第九章 赤い線を消す方法
ネジは、あと少しのところで動かなくなった。
蓮は歯を食いしばり、拘束具の突起を六角穴に押し込んだ。手首をひねるたび、皮膚が削れる。樹脂の縁が骨に当たり、腕全体に鈍い痛みが走る。指先の感覚は半分ほどなくなっていた。
それでも、やめなかった。
尋問室の外では、警報が鳴っている。
『七〇二番、低温管理室より離脱。地下二階職員は、全区画を確認してください』
莉子が低温室に戻っていない。
その放送が、何度も繰り返されていた。
蓮は、それを希望として受け取るべきか、危険として受け取るべきか判断できなかった。莉子がどこかに隠れているなら、まだ捕まっていないということだ。だが、彼女の身体は弱っている。長く動ける状態ではない。低温室から出ただけで、体力を削られているはずだった。
時間がない。
ネジが、わずかに回った。
蓮は息を止め、もう一度力を込めた。
回る。
金具のプレートが、少し浮いた。
拘束具そのものは外れない。だが、テーブルに固定されている金具が緩んでいる。あと数回回せば、手首をつないだままでもテーブルからは離れられるかもしれない。
廊下に足音。
蓮は動きを止めた。
扉の外で、職員の声がした。
「尋問室、確認するか?」
「七〇一は拘束中だろ」
「七〇二が接触した可能性がある」
「管理官は?」
「B2西側。低温室のログ確認中」
足音が近づく。
蓮は手を膝の上に置き、姿勢を戻した。手首の周囲には血が滲んでいる。テーブルの金具は少し浮いているが、正面から見ただけではわからないはずだ。
扉が開いた。
職員が二人入ってくる。
一人は蓮を見張り、もう一人は部屋の中を確認した。机の下、椅子の周囲、壁際。何もない。莉子が隠れる場所など最初からない。
職員が蓮の前に立った。
「七〇二はここに来たか」
蓮は黙っていた。
「答えろ」
「ここにいるように見えるか」
職員の顔が歪んだ。
「余計な口を利くな」
「質問したのはそっちだ」
殴られると思った。
だが、職員は手を上げなかった。黒瀬から、蓮に過度な暴力を加えるなと命じられているのかもしれない。あるいは、記録媒体の送信先を聞くまで壊してはいけないと思っているのか。
職員は蓮の拘束具を確認した。
蓮は呼吸を止めた。
浮いた金具に気づかれるか。
職員の手が、テーブルの上のプレートに触れた。
そのとき、廊下の奥で大きな音がした。
金属製の台車が倒れたような音。
「何だ」
職員が振り返る。
無線が鳴った。
『B2西側通路、台車転倒。七〇二番の可能性あり』
二人の職員が顔を見合わせた。
「行くぞ」
「七〇一は」
「拘束されてる」
扉が閉まる。
蓮は、しばらく動かなかった。
台車の音。
莉子か。
それとも誰かが、莉子の逃走を助けているのか。
真鍋は拘束されている。なら、看護助手か。あるいは、地下にも黒瀬に従いきれない者がいるのかもしれない。
考えている暇はない。
蓮は再び拘束具の突起をネジ穴に当てた。
一回。
二回。
三回。
プレートがさらに浮く。
右手側の金具が外れた。
拘束具は手首についたままだが、片側が自由になる。左手はまだテーブルにつながれている。蓮は右手の拘束具を利用して、左側のネジを回そうとした。角度が悪い。身体をねじる。肩に痛みが走る。
廊下の警報が続く。
『七〇二番、未確認。B2全職員は各保管区画を閉鎖してください』
閉鎖。
莉子の逃げ場がなくなる。
蓮は左側のネジを回した。
指が滑る。
血で濡れている。
もう一度。
ネジが回った。
少しずつ。
気が遠くなるほど遅い。
だが、回る。
最後のネジが外れた瞬間、プレートが跳ねた。
金具がテーブルから外れる。
両手の拘束具はつながったままだ。手首同士が近い。だが、テーブルには縛られていない。
