表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
赤い線の向こう側―疫病隔離施設。地面に赤い線が引かれ、越えた者は射殺される。  作者: 二条理|アコンプリス


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/11

第七章 処分対象

 処分対象という言葉は、人間に向けて使うにはあまりにも軽かった。

 蓮は走りながら、そう思った。

 廊下に響く放送は、彼の名前と番号を繰り返している。七〇一番、佐伯蓮。管理区域への不正侵入。赤い線の越境。規定違反。処分対象。

 まるで故障した備品の登録番号を読み上げているようだった。

 佐伯蓮という名前は、二十四年間、彼のものだった。母が呼び、莉子が呼び、大学の友人が呼び、駅の改札で定期を落としたときに駅員が呼んだ。何気ない生活の中で、その名前は何度も人の声を通ってきた。

 だが今、スピーカーから流れる声は、名前から人間の部分を削り取っていた。

『隔離者番号七〇一、佐伯蓮。規定により、処分対象です。職員は発見次第、拘束または処分を実施してください』

 拘束または処分。

 選択肢のように言う。

 蓮は角を曲がった。

 白い作業ガウンの裾が壁に擦れる。靴底に巻いた布はまだ外れていない。だが、右足の結び目が少し緩んでいるのがわかった。走り続ければ危ない。転倒すれば終わる。

 背後から足音が迫る。

「いたぞ!」

 男の声。

 蓮は振り返らなかった。

 真鍋から受け取った記録媒体を、右手の中に握りしめている。小さすぎて、力を入れれば割れてしまいそうだった。だが、手を開くことはできない。これが今、蓮の持っている唯一の武器だった。

 廊下の先には、二つの分岐がある。

 左は処置室方面。右は薬剤管理室と職員通路。

 B2へ行くには地下エレベーターが必要だ。黒瀬の認証が必要だと真鍋は言った。今の蓮にそこへ入る手段はない。なら、逃げながら何をするべきか。

 記録媒体を守る。

 三枝へ伝える。

 莉子の所在を忘れない。

 B2西側低温室。

 追加採取予定。

 管理官承認待ち。

 情報は、記憶の中で何度も繰り返す。恐怖で上書きされないように。足音と警報と息切れに、文字がかき消されないように。

 左へ行けば処置室。職員が多い。

 右へ行けば職員通路。逃げ場があるかもしれない。

 蓮は右へ曲がった。

 その直後、前方の扉が開いた。

 白い作業服の職員が二人、廊下に出てくる。手には端末と透明なシールド。蓮を見た瞬間、二人の目が見開かれた。

「七〇一!」

 蓮は速度を落とさなかった。

 職員の一人が腕を広げる。

 真正面からぶつかれば止められる。横を抜けるには狭い。蓮は壁際に置かれていた清掃用カートを蹴った。カートが職員の膝に当たり、中の消毒ボトルが床に落ちる。透明な液体が散った。

 職員が一瞬ひるむ。

 蓮はその脇を抜けた。

 肩がぶつかる。

 白いガウンの袖を掴まれた。

 蓮は腕を引くのではなく、逆に一歩近づいた。掴んだ職員の体勢が崩れる。そのまま身体をひねり、ガウンを脱ぐように腕を抜いた。

 白い布だけが職員の手に残る。

 灰色の患者服が露わになった。

 もう隠れる意味は薄い。

 蓮はガウンを捨て、走った。

 後ろで職員が叫ぶ。

「患者服! 灰色! 右通路へ逃走!」

 放送が変わった。

『七〇一番、右管理通路へ逃走中。職員は東側シャッターを閉鎖してください』

 シャッター。

 蓮は前方を見た。

 廊下の先で、天井から金属製の防火シャッターが降り始めている。低いモーター音。ゆっくりだが、確実に下がってくる。完全に閉まれば戻るしかない。背後には職員がいる。

 蓮はさらに速度を上げた。

 息が焼ける。

 右足の布がずれる。

 構うな。

 シャッターの隙間は、腰の高さほどまで下がっていた。

 蓮は床に滑り込んだ。

 肩と背中が硬い床をこすり、痛みが走る。シャッターの下端がすぐ上を通った。後頭部に金属の冷気を感じる。あと一秒遅れていれば、挟まれていた。

 向こう側へ抜けた瞬間、シャッターが床に触れた。

 背後の足音が遮断される。

 だが安心する暇はない。

 こちら側は、さらに奥の管理通路だった。照明が少し暗く、壁には設備系統の配管が走っている。医療区画というより、施設の裏側に近い。蓮は立ち上がり、右足を見る。布が半分ほど外れていた。

