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赤い線の向こう側―疫病隔離施設。地面に赤い線が引かれ、越えた者は射殺される。  作者: 二条理|アコンプリス


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8/11

第八章 B2保管庫

 拘束具は、思っていたよりも冷たかった。

 金属ではなく、硬質樹脂のような材質だった。手首を包む部分だけが内側で締まり、動くたびに骨に食い込む。暴れればさらに締まる仕組みなのだろう。蓮はそれを二度試し、三度目はやめた。

 痛みは役に立たない。

 痛みで正気を保つことはできる。だが、痛みで拘束具は外れない。

 職員二人に両腕を取られ、蓮は白い廊下を歩かされていた。歩いているというより、引きずられているに近かった。背中に受けた警棒の痛みが、呼吸のたびに響く。口の中には血の味が残っていた。舌で歯を確かめる。折れてはいない。頬の内側が切れているだけだ。

 その程度で済んだと思うべきなのかもしれない。

 処分対象。

 その言葉が放送で流れた瞬間、蓮は撃たれてもおかしくなかった。赤い線を越え、管理区域に侵入し、記録媒体を外部へ送信しようとした。施設の規則に照らせば、彼はすでに人間ではなく、排除すべき異物だった。

 それでも、生かされている。

 理由は一つしかない。

 何を送ったのか。

 どこへ送ったのか。

 誰に伝えたのか。

 それを聞き出すまでは、処分できないのだ。

 職員の一人が、蓮の腕を強く引いた。

「歩け」

「歩いてる」

「余計な口を利くな」

 職員の声には苛立ちが混じっていた。恐怖もある。蓮はそれに気づいた。

 彼らは、蓮を恐れている。

 拘束された灰色の患者服の男。武器もなく、権限もなく、管理区域を逃げ回っただけの男。それでも彼らは蓮を警戒している。なぜなら、彼は赤い線を越えたからだ。撃たれるはずの線を越え、三分間の穴を抜け、記録を見た。

 赤い線の外側の人間にとっても、それは想定外だった。

 想定していない場所には、油断がある。

 三枝の声が頭をよぎった。

 油断はもう薄れている。施設は蓮を捕まえ、警戒を強めた。だが、想定外が一度起きたという事実は消えない。隔離区域側にも伝わった。職員側にも伝わった。

 赤い線は絶対ではない。

 その小さな亀裂は、まだ残っている。

 廊下の先に、黒い扉が見えた。

 それまでの白い扉とは違い、その扉だけが艶のない黒で塗られていた。横には認証パネルが二つある。カードリーダーと、掌を置くための生体認証パネル。上部には赤い文字で表示が出ている。

 地下管理区域連絡路。

 B2。

 蓮は足を止めた。

 職員が腕を引く。

「止まるな」

 蓮は扉を見つめたまま動かなかった。

 B2。

 莉子がいる場所。

 西側低温室。

 鎮静下。

 追加採取予定。

 黒瀬管理官の承認待ち。

 職員が蓮の背中を押した。

「歩けと言っている」

 蓮は、わざと少しよろめいた。

 足元が崩れたふりをする。職員が舌打ちし、腕を支え直す。その一瞬で、蓮は周囲を見た。

 扉の左に監視カメラ。右に非常用電話。床には黄色のライン。天井にはスプリンクラーと、半球型の監視装置。タレットはない。地下連絡路に入る者は、最初から管理された人間だけなのだろう。

 ここに入るには認証が必要。

 だが今、蓮は拘束されたまま、その扉の前に連れてこられている。

 つまり、彼らは蓮を地下へ運ぶつもりだ。

 それが尋問のためなのか、処置のためなのか、処分のためなのかはわからない。

 ただ、目的地がB2に近いことだけは確かだった。

 扉の前に、黒瀬修司が立っていた。

 初めて見る顔だった。

 背は高くも低くもない。五十代前半くらい。髪はきれいに整えられ、白髪が少し混じっている。防護服ではなく、濃紺の管理官服を着ていた。胸には施設管理局の徽章。顔にはマスクをしていない。

 蓮は、そのことに奇妙な衝撃を受けた。

 こちら側の人間は、マスクを外せる。

 呼吸を隠さずにいられる。

 黒瀬の目は、放送の声と同じだった。冷たくはない。むしろ穏やかに見える。だからこそ不快だった。彼の穏やかさは、相手を人間として見ていないことから来る穏やかさだった。

