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散りぬる霧に  作者: masaya
二つの自白
15/15

7章 本当の夜

糸原町に戻ったのは翌日の昼過ぎだった。汽車を降り、駅前に出ると空気が変わっていた。冴優が東京に発った時より糸原町の冬が——わずかに緩んでいる。雪はもうない。土の道に薄い春の匂いが混じっていた。

駅前の小さな広場で冴優はしばらく立ち止まる。冬の昼の光が町の屋根に薄く差し商店の前で女衆が立ち話をしていた。子供が走っていく。日常の風景。しかし、その風景の奥に——冴優はもう何重もの層を見ていた。家の中の暴力。十五年の沈黙。不正経理。脅迫。そして、月一の現金の流れ。

一週間前、冴優がこの駅に降り立った時、糸原町はただの小さな田舎町だった。今——同じ町が別の顔で見えている。駅前で宮本が冴優を待っていた。

「お帰りなさいませ」

「ただいま戻りました」

二人は宮本の自転車を押しながら駐在所に向かう。歩きながら冴優は東京での話を伝える。水沢徹の証言、彼が窓口に過ぎないこと、本当の首謀者は五十代から六十代の男性で東京にいる可能性が高いこと、犬を飼い家に女性がいる、という細かな特徴。

宮本は黙って聞きながら何度か頷いた。歩く速度を冴優の話のリズムに合わせ、冴優の話が一段落すると、しばらく無言で歩く。冬の昼の道で自転車のタイヤが薄い砂利を踏む音だけが聞こえる。

「猿島刑事、お伝えすることがあります」

「何ですか」

「久保田さんの不在証明、確認できました」

「不在証明」

「事件の夜、久保田さんは——隣の集落の知人の家にいました。少し古い縁で毎月酒を持ち寄って語る会があったそうで。その夜は夕方から朝まで四人で飲んでいた。と、確認できました」

冴優は深く息を吐く。これで久保田は容疑者から外れる。最後に残っていた「外部の人物」の可能性が一つ消えた。となれば犯人は——家の周辺にいた人間だ。

「もう一つ」

「ええ」

「電話局周辺の聞き込みで『山田太郎』らしき男を見たという証言がいくつか集まりました」

「電話局を出た後、彼が向かった場所は——」

「糸原町の方向です。隣町の駅から糸原町行きの汽車に乗っていた。という証言があります」

冴優は息を呑む。

「『山田太郎』は——糸原町の人間だった、ということですか」

「あるいは糸原町を経由し別の場所に向かっていた可能性もあります。しかし、毎月決まった日に隣町から糸原町行きの汽車に乗っていた、という事実は——重要です」

冴優の頭の中で新しい点が線に繋がり始める。

『山田太郎』は糸原町に向かっていた。彼は月に一度、隣町で電話をかけ、書類か金を受け取り、それから糸原町に戻っていた。つまり——糸原町に住んでいる人間だ。そして、その人物が不正経理の中でもう一つの役割を担っていた。


駐在所に着くと冴優はストーブの前に座り茶を口に含ぶ。窓の外、糸原町の昼。日常の風景。しかし——その日常の中に『山田太郎』がいる。月に一度、密かに動いている男。

「宮本さん」

「ええ」

「桐谷さんの証言をもう一度確認します。『山田太郎』は四十代後半、中肉中背、髪は短く整え、いつも黒っぽいスーツを着ていた、と」

「ええ」

「眼鏡をかけ顔立ちは普通だが目つきが鋭い」

「ええ、そうおっしゃっていました」

冴優は手帳を見ながら考えた。


糸原町に住む、四十代後半の男。眼鏡をかけ、目つきが鋭い。月に一度、秘密の動きをする男。


「宮本さん。糸原町の中でその特徴に当てはまる人物に心当たりはありませんか」

宮本はしばらく考え、

「四十代後半の男性で眼鏡をかけている人物——糸原町は小さな町ですから何人か思い当たります。しかし、その中で『目つきが鋭い』というのは——」

「ええ」

「考えてみます。少しお時間を」

宮本は手帳を取り出し町の住人を一人ずつ頭の中で整理し始める。冴優は黙って待つ。糸原町は人口およそ二千。小さな町だがそれでも全員を確認するのは時間がかかる。

「猿島刑事」

「一人、思い当たります」

「誰ですか」

「梶原工場の——副工場長です」

冴優は手帳を握る指に力が入る。

「副工場長、というのは」

「萩原慎一さんです。四十六歳。眼鏡をかけ、痩せ型で——目つきが確かに鋭い方です。普段は工場で現場の管理を担当されています」

「梶原家との関係は」

「先代の頃から工場で働いておられます。優秀な方で恒夫さんが当主になられた後、副工場長に昇格されました」

「家族構成は」

「独身です。糸原町の郊外に一人で住んでおられます」

梶原工場の副工場長。先代から働いている内部の人間。隆と並んで工場の運営に深く関わっていた立場。そして——独身。家族の動向に縛られない、自由に動ける立場の男。

「萩原さんは月に一度、定期的に外出することはありますか」

「あります」

宮本は手帳を確認する。

「毎月二十日前後、休暇を取って二日ほど工場を空けることが知られています。理由は『家族の墓参り』とされています」

「家族の——墓参り」

「ええ。萩原さんのご両親は若い頃に亡くなっています。隣の県の墓所に眠っている、と。月に一度、墓参りに行く、と説明されていました」

冴優は手帳に書き留める。

月に一度の「墓参り」。それが隣町の電話局での密会と重なっていた可能性。

「萩原さんの自宅はどこですか」

「糸原町の北東、川の上流の方です。集落から少し離れた場所に一軒家を借りて住んでおられます」

「今、ご在宅でしょうか」

「事件以降、工場は休業しています。萩原さんも自宅にいらっしゃる可能性が高いです」

「お会いしたいです。今日中に」

「分かりました。お連れします。」

二人は駐在所を出て宮本の運転する車で萩原の自宅に向かった。糸原町の北東の道は舗装されていない土の道。両側に冬枯れの木々が並び奥に行くほど人家が少なくなっていく。車の窓から見える風景が徐々に寂しくなっていく。最初は商店、次に農家、それから田畑だけ。最後には両側の山が近づき、川の音が聞こえ始める。

