は私との関係を断ち切るかもしれません。梶原さんが死に糸原町からの送金が止まる以上——私の役割も終わるかもしれない」

「あなたはこれからどうされるのですか」

「分かりません。私は不正経理の関係者としていずれ追及されるでしょう。逃げるつもりはありません。法的な責任は果たします」

「上の人物は」

「彼が私を消すかどうか——私には分かりません。今、私は自分の安全を確認しながら暮らしています」

水沢はある種の達観の中にいた。彼は自分の運命をある程度受け入れている。法的に裁かれるか、それとも上の人物に消されるか——どちらかが自分に訪れることを知っている。

「水沢さん。上の人物を特定する手がかりはありませんか。電話の声、話し方、習慣——何でも結構です」

「一つ、気づいたことがあります」

「何ですか」

「上の人物の電話の声には——特徴的な『間』があります。話す前に必ず一拍、息を吸う癖。そして、文末に必ず『——だ』と、強く響かせる癖」

「『——だ』」

「ええ。命令的なしかし淡々とした言い方です。普通の人とは違うリズムでした」

「他には」

「電話の背景音から推測したことがいくつかあります。電話の向こうで、時々、犬の鳴き声が聞こえました。低い太い犬の声。それから——時々、女性の声がする。家族か雇人か——分かりません」

「———犬を飼っている。家に女性がいる」

広い東京の中で特定するのは難しいかもしれないが——他の情報と組み合わせれば絞り込める可能性はある。

「もう一つ、伺います。上の人物が年齢的に五十代から六十代、ということでしたね」

「ええ」

「経歴については何かご存知ですか。話の中でそれらしい言葉が出てきたことは」

「直接の経歴を聞いたことはありません。しかし——話し方から、教養のある人物だ、と感じていました。語彙が豊富で複雑な事象を簡潔にまとめる能力がある。元々、何らかの組織で要職にあった人物のように思えます」

「組織、というのは」

「分かりません。会社か、官庁か——あるいは別の何か」

冴優の頭の中で輪郭が見え始めていた。元々要職にあった五十代から六十代の男性。教養があり、淡々と命令を下す人物。犬を飼い、家には女性がいる。

「水沢さん。本日はありがとうございました」

「いえ」

「最後に一つだけ。あなたはこれからどうされるのですか」

「どこにも、行きません。ここで、あなた方の捜査を待ちます。逃げるつもりはありません」

「上の人物にあなたが私と話したことは伝わるでしょうか」

「分かりません。しかし——いずれ伝わるでしょう」

「身辺に警備の必要があれば手配します」

水沢はわずかに微笑み、

「お気遣い、ありがとうございます。しかし——警備があっても、なくても、私の運命はあまり変わらない気がしています」

水沢徹は自分の覚悟の中で生きている。彼は自分の選択の結果をただ受け入れるつもりだった。

「もし、上の人物について何か思い出すことがあれば——いつでもご連絡ください」

「ええ」

冴優は立ち上がり玄関に向かい玄関で靴を履き頭を下げる。

「失礼します」

「お気をつけて」

扉が閉まる音。冴優はマンションの廊下を歩きながら、振り返らなかった。水沢徹という男の静かな覚悟が扉の向こうに残っていた。



——————



冴優が水沢の家を出たのは午後の三時近かった。外に出ると冬の曇り空が広がっていた。冷たい風が頬を撫で、冴優はしばらくマンションの前で立ち止まり呼吸を整えた。

マンションを見上げると、七階の窓が見えた。あの部屋に水沢徹はまだいる。彼が今、何を考えているか——冴優には分からない。彼は苦しんでいない人間。動機のように見える動機を持たない男。彼は自分の運命をただ淡々と受け入れている。

水沢徹は——首謀者ではなかった。彼はただの「窓口」。本当の首謀者は、まだ、その上にいる。

そして、その人物が——梶原恒夫を殺すよう指示した可能性が極めて高い。

しかし、その人物に辿り着くにはまだ手がかりが足りない。電話の声の特徴、犬の鳴き声、家にいる女性。これだけでは東京で特定するのは——困難だった。

冴優は駅に向かって歩き出す。そして、そのまま——清水の家に向かう。

電車に乗りながら冴優は窓の外を見る。冬の東京の空は曇天。ビルの群れ。糸原町とは違う巨大な空間。しかし、その空間の中にも——糸原町と同じく誰にも見えない悪が息を潜めている。梶原恒夫を殺した人物。糸原町には行っていない東京の人物。だとすれば——犯行は誰の手で行われたのか。冴優の頭の中で新しい疑問が浮かんだ。