 すぐに結び直す。

 指が震える。

 結び目を作るのに、何秒かかったかわからない。廊下の向こうから別の警報音が聞こえる。シャッターの反対側で職員たちが何か叫んでいる。

 蓮は深く息を吸った。

 考えろ。

 ここがどこか。

 管理通路。設備配管。人通りは少ない。だが、袋小路かもしれない。先に進むしかない。

 廊下の壁に、案内表示があった。

 中央機械室。

 物資搬入口。

 非常階段B。

 非常階段。

 蓮はその文字に目を留めた。

 階段なら地下へ通じている可能性がある。B2へ行けるかもしれない。だが、非常階段はロックされているかもしれない。警報も鳴るだろう。

 それでも、進む価値はある。

 蓮は非常階段Bの矢印に従った。

 廊下はさらに狭くなった。床の白さが消え、灰色のコンクリートがむき出しになっている。空調の音が強い。壁際には古い段ボール箱が積まれていた。使われていない区画なのかもしれない。

 角を曲がると、階段扉が見えた。

 銀色の扉。

 横に認証パネル。

 蓮は嫌な予感を覚えながら近づいた。

 扉を押す。

 開かない。

 認証パネルは赤く光っている。

 要管理官承認。

 やはりだ。

 蓮は拳で扉を叩きそうになり、止めた。音を立てても意味がない。

 B2へは行けない。

 今は。

 蓮は壁に背をつけ、息を整えた。

 手の中の記録媒体が汗で滑る。

 これをどうする。

 外部へ送れない。地下へも行けない。隔離区域にも戻れない。真鍋は拘束されたかもしれない。三枝は向こう側にいる。蓮は処分対象として追われている。

 完全に詰んでいる。

 そう思いかけたとき、壁の向こうから小さな音が聞こえた。

 金属が叩かれるような音。

 一定の間隔。

 こつ、こつ、こつ。

 蓮は耳を澄ました。

 音は非常階段の扉の向こうではなく、右側の壁の奥から聞こえる。壁には点検口があった。小さな四角い蓋。蓮は近づき、耳を当てる。

 こつ。

 今度ははっきり聞こえた。

 誰かが中にいる。

 蓮は点検口を開けようとした。硬い。爪が割れそうになる。廊下の床に落ちていた金属片を拾い、隙間に差し込む。力を入れる。

 蓋が外れた。

 暗い空間が現れる。

 配管の奥に、細いダクトのような通路があった。人が通るには狭すぎる。だが、声なら届く。

「誰だ」

 蓮は低く言った。

 しばらく沈黙。

 それから、小さな声。

「蓮兄?」

 透の声だった。

 蓮は息を呑んだ。

「透?」

「蓮兄なの?」

「どうしてここに」

「違う。こっち、洗濯室の裏」

 蓮は理解しようとした。

 点検口の向こうは、隔離区域側の配管スペースにつながっているのか。

「三枝さんは?」

「いる。待って」

 遠くで、透が誰かを呼ぶ声がした。

 数秒後、三枝菜月の声が届いた。

「佐伯さん?」

 蓮は点検口に顔を近づけた。

「三枝さん」

「生きてた」

 声の奥に、わずかな安堵が混じった。

 蓮は目を閉じそうになった。

 だが、時間はない。

「聞いてください。莉子はB2保管庫です。西側低温室。鎮静下。追加採取予定。R反応群。母も同じ分類だった」

 向こう側で、三枝の息が止まった気配がした。

「R反応群……」

「知ってるんですか」

「言葉だけは」

「感染じゃない。薬剤反応です。母は薬剤性多臓器障害疑い。死亡記録は書き換えられていた」

 言いながら、蓮は自分の声が震えているのを感じた。

 母の死を、こんなふうに配管越しに伝えることになるとは思わなかった。

 三枝はしばらく黙った。

 それから、低い声で言った。

「真鍋先生に会ったのね」

「記録媒体を受け取りました。施設の記録が入っている。七〇二、七〇〇、R反応群、赤線処分記録、内部通達」

「今、持ってる?」

「はい」

「絶対に失くさないで」

「外に出せますか」

「今すぐは無理。でも、それがあれば施設を外から壊せる」

「外から?」

「隔離区域の中にも、まだ使える端末があるかもしれない。古い搬入口の通信盤。昔、保守用に使われていたもの」

「場所は」

「物資搬入口の近く。だけど赤い線の向こう側からは――」

 三枝はそこで止まった。

 蓮は壁の案内表示を思い出した。

 物資搬入口。

 この管理通路の先にある。

「俺の近くに案内表示があります。物資搬入口」

「行ける?」

「職員次第です」

「そこは隔離区域と管理区域の境に近い。太い搬送シャッターがある。通常は閉まっているけど、配管スペースは隔離側の洗濯室裏につながってる」

 だから声が届く。

 蓮はようやく状況を理解した。

 赤い線で隔てられた二つの区域は、完全に分断されているわけではない。古い配管、点検口、搬入口。施設の継ぎ接ぎが、細い穴を残している。

 穴は小さい。

 だが、声は通る。

「三枝さん、俺はB2へ行けません。非常階段は管理官承認です」

「わかってる。今は行かないで」

「莉子は午後に追加採取される」

「焦らないで」

「焦るに決まってる」

「焦るなら、今ここで死なないで」

 三枝の声は厳しかった。

 その言葉は、何度も聞いた。

 そして、そのたびに蓮をかろうじて止めた。

 向こう側で透が泣きそうな声を出した。

「莉子姉、生きてるの?」

 蓮は言葉に詰まった。

 生きている。

 そう言いたかった。

 だが、真鍋は「可能性」と言った。

 記録には鎮静下とあった。

 それが今も続いている保証はない。

「生きてる」

 蓮は言った。

 透のためだけではない。

 自分のためでもあった。

「莉子は生きてる。だから助ける」

 透が鼻をすする音がした。

 三枝が代わって話す。

「佐伯さん。今からこっち側で動く」

「何を」

「あなたが処分対象になったことで、隔離区域は揺れてる。黒瀬は放送であなたを危険人物にするはず。みんな怖がる。でも、それだけじゃない。赤い線の向こうに行けた人間がいると知れば、線の絶対性が崩れる」

「危険です」

「危険なのは最初から」

「透を巻き込まないでください」

 向こうで透が言った。

「俺もやる」

「透」

「莉子姉、助けるんでしょ」

「子供が関わることじゃない」

「子供でも、配管の音くらい聞ける」

 蓮は返す言葉を失った。

 三枝が静かに言った。

「透くんには、走らせない。危ない場所にも行かせない。でも、子供だから見えるものもある。職員は子供を油断する」

「三枝さん」

「わかってる。無茶はさせない」

 蓮は、点検口の奥の暗闇を見つめた。

 自分は今、誰かを守る位置にはいない。

 莉子も守れなかった。透にも命令できない。三枝を止めることもできない。赤い線の手前にいた時よりも、はるかに多くのものが手からこぼれている。

 だが、それでも、つながっている。

 細い配管越しの声だけが。

「何をすればいい」

 蓮は言った。

 三枝はすぐに答えた。

「物資搬入口を目指して。こちら側で、搬入口前に人を集める。騒ぎを起こすわけじゃない。体調不良者が出たことにする。職員の注意がこちらに向けば、管理通路側の監視が薄くなる」