「萩原さんの暮らしぶりはどうですか」

「質素です。一人暮らしで贅沢はされていません。給料の割には慎ましい暮らしをされている、と町の人間は言っています」

「と、いうことは——」

「副工場長の給料は一般工員より相当高いはずです。それで贅沢をしないということは、お金を別のところに使っているか、貯めているか——」

「あるいは、誰かに送っているか」

「ええ」

車の中、冴優は萩原慎一という男の輪郭を頭の中で描く。四十代後半、独身、糸原町の郊外に一人で住む副工場長。質素な暮らし。月一の墓参り。電話局での密会。革の鞄。彼の生活には隙間がある。普通の独身男性とは何かが違う。月一の隣町への外出と質素な暮らしの不一致。給料が高いのに何にも使っていない。これらの事実が指し示すのは——別の場所に彼の生活の中心があるということ。

車は萩原の家の近くに着く。集落から離れ寂しい場所。家は木造の一軒家で屋根に苔が生え、庭は手入れされていない。住人がいるのか留守なのか——外から見ても分かりにくい家だった。

「あれが萩原さんの家です」

車を降り、冴優は宮本と一緒に玄関に向かう。庭を歩きながら冴優はあちこちを見回す。庭の隅に壊れた農具。井戸。物置。そして——犬小屋らしきものがあった。しかし、犬の姿はない。

「以前、犬を飼っておられたのですか」

「ええ。確か、二、三年前まで。その犬が老齢で死んでから新しい犬は飼っていない、と聞いています」

冴優は犬小屋の前に立ちしばらく見つめた。水沢徹は上の人物の電話の背景音で犬の鳴き声を聞いた、と言っていた。低い、太い犬の声。それは——上の人物の家のもの。萩原慎一の家の犬はもういない。つまり、萩原慎一は——上の人物ではない。彼は『山田太郎』中継役である可能性が高い。


玄関を叩く。と、中で足音がした。戸が開き、立っていたのは四十代後半の男だった。痩せ型、眼鏡、髪は短く整えている。冴優を見る目は——確かに鋭かった。桐谷の証言と姿が一致する。

「萩原慎一さんですか」

「ええ」

「東京から派遣された猿島と申します。少しお話を伺えますか」

萩原はしばらく冴優を見つめそれから無言で頷き、冴優を中に通す。家の中は外見と違い、整然としていた。家具は少なく必要な物だけがきちんと置かれている。簡素だが無味乾燥でもない。ある種の几帳面さがあった。

玄関で靴を脱ぎ、廊下を歩く。木の床は丁寧に磨かれ、一人暮らしの男の家とは思えない女性的な手入れの跡。冴優は家の中で何かが繋がる予感を覚える。この家には、もう一人の生活が見えない形で息づいている。

居間に通され冴優は座布団に腰を下ろす。萩原は向かいに座り両手を膝に揃えた。眼鏡の奥の目が冴優を冷静に見ている。居間の隅に小さな仏壇があった。冴優はそれを見てしばらくその場にあるものを目で追った。戸棚の上に写真が一つ。男女と幼い少年が三人で写っている。萩原と思われる男、女性、そして男の子。家族写真であった。


家族写真——独身を装っている萩原の家に家族写真がある。


冴優はその意味をすぐに理解する。彼が独りであろうとしながらそれでも家族の写真だけは——家の中に置いていた。それが彼の本当の生活の証だった。

「お茶でも」

「お構いなく」

「では、本題で結構です」

萩原の声は低く落ち着いていた。動揺の気配はない。彼は——ある程度、冴優が来ることを予想していたのかもしれない。

「萩原さんは隣町の電話局を月に一度、ご利用になっていますね」

萩原の表情がわずかに動いた。が、すぐに戻る。

「電話局——」

「『山田太郎』という偽名で長距離電話をかけていた」

萩原はしばらく沈黙し眼鏡の奥の目に何かが揺れた。やがて深く息を吐く。

「そこまで、お分かりですか」

「ええ」

萩原はわずかに苦笑し、

「観念しました。お話します」

冴優はわずかに驚いた。彼はすぐに認めた。これは——彼が逃げる気がない、ということ。あるいは何か、覚悟を決めている、ということ。

「私は隣町の電話局で月に一度、東京と連絡を取っていました。その通りです」

「電話の相手は」

「協栄商事——水沢徹さんです」

「ご存知だったのですね」

「ええ。直接お会いしたことはありません。電話だけのやり取りです」

「具体的にどのようなやり取りでしたか」

萩原は深く息を吸い語り始める。

「私は——梶原工場で副工場長を務めています。三年前から月に一度、東京の協栄商事と連絡を取る役割を与えられていました」

「与えられていた、というのは」

「梶原恒夫さん——いえ社長から命じられていました」

「具体的には」

「月に一度、隣町の電話局から協栄商事に電話をかける。その月の取引内容を口頭で確認する。それが私の役割でした」

「取引内容、というのは」

「不正経理の支払いの確認です。月々の支払い額、振込日、書類の状態——そういったことを私が水沢さんに伝える」

「あなたは不正経理の事実をご存知だった」

「ええ。社長から、説明を受けていました」

「いつから知っていたのですか」

「三年前——林さんがお辞めになった頃です」

冴優の指がペンの上で止まる。林治雄が辞めた後、隆が経理を引き継いだ。しかしその頃からもう一つの「役割」も発生していた。萩原慎一は隆が知らないもう一つの役割を担っていた。

