第八章 B2保管庫
拘束具は、思っていたよりも冷たかった。
金属ではなく、硬質樹脂のような材質だった。手首を包む部分だけが内側で締まり、動くたびに骨に食い込む。暴れればさらに締まる仕組みなのだろう。蓮はそれを二度試し、三度目はやめた。
痛みは役に立たない。
痛みで正気を保つことはできる。だが、痛みで拘束具は外れない。
職員二人に両腕を取られ、蓮は白い廊下を歩かされていた。歩いているというより、引きずられているに近かった。背中に受けた警棒の痛みが、呼吸のたびに響く。口の中には血の味が残っていた。舌で歯を確かめる。折れてはいない。頬の内側が切れているだけだ。
その程度で済んだと思うべきなのかもしれない。
処分対象。
その言葉が放送で流れた瞬間、蓮は撃たれてもおかしくなかった。赤い線を越え、管理区域に侵入し、記録媒体を外部へ送信しようとした。施設の規則に照らせば、彼はすでに人間ではなく、排除すべき異物だった。
それでも、生かされている。
理由は一つしかない。
何を送ったのか。
どこへ送ったのか。
誰に伝えたのか。
それを聞き出すまでは、処分できないのだ。
職員の一人が、蓮の腕を強く引いた。
「歩け」
「歩いてる」
「余計な口を利くな」
職員の声には苛立ちが混じっていた。恐怖もある。蓮はそれに気づいた。
彼らは、蓮を恐れている。
拘束された灰色の患者服の男。武器もなく、権限もなく、管理区域を逃げ回っただけの男。それでも彼らは蓮を警戒している。なぜなら、彼は赤い線を越えたからだ。撃たれるはずの線を越え、三分間の穴を抜け、記録を見た。
赤い線の外側の人間にとっても、それは想定外だった。
想定していない場所には、油断がある。
三枝の声が頭をよぎった。
油断はもう薄れている。施設は蓮を捕まえ、警戒を強めた。だが、想定外が一度起きたという事実は消えない。隔離区域側にも伝わった。職員側にも伝わった。
赤い線は絶対ではない。
その小さな亀裂は、まだ残っている。
廊下の先に、黒い扉が見えた。
それまでの白い扉とは違い、その扉だけが艶のない黒で塗られていた。横には認証パネルが二つある。カードリーダーと、掌を置くための生体認証パネル。上部には赤い文字で表示が出ている。
地下管理区域連絡路。
B2。
蓮は足を止めた。
職員が腕を引く。
「止まるな」
蓮は扉を見つめたまま動かなかった。
B2。
莉子がいる場所。
西側低温室。
鎮静下。
追加採取予定。
黒瀬管理官の承認待ち。
職員が蓮の背中を押した。
「歩けと言っている」
蓮は、わざと少しよろめいた。
足元が崩れたふりをする。職員が舌打ちし、腕を支え直す。その一瞬で、蓮は周囲を見た。
扉の左に監視カメラ。右に非常用電話。床には黄色のライン。天井にはスプリンクラーと、半球型の監視装置。タレットはない。地下連絡路に入る者は、最初から管理された人間だけなのだろう。
ここに入るには認証が必要。
だが今、蓮は拘束されたまま、その扉の前に連れてこられている。
つまり、彼らは蓮を地下へ運ぶつもりだ。
それが尋問のためなのか、処置のためなのか、処分のためなのかはわからない。
ただ、目的地がB2に近いことだけは確かだった。
扉の前に、黒瀬修司が立っていた。
初めて見る顔だった。
背は高くも低くもない。五十代前半くらい。髪はきれいに整えられ、白髪が少し混じっている。防護服ではなく、濃紺の管理官服を着ていた。胸には施設管理局の徽章。顔にはマスクをしていない。
蓮は、そのことに奇妙な衝撃を受けた。
こちら側の人間は、マスクを外せる。
呼吸を隠さずにいられる。
黒瀬の目は、放送の声と同じだった。冷たくはない。むしろ穏やかに見える。だからこそ不快だった。彼の穏やかさは、相手を人間として見ていないことから来る穏やかさだった。
「佐伯蓮さん」
黒瀬は言った。