「そこに通信盤が?」

「あるはず。古い保守用端末。外部回線につながるかはわからない。でも、記録媒体を挿せれば何かできるかもしれない」

「試す価値はある」

「ただし、物資搬入口にはカメラが多い。赤い線の判定システムとも連動してる」

「撃たれますか」

「管理区域側にいる限り、自動タレットは赤線越境判定では撃たない。でも処分対象として認識されれば別。顔を見られないように」

「今さら顔を隠せる状況では」

「廃棄袋でも、ガウンでも、何でも使って」

 遠くで警報音がした。

 蓮は廊下を振り返った。

 足音が近づいている。

「行きます」

 三枝の声が強くなった。

「佐伯さん」

「はい」

「莉子ちゃんを助けるためにも、今は記録を守って」

「わかっています」

「わかってない顔をしてる」

 蓮は少しだけ笑いそうになった。

 こんな状況で、三枝はまだそれを言うのか。

「たぶん、全部はわかってません」

「そのくらいでいい」

 以前と同じやりとり。

 その一瞬だけ、蓮は人間に戻れた気がした。

「透」

 蓮は点検口に向かって言った。

「莉子に会ったら、伝える。透が待ってるって」

 向こうから、震えた声が返ってきた。

「うん」

「だから、お前も待ってろ」

「待つだけ?」

「三枝さんの言うことを聞いて待て」

「……うん」

 足音が近づいてくる。

 蓮は点検口の蓋を戻した。

 暗い声の通り道が閉じる。

 また一人になった。

 だが、完全な一人ではない。

 蓮は非常階段前の廊下から離れ、物資搬入口の矢印へ向かった。

 走らない。

 足音を殺す。

 追跡者は近いが、こちらの位置を正確には掴んでいない。警報は施設全体に鳴っている。職員たちは各所を探している。なら、焦って音を立てるより、静かに移動するほうがいい。