「隆さんはあなたが東京と連絡を取っていたことをご存知だったのですか」

「いえ。隆さんには知らせない方針でした。社長は、隆さんを巻き込みたくない、と考えていらしたのでしょう。隆さんには書類の処理だけを任せ外部との連絡は私が担当する——そういう分担でした」

梶原恒夫は——弟・隆をある意味で守っていた。不正の中核から隆を遠ざけていた。隆には書類だけを触らせ外部との連絡や現金の流れは——自分と萩原で抱えていた。

「あなたはなぜこの役割を引き受けたのですか」

萩原はしばらく考え、

「——給料です。副工場長としての通常の給料に加え、月々の追加支払いがありました。その追加分が相当な額でした」

「具体的にはいくらくらいですか」

「月に十万円、ほど」

当時としては副工場長の月給を超える額。萩原慎一は月収を実質的に二倍にすることでこの役割を引き受けていた。

「そのお金を何に使われていたのですか」

萩原はしばらく沈黙する。何かを言いかけ、止め、また何かを言いかけ、止める——その繰り返し。やがて深く息を吐き、

「妻と——子供のために」

「あなたは独身ではないのですか」

「形式的には独身です。しかし——隣の県に、私の妻と十二歳になる息子がいます。—私は十数年前——若い頃にある女性と深い関係になりました」

萩原は淡々と語り始める。

「相手は町の外の女性で——立場上、結婚することは難しい関係でした。彼女は私の子供を身ごもりました。彼女は私の親の許可なく子供を産みました。私は結婚を諦め、しかし子供のために毎月の生活費を送り続けました」

「ご両親はご存知だったのですか」

「両親には最後まで知らせませんでした。それが家を継ぐ私の——責任だ。と、思っていました」

萩原慎一にも別の家族がいた。社会的には独身を装いながら、隣の県で女性と子供を養い続けてきた。「家族の墓参り」という名目で、月に一度、隣の県に行っていたのは——本当の家族に会うためでもあったのだ。

「奥様とお子様はお元気ですか」

萩原はわずかに微笑む。今日初めて本当に温かい表情を見せた。

「ええ。妻は——いえ、形式上は妻ではないのですが——彼女は長く私を待ち続けてくれました。子供は賢くて、優しい子です。私は、月に一度、彼らに会いに行く時間を何より大切にしてきました」

「お子様にはご自分のお父様だと、お話しは」

「ええ。子供が物心つく頃から彼女は子供に話していました。『あなたのお父さんは、別の場所で仕事をしている。月に一度、会いに来てくれる。とても優しい人だ』と」

萩原の声にわずかに震えがある。三十年近く社会の目を避けながら子供を育ててきた女性。子供に父の存在を肯定的に伝え続けてきた。

「月に一度、家族に会えていた」

「ええ。子供と一緒に過ごす時間は私にとって——人生の支えでした。仕事の重さ、社長への屈辱、不正への加担、すべて——その月一の時間のために耐えられました」

「副工場長の給料だけでは足りなかった、と」

「ええ。子供の学費、彼女の生活費、私自身の暮らし——足りませんでした。社長から追加の役割の話を持ちかけられた時、私は——断れませんでした」

「断れなかった」

「ええ。子供のためには月十万の追加がどうしても必要でした。子供を大学まで行かせる夢を私は持っていました。女手一つで子供を育てる。と、いうことに苦しんでいた。私がその苦しみを少しでも軽くできるなら——どんなことでもする覚悟でした」

冴優は萩原の言葉を深く受け取る。ここにも——もう一つの


「家族のために」


がいた。林治雄、隆、そして萩原慎一。三人とも、別の形で、家族のために自分の良心を売り渡していた。家族を守りたい。と、いう単純な願いが——人を不正の道に引き込んでいた。

「あなたは不正経理に協力することが罪だと知っていらしたのですね」

「ええ」

「それでも、続けた」

「ええ。家族のためです」

「家族には不正のことをお話しになっていましたか」

萩原はしばらく黙り、

「いえ。ずっと——隠していました。彼女に心配をかけたくなかった。子供にも知られたくなかった。私は自分一人で罪を抱えていました」

「事件後、お話しになった、と」

「ええ。社長が殺されたと聞いて、私自身も危険にさらされる可能性を感じました。彼女にすべてを話しておくべきだと——思いました」

「彼女の反応は」

萩原はわずかに目を伏せ、

「彼女は泣きませんでした。ただ、私の手を握って『分かりました。あなたを私は許す』と言ってくれました」

「許す——」

「ええ。彼女は長く——私の選択の重さを感じていたのだと思います。具体的には知らなくても私が何かを抱えていることを見ていた。そして——それでも私を待ち続けてくれた」