蓮は立ち上がった。
腕を動かすたび、拘束具が手首に食い込む。それでも歩ける。
問題は扉だ。
外からロックされている。
蓮は尋問室を見回した。
カメラ。マイク。テーブル。椅子。壁。天井の換気口。扉の横に小さな認証パネル。内側には解除ボタンがない。部屋の中からは開けられない構造だ。
だが、職員が出入りするたび、認証パネルは外側から操作されている。内側にも非常時開放用のカバーがあるかもしれない。
蓮は扉の縁を調べた。
低い位置に、赤い小さなカバーがある。非常解錠と書かれている。だが、透明な樹脂カバーの上に封印シールが貼られていた。開ければ警報が鳴るだろう。
警報はすでに鳴っている。
蓮はためらわず、拘束具の金属部分でカバーを叩いた。
一度。
二度。
三度。
樹脂が割れる。
赤いレバーが現れた。
引く。
扉のロックが外れる音がした。
同時に、別の警報音が鳴った。
『尋問室、非常解錠。尋問室、非常解錠』
蓮は扉を開けた。
廊下には誰もいない。
警報は施設中で鳴っている。七〇二番の捜索、尋問室の非常解錠、処分対象の所在不明。音が重なり合い、かえって個々の異常が埋もれている。
混乱している。
今なら動ける。
蓮は廊下に出た。
まず莉子を探す。
だが、どこへ。
B2西側通路で台車転倒。低温室から離脱。保管区画閉鎖。なら、莉子は西側通路か、その近くにいる可能性が高い。
蓮は低温管理室西の方向へ走った。
走りながら、胸元を押さえる。
莉子から渡された記録媒体は、患者服の内側にある。拘束具で腕は不自由だが、落としてはいない。
廊下の角を曲がる。
冷気が強くなる。
西側低温区画へ近づいている。
白い床に、点々と水滴が落ちていた。
いや、水ではない。
赤い。
血だ。
蓮の呼吸が止まりかけた。
血の跡は、低温管理室西の扉の前から、廊下の奥へ続いている。量は多くない。点々と、細く。裸足か、薄い保温ソックスで歩いたような跡だった。
莉子。
蓮は血の跡を追った。
廊下の先で、台車が倒れていた。透明なケースが割れ、採血管が床に散らばっている。赤い液体が床に広がり、白い床材を汚していた。番号ラベルが剥がれ、血と水滴に貼りついている。
その陰に、人影があった。
「莉子」
蓮は駆け寄った。
莉子は台車の裏に座り込んでいた。防寒ガウンを羽織っているが、肩からずり落ちている。顔は青白く、唇は紫に近い。左腕の点滴跡から血が滲んでいた。足元にも血がついている。転んだのだろう。
彼女は蓮を見ると、目を見開いた。
「お兄ちゃん」
「動くな」
蓮は膝をつき、莉子の腕を見た。血は止まりかけているが、身体が冷えきっている。彼女の指先は氷のようだった。
「何で出てきた」
「お兄ちゃんこそ」
「俺はいい」
「よくない」
「喋るな」
蓮はガウンを肩にかけ直し、自分の患者服の裾を裂こうとした。拘束具が邪魔でうまくいかない。莉子が小さく笑った。
「手、すごいことになってる」
「笑うな」
「笑ってないと怖い」
その言葉で、蓮の手が止まった。
莉子の目は怯えていた。
それでも、泣いてはいなかった。
蓮は、服の裾をようやく裂き、莉子の腕に巻いた。
「立てるか」
「少しなら」
「背負う」
「お兄ちゃん、手が」
「背負う」
莉子は首を横に振った。
「私、低温室に戻る」
「何を言ってる」
「戻らないと、みんなが閉じ込められる」
「みんな?」
「低温室の人たち。六一八のおじいさんも、他の人も。私が逃げたせいで、保管区画を閉じるって」
「閉じたらどうなる」
「冷却レベルが上がる」
蓮は言葉を失った。
莉子は震える声で続けた。
「職員が言ってた。地下を焼く準備もしてるって。証拠を消すかもしれない」
「焼く?」
「焼却準備室に、低温室のファイルを運んでた。私、見た」
黒瀬は急いでいる。
