第六章 処置室の記録
午前九時を過ぎても、真鍋は戻ってこなかった。
仮眠室には時計がなかった。蓮は時間を、休憩室から聞こえる音で測るしかなかった。職員の足音、電子レンジの起動音、紙コップが置かれる音、短い会話。誰かが「九時交代」と言ったのを聞いた。そのあと、別の声が「監視端末、引き継ぎ終わり」と答えた。
真鍋は、午前九時前に戻ると言っていた。
だが扉は開かない。
蓮はベッドの端に座り、作業ガウンの内側にしまった紙を指で押さえていた。
七〇二詳細。
七〇〇過去。
B2ログ。
たった三つの言葉なのに、重かった。
莉子の今を示す記録。母の死を示す記録。地下へ続く出入りの記録。どれか一つでも見つければ、状況は動く。逆に言えば、それがなければ蓮は何もできない。
ここまで来た。
赤い線を越えた。
管理区域に侵入した。
外のニュースを見た。
莉子がB2保管庫へ移送されたことを知った。
それでも、肝心なところにはまだ触れていない。
施設の中心には、いつも扉がある。
赤い線。処置ゲート。観察室。処置室。地下。どこへ行っても、次の扉が立ちはだかる。蓮たちは二年以上、扉の手前で止められてきた。
今度は、止まるわけにはいかなかった。
休憩室で、椅子が引かれる音がした。
「黒瀬管理官、今日こっち来るって?」
「午前中に巡回。東棟第七のログ確認だと」
「昨日の再判定絡み?」
「それもあるんじゃないか。ゲートの開閉履歴、変だったらしいし」
「まさか越境?」
「知らん。そうなら警報鳴ってるだろ」
「負荷試験中なら鳴らないこともあるって聞いたけど」
「余計なこと言うなよ」
会話がそこで切れた。
蓮は息を殺した。
ゲートの開閉履歴。
東棟第七のログ確認。
黒瀬管理官。
見つかるまでの猶予は、思っていたより短い。
蓮は立ち上がった。
仮眠室の中を見回す。隠れられる場所はない。ベッドの下は低すぎる。ロッカーはない。換気扇は人が通れる大きさではない。扉の向こうは休憩室。職員がいる。
ここにいれば安全だと真鍋は言った。
だが、その安全は午前九時までのものだったのではないか。
蓮は扉に耳を近づけた。
休憩室には少なくとも二人いる。声の距離からして、テーブルのあたりだ。扉から出ればすぐに見つかる。
そのとき、仮眠室の奥の壁から、小さな音がした。
こつ、こつ。
蓮は振り向いた。
壁だと思っていた場所に、細い隙間がある。古い点検パネルだった。白く塗られているため、遠目には壁と同化している。隙間の向こうで、もう一度音がした。
こつ。
蓮は近づき、パネルを押した。
開かない。
今度は横にずらす。
わずかに動いた。
隙間から、真鍋の目が見えた。
「声を出すな」
真鍋は囁いた。
「こっちへ来い」
蓮は点検パネルをさらにずらした。
人ひとりが通れるほどの開口部が現れる。中は細い保守通路だった。配管とケーブルがむき出しになっている。床は金属製のグレーチングで、踏むと音が響きそうだった。
蓮は身をかがめて中へ入った。
真鍋がパネルを戻す。
保守通路の中は薄暗かった。非常用の小さなランプが、数メートルおきに点いている。空気は温かく、埃っぽい。壁の向こうから休憩室の声がぼんやり聞こえた。
「遅い」
蓮は低く言った。
「黒瀬が予定を早めた」
「来るのか」
「もう来ている」
真鍋は先に進みながら言った。
「東棟第七区画の処置ゲート開閉履歴を確認している。職員はまだ越境者がいるとは断定していないが、時間の問題だ」
「俺を逃がすのか」
「逃がす先がない」
「では」
「監視端末室へ行く」
蓮は足を止めかけた。
「今?」
「今しかない。黒瀬がログ確認に来たせいで、端末室の職員が会議室へ呼ばれている。数分だけ空く」
「危険すぎる」
「安全な選択肢は、もう残っていない」
真鍋は振り返らなかった。
蓮は、短く息を吐いた。
その通りだった。
保守通路は狭かった。
真鍋は慣れた足取りで進む。蓮はその後を追いながら、できるだけ音を立てないようにした。金属床は布を巻いた靴底でもわずかに鳴る。真鍋が途中で振り返り、足を置く位置を指で示した。梁の近くを踏め、中央は鳴る。蓮はうなずき、その通りに歩いた。
「この通路は何です」
「古い空調点検用の通路だ。改修前から残っている」
「職員は知っているのか」
「保守担当は知っている。医療職員はほとんど知らない」
「なぜあなたは知ってる」
「昔、患者が一人ここに入り込んだ」
真鍋の声は淡々としていた。
「その人は?」
「出てこなかった」