番号ではなく、名前で呼んだ。
それだけで、蓮は身構えた。
「ずいぶん騒ぎを大きくしましたね」
「莉子はどこだ」
黒瀬はわずかに首を傾げた。
「まず自分の立場を理解するべきです」
「理解してる。俺は処分対象なんだろ」
「規定上は」
「なら撃てばいい」
「そうしない理由も理解しているはずです」
黒瀬は蓮の手首を見た。
「記録媒体から、何を送信しましたか」
「あなたが一番よく知ってるんじゃないのか」
「送信先が問題です」
「俺も知りたい」
黒瀬は表情を変えなかった。
職員の一人が蓮の腕をねじった。拘束具が手首に食い込む。蓮は歯を食いしばった。
「乱暴は不要です」
黒瀬が静かに言った。
職員が手を緩める。
穏やかな命令だった。
蓮は、その様子を見て理解した。
ここでは、黒瀬の声が規則なのだ。
大声を出す必要がない。怒鳴る必要がない。彼が言えば、職員は動く。扉は開き、記録は書き換えられ、人は処置室へ運ばれる。
「送信内容は、こちらで復元できます」
黒瀬は言った。
「しかし、外部のどこへ届いたかは確認に時間がかかります。あなたが協力すれば、その時間を短縮できます」
「協力したら莉子を返すのか」
「七〇二番の処置は、あなたの協力とは別の問題です」
「なら話すことはない」
「七〇二番は、貴重な反応対象です」
その言葉を聞いた瞬間、蓮は黒瀬に飛びかかろうとした。
職員二人が即座に押さえ込む。
拘束具がさらに締まる。
肩に痛みが走る。
黒瀬は一歩も下がらなかった。
「感情的な反応は理解します」
「理解するな」
「しかし、理解と許容は違います」
黒瀬は続けた。
「あなたの母、佐伯美和さんの記録は不完全でした。当時はまだ、こちらにも十分な知見がなかった。七〇二番は、その不完全さを補う可能性を持っています」
「母を殺して、妹で続きを取るのか」
「その表現は正確ではありません」
「何が違う」
「佐伯美和さんは、感染症そのものと薬剤反応の複合的な影響で死亡しました」
「記録には薬剤性多臓器障害疑いとあった」
黒瀬の目が、ほんのわずかに動いた。
蓮はそれを見た。
「見たのか、と言いたい顔だな」
「真鍋先生の関与は明白ですね」
「あなたたちが隠していたからだ」
「隠していたのではありません。管理していたのです」
「言い換えれば許されると思っているのか」
「許しの問題ではありません」
黒瀬の声には揺れがなかった。
「感染症の初期対応では、判断の遅れが多数の死につながります。投薬も隔離も、当時は必要でした。その後、薬剤反応に問題があるとわかった。しかし施設内には、すでに反応群が存在していた。外へ出せば、社会は誰かを責めるでしょう。薬剤を承認した者。投与した者。隔離を続けた者。記録した者。あらゆる責任が爆発的に拡散する」
「だから閉じ込めた?」
「責任の爆発は、新たな混乱を生みます」
蓮は黒瀬を見つめた。
この男は、本気でそう思っている。
自分が守っているのは社会だと信じている。
母も莉子も坂井も、彼にとっては社会の混乱を防ぐために管理されるべき変数なのだ。
「外の人間は、もう普通に暮らしている」
蓮は言った。
「ニュースを見た。電車も動いてる。学校も再開してる。莉子は高校に戻れたはずだ」
「戻ったとして、どうなりますか」
「何?」
「彼女は反応群です。通常の生活の中で症状が出れば、周囲は彼女をどう扱うでしょう。あなたの母の死因が薬剤反応だったと公表されれば、遺族は何を求めるでしょう。報道はどう扱うでしょう。社会は誰を断罪するでしょう」
「断罪されるべき人間がいるなら、されればいい」
「そう単純ではありません」
「単純だ」
蓮は言った。
「人を閉じ込めて、実験して、死因を書き換えた。単純に悪い」
黒瀬は、初めてほんの少しだけ眉を動かした。
「若いですね」
「人を番号で呼ぶよりましだ」
沈黙が落ちた。