「佐伯蓮さん」

 黒瀬は言った。

 番号ではなく、名前で呼んだ。

 それだけで、蓮は身構えた。

「ずいぶん騒ぎを大きくしましたね」

「莉子はどこだ」

 黒瀬はわずかに首を傾げた。

「まず自分の立場を理解するべきです」

「理解してる。俺は処分対象なんだろ」

「規定上は」

「なら撃てばいい」

「そうしない理由も理解しているはずです」

 黒瀬は蓮の手首を見た。

「記録媒体から、何を送信しましたか」

「あなたが一番よく知ってるんじゃないのか」

「送信先が問題です」

「俺も知りたい」

 黒瀬は表情を変えなかった。

 職員の一人が蓮の腕をねじった。拘束具が手首に食い込む。蓮は歯を食いしばった。

「乱暴は不要です」

 黒瀬が静かに言った。

 職員が手を緩める。

 穏やかな命令だった。

 蓮は、その様子を見て理解した。

 ここでは、黒瀬の声が規則なのだ。

 大声を出す必要がない。怒鳴る必要がない。彼が言えば、職員は動く。扉は開き、記録は書き換えられ、人は処置室へ運ばれる。

「送信内容は、こちらで復元できます」

 黒瀬は言った。

「しかし、外部のどこへ届いたかは確認に時間がかかります。あなたが協力すれば、その時間を短縮できます」

「協力したら莉子を返すのか」

「七〇二番の処置は、あなたの協力とは別の問題です」

「なら話すことはない」

「七〇二番は、貴重な反応対象です」

 その言葉を聞いた瞬間、蓮は黒瀬に飛びかかろうとした。

 職員二人が即座に押さえ込む。

 拘束具がさらに締まる。

 肩に痛みが走る。

 黒瀬は一歩も下がらなかった。

「感情的な反応は理解します」

「理解するな」

「しかし、理解と許容は違います」

 黒瀬は続けた。

「あなたの母、佐伯美和さんの記録は不完全でした。当時はまだ、こちらにも十分な知見がなかった。七〇二番は、その不完全さを補う可能性を持っています」

「母を殺して、妹で続きを取るのか」

「その表現は正確ではありません」

「何が違う」

「佐伯美和さんは、感染症そのものと薬剤反応の複合的な影響で死亡しました」

「記録には薬剤性多臓器障害疑いとあった」

 黒瀬の目が、ほんのわずかに動いた。

 蓮はそれを見た。

「見たのか、と言いたい顔だな」

「真鍋先生の関与は明白ですね」

「あなたたちが隠していたからだ」

「隠していたのではありません。管理していたのです」

「言い換えれば許されると思っているのか」

「許しの問題ではありません」

 黒瀬の声には揺れがなかった。

「感染症の初期対応では、判断の遅れが多数の死につながります。投薬も隔離も、当時は必要でした。その後、薬剤反応に問題があるとわかった。しかし施設内には、すでに反応群が存在していた。外へ出せば、社会は誰かを責めるでしょう。薬剤を承認した者。投与した者。隔離を続けた者。記録した者。あらゆる責任が爆発的に拡散する」

「だから閉じ込めた?」

「責任の爆発は、新たな混乱を生みます」

 蓮は黒瀬を見つめた。

 この男は、本気でそう思っている。

 自分が守っているのは社会だと信じている。

 母も莉子も坂井も、彼にとっては社会の混乱を防ぐために管理されるべき変数なのだ。

「外の人間は、もう普通に暮らしている」

 蓮は言った。

「ニュースを見た。電車も動いてる。学校も再開してる。莉子は高校に戻れたはずだ」

「戻ったとして、どうなりますか」

「何?」

「彼女は反応群です。通常の生活の中で症状が出れば、周囲は彼女をどう扱うでしょう。あなたの母の死因が薬剤反応だったと公表されれば、遺族は何を求めるでしょう。報道はどう扱うでしょう。社会は誰を断罪するでしょう」