萩原慎一にも許してくれる人がいた。彼は孤独ではなかった。三十年近く隠し続けてきた家族との関係が最後に——彼を支えていた。

「萩原さん、もう一つ伺います。協栄商事の上にもう一人いる、ということをご存知ですか」

萩原はしばらく考え、

「水沢さんから聞いたことはありません。しかし——感じていました」

「と、いうのは」

「水沢さんとの電話で、時々、彼が『上に確認します』というような言い方をしていました。彼自身が、最終決定権を持っていない、ということが分かりました」

「なるほど。——萩原さん、もう一つ伺います」

「ええ」

「梶原恒夫さんが亡くなった夜——十二月十四日、あなたはどこにいらっしゃいましたか」

萩原はしばらく考え、

「自宅にいました。一人で」

「証明できる方は」

「いません」

萩原慎一にも不在証明がない。彼が第三の影かもしれない。あるいは彼が上の人物の「手の者」として梶原を殺した可能性がある。

「事件の夜のことをもう少し詳しく伺います。何時頃、何をしていらしたか」

「夕方、工場から帰宅しました。六時頃です。それから夕食を作り、食べ、本を読んでいました。十時頃、就寝しました」

「夕食は何を作られましたか」

萩原は少し考え、

「鯵の干物、味噌汁、ご飯。漬物が近所の方からいただいた白菜のおしんこ」

細かく覚えている、と冴優は思う。澄江が事件の夜の夕食を細かく覚えていたのと似ている。これは——本当のことを話している人間の細部だ。

「読んでいた本は」

「経済学の入門書です。子供にもいずれ説明できるよう改めて勉強し直していました」

子供にいずれ説明できるよう——萩原慎一は十二歳の息子の将来のために自分も学び続けていた。それが彼の家族との繋がり方だった。

「外出はしなかった」

「しませんでした」

「梶原家に行ったことは」

「ありません」

冴優は萩原の目を見つめる。萩原も冴優を見つめ返してきた。眼鏡の奥の目は冷静だった。動揺の気配はない。

「萩原さん。もし——あなたが梶原さんを殺害したのであれば、その事実を私は明らかにします。今、自首するという選択肢もあります」

萩原はわずかに微笑み、

「猿島さん。私は社長を殺していません。私は社長に——感謝していました。月十万の追加給与のおかげで子供を養えていました。社長が亡くなればその追加給与も止まります。私には社長を殺す動機がありません」

「しかし、清算が決まった以上、追加給与も止まる可能性があった」

「ええ。社長から、十一月の終わりに『これまでのことを、清算しようと思う』と告げられました。私は——困りました。月十万が止まれば家族の生活が成り立たなくなる」

「あなたは社長に清算を止めるよう申し出ましたか」

「いえ。申し出ませんでした。社長はすでに病気のことを私に話されていました。死期が近いことを知った人の決意を私は——止められなかった」

「病気のことをご存知だったのですか」

「ええ。私は社長が病院に通われていることに気づいていました。そして、社長から直接『俺は長くないかもしれない。死ぬ前にできることをしておきたい』と告げられました」

梶原恒夫は隆だけでなく萩原にも病気のことを話していた。彼は最後の三日間で自分の周りの人々に本当のことを伝えようとしていた。

「あなたは社長の決意を上の人物に伝えましたか」

「伝えました。十一月二十一日の電話で——水沢さんに社長の意向を伝えました」

「水沢さんは、何と」

「『上に確認する』と」

「次の連絡は」

「十二月十二日です。水沢さんから私のところに——ではなく、社長のところに直接の電話がありました」

「ということは十二月十二日に水沢さんと社長の間で何かのやり取りがあった」

「ええ」

「あなたはその内容をご存知ですか」

「いえ。社長はその内容を私に伝えませんでした」

冴優は手帳を見ながら整理する。

十一月二十一日——萩原が水沢に「社長の清算の意向」を伝える。水沢が上の人物に確認する。

十二月十二日——水沢から直接、梶原恒夫に電話。内容は不明。

十二月十四日——梶原恒夫、殺害される。

「萩原さん、十二月十二日以降、社長と何か話されましたか」

「翌日——十二月十三日に工場で社長と短く話しました」

「内容は」

「社長は私に『今月の二十日の支払いは、行わない。これまでのことを清算する。お前の追加給与も今月で終わりだ』と告げました」

「あなたは、何と」

「『分かりました』とだけ。それ以上、申し上げませんでした」

「社長の表情は」

「決意していました。何かを覚悟された、というような顔でした。私を見ながら『お前には、長く支えてもらった。すまなかった』と言われました」

冴優は息を呑む。

「すまなかった——」

「ええ。社長が私に謝罪されたのは初めてでした。私は——驚きました」

「あなたは、何と」

「『いえ、お役に立てて光栄でした』と。それ以上、何も言えませんでした」

梶原恒夫は——萩原にも清算の言葉を伝えていた。林治雄に町で頭を下げた。澄江に手紙を書こうとした。隆に「これまでのことを清算したい」と告げた。そして、萩原にも「すまなかった」と。

彼は最後の日々で——自分が傷つけた人々全員に何かを伝えようとしていた。

「萩原さん、それがあなたが社長と最後に話した時ですか」

「ええ」

「翌日、社長は殺されました。あなたはそれをいつ知りましたか」

「十二月十五日の朝、町の噂で。工場の若い者が家政婦の矢沢さんから聞いた、と」

「あなたは何を感じましたか」

萩原はしばらく考え、

「驚きました。そして——恐怖を感じました」

「恐怖」

「ええ。社長が殺されたということは——上の人物が、清算を許さなかった、ということです。次に消されるのは私かもしれない、と」

「だから隠していたのですか。電話局でのことを、自分の役割を」

「ええ。誰にも話さず、ただ、家にこもっていました。社長が死んだ以上、上の人物との連絡も止まりました。私は、ただ——次に何が起こるかを、待っていました」

「しかし、何も起こらなかった」

「ええ。今のところ、上の人物からは連絡がありません。彼らは——私を消す必要がない、と判断したのかもしれません。私は書類上、不正経理に名前が出てこない。私が口を開かなければ、誰も私の存在に気づかない、と思っていたのでしょう」