もし上の人物が東京にいるとすれば彼が直接糸原町まで行き、梶原を殺したとは考えづらい。誰かを雇ったのではないか。あるいは、糸原町にすでに彼の手の者がいたのではないか。

つまり——梶原家の周辺にその「手の者」がいる可能性がある。『第三の影』がもう一段奥に隠れている。車窓の外、夕方が近づいていた。東京の冬の空に鉄塔の灯りが点き始める。冴優は糸原町の事件がどこに向かうのか——まだはっきりとは見えていない。電車が清水の家の最寄り駅に着く。冴優は降り改札を抜ける。冬の夕方の駅前。商店街には人々が買い物に出ていた。母親と子供、年配の夫婦、勤め帰りのサラリーマン。糸原町の人々と見た目は違わない。しかし、彼らの暮らしの下には——糸原町の家のような暴力は潜んでいないだろうか。冴優は深く息を吐き、清水の家に向かって歩き出した。

梶原家の周辺に上の人物の手の者がいる——その可能性を冴優は今夜、清水に相談をしたかった。誰がその「手の者」になりうるのか。家の中にいる人間。家を出入りしていた人間。あるいは、町の中で、梶原家との関係が薄く見えて、実は深い関係にあった人間。

可能性はいくつもあった。しかし——絞り込むにはもう少し情報がいる。

清水の家の門が見えてくる。糸原町の事件は東京を経由してまた糸原町に戻ろうとしている。それが、冴優の感じている流れだった。夜の九時を過ぎていた。清水の家の灯りが夜の中に温かく浮かんでいる。冴優は門の前で立ち止まり、しばらく庭を見ていた。冬の梅の枝が薄暗い光の中で、わずかに揺れている。そして冴優は戸を叩く。

「——来たか」

中に入り縁側に通される。火鉢の前に温かい湯呑みが二つ置かれていた。清水は冴優を待っていた。冴優は深く頭を下げ座布団に腰を下ろす。

「水沢の話を、聞かせろ」

冴優はすべてを話した。水沢が窓口だったこと。彼は月々の支払いの一割しか受け取っていなかったこと。本当の首謀者は別に居り東京のどこかにいること。電話の声の特徴、犬の鳴き声、家にいる女性。

そして——梶原家の周辺に上の人物の手の者がいる可能性。清水は煙草を吸いながらただ黙って聞いている。冴優の話が終わるとしばらく庭の闇を見ていた。

「冴優」

「はい」

「お前の感じている流れは、正しい」

「はい」

「梶原を殺した人間は東京にいる人物が糸原町まで派遣した可能性が高い。あるいは、糸原町にすでにその人間がいた」

「家の周辺に」

「ああ。家の中というよりは——家の周辺だ。家の中の人間はお前がすでに調べた。澄江、隆、矢沢——彼らは犯人ではない。となれば、家の周辺にもう一人いる」

「明日、糸原町に戻ります」

「ああ。早い方がいい」

「家の周辺の人間をもう一度、洗い直します」

清水は煙草を消し湯呑みを取った。

「冴優」

「はい」

「お前の足取りが確かになってきた。最初に糸原町に行ったときと、今のお前は——別人だ」

冴優はわずかに微笑む。

「清水さんが私をここまで作ってくれました」

「いや。お前自身がお前を作ったんだ。俺は、ただ、隣にいただけだ」

冴優は、深く頭を下げた。

夜が深まっていく。冬の夜の縁側に二人の刑事が座っている。冴優は明日の朝早く糸原町に戻ることを決めた。第三の影が糸原町の中に潜んでいる。それが、誰なのか——明らかにする時が近づいていた。

「清水さん。糸原町で最後まで走り切れるでしょうか」

清水はわずかに微笑んだ。

「お前はもう走り切る力を持っている。——あとは、走るだけだ」

窓の外、東京の冬の夜が深く続いていた。明日の朝、冴優は再び糸原町に向かう。第三の影を暴くために。夜はまだ深い。しかし、その深さの中で——冴優は確かな何かを握りしめていた。糸原町の冬の終わりはもうすぐ来る。それと共に事件の終わりも——確実に近づいていた。

外で東京の夜は深くゆっくりと明日に向かって流れていく。糸原町の冬もまた確かに明日に向かっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