↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
赤い線の向こう側―疫病隔離施設。地面に赤い線が引かれ、越えた者は射殺される。  作者: 二条理|アコンプリス


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/11

第九章 赤い線を消す方法

 ネジは、あと少しのところで動かなくなった。

 蓮は歯を食いしばり、拘束具の突起を六角穴に押し込んだ。手首をひねるたび、皮膚が削れる。樹脂の縁が骨に当たり、腕全体に鈍い痛みが走る。指先の感覚は半分ほどなくなっていた。

 それでも、やめなかった。

 尋問室の外では、警報が鳴っている。

『七〇二番、低温管理室より離脱。地下二階職員は、全区画を確認してください』

 莉子が低温室に戻っていない。

 その放送が、何度も繰り返されていた。

 蓮は、それを希望として受け取るべきか、危険として受け取るべきか判断できなかった。莉子がどこかに隠れているなら、まだ捕まっていないということだ。だが、彼女の身体は弱っている。長く動ける状態ではない。低温室から出ただけで、体力を削られているはずだった。

 時間がない。

 ネジが、わずかに回った。

 蓮は息を止め、もう一度力を込めた。

 回る。

 金具のプレートが、少し浮いた。

 拘束具そのものは外れない。だが、テーブルに固定されている金具が緩んでいる。あと数回回せば、手首をつないだままでもテーブルからは離れられるかもしれない。

 廊下に足音。

 蓮は動きを止めた。

 扉の外で、職員の声がした。

「尋問室、確認するか?」

「七〇一は拘束中だろ」

「七〇二が接触した可能性がある」

「管理官は?」

「B2西側。低温室のログ確認中」

 足音が近づく。

 蓮は手を膝の上に置き、姿勢を戻した。手首の周囲には血が滲んでいる。テーブルの金具は少し浮いているが、正面から見ただけではわからないはずだ。

 扉が開いた。

 職員が二人入ってくる。

 一人は蓮を見張り、もう一人は部屋の中を確認した。机の下、椅子の周囲、壁際。何もない。莉子が隠れる場所など最初からない。

 職員が蓮の前に立った。

「七〇二はここに来たか」

 蓮は黙っていた。

「答えろ」

「ここにいるように見えるか」

 職員の顔が歪んだ。

「余計な口を利くな」

「質問したのはそっちだ」

 殴られると思った。

 だが、職員は手を上げなかった。黒瀬から、蓮に過度な暴力を加えるなと命じられているのかもしれない。あるいは、記録媒体の送信先を聞くまで壊してはいけないと思っているのか。

 職員は蓮の拘束具を確認した。

 蓮は呼吸を止めた。

 浮いた金具に気づかれるか。

 職員の手が、テーブルの上のプレートに触れた。

 そのとき、廊下の奥で大きな音がした。

 金属製の台車が倒れたような音。

「何だ」

 職員が振り返る。

 無線が鳴った。

『B2西側通路、台車転倒。七〇二番の可能性あり』

 二人の職員が顔を見合わせた。

「行くぞ」

「七〇一は」

「拘束されてる」

 扉が閉まる。

 蓮は、しばらく動かなかった。

 台車の音。

 莉子か。

 それとも誰かが、莉子の逃走を助けているのか。

 真鍋は拘束されている。なら、看護助手か。あるいは、地下にも黒瀬に従いきれない者がいるのかもしれない。

 考えている暇はない。

 蓮は再び拘束具の突起をネジ穴に当てた。

 一回。

 二回。

 三回。

 プレートがさらに浮く。

 右手側の金具が外れた。

 拘束具は手首についたままだが、片側が自由になる。左手はまだテーブルにつながれている。蓮は右手の拘束具を利用して、左側のネジを回そうとした。角度が悪い。身体をねじる。肩に痛みが走る。