「しかし、私たちが気づいた」

「ええ」

萩原はわずかに微笑む。

「あなたの捜査は見事です。私を見つけ出した」

「萩原さん、最後にお伺いします。上の人物について、もう少し詳しく、ご存知のことを教えていただけませんか。電話の話し方、習慣、何でも結構です」

萩原はしばらく考える。

「私は上の人物と直接話したことはありません。しかし——水沢さんの話を聞いて推測したことがあります」

「具体的には」

「上の人物は水沢さんを長い時間をかけて教育した、と感じていました。水沢さんの話す言葉、考え方、振る舞い——それらは、ある一人の人物の影響を強く受けています」

「教育した」

「ええ。水沢さんは東京大学の出身です。私と何度か電話で話しているうちにそれが分かりました。そして——上の人物もおそらく東京大学に縁のある人物。学問的な議論を水沢さんと深い場所でできる人。そういう関係を感じました」

「具体的なやり取りで覚えていることは」

「ある時、水沢さんが私にぽつりとこう言ったことがあります。『私の人生の方向性はある人によって決められた』と」

「ある人——」

「ええ。その『ある人』が上の人物だ、と私は感じました。水沢さんは自分の人生をその人に委ねている。その人の指示で自分の人生を生きている。そういう関係性が見えました。あと、もう一つ思い当たることがあります。上の人物はおそらく水沢さんの家族的な存在です。水沢さんが上の人物に対して使う敬語の重みが——目上の親族、あるいは、深く慕う恩師に対する敬意のようでした。会社の上司に対する敬語ではない」

冴優は深く頷く。

水沢徹も同じ印象を持っていた、と冴優は思い出す。「上の人物は家族的なあるいは血縁的な繋がりがある」と。萩原の感想と合致する。

「あなたは上の人物の名前を推測できますか」

萩原はしばらく沈黙し、

「具体的な名前は推測できません。しかし——東京のある程度の学識のある男性。五十代から六十代、水沢徹さんを長く指導してきた人物——そう絞り込めば対象はそれほど多くないはずです」

「あなたが感じた上の人物の人柄についてもう少しお聞かせ願えますか」

萩原は少し考え、

「冷静で頭の良い人物だと思います。水沢さんを通して間接的に伝わってくる印象では——感情で動く人ではなく、論理で動く人。そして——目的のためには手段を選ばない人です」

「目的、というのは」

「お金です。彼はお金のためにこれをやっている。それが私の感じた最も基本的な動機です。上の人物——お金のために動く、論理的な男。手段を選ばない」

水原浩之介像と合致する。元教授として表面的には学究の徒。しかしその裏で不正な金を長年吸い上げ続けてきた男。手段を選ばず自分の生活を維持してきた男。

「水沢徹さんが上の人物に対して抜けられない関係にある——その理由について何かご存知ですか」

「水沢さんはある時、私にこう言ったことがあります。『私は彼に多大な恩がある。私が今ここにいるのは彼のおかげだ。だから、彼の指示には従わなければならない』と」

「彼に多大な恩がある」

「ええ。具体的な内容は分かりません。しかし——水沢さんの過去のどこかで上の人物が彼を救った時期があったのではないか、と推測しています」

「あなたは上の人物に対してどのような感情を持っていますか」

萩原はしばらく考え、

「会ったことのない人物に感情はありません。しかし——」

「しかし?」

「彼が社長を殺すよう命じたとしたら——許せない、と思います」

萩原の声に初めて——わずかな怒りが宿った。

「社長は最後に変わろうとしていた。それを上の人物が——奪った。そういう人間を許してはいけない」

「萩原さん、ありがとうございました。あなたは不正経理の関係者としていずれ追及されるでしょう」

「ええ——逃げるつもりはありません。法的な責任は果たします」

「余計なお世話ですが、ご家族——隣の県の奥様とお子様はどうされるおつもりですか」

萩原はわずかに目を伏せ、

「私が逮捕されれば月々の支払いは止まります。彼女は自分一人で子供を育てなければならない。それを思うと——胸が痛みます。子供には父親が——警察に話を聞かれることになる、と伝えました。子供はまだよく分かっていないようでした。しかし——『お父さん、頑張って』と言ってくれました」

萩原の声にわずかに——温かいものが宿る。三十年近く家族の中で生きてきた男の深い愛情。彼はその愛情のために自分の良心を売り渡してきた。

「萩原さん、ありがとうございました」

冴優は立ち上がる。萩原も立ち上がり玄関まで見送りに来た。

玄関の前で冴優は写真をもう一度見た。家族写真——萩原、女性、男の子。三人で写っているのは、三、四年前のものだろうか。男の子の顔にまだ幼さが残っている。萩原の隣に立つ女性は控えめな微笑みを浮かべている。三十代後半、優しそうな顔立ち。