黒瀬は蓮から視線を外し、扉の認証パネルへ向かった。
「B2へ移送します」
職員が緊張したように姿勢を正す。
蓮は黒瀬を見た。
「俺を地下へ?」
「あなたには、記録媒体の送信先について話してもらいます。地上階では隔離区域への影響が大きすぎる」
「地下なら声が届かない」
「その通りです」
黒瀬はカードをかざし、掌を認証パネルに置いた。
青いランプが点る。
重い扉が開いた。
冷たい空気が流れてきた。
地上階の空気より、明らかに温度が低い。消毒液の匂いに、金属と冷却装置の匂いが混じっている。病院の手術室とも違う。もっと無機質で、倉庫に近い。
蓮は職員に押され、扉の向こうへ入った。
地下連絡路は、長いスロープになっていた。
壁はコンクリート。天井の照明は間隔が広く、足元に細長い影ができる。空調音が強い。遠くで機械が連続して唸っている。スロープの途中には監視カメラがあり、赤いランプが点いていた。
蓮は歩きながら、位置を覚えようとした。
黒い扉からスロープ。右壁に配管。途中に保守パネル二つ。二つ目の横に非常灯。下りきった先に、さらに扉。
B2。
扉の表示。
蓮の鼓動が速くなる。
ここに莉子がいる。
近い。
そう思った瞬間、職員の腕の力が強くなった。蓮の気配の変化に気づいたのだろう。
「余計なことを考えるな」
職員が言った。
「考えるなと言われて考えない人間がいるのか」
「黙れ」
黒瀬は振り返らずに言った。
「話させて構いません。地下では記録されます」
蓮はその背中を見た。
ここでの発言も、すべて記録される。
なら、何を言うべきか。
いや、まだ早い。
B2の扉が開いた。
その先にあったのは、医療施設ではなかった。
最初に目に入ったのは、巨大な冷却ユニットだった。壁一面に銀色の配管が走り、天井から太いダクトが何本も伸びている。床には排水溝があり、ところどころに水が薄く溜まっていた。照明は白く、地上階よりもさらに冷たい。
廊下の左右に扉が並んでいる。
検体保管室。
記録室。
低温管理室東。
低温管理室西。
焼却準備室。
遺体安置室。
蓮は、その文字を一つずつ見た。
焼却準備室。
遺体安置室。
保管庫という言葉の意味が、身体の中に沈んでいく。
ここは、人を治す場所ではない。
残すものと消すものを分ける場所だ。
黒瀬は廊下の途中で足を止めた。
「尋問室へ」
職員が蓮を右へ引いた。
蓮はその時、廊下の奥を見た。
低温管理室西。
莉子の記録にあった場所。
扉は厚く、丸い小窓がついている。小窓の内側は霜で曇り、何も見えない。扉横のパネルには、内部温度が表示されている。
十二度。
人間が長くいる温度ではない。
蓮は足を止めた。
職員が腕を引く。
「行くぞ」
その瞬間、低温管理室西の扉が内側から開いた。
白い冷気が廊下へ流れ出した。
中から、防寒用の白いガウンを着た職員が一人出てくる。手には透明なケースを持っている。ケースの中には、採血管のようなものが並んでいた。赤い液体。ラベルには番号が貼られている。
七〇二。
蓮はそれを見た。
見てしまった。
「莉子!」
声が出た。
考えるより先だった。
職員たちが蓮を押さえる。
黒瀬が振り返る。
低温管理室西の扉が閉まりかけている。
隙間から、中が見えた。
白いベッド。
透明な保温シート。
細い腕。
黒い髪。
莉子だった。
蓮は暴れた。
拘束具が手首に食い込む。肩を押さえられ、膝を蹴られる。床に倒れそうになりながらも、彼は扉へ向かおうとした。
「莉子!」
今度は叫んだ。
扉の向こうで、莉子の顔がわずかに動いたように見えた。
見間違いかもしれない。
それでも、蓮には確かに見えた。
彼女は生きている。
扉が閉まる。
冷気が途切れる。
蓮は職員二人に床へ押さえつけられた。
黒瀬の声が上から降ってくる。
「感情的な刺激は、対象の状態に影響します。近づけないでください」