 廊下の警報が続く。

『七〇二番、未確認。B2全職員は各保管区画を閉鎖してください』

 閉鎖。

 莉子の逃げ場がなくなる。

 蓮は左側のネジを回した。

 指が滑る。

 血で濡れている。

 もう一度。

 ネジが回った。

 少しずつ。

 気が遠くなるほど遅い。

 だが、回る。

 最後のネジが外れた瞬間、プレートが跳ねた。

 金具がテーブルから外れる。

 両手の拘束具はつながったままだ。手首同士が近い。だが、テーブルには縛られていない。

 蓮は立ち上がった。

 腕を動かすたび、拘束具が手首に食い込む。それでも歩ける。

 問題は扉だ。

 外からロックされている。

 蓮は尋問室を見回した。

 カメラ。マイク。テーブル。椅子。壁。天井の換気口。扉の横に小さな認証パネル。内側には解除ボタンがない。部屋の中からは開けられない構造だ。

 だが、職員が出入りするたび、認証パネルは外側から操作されている。内側にも非常時開放用のカバーがあるかもしれない。

 蓮は扉の縁を調べた。

 低い位置に、赤い小さなカバーがある。非常解錠と書かれている。だが、透明な樹脂カバーの上に封印シールが貼られていた。開ければ警報が鳴るだろう。

 警報はすでに鳴っている。

 蓮はためらわず、拘束具の金属部分でカバーを叩いた。

 一度。

 二度。

 三度。

 樹脂が割れる。

 赤いレバーが現れた。

 引く。

 扉のロックが外れる音がした。

 同時に、別の警報音が鳴った。

『尋問室、非常解錠。尋問室、非常解錠』

 蓮は扉を開けた。

 廊下には誰もいない。

 警報は施設中で鳴っている。七〇二番の捜索、尋問室の非常解錠、処分対象の所在不明。音が重なり合い、かえって個々の異常が埋もれている。

 混乱している。

 今なら動ける。

 蓮は廊下に出た。

 まず莉子を探す。

 だが、どこへ。

 B2西側通路で台車転倒。低温室から離脱。保管区画閉鎖。なら、莉子は西側通路か、その近くにいる可能性が高い。

 蓮は低温管理室西の方向へ走った。

 走りながら、胸元を押さえる。

 莉子から渡された記録媒体は、患者服の内側にある。拘束具で腕は不自由だが、落としてはいない。

 廊下の角を曲がる。

 冷気が強くなる。

 西側低温区画へ近づいている。

 白い床に、点々と水滴が落ちていた。

 いや、水ではない。

 赤い。

 血だ。

 蓮の呼吸が止まりかけた。

 血の跡は、低温管理室西の扉の前から、廊下の奥へ続いている。量は多くない。点々と、細く。裸足か、薄い保温ソックスで歩いたような跡だった。

 莉子。

 蓮は血の跡を追った。

 廊下の先で、台車が倒れていた。透明なケースが割れ、採血管が床に散らばっている。赤い液体が床に広がり、白い床材を汚していた。番号ラベルが剥がれ、血と水滴に貼りついている。

 その陰に、人影があった。

「莉子」

 蓮は駆け寄った。

 莉子は台車の裏に座り込んでいた。防寒ガウンを羽織っているが、肩からずり落ちている。顔は青白く、唇は紫に近い。左腕の点滴跡から血が滲んでいた。足元にも血がついている。転んだのだろう。