蓮の送信が、あるいは莉子が持ち出した記録媒体が、施設を追い詰めている。追い詰められた黒瀬が何をするか。
証拠を消す。
人ごと。
低温室の人間ごと。
蓮は廊下の奥を見た。
焼却準備室。
さっきB2の表示で見た。
莉子を連れて逃げるだけでは足りない。低温室に残された人々が殺される可能性がある。記録が消される。母の死も、坂井の処分も、薬剤反応も、すべて焼かれる。
莉子は、蓮の袖を掴んだ。
「お兄ちゃん、低温室のロックを開けて。みんなを出して」
「お前は」
「私も出る。でも、先にロック」
「歩けないだろ」
「だから、お兄ちゃんがやる」
蓮は、妹を見た。
彼女は弱っている。
明らかに限界に近い。
それでも、彼女の目はまっすぐだった。
母に似ていると思った。
嘘が下手で、正しいと思ったことを曲げられない。だから記録表に発熱を書いた。だから処置室へ運ばれた。だから戻ってこなかった。
その正しさが母を殺したのではない。
正しい人間を殺す場所が、ここなのだ。
「わかった」
蓮は言った。
「でも、お前も一緒だ」
「うん」
莉子を背負うには、両手の拘束具が邪魔だった。だが、彼女を抱えることはできた。蓮は拘束具のついた両腕で莉子の身体を支え、台車の陰から引き出した。彼女は軽かった。軽すぎた。
廊下の先で足音がした。
「七〇二、発見!」
職員の声。
蓮は莉子を抱えたまま、低温管理室西の扉へ向かった。
扉横のパネルは赤く点滅している。
閉鎖準備中。
冷却レベル変更待機。
管理官承認。
蓮はパネルを操作しようとしたが、認証が必要だった。
また認証。
施設は、すべての扉に許可を要求する。
人を閉じ込める許可だけは簡単に出すくせに、外へ出す許可は決して出さない。
「お兄ちゃん、下」
莉子が弱い声で言った。
「下?」
「真鍋先生が言ってた。低温室は、緊急時に内側からも外側からも手動開放できるって。下にカバーがある」
蓮は扉の下部を見た。
小さな金属カバー。
非常解放。
尋問室と同じだ。
だが、こちらは鍵付きだった。
蓮は拘束具の金属突起を差し込もうとした。形が合わない。職員の足音が近づく。莉子が肩越しに見ている。
「お兄ちゃん、台車」
倒れた台車。
車輪部分に、金属の細いピンがある。
蓮は莉子を壁際に座らせ、台車へ戻った。車輪の固定ピンを力任せに引き抜く。指が痛む。拘束具が邪魔だ。だが、ピンは抜けた。
職員が角を曲がった。
「動くな!」
蓮は低温室の扉へ駆け戻り、ピンを鍵穴に差し込んだ。
合わない。
少し曲げる。
職員が走ってくる。
莉子が立ち上がろうとする。
「伏せてろ!」
蓮は叫んだ。
ピンを回す。
一度目、失敗。
二度目。
小さな手応え。
カバーが開いた。
中のレバーを引く。
低温管理室西の扉が、重い音を立てて開いた。
冷気が噴き出した。
中には、ベッドが並んでいた。
六台。
そのうち四台に人がいた。
六一八番の老人。五九二番の女性。知らない番号の若い女。もう一人は顔にシートがかけられている。生きているのかどうか、すぐにはわからない。
全員にチューブがつながれ、保温シートがかけられている。
医療施設ではない。
保管場所だ。
蓮は莉子を室内に入れ、扉の陰に座らせた。
職員が追いつく。
蓮は扉横のレバーを掴んだまま、叫んだ。
「中に人がいる! 冷却レベルを上げたら死ぬぞ!」
「離れろ!」
職員が警棒を構える。
そのとき、低温室内の六一八番の老人が目を開けた。
かすかな声が聞こえた。
「……誰か、いるのか」
蓮は振り返った。
老人は生きている。
「います」
蓮は答えた。
「今、出します」
「寒い」
「すぐ出します」
職員が蓮に近づく。
蓮は扉の内側へ下がった。ここで倒されれば終わる。だが、扉を閉められても終わる。