「断罪されるべき人間がいるなら、されればいい」

「そう単純ではありません」

「単純だ」

 蓮は言った。

「人を閉じ込めて、実験して、死因を書き換えた。単純に悪い」

 黒瀬は、初めてほんの少しだけ眉を動かした。

「若いですね」

「人を番号で呼ぶよりましだ」

 沈黙が落ちた。

 黒瀬は蓮から視線を外し、扉の認証パネルへ向かった。

「B2へ移送します」

 職員が緊張したように姿勢を正す。

 蓮は黒瀬を見た。

「俺を地下へ?」

「あなたには、記録媒体の送信先について話してもらいます。地上階では隔離区域への影響が大きすぎる」

「地下なら声が届かない」

「その通りです」

 黒瀬はカードをかざし、掌を認証パネルに置いた。

 青いランプが点る。

 重い扉が開いた。

 冷たい空気が流れてきた。

 地上階の空気より、明らかに温度が低い。消毒液の匂いに、金属と冷却装置の匂いが混じっている。病院の手術室とも違う。もっと無機質で、倉庫に近い。

 蓮は職員に押され、扉の向こうへ入った。

 地下連絡路は、長いスロープになっていた。

 壁はコンクリート。天井の照明は間隔が広く、足元に細長い影ができる。空調音が強い。遠くで機械が連続して唸っている。スロープの途中には監視カメラがあり、赤いランプが点いていた。

 蓮は歩きながら、位置を覚えようとした。

 黒い扉からスロープ。右壁に配管。途中に保守パネル二つ。二つ目の横に非常灯。下りきった先に、さらに扉。

 B2。

 扉の表示。

 蓮の鼓動が速くなる。

 ここに莉子がいる。

 近い。

 そう思った瞬間、職員の腕の力が強くなった。蓮の気配の変化に気づいたのだろう。

「余計なことを考えるな」

 職員が言った。

「考えるなと言われて考えない人間がいるのか」

「黙れ」

 黒瀬は振り返らずに言った。

「話させて構いません。地下では記録されます」

 蓮はその背中を見た。

 ここでの発言も、すべて記録される。

 なら、何を言うべきか。

 いや、まだ早い。

 B2の扉が開いた。

 その先にあったのは、医療施設ではなかった。

 最初に目に入ったのは、巨大な冷却ユニットだった。壁一面に銀色の配管が走り、天井から太いダクトが何本も伸びている。床には排水溝があり、ところどころに水が薄く溜まっていた。照明は白く、地上階よりもさらに冷たい。

 廊下の左右に扉が並んでいる。

 検体保管室。

 記録室。

 低温管理室東。

 低温管理室西。

 焼却準備室。

 遺体安置室。

 蓮は、その文字を一つずつ見た。

 焼却準備室。

 遺体安置室。

 保管庫という言葉の意味が、身体の中に沈んでいく。

 ここは、人を治す場所ではない。

 残すものと消すものを分ける場所だ。

 黒瀬は廊下の途中で足を止めた。

「尋問室へ」

 職員が蓮を右へ引いた。

 蓮はその時、廊下の奥を見た。

 低温管理室西。

 莉子の記録にあった場所。

 扉は厚く、丸い小窓がついている。小窓の内側は霜で曇り、何も見えない。扉横のパネルには、内部温度が表示されている。

 十二度。

 人間が長くいる温度ではない。

 蓮は足を止めた。

 職員が腕を引く。

「行くぞ」

 その瞬間、低温管理室西の扉が内側から開いた。

 白い冷気が廊下へ流れ出した。

 中から、防寒用の白いガウンを着た職員が一人出てくる。手には透明なケースを持っている。ケースの中には、採血管のようなものが並んでいた。赤い液体。ラベルには番号が貼られている。