 彼女は蓮を見ると、目を見開いた。

「お兄ちゃん」

「動くな」

 蓮は膝をつき、莉子の腕を見た。血は止まりかけているが、身体が冷えきっている。彼女の指先は氷のようだった。

「何で出てきた」

「お兄ちゃんこそ」

「俺はいい」

「よくない」

「喋るな」

 蓮はガウンを肩にかけ直し、自分の患者服の裾を裂こうとした。拘束具が邪魔でうまくいかない。莉子が小さく笑った。

「手、すごいことになってる」

「笑うな」

「笑ってないと怖い」

 その言葉で、蓮の手が止まった。

 莉子の目は怯えていた。

 それでも、泣いてはいなかった。

 蓮は、服の裾をようやく裂き、莉子の腕に巻いた。

「立てるか」

「少しなら」

「背負う」

「お兄ちゃん、手が」

「背負う」

 莉子は首を横に振った。

「私、低温室に戻る」

「何を言ってる」

「戻らないと、みんなが閉じ込められる」

「みんな?」

「低温室の人たち。六一八のおじいさんも、他の人も。私が逃げたせいで、保管区画を閉じるって」

「閉じたらどうなる」

「冷却レベルが上がる」

 蓮は言葉を失った。

 莉子は震える声で続けた。

「職員が言ってた。地下を焼く準備もしてるって。証拠を消すかもしれない」

「焼く?」

「焼却準備室に、低温室のファイルを運んでた。私、見た」

 黒瀬は急いでいる。

 蓮の送信が、あるいは莉子が持ち出した記録媒体が、施設を追い詰めている。追い詰められた黒瀬が何をするか。

 証拠を消す。

 人ごと。

 低温室の人間ごと。

 蓮は廊下の奥を見た。

 焼却準備室。

 さっきB2の表示で見た。

 莉子を連れて逃げるだけでは足りない。低温室に残された人々が殺される可能性がある。記録が消される。母の死も、坂井の処分も、薬剤反応も、すべて焼かれる。

 莉子は、蓮の袖を掴んだ。

「お兄ちゃん、低温室のロックを開けて。みんなを出して」

「お前は」

「私も出る。でも、先にロック」

「歩けないだろ」

「だから、お兄ちゃんがやる」

 蓮は、妹を見た。

 彼女は弱っている。

 明らかに限界に近い。

 それでも、彼女の目はまっすぐだった。

 母に似ていると思った。

 嘘が下手で、正しいと思ったことを曲げられない。だから記録表に発熱を書いた。だから処置室へ運ばれた。だから戻ってこなかった。

 その正しさが母を殺したのではない。

 正しい人間を殺す場所が、ここなのだ。

「わかった」

 蓮は言った。

「でも、お前も一緒だ」

「うん」

 莉子を背負うには、両手の拘束具が邪魔だった。だが、彼女を抱えることはできた。蓮は拘束具のついた両腕で莉子の身体を支え、台車の陰から引き出した。彼女は軽かった。軽すぎた。