そのとき、廊下の反対側から別の声が響いた。
「動かないでください」
真鍋だった。
手首に拘束具の跡があり、白衣は乱れている。顔色も悪い。だが、彼は医療用の端末を手にしていた。後ろには、看護助手らしき若い女性が立っている。
職員が振り返る。
「真鍋先生、拘束中のはずでは」
「医師権限で緊急処置に入ります」
「管理官の命令は――」
「低温管理室内に生存者がいます。冷却レベル変更は医療上の殺害行為に当たる」
「命令です」
「なら、命令者の名前を記録してください。黒瀬修司管理官の命令により、生存中の対象者四名を低温処理した、と」
職員が黙った。
真鍋は端末を掲げた。
「この会話は医療ログに残っています」
嘘かもしれない。
だが、職員は動けなくなった。
記録。
この施設の人間は、記録を恐れる。
真鍋は蓮を見た。
「中の人間を出す。手伝え」
「この手で?」
蓮は拘束具を見せた。
真鍋は看護助手に目で合図した。彼女が小さな工具を持って近づく。蓮は一瞬警戒したが、彼女は黙って拘束具のロックを外した。
手首が自由になる。
痛みが一気に広がる。
蓮は顔をしかめたが、すぐに動いた。
六一八番の老人からチューブを外そうとして、真鍋に止められる。
「抜くな。まず固定を外す。点滴は持っていく」
「わかった」
「莉子ちゃんは」
「そこに」
真鍋が莉子を見る。
莉子は壁際で震えていた。だが、意識はある。
「よく戻った」
真鍋が言った。
莉子は小さく首を横に振った。
「戻りたくなかったです」
「正しい」
そんなやりとりをする余裕はなかった。
蓮、真鍋、看護助手の三人で、低温室の人々を動かした。六一八番の老人は軽かった。五九二番の女性は意識がなく、呼吸が浅い。若い女は目を開けていたが、状況が理解できていないようだった。顔にシートをかけられていた一人は、真鍋が脈を確認し、短く首を横に振った。
蓮は唇を噛んだ。
全員は救えない。
だが、救える者はいる。
廊下では職員たちが無線で連絡している。
「管理官、低温室で真鍋医師が――」
その言葉は、途中で警報にかき消された。
別の放送が鳴った。
『隔離区域、赤線前に多数集合。職員は赤線前対応へ。繰り返します。隔離区域、赤線前に多数集合』
真鍋が顔を上げた。
蓮も聞いた。
隔離区域。
三枝たちだ。
動き出した。
赤い線の手前に人を集めている。
蓮がB2で動いていることを、何らかの形で察したのだろう。あるいは、もともと三枝が計画していたのか。
黒瀬の注意が分散する。
今しかない。
「どこへ運ぶ」
蓮が聞いた。
真鍋は言った。
「B2記録室」
「なぜ」
「そこに地下の制御端末がある。低温室のロックも、焼却準備室の起動も止められるかもしれない」
「記録媒体も」
蓮は胸元を押さえた。
莉子から受け取った白い記録媒体。
「外に出す必要がある」
「外へ出すには地上の通信盤が必要だ」
「さっき一部送った」
「一部では足りない」
真鍋の顔は厳しかった。
「本物には、死亡記録修正の原本、投薬指示、黒瀬の音声、B2の保管リストが入っている。これが外に出れば、施設は終わる」
「なら、出す」
蓮は言った。
「でもまず、ここにいる人を出す」
真鍋は一瞬だけ蓮を見た。
その目に、わずかな変化があった。
それは評価ではない。安堵に近かった。
「そうだ」
蓮は莉子を背負った。
今度は、彼女も抵抗しなかった。腕が蓮の首に弱く回る。軽い。冷たい。だが、確かに生きている。
「お兄ちゃん」
「喋るな」
「怒ってる?」
「怒ってる」
「誰に」
「全部に」
莉子は、背中で少しだけ笑った。
「それ、よかった」
「何が」
「私だけに怒ってるんじゃなくて」
「当たり前だ」
蓮は、六一八番の老人の点滴台を片手で引きながら歩き出した。真鍋が五九二番の女性を搬送ベッドに乗せ、看護助手が若い女を支える。