 七〇二。

 蓮はそれを見た。

 見てしまった。

「莉子!」

 声が出た。

 考えるより先だった。

 職員たちが蓮を押さえる。

 黒瀬が振り返る。

 低温管理室西の扉が閉まりかけている。

 隙間から、中が見えた。

 白いベッド。

 透明な保温シート。

 細い腕。

 黒い髪。

 莉子だった。

 蓮は暴れた。

 拘束具が手首に食い込む。肩を押さえられ、膝を蹴られる。床に倒れそうになりながらも、彼は扉へ向かおうとした。

「莉子!」

 今度は叫んだ。

 扉の向こうで、莉子の顔がわずかに動いたように見えた。

 見間違いかもしれない。

 それでも、蓮には確かに見えた。

 彼女は生きている。

 扉が閉まる。

 冷気が途切れる。

 蓮は職員二人に床へ押さえつけられた。

 黒瀬の声が上から降ってくる。

「感情的な刺激は、対象の状態に影響します。近づけないでください」

「妹を対象と呼ぶな!」

「では、協力してください」

 黒瀬はしゃがみ、蓮の目線に合わせた。

「記録媒体の送信先を話すなら、七〇二番との面会時間を設けてもいい」

 蓮は荒い息をしながら、黒瀬を睨んだ。

「嘘だ」

「嘘をつく必要はありません」

「あなたは、嘘を嘘だと思ってないだけだ」

 黒瀬は表情を変えなかった。

「尋問室へ」

 蓮は引きずられるようにして、低温管理室西から離された。

 莉子の姿はもう見えない。

 だが、見た。

 生きている。

 それだけで、蓮の中で何かが変わった。

 可能性ではない。

 記録上の生存でもない。

 自分の目で見た。

 莉子は生きている。

 尋問室は、記録室の隣にあった。

 狭い部屋だった。テーブルと椅子が一つずつ。壁にはカメラ。天井にマイク。窓はない。室温は低く、手首の痛みが鋭くなった。

 蓮は椅子に座らされ、拘束具をテーブルの金具につながれた。

 職員二人は扉の近くに立つ。黒瀬は向かいに座った。

「もう一度聞きます」

 黒瀬は言った。

「記録媒体から何を、どこへ送信しましたか」

 蓮は答えなかった。

「送信先は保守診断サーバですか。それとも緊急保守通知ですか」

 蓮は黙ったまま、黒瀬を見ていた。

 実際の送信先は、蓮にもわからない。保守診断サーバが応答せず、緊急保守通知に添付された。どこへ届いたのか、誰が見るのか、いつ開かれるのか。何もわからない。

 だが、それを黒瀬に悟らせるわけにはいかなかった。

「黙秘に意味はありません」

「なら聞くな」

「意味があるから聞いています」

「どっちだ」

 黒瀬は小さく息を吐いた。

「あなたは、妹を救いたいのでしょう」

「そうだ」

「なら、施設を混乱させるべきではない。混乱すれば、七〇二番の処置は不安定になります。設備も人員も限られている。あなたの行動が、彼女の命を縮める可能性がある」

「脅してるのか」

「事実です」

「あなたたちが莉子を地下に入れた」

「彼女の状態を管理するためです」

「血を抜いて、低温室に入れて、追加採取するためだろ」

「反応解析は、今後の治療に必要です」

「誰の治療だ」

 蓮は前のめりになった。

「莉子の治療か。母の治療か。これから同じ反応が出る誰かの治療か。それとも、あなたたちが責任逃れするための治療か」

 黒瀬の目が少しだけ細くなった。

「責任逃れという言葉が好きですね」

「責任を取ってない人間には痛い言葉だからな」

「私は責任を取っています」

「どこが」

「施設を維持している」

「それは責任じゃない。隠蔽だ」

 黒瀬は黙った。

 その沈黙は、怒りではなかった。

 検討しているような沈黙だった。蓮の言葉を道徳としてではなく、管理上のリスクとして測っている。

 扉がノックされた。

 職員が入ってくる。

「管理官。処置室三の真鍋医師についてですが」

「拘束は」

「完了しています。ただ、医師権限で一部ログがロックされています」

「解除班を」

「手配済みです」

 真鍋は拘束された。

 蓮は表情を動かさないようにした。

 真鍋が何を考えているのかは、最後までわからなかった。罪悪感なのか、記録を残す執念なのか、医師としてのわずかな抵抗なのか。だが、彼は記録媒体を蓮に投げた。蓮を逃がした。少なくとも、黒瀬側の人間ではなかった。