「妹を対象と呼ぶな!」
「では、協力してください」
黒瀬はしゃがみ、蓮の目線に合わせた。
「記録媒体の送信先を話すなら、七〇二番との面会時間を設けてもいい」
蓮は荒い息をしながら、黒瀬を睨んだ。
「嘘だ」
「嘘をつく必要はありません」
「あなたは、嘘を嘘だと思ってないだけだ」
黒瀬は表情を変えなかった。
「尋問室へ」
蓮は引きずられるようにして、低温管理室西から離された。
莉子の姿はもう見えない。
だが、見た。
生きている。
それだけで、蓮の中で何かが変わった。
可能性ではない。
記録上の生存でもない。
自分の目で見た。
莉子は生きている。
尋問室は、記録室の隣にあった。
狭い部屋だった。テーブルと椅子が一つずつ。壁にはカメラ。天井にマイク。窓はない。室温は低く、手首の痛みが鋭くなった。
蓮は椅子に座らされ、拘束具をテーブルの金具につながれた。
職員二人は扉の近くに立つ。黒瀬は向かいに座った。
「もう一度聞きます」
黒瀬は言った。
「記録媒体から何を、どこへ送信しましたか」
蓮は答えなかった。
「送信先は保守診断サーバですか。それとも緊急保守通知ですか」
蓮は黙ったまま、黒瀬を見ていた。
実際の送信先は、蓮にもわからない。保守診断サーバが応答せず、緊急保守通知に添付された。どこへ届いたのか、誰が見るのか、いつ開かれるのか。何もわからない。
だが、それを黒瀬に悟らせるわけにはいかなかった。
「黙秘に意味はありません」
「なら聞くな」
「意味があるから聞いています」
「どっちだ」
黒瀬は小さく息を吐いた。
「あなたは、妹を救いたいのでしょう」
「そうだ」
「なら、施設を混乱させるべきではない。混乱すれば、七〇二番の処置は不安定になります。設備も人員も限られている。あなたの行動が、彼女の命を縮める可能性がある」
「脅してるのか」
「事実です」
「あなたたちが莉子を地下に入れた」
「彼女の状態を管理するためです」
「血を抜いて、低温室に入れて、追加採取するためだろ」
「反応解析は、今後の治療に必要です」
「誰の治療だ」
蓮は前のめりになった。
「莉子の治療か。母の治療か。これから同じ反応が出る誰かの治療か。それとも、あなたたちが責任逃れするための治療か」
黒瀬の目が少しだけ細くなった。
「責任逃れという言葉が好きですね」
「責任を取ってない人間には痛い言葉だからな」
「私は責任を取っています」
「どこが」
「施設を維持している」
「それは責任じゃない。隠蔽だ」
黒瀬は黙った。
その沈黙は、怒りではなかった。
検討しているような沈黙だった。蓮の言葉を道徳としてではなく、管理上のリスクとして測っている。
扉がノックされた。
職員が入ってくる。
「管理官。処置室三の真鍋医師についてですが」
「拘束は」
「完了しています。ただ、医師権限で一部ログがロックされています」
「解除班を」
「手配済みです」
真鍋は拘束された。
蓮は表情を動かさないようにした。
真鍋が何を考えているのかは、最後までわからなかった。罪悪感なのか、記録を残す執念なのか、医師としてのわずかな抵抗なのか。だが、彼は記録媒体を蓮に投げた。蓮を逃がした。少なくとも、黒瀬側の人間ではなかった。
黒瀬は立ち上がった。
「しばらく考える時間をあげましょう」
「莉子に会わせろ」
「あなたの協力次第です」
「今会わせろ」
「交渉の条件を理解してください」
黒瀬は扉へ向かった。
蓮は言った。
「送信は完了した」
黒瀬が足を止めた。
「送信先は?」
「あなたたちが止められない場所だ」
嘘だった。
だが、黒瀬の背中にわずかな硬直が走った。
「そうですか」
黒瀬は振り返らずに言った。
「では、こちらも急がなければなりませんね」
扉が閉まった。
蓮は一人になった。
いや、カメラがある。マイクもある。正確には一人ではない。監視され、記録され、分類されている。