廊下の奥で、焼却準備室のランプが赤く点いた。
蓮はそれを見た。
処分が始まる。
記録も、人も、すべて消すつもりだ。
真鍋が低く言った。
「急ぐぞ」
その時、スピーカーから黒瀬の声が響いた。
『地下二階の全職員に通達します。B2区画を封鎖。生存対象の移動を禁止。記録室への接近を認めません』
廊下の防火扉が、遠くで閉まり始める音がした。
一枚。
また一枚。
逃げ道が狭まっていく。
莉子が蓮の背中で囁いた。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「赤い線、消せるかな」
その言葉の意味が、最初はわからなかった。
「何?」
「真鍋先生から聞いた。赤い線って、床にセンサーがあるんじゃないんだって」
蓮は足を止めかけた。
真鍋が振り返る。
莉子は続けた。
「天井のカメラが、床の赤い線を見てる。人の足が線を越えたって判定してるだけ。だから、赤い線がいっぱいあったら、わからなくなるかもって」
蓮は真鍋を見た。
真鍋は短くうなずいた。
「理論上はそうだ。赤線判定は画像認識だ。床面の赤色境界と人体位置の相対関係で判断している。床そのものにセンサーはない」
「なぜ今まで言わなかった」
「言っても、こちら側に赤い塗料がない。大量に線を描く手段もない」
蓮は考えた。
地下には血がある。
薬液がある。
赤いラベルもある。
だが、赤い線を増やすなら、隔離区域側のほうが可能性がある。赤い布、薬液、血、マーカー、何でも使える。三枝がそれに気づけば。
蓮は、搬入口で三枝に伝えた声の通路を思い出した。
物資搬入口。
配管スペース。
洗濯室裏。
まだ通信できるか。
今、地上では隔離区域の人々が赤線前に集まっている。三枝がそこにいる。彼女なら、この意味を理解する。
「真鍋先生」
「何だ」
「記録室から、隔離区域に放送できますか」
「施設内放送は管理官権限だ」
「医療放送でもいい」
「地下からは難しい」
「じゃあ、映像は?」
「何をするつもりだ」
蓮は、低温室の扉の前にこぼれた採血管の赤を思い出した。
坂井の血が赤い線と重なった日のことも。
「赤い線を増やす」
真鍋は蓮を見た。
「隔離区域側に伝える。赤い線そのものにセンサーはない。カメラが線を見ているだけだ。床に赤い線を何本も作れば、判定が狂う」
看護助手が息を呑んだ。
「そんなことをしたら、赤線前が混乱します」
「今もう混乱してる」
蓮は言った。
「でも、混乱を施設側だけのものにする。撃てない混乱にする」
真鍋は数秒考えた。
「記録室に、内部連絡端末がある。医療班向けの一斉通知なら打てるかもしれない。隔離区域の医療端末に表示される」
「三枝さんが見られる?」
「元看護師なら、端末の場所を知っているかもしれない」
「やりましょう」
真鍋はうなずいた。
蓮たちは記録室へ向かった。
防火扉が下り始めている。
真鍋が医療カードをかざすが、拒否される扉もあった。黒瀬が権限を切り替えている。看護助手が別の扉の保守パネルを開け、手動でロックを解除する。その間にも、地下の警報は強くなる。
焼却準備室のランプは赤のままだ。
記録室の扉にたどり着いたとき、背後から職員たちの声がした。
「いたぞ!」
真鍋が叫ぶ。
「中へ!」
記録室は、B2で初めて見たまともな部屋だった。
壁一面に保管棚が並び、紙ファイルとデータカートリッジが詰められている。中央には端末が三台。奥には大型の記録サーバらしき機械が、低い音を立てていた。
蓮は莉子を椅子に座らせた。
「ここにいろ」
「お兄ちゃんも」
「すぐ戻る」
「その言い方、戻ってこない人が言うやつ」
「戻る」
莉子は、弱くうなずいた。