 廊下の先で足音がした。

「七〇二、発見!」

 職員の声。

 蓮は莉子を抱えたまま、低温管理室西の扉へ向かった。

 扉横のパネルは赤く点滅している。

 閉鎖準備中。

 冷却レベル変更待機。

 管理官承認。

 蓮はパネルを操作しようとしたが、認証が必要だった。

 また認証。

 施設は、すべての扉に許可を要求する。

 人を閉じ込める許可だけは簡単に出すくせに、外へ出す許可は決して出さない。

「お兄ちゃん、下」

 莉子が弱い声で言った。

「下?」

「真鍋先生が言ってた。低温室は、緊急時に内側からも外側からも手動開放できるって。下にカバーがある」

 蓮は扉の下部を見た。

 小さな金属カバー。

 非常解放。

 尋問室と同じだ。

 だが、こちらは鍵付きだった。

 蓮は拘束具の金属突起を差し込もうとした。形が合わない。職員の足音が近づく。莉子が肩越しに見ている。

「お兄ちゃん、台車」

 倒れた台車。

 車輪部分に、金属の細いピンがある。

 蓮は莉子を壁際に座らせ、台車へ戻った。車輪の固定ピンを力任せに引き抜く。指が痛む。拘束具が邪魔だ。だが、ピンは抜けた。

 職員が角を曲がった。

「動くな!」

 蓮は低温室の扉へ駆け戻り、ピンを鍵穴に差し込んだ。

 合わない。

 少し曲げる。

 職員が走ってくる。

 莉子が立ち上がろうとする。

「伏せてろ!」

 蓮は叫んだ。

 ピンを回す。

 一度目、失敗。

 二度目。

 小さな手応え。

 カバーが開いた。

 中のレバーを引く。

 低温管理室西の扉が、重い音を立てて開いた。

 冷気が噴き出した。

 中には、ベッドが並んでいた。

 六台。

 そのうち四台に人がいた。

 六一八番の老人。五九二番の女性。知らない番号の若い女。もう一人は顔にシートがかけられている。生きているのかどうか、すぐにはわからない。

 全員にチューブがつながれ、保温シートがかけられている。

 医療施設ではない。

 保管場所だ。

 蓮は莉子を室内に入れ、扉の陰に座らせた。

 職員が追いつく。

 蓮は扉横のレバーを掴んだまま、叫んだ。

「中に人がいる! 冷却レベルを上げたら死ぬぞ!」

「離れろ!」

 職員が警棒を構える。

 そのとき、低温室内の六一八番の老人が目を開けた。

 かすかな声が聞こえた。

「……誰か、いるのか」

 蓮は振り返った。

 老人は生きている。

「います」

 蓮は答えた。

「今、出します」

「寒い」

「すぐ出します」

 職員が蓮に近づく。

 蓮は扉の内側へ下がった。ここで倒されれば終わる。だが、扉を閉められても終わる。

 そのとき、廊下の反対側から別の声が響いた。

「動かないでください」

 真鍋だった。

 手首に拘束具の跡があり、白衣は乱れている。顔色も悪い。だが、彼は医療用の端末を手にしていた。後ろには、看護助手らしき若い女性が立っている。

 職員が振り返る。

「真鍋先生、拘束中のはずでは」

「医師権限で緊急処置に入ります」

「管理官の命令は――」

「低温管理室内に生存者がいます。冷却レベル変更は医療上の殺害行為に当たる」

「命令です」

「なら、命令者の名前を記録してください。黒瀬修司管理官の命令により、生存中の対象者四名を低温処理した、と」

 職員が黙った。

 真鍋は端末を掲げた。

「この会話は医療ログに残っています」

 嘘かもしれない。

 だが、職員は動けなくなった。

 記録。

 この施設の人間は、記録を恐れる。

 真鍋は蓮を見た。

「中の人間を出す。手伝え」

「この手で?」

 蓮は拘束具を見せた。

 真鍋は看護助手に目で合図した。彼女が小さな工具を持って近づく。蓮は一瞬警戒したが、彼女は黙って拘束具のロックを外した。

 手首が自由になる。

 痛みが一気に広がる。

 蓮は顔をしかめたが、すぐに動いた。

 六一八番の老人からチューブを外そうとして、真鍋に止められる。

「抜くな。まず固定を外す。点滴は持っていく」

「わかった」

「莉子ちゃんは」

「そこに」

 真鍋が莉子を見る。

 莉子は壁際で震えていた。だが、意識はある。

「よく戻った」

 真鍋が言った。

 莉子は小さく首を横に振った。

「戻りたくなかったです」

「正しい」

 そんなやりとりをする余裕はなかった。

 蓮、真鍋、看護助手の三人で、低温室の人々を動かした。六一八番の老人は軽かった。五九二番の女性は意識がなく、呼吸が浅い。若い女は目を開けていたが、状況が理解できていないようだった。顔にシートをかけられていた一人は、真鍋が脈を確認し、短く首を横に振った。