彼は拘束具を見た。
テーブルの金具につながれている。手首の拘束は外れない。椅子は床に固定されている。立ち上がることはできない。部屋には何もない。
詰み。
何度目かの言葉が頭に浮かぶ。
しかし、さっきと違うものが一つある。
莉子を見た。
生きていた。
蓮は目を閉じた。
莉子の顔は白かった。頬に血の気がなく、唇も乾いていた。腕は細く、何本ものチューブがつながれていたように見えた。だが、顔が動いた。声に反応した。
生きている。
今、この地下のどこかで。
黒瀬は送信先を気にしている。
記録は外へ出た可能性がある。
真鍋は拘束されたが、ログをロックしている。
三枝にはB2の情報が伝わった。
透も知っている。
隔離区域の人々は騒ぎ始めている。
まだ、終わっていない。
蓮は、呼吸を整えた。
尋問室の外から、遠く機械音が聞こえる。冷却ユニットの唸り。台車の車輪。誰かの足音。地下は地上より音が響く。廊下の動きが、壁越しに伝わってくる。
しばらくして、尋問室の隣から声が聞こえた。
職員の声だ。
「追加採取、予定早めるって」
「七〇二?」
「そう。外部送信の件で管理官が急げって」
「状態持つのか?」
「真鍋先生いないし、判断できる医師が――」
「命令だろ」
蓮の全身が凍った。
追加採取が早まる。
自分の嘘が、黒瀬を急がせた。
蓮は拘束具を引いた。
痛み。
外れない。
もう一度引く。
皮膚が擦れる。
外れない。
莉子が危ない。
今すぐ出なければならない。
だが、どうやって。
蓮は部屋を見回した。
壁。カメラ。マイク。テーブル。椅子。金具。拘束具。
何もない。
いや。
テーブルの端に、固定用のネジがある。金具はテーブルに直接溶接されているわけではない。プレートで固定されている。ネジは特殊形状ではなく、六角穴。
工具はない。
だが、拘束具の樹脂部分に金属の小さな突起がある。締め付け調整用の部品かもしれない。
蓮は手首をひねり、突起をネジ穴に当てようとした。
角度が悪い。
届かない。
手首が痛む。
再び試す。
カメラが見ている。
職員がすぐ来るかもしれない。
それでもやるしかない。
突起がネジ穴に入った。
ゆっくり回す。
動かない。
もう一度。
爪が割れる。
血がにじむ。
ネジが、ほんのわずかに動いた。
その時、扉の外で電子音が鳴った。
蓮は動きを止めた。
誰かが来る。
扉が開いた。
入ってきたのは、職員ではなかった。
防寒ガウンを着た小柄な人影。
マスクとフードで顔は見えない。
手には小さな医療トレーを持っている。
蓮は身構えた。
その人物は扉を閉めると、すぐにマスクを下げた。
莉子だった。
蓮は声を失った。
彼女は青白い顔で、壁に手をついて立っていた。足元は裸足に近い薄い保温ソックス。左腕には点滴の跡。右手に小さな端末のようなものを握っている。
「お兄ちゃん」
声はかすれていた。
「莉子」
「大きい声、出さないで」
蓮は拘束具を引いた。
「何でここに」
「真鍋先生が」
莉子は息を整えながら近づいてきた。
「さっき、低温室に来た看護助手さん。たぶん、先生の味方。ロックを少しだけ外してくれた。私にこれを渡して、お兄ちゃんに渡せって」
莉子は右手の小さな端末を見せた。
記録媒体だった。
蓮が送信に使ったものとは違う。もっと小さい。薄い。白い樹脂ケースに入っている。
「何が入ってる」
「わからない。でも、先生が言ってた」
莉子は息を吸った。
「本物は、こっちだって」
蓮は理解した。
真鍋は、蓮に渡した記録媒体とは別に、もう一つ用意していた。
あるいは、蓮に渡したものは一部で、本命を莉子に託した。
だから黒瀬は送信先を気にしていた。
だが、本当に外へ出すべき記録は、まだ地下に残っていた。
莉子の手の中に。
「莉子、こっちへ」
蓮は拘束具を見せた。
「これを外せるか」