「奥様の——お名前を伺ってもよろしいですか」

萩原は少し躊躇い、それから言う。

「美佐子と申します。子供の名前は——洋介です」

「美佐子さんと洋介くん」

「ええ」

萩原の声にわずかに温かいものが宿る。彼が三十年近く守ってきた家族の名前を彼は今、初めて他人に言った。それは——彼が自分の人生を外に開く第一歩だった。

「お会いになるのはいつですか」

「明日、隣の県に行く予定でした。しかし——あなたが来られたので明日は警察に出頭する必要があるかもしれません。家族には、また連絡を入れます」

「分かりました。あなたの状況については警視庁と相談し、ご家族との連絡が取れるよう手配します」

「ありがとうございます」

萩原は深く頭を下げた。冴優も、頭を下げる。

「猿島さん。犯人を見つけてください」

「はい」

「私と社長と水沢さんの長い苦しみを——人物が作り上げた。野放しにすればまだ次の被害者が出るかもしれない」

冴優は深く頷き、

「必ず、見つけます」

萩原は深く頭を下げ、玄関を閉じた。冴優、宮本は車に戻る。日はすでに傾き始めていた。

車のドアを閉めながら冴優はもう一度、萩原の家を振り返った。古い木造の一軒家、苔の生えた屋根、手入れされていない庭。表面は独身の男が一人で住む家。しかしその奥には隣の県に妻と子供を持つ男の長年の秘密があった。

そして、家の中の小さな仏壇に飾られた家族写真。萩原慎一が三十年近く守ってきたものが、その小さな写真の中にあった。

「猿島刑事」

宮本がエンジンをかけながら言う。

「萩原さんも——苦しい時間を過ごしてこられた方ですね」

「ええ。家族のために自分の良心を売り続けてきた」

「林さんと、隆さんと、萩原さんと——」

「三人とも、別の形で、家族のために犠牲を払ってきた人たちでした」

車はゆっくりと、萩原の家から離れていく。冬の夕方の光が、両側の山に薄く差している。車中で冴優は深く息を吐いた。窓の外、糸原町の冬の夕方。茜色の光が町の屋根に薄く差している。冴優はこの景色を何度も見てきた気がする。糸原町に来てから何度この景色を見ただろう。

「点が、揃いました」

「ええ」

「水沢徹は東京の窓口。萩原慎一は糸原町の中継役。梶原恒夫は送金者。そして、その上に——もう一人いる」

「上の人物の正体をこれから絞り込むのですね」

「ええ。水沢徹の経歴を徹底的に洗います。彼の出身校、過去の指導教授、関係していた人物——そこから、上の人物が浮かび上がるはずです」

車は糸原町の道を走る。冬の夕方の光が町の屋根に薄く差している。

「猿島刑事。萩原さんは——梶原を殺していない、と思いますか」

冴優は少し考える。

「彼の言葉に嘘はないように見えました。社長を殺せば自分の追加給与が止まる。彼には殺す動機がない」

「あるいは上の人物に殺すよう命じられた可能性は」

「ええ、それも考えました。しかし——萩原は上の人物との直接の連絡を持っていませんでした。彼は水沢を経由してしか上と接触できない。命令を直接受け取る立場にはない」

「ということは梶原を殺した『手の者』は別にいる」

「ええ」

梶原恒夫を直接殺害した人物は、まだ、見えていない。上の人物が誰か別の手を使った可能性。あるいは——上の人物自身が糸原町に来た可能性。

そして冴優は、ふと、もう一つの可能性に気づいた。梶原家の周辺にもう一人——まだ気づいていない人物がいるのではないか。

冴優は手帳を開き、家の周辺の人物リストをもう一度確認する。澄江、隆、矢沢、萩原。これは内側の人物だ。外部の人物として、林治雄、久保田誠一を確認した。林は不在証明があり久保田も今回確認できた。

では——他に、誰がいる。

「宮本さん、梶原家に定期的に出入りしていた人物はまだいますか」

宮本は少し考え、

「定期的に——というほどではありませんが月に一度程度、訪ねていた人物が何人かいます」

「具体的には」

「町内会の役員、お寺の和尚、銀行の支店長——あとは、社長の昔からの知人で、年に何度か東京から来ていた人物がいた、と聞いています」

冴優の指がペンの上で止まった。

「東京から、年に何度か来ていた人物——」

「ええ。社長がそう呼ばれているのを町の人間が見ていました」

「その人物の名前は」

「分かりません。社長はその人物のことを誰にも紹介していなかったようです。ただ——『東京の先生』と呼んでいた、という証言があります」

冴優は息を呑む。


——東京の先生


「『東京の先生』を見たという証言をもう少し詳しく聞いてください。何時頃、何人かに会っているのか、最近来たのはいつか——」

「分かりました。すぐに町の人間に当たります」

車は駐在所に近づいていた。冴優は窓の外を見ながら考えを巡らせた。もし東京の先生と言う者が年に何度か糸原町に来ていたなら——この町の地理にもある程度詳しいはずだ。梶原家の構造を知っていてもおかしくない。書斎の場所、家の出入り口、夜間の家の人々の動き——それらを彼は把握していた可能性がある。

となれば——犯行は必ずしも「手の者」を雇う必要はなかった。自身が糸原町に来て自分の手で梶原を殺害した可能性もある。

駐在所に戻ると東京の県警から連絡が来ていた。水沢徹の経歴を追加で確認した、という内容だった。彼は東京大学の経済学部を卒業。その後、三井物産に勤務し、十年前に独立。独立の前後で、ある人物との関係が深まっていた、と。