 蓮は唇を噛んだ。

 全員は救えない。

 だが、救える者はいる。

 廊下では職員たちが無線で連絡している。

「管理官、低温室で真鍋医師が――」

 その言葉は、途中で警報にかき消された。

 別の放送が鳴った。

『隔離区域、赤線前に多数集合。職員は赤線前対応へ。繰り返します。隔離区域、赤線前に多数集合』

 真鍋が顔を上げた。

 蓮も聞いた。

 隔離区域。

 三枝たちだ。

 動き出した。

 赤い線の手前に人を集めている。

 蓮がB2で動いていることを、何らかの形で察したのだろう。あるいは、もともと三枝が計画していたのか。

 黒瀬の注意が分散する。

 今しかない。

「どこへ運ぶ」

 蓮が聞いた。

 真鍋は言った。

「B2記録室」

「なぜ」

「そこに地下の制御端末がある。低温室のロックも、焼却準備室の起動も止められるかもしれない」

「記録媒体も」

 蓮は胸元を押さえた。

 莉子から受け取った白い記録媒体。

「外に出す必要がある」

「外へ出すには地上の通信盤が必要だ」

「さっき一部送った」

「一部では足りない」

 真鍋の顔は厳しかった。

「本物には、死亡記録修正の原本、投薬指示、黒瀬の音声、B2の保管リストが入っている。これが外に出れば、施設は終わる」

「なら、出す」

 蓮は言った。

「でもまず、ここにいる人を出す」

 真鍋は一瞬だけ蓮を見た。

 その目に、わずかな変化があった。

 それは評価ではない。安堵に近かった。

「そうだ」

 蓮は莉子を背負った。

 今度は、彼女も抵抗しなかった。腕が蓮の首に弱く回る。軽い。冷たい。だが、確かに生きている。

「お兄ちゃん」

「喋るな」

「怒ってる?」

「怒ってる」

「誰に」

「全部に」

 莉子は、背中で少しだけ笑った。

「それ、よかった」

「何が」

「私だけに怒ってるんじゃなくて」

「当たり前だ」

 蓮は、六一八番の老人の点滴台を片手で引きながら歩き出した。真鍋が五九二番の女性を搬送ベッドに乗せ、看護助手が若い女を支える。

 廊下の奥で、焼却準備室のランプが赤く点いた。

 蓮はそれを見た。

 処分が始まる。

 記録も、人も、すべて消すつもりだ。

 真鍋が低く言った。

「急ぐぞ」

 その時、スピーカーから黒瀬の声が響いた。

『地下二階の全職員に通達します。B2区画を封鎖。生存対象の移動を禁止。記録室への接近を認めません』

 廊下の防火扉が、遠くで閉まり始める音がした。

 一枚。

 また一枚。

 逃げ道が狭まっていく。

 莉子が蓮の背中で囁いた。

「お兄ちゃん」

「何だ」

「赤い線、消せるかな」

 その言葉の意味が、最初はわからなかった。

「何?」

「真鍋先生から聞いた。赤い線って、床にセンサーがあるんじゃないんだって」

 蓮は足を止めかけた。

 真鍋が振り返る。

 莉子は続けた。

「天井のカメラが、床の赤い線を見てる。人の足が線を越えたって判定してるだけ。だから、赤い線がいっぱいあったら、わからなくなるかもって」

 蓮は真鍋を見た。

 真鍋は短くうなずいた。

「理論上はそうだ。赤線判定は画像認識だ。床面の赤色境界と人体位置の相対関係で判断している。床そのものにセンサーはない」

「なぜ今まで言わなかった」

「言っても、こちら側に赤い塗料がない。大量に線を描く手段もない」

 蓮は考えた。

 地下には血がある。

 薬液がある。

 赤いラベルもある。

 だが、赤い線を増やすなら、隔離区域側のほうが可能性がある。赤い布、薬液、血、マーカー、何でも使える。三枝がそれに気づけば。

 蓮は、搬入口で三枝に伝えた声の通路を思い出した。

 物資搬入口。

 配管スペース。

 洗濯室裏。

 まだ通信できるか。

 今、地上では隔離区域の人々が赤線前に集まっている。三枝がそこにいる。彼女なら、この意味を理解する。

「真鍋先生」

「何だ」

「記録室から、隔離区域に放送できますか」

「施設内放送は管理官権限だ」

「医療放送でもいい」

「地下からは難しい」

「じゃあ、映像は?」

「何をするつもりだ」

 蓮は、低温室の扉の前にこぼれた採血管の赤を思い出した。

 坂井の血が赤い線と重なった日のことも。

「赤い線を増やす」

 真鍋は蓮を見た。

「隔離区域側に伝える。赤い線そのものにセンサーはない。カメラが線を見ているだけだ。床に赤い線を何本も作れば、判定が狂う」

 看護助手が息を呑んだ。

「そんなことをしたら、赤線前が混乱します」

「今もう混乱してる」

 蓮は言った。

「でも、混乱を施設側だけのものにする。撃てない混乱にする」

 真鍋は数秒考えた。

「記録室に、内部連絡端末がある。医療班向けの一斉通知なら打てるかもしれない。隔離区域の医療端末に表示される」

「三枝さんが見られる?」

「元看護師なら、端末の場所を知っているかもしれない」

「やりましょう」

 真鍋はうなずいた。

 蓮たちは記録室へ向かった。

 防火扉が下り始めている。

 真鍋が医療カードをかざすが、拒否される扉もあった。黒瀬が権限を切り替えている。看護助手が別の扉の保守パネルを開け、手動でロックを解除する。その間にも、地下の警報は強くなる。