「わかんない」
莉子は震える手で拘束具を触った。
指が冷たい。
蓮はその手を見て、胸が潰れそうになった。
「寒いのか」
「うん。でも、平気」
「平気って言うな」
莉子は少しだけ笑った。
「怒ると思った」
「当たり前だ」
「ごめん」
「謝るな」
いつものやりとり。
だが、場所が違いすぎた。
地下二階。尋問室。拘束具。監視カメラ。追加採取直前。
それでも、莉子は確かに目の前にいる。
蓮は、自分の中で張り詰めていたものが一瞬緩みかけるのを感じた。
駄目だ。
今、泣く時間はない。
「莉子、カメラ」
「大丈夫。たぶん三分だけ止まってる」
「三分?」
「真鍋先生が言ってた。地下の監視も、処置準備中は一部ローカルに切り替わるって。看護助手さんが、そのタイミングで私を出してくれた」
三分。
また三分。
蓮は笑いそうになった。
この施設では、三分だけ人間に戻ることが許されるのかもしれない。
莉子は拘束具の解除ボタンを探した。
「鍵がないと無理かも」
「無理ならいい。記録媒体を俺の服の中に」
「でも」
「早く」
莉子はうなずき、蓮の患者服の内側に記録媒体を押し込んだ。
「お兄ちゃん、これを外に出して」
「一緒に出る」
「歩けない」
「背負う」
「無理だよ」
「無理かどうかは俺が決める」
莉子は首を横に振った。
「お兄ちゃん、聞いて」
「聞かない」
「聞いて」
その声が、思ったより強かった。
蓮は黙った。
莉子はテーブルに手をつき、身体を支えた。立っているだけで精一杯なのだろう。唇が青い。呼吸も浅い。だが、目はまっすぐだった。
「低温室に、他にも人がいる」
「他にも?」
「うん。生きてる人と、たぶんもう死んでる人。番号だけの人もいる。六一八のおじいさんもいた。まだ動いてた」
蓮は息を呑んだ。
「みんなを置いていけない」
「莉子」
「私だけ助かっても、ここが残ったらまた誰かが連れてこられる。お母さんと同じになる」
蓮は言葉を失った。
莉子は震える手で、兄の袖を掴んだ。
「だから、これを外に出して。私も出たい。でも、まずこれを出して」
「俺はお前を助けに来た」
「知ってる」
「なのに」
「だからお願いしてる」
莉子の目に涙が浮かんだ。
それでも、こぼれなかった。
「お兄ちゃんが私だけを見たら、たぶん二人とも死ぬ。私、それは嫌」
蓮は目を閉じた。
三枝も言った。
真鍋も言った。
そして今、莉子が同じことを言っている。
助ける回数を一回で終わらせるな。
記録を外に出せ。
生きて探せ。
蓮は、奥歯を噛んだ。
「必ず戻る」
「うん」
「絶対に、置いていかない」
「うん」
「約束だ」
「卵焼き味じゃないやつも」
莉子は、弱々しく笑った。
蓮の喉が詰まる。
扉の外で足音がした。
莉子の顔が強張る。
「戻らなきゃ」
「莉子」
「大丈夫って言わない」
彼女はそう言って、少しだけ首を傾げた。
「待ってる」
蓮は、拘束具につながれたまま、妹を抱きしめることすらできなかった。
莉子は扉へ向かった。
足取りは危うい。今にも倒れそうだった。それでも彼女は振り返らなかった。振り返れば、蓮が止めるとわかっていたのかもしれない。
扉が細く開く。
外の冷気が入る。
莉子は出ていった。
扉が閉まる。
蓮は一人に戻った。
服の内側に、記録媒体の硬い感触がある。
本物は、こっち。
真鍋の言葉。
莉子の頼み。
B2の低温室にいる人々。
母の記録。
赤い線の処分記録。
すべてが、今、蓮の胸元にある。
廊下の向こうで、誰かが叫んだ。
「七〇二が低温室に戻っていない!」
警報音が鳴る。
蓮は拘束具を見下ろした。
ネジは、少し緩んでいる。
彼は再び手首の突起をネジ穴に当てた。
痛みはあった。
時間はなかった。
だが、今度は迷いもなかった。
莉子は待っている。
記録を外に出す。
それから、戻る。
蓮は歯を食いしばり、ネジを回した。