真鍋は端末にカードをかざし、操作を始めた。
「医療班通知を開く。文面を」
蓮は考えた。
短く。
伝わるように。
三枝なら理解できるように。
真鍋が入力欄を出す。
蓮は言った。
「赤線は床センサーではない。天井カメラが赤色境界を画像判定。床に複数の赤線を作れば判定不能になる可能性。赤い布、薬液、血液、塗料、何でも使え。線を増やせ」
真鍋が入力する。
送信。
画面に、医療班通知送信完了と表示された。
届いたかどうかはわからない。
だが、送った。
同じ頃、地上の隔離区域では何が起きているのか。
蓮には見えない。
けれど、想像はできた。
三枝が端末を見る。
赤線の仕組みを理解する。
透が赤い布を探す。
誰かが非常用マーカーを持ってくる。
誰かが薬液をこぼす。
誰かが、躊躇しながらも自分の指先を傷つけるかもしれない。
床に線が増える。
一本だった赤い線が、何本にもなる。
越えれば撃たれる境界が、意味を失い始める。
その時、記録室の扉が叩かれた。
職員たちが来た。
「開けろ!」
蓮は扉の前に棚を倒した。金属棚が大きな音を立てて倒れ、扉を塞ぐ。看護助手がファイル箱を積む。真鍋は別の端末に白い記録媒体を接続した。
「本物を送る」
「外部へ?」
「今は内部サーバに複製する。地上で赤線システムが混乱すれば、外部通信の遮断にも穴が出るかもしれない」
「そんな賭け」
「賭けしか残っていない」
蓮は莉子を見た。
彼女は椅子に座り、震える手で六一八番の老人の毛布を直していた。自分も限界のくせに、他人の毛布を直している。
それを見て、蓮は腹を決めた。
赤い線を増やす。
地下から記録を複製する。
地上では隔離者たちが動く。
バラバラだった行動が、一つにつながり始めている。
扉の向こうで、職員が工具を使い始めた。
棚が軋む。
時間は少ない。
真鍋の端末画面に、複製進行率が表示される。
八パーセント。
十五パーセント。
蓮は、扉を押さえながら、スピーカーから流れる地上の警報を聞いた。
『赤線判定異常。赤線判定異常。複数境界を検出』
蓮は顔を上げた。
届いた。
三枝たちに届いた。
スピーカーは続ける。
『赤線前から離れてください。床面に不正な赤色表示を確認。職員はただちに除去してください』
莉子が、かすかに笑った。
「できたんだ」
「ああ」
蓮は扉を押さえながら言った。
「始まった」
赤い線が一本でなくなった。
それは、施設が二年以上守ってきた支配の形が崩れ始めた瞬間だった。
扉が大きく揺れた。
職員たちが押し込んでくる。
真鍋が叫んだ。
「複製、五十パーセント!」
まだ半分。
蓮は倒した棚に肩を押しつけた。
手首は痛み、背中は軋み、口の中にはまだ血の味が残っている。
それでも、彼は押さえた。
赤い線は、もう一本ではない。
莉子は生きている。
記録は複製されつつある。
地上の人々は動き出した。
なら、まだ押さえられる。
扉の向こうで黒瀬の声が聞こえた。
「佐伯蓮。扉を開けなさい。これ以上の抵抗は、七〇二番の処置に影響します」
蓮は答えなかった。
かわりに、低い声で言った。
「莉子」
「何」
「卵焼き味じゃないやつ、何がいい」
莉子は、少しだけ考えた。
「プリン」
「飲み物じゃないぞ」
「だからいいんじゃん」
蓮は笑った。
扉が再び揺れる。
記録室の天井から警報が鳴り響く。
地上では赤線判定異常の放送が続いている。
地下では記録の複製が進んでいる。
複製、六十七パーセント。
蓮は扉を押さえたまま、思った。
赤い線は、人間を止めるために引かれた。
だが今、その赤さは、人間を動かしている。
一本の線だったものが、無数の線になった。
越えるなという命令が、消せという合図に変わった。
蓮は肩に力を込めた。
あと少し。
まだ終わらせない。