駐在所のストーブの前で、冴優は紙を読む。宮本も隣に座り、紙を覗き込んだ。

「水沢徹——東京大学経済学部、昭和二十年代の卒業。その時の指導教官が——」

「その人物は」

「水沢徹の——大学時代の指導教官だそうです。同じ研究室にいた、年配の経済学者です」

「名前は」


「水原浩之介——」


冴優は息を呑む。

「水原浩之介——」

「ご存知ですか」

「いえ、しかし——」

水沢徹の指導教官・水原浩之介。名前が似ている。水沢——水原。これは——偶然か、それとも、何らかの繋がりがあるのか。

「水原浩之介氏について、もう少し情報を」

「七十代の経済学者。東京大学を退官して十年。現在は自宅で個人的な著作活動をしている、と。家族構成は——妻と、二人の娘。娘は二人とも結婚して家を出ている」

「水沢徹との関係は」

「研究室時代から深い関係です。水原氏は水沢氏を自分の研究の後継者として、長く育てていたと記録に残っています。しかし、水沢氏は研究の道には進まず商社に就職した。それが水原氏との表面的な関係の終わり——だった、と」

「表面的な、というのは」

「県警の調べでは、二人はその後も非公式な関係を続けていた可能性が高い、と。水原氏の家を水沢氏が訪ねている記録が複数あります」

水原浩之介と水沢徹。表面的には師弟関係が終わっているが実際には深い繋がりが続いていた。それは——不正の取引の関係に繋がっている可能性が高い。

「自宅の住所は」

「東京都世田谷区——」

「犬は飼っていますか」

宮本は紙を確認する。

「飼っているそうです。土佐犬」

低い、太い犬の声——水沢徹が電話で聞いた声と合致する。土佐犬は、低く太く吠える種類の犬だ。

そして、水原浩之介の自宅には——妻がいる。「家に女性がいる」という、水沢の証言とも合致する。

「水原浩之介——彼が、上の人物かもしれません」

「水原浩之介——東京大学の元教授、経済学者、七十代、犬を飼い、家に妻がいる。水沢徹の指導教官」


すべての特徴が合致していた。


「水原氏の経済的な状況は」

「興味深いことに——退官後の生活は教授職時代より裕福だ、と県警が判断しています。著作活動の収入では説明がつかない暮らしぶり。世田谷区の大きな家、数年に一度の海外旅行、家政婦を雇っての生活——年金と著作料だけでは賄えない暮らしです」

「不正経理の収益が彼に流れていた」

「ええ。月々数百万単位の金が長年彼のもとに流れていれば——その暮らしは説明がつきます」

冴優は紙を握る指に力が入った。

水原浩之介——東京大学を退官した経済学の元教授。表面的には温厚な学者として世田谷の自宅で著作活動をしている。しかしその裏で——糸原町の小さな町から月々の不正な金を吸い上げ続けてきた男。

そして、水沢徹を「教育」してきた男。彼の長年の指導教官として水沢を自分の駒として育て上げた男。

「明日、東京にもう一度戻ります」

「お一人で、よろしいですか」

「ええ。私一人で十分です」

第三の影——本当の首謀者の輪郭がようやく見えてきた。


玄関で女将が冴優を迎えた。

「お疲れ様でございました。奥様がお帰りをお待ちでした」

「澄江さんが」

「ええ。離れの縁側で。お話があるとのことで」

冴優は荷物を部屋に置き、離れに向かう。冬の夕方の庭には雪はもうない。地面が黒く湿っている。空には薄い雲が流れていた。澄江は縁側に座っていた。膝に毛布をかけ、両手を膝の上に揃えている。冴優を見てわずかに微笑んだ。

「お帰りなさいませ。お疲れでしょうにお声をかけてすみません」

「いえ、私もお話したかったところです」

冴優は澄江の隣に少し離れて座る。冬の夕方の冷気が二人の間をゆっくりと流れた。

「東京にいらしたのですね」

「ええ」

「何か、進展がありましたか」

冴優はしばらく考える。澄江にどこまで話すべきか。事件の核心がもうすぐ見えるかもしれない、ということ。十五年の苦しみの裏に東京の老人がいた、ということ。

「澄江さん、明日、私はもう一度東京に戻ります。ある人物に会いに」

「ある人物——」

「ご主人を殺すよう指示した人物、です」

澄江は冴優を見る。少しだけ、目に光がある。希望でも絶望でもない、何かに似た光。

「見つかったのですか」

「まだ、確証はありません。しかし——明日、それを確かめに行きます」

「ご無事で」

「ええ」

二人はしばらく、夜の庭を見ていた。

「澄江さん。あなたにお話があります」

「ええ」

「ご主人は最後の数日、あなただけでなく——周囲の人々全員に何かを伝えようとしていらしたようです。林さんに町で頭を下げた。隆さんに『清算したい』と告げた。萩原さんという副工場長にも『すまなかった』と謝罪した」

澄江は深く頷く。

「ええ。十五年、あの人は自分の周りの人々を傷つけてきました。最後にその人々に何かを伝えようとしていたのは——あの人なりの必死の清算だったのでしょう」

「あなたへの手紙もその一部でした」

「ええ」

澄江はしばらく星を見上げていた。空には薄い雲の合間に星が一つ二つ見え隠れしている。

「猿島さん。私は夫に——憎しみを抱えていました。十五年間、毎日のように。死ねばいい、と何度も思ってきました」

「ええ」

「しかし、夫が殺されたと聞いた朝、私の中にあったのは——憎しみではなく、混乱でした。夫が変わろうとしていたのを私は感じていた。その変化を誰かが奪った。私はそのことに——耐えられませんでした」