 通路の突き当たりに、搬入口が見えた。

 大きなシャッター。

 横に操作盤。

 天井にはカメラが三つ。

 床には黄色い搬送ラインが引かれている。赤い線ではない。だが、そのラインもまた、人と物を分けるための線に見えた。

 蓮は壁際に身を寄せた。

 カメラの角度を読む。

 一つはシャッター正面。もう一つは操作盤。三つ目は通路全体。死角はほとんどない。

 どうする。

 そのとき、シャッターの向こう側から騒ぎが聞こえた。

 隔離区域側だ。

「誰か倒れたぞ!」

 男の声。

 続いて、三枝の声。

「水を持ってきて! 職員を呼んで!」

 さらに透の声。

「こっち! こっちです!」

 搬入口の警告灯が点滅した。

 シャッター横のインターホンが鳴る。

 管理区域側の職員が慌てて走ってくる足音がした。

 蓮は、搬入口横の段ボールの陰に身を伏せた。

 職員が二人、反対側の通路から現れる。

「何だ」

「隔離側で急病人らしい。搬入口前に集まってる」

「またかよ」

「赤線前じゃないだけましだ。カメラ回せ」

 職員の一人が操作盤の前に立った。

 蓮は、その背中を見た。

 操作盤の下に、小さな保守用端末がある。三枝が言っていた通信盤だろうか。カバーが半分開いている。古い接続ポートが見える。

 記録媒体を挿すなら、あそこだ。

 職員は上部の大きなパネルを操作している。下の保守端末には目を向けていない。もう一人はシャッターの小窓から隔離区域側を見ている。

「倒れてるの、六八九か?」

 六八九。

 三枝の番号だ。

 蓮の心臓が跳ねた。

 まさか本当に倒れたのか。

 いや、芝居だ。

 そう信じるしかない。

「三枝菜月だな」

 職員が言った。

「元看護師のやつか」

「面倒な」

「医療班呼ぶか?」

「黒瀬管理官に確認してから」

 その会話の隙に、蓮は床を這うようにして近づいた。

 段ボールの陰から操作盤の下へ。

 職員の靴がすぐ近くにある。

 蓮は息を止めた。

 保守端末のカバーに指をかける。

 小さな金属音がした。

 職員の一人が振り返りかけた。

「今、何か」

 その瞬間、シャッターの向こうで透が大声を上げた。

「三枝さん! しっかりして!」

 職員の視線が小窓へ戻る。

 蓮はカバーを開けた。

 古い端子。

 真鍋から受け取った記録媒体は、最新式のものだ。直接は挿さらない。だが端末横に変換用の小さなスロットがある。保守用の汎用端子かもしれない。

 蓮は記録媒体を差し込んだ。

 端末の小さな画面が点いた。

 外部媒体を認識しました。

 認証が必要です。

 蓮の心臓が沈んだ。

 認証。

 ここでも。

 画面には、保守担当者IDを入力してください、と出ている。

 知るはずがない。

 蓮は端末を睨んだ。

 何か方法は。

 画面の下に、以前のログイン履歴が小さく残っている。最後の使用者。IDの一部。

 MNT-04-……

 最後の二桁が伏せられている。

 当てられるわけがない。

 職員の靴が動いた。

「医療班、呼べって」

「搬入口開ける?」

「いや、赤線側で対応しろ。こっちは開けるな」

 時間がない。

 蓮は画面を見た。

 保守端末。

 古い。

 なら、初期コードが残っている可能性がある。

 大学院時代、蓮は防災設備の研究で古い公共施設の管理システムを見たことがあった。保守業者が仮IDを使い回すことは珍しくない。MNT。maintenance。番号。

 MNT-04-00。

 入力。

 拒否。

 MNT-04-01。

 拒否。

 職員がこちらへ一歩近づく。

 蓮の首筋に汗が流れた。

 MNT-04-07。

 拒否。

 シャッターの向こうで、三枝の声がした。

「大丈夫……少し、めまいがしただけ」

 声が弱い。

 芝居だとわかっていても、蓮の胸が痛んだ。

 MNT-04-12。

 拒否。

 画面に警告が出る。