 焼却準備室のランプは赤のままだ。

 記録室の扉にたどり着いたとき、背後から職員たちの声がした。

「いたぞ!」

 真鍋が叫ぶ。

「中へ!」

 記録室は、B2で初めて見たまともな部屋だった。

 壁一面に保管棚が並び、紙ファイルとデータカートリッジが詰められている。中央には端末が三台。奥には大型の記録サーバらしき機械が、低い音を立てていた。

 蓮は莉子を椅子に座らせた。

「ここにいろ」

「お兄ちゃんも」

「すぐ戻る」

「その言い方、戻ってこない人が言うやつ」

「戻る」

 莉子は、弱くうなずいた。

 真鍋は端末にカードをかざし、操作を始めた。

「医療班通知を開く。文面を」

 蓮は考えた。

 短く。

 伝わるように。

 三枝なら理解できるように。

 真鍋が入力欄を出す。

 蓮は言った。

「赤線は床センサーではない。天井カメラが赤色境界を画像判定。床に複数の赤線を作れば判定不能になる可能性。赤い布、薬液、血液、塗料、何でも使え。線を増やせ」

 真鍋が入力する。

 送信。

 画面に、医療班通知送信完了と表示された。

 届いたかどうかはわからない。

 だが、送った。

 同じ頃、地上の隔離区域では何が起きているのか。

 蓮には見えない。

 けれど、想像はできた。

 三枝が端末を見る。

 赤線の仕組みを理解する。

 透が赤い布を探す。

 誰かが非常用マーカーを持ってくる。

 誰かが薬液をこぼす。

 誰かが、躊躇しながらも自分の指先を傷つけるかもしれない。

 床に線が増える。

 一本だった赤い線が、何本にもなる。

 越えれば撃たれる境界が、意味を失い始める。

 その時、記録室の扉が叩かれた。

 職員たちが来た。

「開けろ!」

 蓮は扉の前に棚を倒した。金属棚が大きな音を立てて倒れ、扉を塞ぐ。看護助手がファイル箱を積む。真鍋は別の端末に白い記録媒体を接続した。

「本物を送る」

「外部へ?」

「今は内部サーバに複製する。地上で赤線システムが混乱すれば、外部通信の遮断にも穴が出るかもしれない」

「そんな賭け」

「賭けしか残っていない」

 蓮は莉子を見た。

 彼女は椅子に座り、震える手で六一八番の老人の毛布を直していた。自分も限界のくせに、他人の毛布を直している。

 それを見て、蓮は腹を決めた。

 赤い線を増やす。

 地下から記録を複製する。

 地上では隔離者たちが動く。

 バラバラだった行動が、一つにつながり始めている。

 扉の向こうで、職員が工具を使い始めた。

 棚が軋む。

 時間は少ない。

 真鍋の端末画面に、複製進行率が表示される。

 八パーセント。

 十五パーセント。

 蓮は、扉を押さえながら、スピーカーから流れる地上の警報を聞いた。

『赤線判定異常。赤線判定異常。複数境界を検出』

 蓮は顔を上げた。

 届いた。

 三枝たちに届いた。

 スピーカーは続ける。

『赤線前から離れてください。床面に不正な赤色表示を確認。職員はただちに除去してください』

 莉子が、かすかに笑った。

「できたんだ」

「ああ」

 蓮は扉を押さえながら言った。

「始まった」

 赤い線が一本でなくなった。

 それは、施設が二年以上守ってきた支配の形が崩れ始めた瞬間だった。

 扉が大きく揺れた。

 職員たちが押し込んでくる。

 真鍋が叫んだ。

「複製、五十パーセント!」

 まだ半分。

 蓮は倒した棚に肩を押しつけた。

 手首は痛み、背中は軋み、口の中にはまだ血の味が残っている。

 それでも、彼は押さえた。

 赤い線は、もう一本ではない。

 莉子は生きている。

 記録は複製されつつある。

 地上の人々は動き出した。

 なら、まだ押さえられる。

 扉の向こうで黒瀬の声が聞こえた。

「佐伯蓮。扉を開けなさい。これ以上の抵抗は、七〇二番の処置に影響します」

 蓮は答えなかった。

 かわりに、低い声で言った。

「莉子」

「何」

「卵焼き味じゃないやつ、何がいい」

 莉子は、少しだけ考えた。

「プリン」

「飲み物じゃないぞ」

「だからいいんじゃん」

 蓮は笑った。

 扉が再び揺れる。

 記録室の天井から警報が鳴り響く。

 地上では赤線判定異常の放送が続いている。

 地下では記録の複製が進んでいる。

 複製、六十七パーセント。

 蓮は扉を押さえたまま、思った。

 赤い線は、人間を止めるために引かれた。

 だが今、その赤さは、人間を動かしている。

 一本の線だったものが、無数の線になった。

 越えるなという命令が、消せという合図に変わった。

 蓮は肩に力を込めた。

 あと少し。

 まだ終わらせない。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。