 黒瀬は立ち上がった。

「しばらく考える時間をあげましょう」

「莉子に会わせろ」

「あなたの協力次第です」

「今会わせろ」

「交渉の条件を理解してください」

 黒瀬は扉へ向かった。

 蓮は言った。

「送信は完了した」

 黒瀬が足を止めた。

「送信先は?」

「あなたたちが止められない場所だ」

 嘘だった。

 だが、黒瀬の背中にわずかな硬直が走った。

「そうですか」

 黒瀬は振り返らずに言った。

「では、こちらも急がなければなりませんね」

 扉が閉まった。

 蓮は一人になった。

 いや、カメラがある。マイクもある。正確には一人ではない。監視され、記録され、分類されている。

 彼は拘束具を見た。

 テーブルの金具につながれている。手首の拘束は外れない。椅子は床に固定されている。立ち上がることはできない。部屋には何もない。

 詰み。

 何度目かの言葉が頭に浮かぶ。

 しかし、さっきと違うものが一つある。

 莉子を見た。

 生きていた。

 蓮は目を閉じた。

 莉子の顔は白かった。頬に血の気がなく、唇も乾いていた。腕は細く、何本ものチューブがつながれていたように見えた。だが、顔が動いた。声に反応した。

 生きている。

 今、この地下のどこかで。

 黒瀬は送信先を気にしている。

 記録は外へ出た可能性がある。

 真鍋は拘束されたが、ログをロックしている。

 三枝にはB2の情報が伝わった。

 透も知っている。

 隔離区域の人々は騒ぎ始めている。

 まだ、終わっていない。

 蓮は、呼吸を整えた。

 尋問室の外から、遠く機械音が聞こえる。冷却ユニットの唸り。台車の車輪。誰かの足音。地下は地上より音が響く。廊下の動きが、壁越しに伝わってくる。

 しばらくして、尋問室の隣から声が聞こえた。

 職員の声だ。

「追加採取、予定早めるって」

「七〇二?」

「そう。外部送信の件で管理官が急げって」

「状態持つのか?」

「真鍋先生いないし、判断できる医師が――」

「命令だろ」

 蓮の全身が凍った。

 追加採取が早まる。

 自分の嘘が、黒瀬を急がせた。

 蓮は拘束具を引いた。

 痛み。

 外れない。

 もう一度引く。

 皮膚が擦れる。

 外れない。

 莉子が危ない。

 今すぐ出なければならない。

 だが、どうやって。

 蓮は部屋を見回した。

 壁。カメラ。マイク。テーブル。椅子。金具。拘束具。

 何もない。

 いや。

 テーブルの端に、固定用のネジがある。金具はテーブルに直接溶接されているわけではない。プレートで固定されている。ネジは特殊形状ではなく、六角穴。

 工具はない。

 だが、拘束具の樹脂部分に金属の小さな突起がある。締め付け調整用の部品かもしれない。

 蓮は手首をひねり、突起をネジ穴に当てようとした。

 角度が悪い。

 届かない。

 手首が痛む。

 再び試す。

 カメラが見ている。

 職員がすぐ来るかもしれない。

 それでもやるしかない。

 突起がネジ穴に入った。

 ゆっくり回す。

 動かない。

 もう一度。

 爪が割れる。

 血がにじむ。

 ネジが、ほんのわずかに動いた。

 その時、扉の外で電子音が鳴った。

 蓮は動きを止めた。

 誰かが来る。

 扉が開いた。

 入ってきたのは、職員ではなかった。

 防寒ガウンを着た小柄な人影。

 マスクとフードで顔は見えない。

 手には小さな医療トレーを持っている。

 蓮は身構えた。

 その人物は扉を閉めると、すぐにマスクを下げた。

 莉子だった。

 蓮は声を失った。

 彼女は青白い顔で、壁に手をついて立っていた。足元は裸足に近い薄い保温ソックス。左腕には点滴の跡。右手に小さな端末のようなものを握っている。

「お兄ちゃん」

 声はかすれていた。

「莉子」

「大きい声、出さないで」

 蓮は拘束具を引いた。

「何でここに」

「真鍋先生が」

 莉子は息を整えながら近づいてきた。

「さっき、低温室に来た看護助手さん。たぶん、先生の味方。ロックを少しだけ外してくれた。私にこれを渡して、お兄ちゃんに渡せって」

 莉子は右手の小さな端末を見せた。

 記録媒体だった。

 蓮が送信に使ったものとは違う。もっと小さい。薄い。白い樹脂ケースに入っている。

「何が入ってる」

「わからない。でも、先生が言ってた」

 莉子は息を吸った。

「本物は、こっちだって」

 蓮は理解した。

 真鍋は、蓮に渡した記録媒体とは別に、もう一つ用意していた。