「だから、自首された」

「ええ。自分が殺したと思い込もうとしてそれで——夫の最後の三日間を自分で抱えようとしました」

澄江は夫を殺したくなかった。憎みながらそれでも——彼の最後の変化を否定したくなかった。

「澄江さん。一つ伺ってもよろしいでしょうか」

「ええ」

「『東京の先生』という人物のことをご存知ですか」

澄江はしばらく考える。

「ええ。年に何度か夫が東京から客を迎えていました。私はその方とはほとんど話をしませんでした。夫がその方と書斎にこもって長く話す。それだけのことが年に何度か——ありました」

「その方の名前はご存知ですか」

「夫はその方を『先生』と呼んでいました。『水原先生』と」

冴優は息を呑む。

「水原——」

「ええ。お名前を、最後まで詳しくは伺えませんでしたが——夫が深く敬っていた方です。夫が誰かを敬うのは、珍しいことでした」

「最後にその方が梶原家にいらしたのはいつ頃ですか」

澄江は記憶を辿る。

「事件の——三日ほど前です」

「三日前、というのは——十二月十一日頃ですか」

「そう、だったと思います。お夕食を共にされて夜遅くまで書斎で話しておられました。次の朝、お帰りになりました」

「何を話されていらしたのか分かりますか」

澄江は首を振る。

「私には聞こえませんでした。書斎の戸はいつも閉じられていました」

冴優の頭の中で、点が、最後に繋がる。

水原浩之介は、事件の三日前——つまり梶原恒夫が「清算したい」と隆に告げた日とほぼ同じ日に糸原町の梶原家にいた。彼は恒夫と書斎で長く話した。そして、翌朝、東京に戻った。その数日後、恒夫は殺された。

「明日、私が会いに行く人物がご主人を殺すよう指示した人物かもしれません。彼を見つければ、ご主人の最後の三日間が——救われる」

澄江はしばらく沈黙し、それから低く言う。

「お願いします」

「はい」

「夫の最後の決意を——どうか無駄にしないでください」

夜風が、二人の間を通り過ぎる。冬の終わりに近い、わずかに春の匂いを含んだ風。糸原町の冬は、もうすぐ終わる。それと共に事件も——終わりに向かっていた。

やがて澄江は立ち上がり毛布を畳んで深く頭を下げた。

「お休みなさいませ。明日、ご無事でお戻りください」

「ありがとうございます。お休みなさい」

澄江は離れに戻り、冴優は縁側に一人残された。

夜空を見上げながら冴優は深く息を吸ってみる。明日、水原浩之介に会う。彼が梶原恒夫を殺すよう指示したのか。あるいは自分の手で殺したのか。すべてを、明日明らかにする。そして冴優は不意に清水の妻のことを思い浮かべた。十二年前に亡くなった節子。教師だった、銀杏の約束、栞。冴優は会ったことがない女性。しかし、清水の家には節子の気配がいつも残っている。

もし節子が今ここにいたら何を思うだろう。十五年の暴力に耐えてきた澄江を見て家族のために自分を売り渡した三人の男たちを見て東京で老いた首謀者の影を見て——彼女は何を語るだろうか。

それは分からない。しかし、冴優は節子のような誰かがこの事件の中でも誰かに寄り添ってくれた気がした。澄江と隆、林と萩原。彼らは長い夜の中で、それぞれ誰かに支えられて生きてきた。冴優も清水という人に支えられこの事件の中を歩いてきた。

冴優は深く息を吐き、立ち上がる。明日に向け、しっかり眠っておく必要があった。部屋に戻り布団を敷く。火鉢に新しい炭を継ぎ足す。冬の夜の冷気が部屋の隅に薄く残っている。冴優はそれを火鉢の温かさでゆっくりと押し出していった。

「水原浩之介——東京の元教授、経済学者、七十代、犬を飼い、家に妻がいる。水沢徹の指導教官。糸原町に年に何度か来ていた可能性」

「事件の三日前、水原は梶原家にいた」

「明日——会う」

冴優は手帳を閉じ目を閉じる。糸原町の冬の夜がまた深くなっていく。

『水沢は苦しんでいない人間かもしれん。お前が彼らの背景に同情を寄せても響かない。だから、向き合い方を変えろ』

水原浩之介もおそらく同じだろう。彼は苦しんでいない人間。論理で動きお金のために手段を選ばない人間。冴優が彼の背景に同情を寄せても——響かない。彼に向かい合うときは、ただ、事実を確認する。それだけだ。

冴優は深く息を吸い、寝返りを打つ。火鉢の炭がわずかに音を立てた。冬の夜の音、薄い火の音。糸原町の最後の夜が過ぎていく。やがて、冴優は深い眠りに落ちた。

夢の中で、冴優は霧無村の夜に戻っていた。雨の音、清水の煙草の煙、波多野医師の灰色の目。半年前のすべての記憶。そして——清水の声が聞こえた。

『お前自身が、お前の解き方を作る事件になる』

冴優は深く頷く。夢の中で、そして眠りの中で、冴優は——明日への準備を整えていた。

外で糸原町の冬の夜が深く続き、夜風が宿の窓をわずかに揺らした。冴優の意識は、ゆっくりと、深い眠りに沈んでいく。

そして冴優の眠りの中で、糸原町の夜が、また一日、終わっていった。第三の影がもうすぐ姿を現す。それを冴優は自分の足で——確かに暴き出すつもりだった。

夜はまだ深い。しかし、その深さの中で——冴優は確かな何かを握りしめていた。糸原町の冬の終わりはもうすぐ来る。それと共に事件の終わりも——確実に近づいていた。

しかし一つだけどうしても気になることが胸の奥にずっとつっかかっていた。

「なぜ、水沢は水原の手掛かりになるような事を自分に話したんだ」

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