 入力失敗。残り一回。

 次で間違えればロックされる。

 蓮は息を止めた。

 MNT-04。

 保守担当。

 東棟。

 第四系統。

 負荷試験。

 三枝が言っていた。

 東棟は増築と改修を繰り返している。電源系統に癖がある。

 第四系統。

 日付。

 施設番号。

 七区画。

 MNT-04-07では拒否された。

 なら、東棟第七ではなく、保守班の番号か。

 直感でしかない。

 だが、直感以外にない。

 蓮は入力した。

 MNT-04-13。

 認証中。

 一秒。

 二秒。

 認証成功。

 蓮は思わず息を吐きかけた。

 すぐに画面が切り替わる。

 保守通信メニュー。

 内部ログ転送。

 外部診断回線。

 緊急保守通知。

 外部診断回線。

 蓮はそれを選んだ。

 接続試行中。

 画面のバーが動く。

 職員の一人がついに気づいた。

「おい」

 蓮と目が合った。

 数秒、互いに固まった。

「七〇一!」

 職員が叫ぶ。

 蓮は端末を見た。

 接続中。

 送信先、保守診断サーバ。

 外部媒体のログを送信しますか。

 はい。

 蓮は迷わず押した。

 送信開始。

 直後、職員が飛びかかってきた。

 蓮は横へ転がった。肩が床にぶつかる。端末から記録媒体が抜けそうになる。職員の手が蓮の足を掴む。蓮は蹴った。相手の肩に当たる。もう一人が警棒を抜く。

 送信、十二パーセント。

 遅い。

 遅すぎる。

 蓮は操作盤の下にしがみついた。

 職員が背中にのしかかる。

「媒体を抜け!」

 誰かが叫ぶ。

 蓮は右手で記録媒体を押さえた。

 警棒が背中に入った。

 息が止まる。

 送信、二十一パーセント。

 もう一撃。

 視界が白くなる。

 シャッターの向こうから、三枝の声が聞こえた。

「蓮!」

 名前を呼ばれた。

 隔離区域側にも、こちらの騒ぎが伝わっている。

 透の叫び声。

 他の隔離者たちのざわめき。

「佐伯さんがいるのか?」

「赤い線の向こうに?」

「処分対象って、本当なのか?」

 声が増えていく。

 職員が蓮の腕をねじり上げた。

 記録媒体から手が離れそうになる。

 送信、三十四パーセント。

 足りない。

 蓮は、最後の力で操作盤の配線を掴んだ。何の線かわからない。引きちぎるつもりだった。だがその瞬間、シャッターの向こうで大きな音がした。

 何かが床に投げつけられた音。

 続いて、警告音。

『赤線接近。赤線接近』

 職員たちの注意が一瞬それた。

「向こうで何をしてる!」

 蓮はその隙に身体をひねり、記録媒体を押し込んだ。

 送信、五十一パーセント。

 半分。

 職員が蓮の首に腕を回した。

 息ができない。

 蓮は爪で床を掻いた。

 送信、六十三パーセント。

 廊下の奥から、さらに足音。

 増援。

 もう持たない。

 そのとき、端末画面が揺れた。

 送信先変更。

 保守診断サーバ応答なし。

 緊急保守通知に添付しますか。

 何だ。

 蓮はかすむ視界で画面を見る。

 はい、のボタンが点滅している。

 彼は左手を伸ばした。

 届かない。

 職員が腕を締め上げる。

 意識が遠のく。

 シャッターの向こうで、透が叫んだ。

「蓮兄!」

 蓮は、指先だけを伸ばした。

 爪が画面に触れた。

 はい。

 送信形式変更。

 緊急保守通知送信中。

 送信完了。

 画面に、その四文字が表示された。

 次の瞬間、記録媒体が引き抜かれた。

 職員が蓮の腕を押さえつける。

「確保!」

 誰かが叫んだ。

 蓮は床に頬を押しつけられたまま、端末の画面を見ていた。

 送信完了。

 本当に外へ出たのか。

 どこへ届いたのか。

 保守診断サーバなのか。緊急通知なのか。誰が見るのか。

 何もわからない。

 だが、何かが送られた。

 ゼロではない。

 職員が蓮の手首に拘束具をかける。