 あるいは、蓮に渡したものは一部で、本命を莉子に託した。

 だから黒瀬は送信先を気にしていた。

 だが、本当に外へ出すべき記録は、まだ地下に残っていた。

 莉子の手の中に。

「莉子、こっちへ」

 蓮は拘束具を見せた。

「これを外せるか」

「わかんない」

 莉子は震える手で拘束具を触った。

 指が冷たい。

 蓮はその手を見て、胸が潰れそうになった。

「寒いのか」

「うん。でも、平気」

「平気って言うな」

 莉子は少しだけ笑った。

「怒ると思った」

「当たり前だ」

「ごめん」

「謝るな」

 いつものやりとり。

 だが、場所が違いすぎた。

 地下二階。尋問室。拘束具。監視カメラ。追加採取直前。

 それでも、莉子は確かに目の前にいる。

 蓮は、自分の中で張り詰めていたものが一瞬緩みかけるのを感じた。

 駄目だ。

 今、泣く時間はない。

「莉子、カメラ」

「大丈夫。たぶん三分だけ止まってる」

「三分?」

「真鍋先生が言ってた。地下の監視も、処置準備中は一部ローカルに切り替わるって。看護助手さんが、そのタイミングで私を出してくれた」

 三分。

 また三分。

 蓮は笑いそうになった。

 この施設では、三分だけ人間に戻ることが許されるのかもしれない。

 莉子は拘束具の解除ボタンを探した。

「鍵がないと無理かも」

「無理ならいい。記録媒体を俺の服の中に」

「でも」

「早く」

 莉子はうなずき、蓮の患者服の内側に記録媒体を押し込んだ。

「お兄ちゃん、これを外に出して」

「一緒に出る」

「歩けない」

「背負う」

「無理だよ」

「無理かどうかは俺が決める」

 莉子は首を横に振った。

「お兄ちゃん、聞いて」

「聞かない」

「聞いて」

 その声が、思ったより強かった。

 蓮は黙った。

 莉子はテーブルに手をつき、身体を支えた。立っているだけで精一杯なのだろう。唇が青い。呼吸も浅い。だが、目はまっすぐだった。

「低温室に、他にも人がいる」

「他にも?」

「うん。生きてる人と、たぶんもう死んでる人。番号だけの人もいる。六一八のおじいさんもいた。まだ動いてた」

 蓮は息を呑んだ。

「みんなを置いていけない」

「莉子」

「私だけ助かっても、ここが残ったらまた誰かが連れてこられる。お母さんと同じになる」

 蓮は言葉を失った。

 莉子は震える手で、兄の袖を掴んだ。

「だから、これを外に出して。私も出たい。でも、まずこれを出して」

「俺はお前を助けに来た」

「知ってる」

「なのに」

「だからお願いしてる」

 莉子の目に涙が浮かんだ。

 それでも、こぼれなかった。

「お兄ちゃんが私だけを見たら、たぶん二人とも死ぬ。私、それは嫌」

 蓮は目を閉じた。

 三枝も言った。

 真鍋も言った。

 そして今、莉子が同じことを言っている。

 助ける回数を一回で終わらせるな。

 記録を外に出せ。

 生きて探せ。

 蓮は、奥歯を噛んだ。

「必ず戻る」

「うん」

「絶対に、置いていかない」

「うん」

「約束だ」

「卵焼き味じゃないやつも」

 莉子は、弱々しく笑った。

 蓮の喉が詰まる。

 扉の外で足音がした。

 莉子の顔が強張る。

「戻らなきゃ」

「莉子」

「大丈夫って言わない」

 彼女はそう言って、少しだけ首を傾げた。

「待ってる」

 蓮は、拘束具につながれたまま、妹を抱きしめることすらできなかった。

 莉子は扉へ向かった。

 足取りは危うい。今にも倒れそうだった。それでも彼女は振り返らなかった。振り返れば、蓮が止めるとわかっていたのかもしれない。

 扉が細く開く。

 外の冷気が入る。

 莉子は出ていった。

 扉が閉まる。

 蓮は一人に戻った。

 服の内側に、記録媒体の硬い感触がある。

 本物は、こっち。

 真鍋の言葉。

 莉子の頼み。

 B2の低温室にいる人々。

 母の記録。

 赤い線の処分記録。

 すべてが、今、蓮の胸元にある。

 廊下の向こうで、誰かが叫んだ。

「七〇二が低温室に戻っていない!」

 警報音が鳴る。

 蓮は拘束具を見下ろした。

 ネジは、少し緩んでいる。

 彼は再び手首の突起をネジ穴に当てた。

 痛みはあった。

 時間はなかった。

 だが、今度は迷いもなかった。

 莉子は待っている。

 記録を外に出す。

 それから、戻る。

 蓮は歯を食いしばり、ネジを回した。



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