 冷たい金属の感触。

 背中が痛い。息が苦しい。視界が揺れる。

 シャッターの向こうで、隔離者たちの声が大きくなっていた。

「佐伯が向こうにいる!」

「赤い線を越えたんだ!」

「撃たれてないぞ!」

「どういうことだ!」

 赤い線の絶対性が、揺らいでいる。

 三枝の狙いは、そこにもあったのだと蓮は気づいた。

 蓮が捕まる。

 その姿を、隔離区域側の人間が知る。

 赤い線を越えても、すぐには撃たれない場合があると知る。

 処分対象という放送が、逆に施設の嘘を浮かび上がらせる。

 誰かが叫んだ。

「莉子ちゃんはどこだ!」

 その声は、三枝ではなかった。

 別の隔離者だ。

 誰かが続いた。

「処置室へ行った人たちは、どうなった!」

「説明しろ!」

 声が増える。

 職員たちが慌て始める。

「シャッター閉鎖維持!」

「隔離側を下がらせろ!」

「管理官に連絡!」

 蓮は床に押さえつけられたまま、笑いそうになった。

 痛みで、うまく笑えなかった。

 だが、胸の奥で何かが動いた。

 自分一人の潜入は終わった。

 だが、火は移った。

 赤い線の手前にいる人々が、初めて線の向こう側へ声を投げている。

 職員の一人が、蓮の髪を掴んで顔を上げさせた。

「何を送った」

 蓮は答えなかった。

「何を送った!」

 再び殴られた。

 口の中に血の味が広がる。

 それでも、蓮は答えなかった。

 答える必要がなかった。

 職員たちはもう、送られたことを知っている。

 それで十分だった。

 スピーカーが鳴った。

 黒瀬の声が、施設全体に響く。

『隔離区域の皆様に警告します。現在、七〇一番佐伯蓮は重度の規定違反により拘束されています。彼は感染拡大を企て、施設機能を妨害した危険人物です。彼の言動、または虚偽情報に惑わされないでください』

 危険人物。

 虚偽情報。

 職員たちは蓮を立たせた。

 足がふらつく。

 拘束具が手首に食い込む。

 シャッターの小窓の向こうに、人影が集まっている。隔離区域側の人々だ。灰色の服。青白い顔。恐怖に強張った目。

 その中に、三枝がいた。

 彼女は職員に支えられているふりをしながら、こちらを見ていた。

 目が合った。

 ほんの一瞬。

 蓮は口を動かした。

 声は出なかった。

 B2。

 三枝は、わずかにうなずいた。

 伝わった。

 それだけでよかった。

 透の顔も見えた。

 泣いていた。

 蓮は、目だけで笑おうとした。

 うまくできたかはわからない。

 職員が蓮を引きずるように歩かせる。

 廊下の奥へ。

 物資搬入口から離れていく。

 黒瀬の放送は続いていた。

『赤い線は皆様を守るためのものです。線を越えることは、あなた自身と他者を危険に晒す行為です。規定を守り、各自の居住区へ戻ってください』

 各自の居住区へ戻れ。

 蓮はその言葉を聞きながら、血の混じった唾を飲み込んだ。

 もう戻るべき場所はない。

 だが、向こう側にはまだ人がいる。

 莉子がいる。

 三枝がいる。

 透がいる。

 そして今、隔離区域の人々が、初めて疑い始めた。

 赤い線は、本当に自分たちを守っているのか。

 それとも、何かを隠しているだけなのか。

 蓮は、拘束された手の中に何もないことを感じた。

 記録媒体は奪われた。

 だが、送信は完了した。

 B2の情報は三枝に伝えた。

 赤い線の絶対性は揺らいだ。

 捕まったことは、終わりではない。

 まだ、終わりではない。

 職員たちに引きずられながら、蓮は白い廊下の先を見た。

 処置室方面。

 そのさらに奥に、地下へ続く扉がある。

 莉子のいる場所へ。

 彼は痛む口元をわずかに動かした。

「待ってろ」

 声にはならなかった。

 だが、自分には聞こえた。

 そして、それで十分だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