蓮はそれ以上聞かなかった。
通路の先に、縦長の点検扉があった。真鍋は耳を当て、廊下の音を確認する。数秒待ってから、扉を細く開けた。
白い廊下。
人影はない。
蓮と真鍋は外へ出た。
そこは昨日通った職員休憩室近くではなかった。廊下の壁に、監視端末室と表示がある。扉の横には認証パネル。黒いガラス窓の奥は見えない。
真鍋は認証カードをかざした。
短い電子音。
赤いランプ。
拒否。
蓮は真鍋を見た。
「入れないのか」
「私は医療区画権限だ。監視端末室には入れない」
「ではどうする」
真鍋はポケットから別のカードを出した。
それは医師用ではなかった。青い縁取りのある職員カード。名前の部分は擦れて読めない。
「誰のカードだ」
「退職した保守担当者のものだ」
「盗んだのか」
「残されていた」
「使えるのか」
「使えなければ、ここで終わりだ」
真鍋はカードをかざした。
電子音。
今度は黄色いランプが点いた。
追加認証。
蓮は緊張した。
真鍋はパネル下の小さなカバーを開け、細い金属片のようなものを差し込んだ。数秒後、黄色いランプが青に変わる。
扉が開いた。
「五分」
真鍋が言った。
「それ以上は無理だ」
監視端末室は、蓮が想像していたより狭かった。
壁一面にモニターが並んでいる。赤い線の配給ホール、共同スペース、廊下、検査室前、処置ゲート、観察室前。見慣れた場所が、見慣れない角度で映っていた。
蓮は思わず足を止めた。
自分が二年以上暮らしてきた場所が、ここではただの画面だった。
共同スペースでは、透が椅子に座っている。膝を抱え、誰かを待つように入口を見ている。三枝は洗濯室の前にいた。表情は読み取れないが、いつもより動きが硬い。
赤い線のホールも映っている。
そこに蓮はいない。
もう、いない側の人間になった。
「見るな」
真鍋が言った。
「端末はこっちだ」
中央の机に、大型端末が三台並んでいた。うち一台はログイン状態のままになっている。画面には東棟第七区画の監視ログが表示されていた。
真鍋は素早く操作した。
「七〇二番」
検索欄に番号を入力する。
画面が切り替わった。
患者情報。
番号:七〇二。
氏名:佐伯莉子。
区画:東棟第七。
状態:保管対象。
分類:R反応群。
最新移送:B2保管庫。
処置履歴:再判定、鎮静、採取、搬送。
蓮は画面を見つめた。
保管対象。
R反応群。
その言葉を見ただけで、胃が冷たくなる。
「R反応群とは何だ」
真鍋は別の画面を開こうとした。
「待て。説明するより、見たほうが早い」
「説明しろ」
「時間がない」
真鍋は検索条件を変更した。
七〇〇。
佐伯美和。
蓮の母の名前が表示された。
蓮は息を忘れた。
患者情報。
番号:七〇〇。
氏名:佐伯美和。
区画:東棟第七。
状態:処理済。
分類:R反応群。
死亡記録:急性呼吸不全。
内部記録:薬剤性多臓器障害疑い。
処置履歴:再判定、投与継続、急変、記録制限。
投与継続。
急変。
記録制限。
蓮は画面に手をつきそうになり、止めた。
真鍋は彼を見た。
「ここで止まるな」
「母は病気で死んだんじゃないのか」
「公式にはそうだ」
「本当は」
「薬剤性の反応が強く出た」
「薬って何だ」
真鍋は画面を閉じようとした。
蓮はその腕を掴んだ。
触ってしまった。
三枝の言葉が頭をよぎる。
だが、離せなかった。
「答えろ」
真鍋は蓮の手を振り払わなかった。
「初期治療薬だ」
「感染症の?」
「そうだ。未知の病原体に対して、緊急承認前の薬剤が投与された。最初は人道的使用という名目だった。重症化を防ぐため、隔離者に優先投与された」
「俺たちにも?」
「全員ではない。群分けされた」
「本人の同意は」
真鍋は黙った。
その沈黙で、蓮は理解した。
「母は、実験台だったのか」
「その言い方を否定できない」
真鍋の声は苦かった。
「当初は、治療のつもりだった。少なくとも現場にはそう説明されていた。だが副反応が出始めた。発熱、皮膚症状、神経症状、臓器障害。さらに、一部の患者に特殊な反応が見られた」
「それがR反応群」
「そうだ」
「莉子も」
「佐伯莉子は、佐伯美和と同じ反応パターンを示した」
蓮の中で、母と妹の名前が重なった。
母が死んだ理由。
莉子が連れていかれた理由。
どちらも感染ではない。
施設が投与した薬。
その反応。
隠された記録。
「なぜ今まで隠していた」
「薬剤の責任問題になる。施設の閉鎖判断の誤りも明るみに出る。誰が投与を決め、誰が継続を許可し、誰が死亡記録を書き換えたのか。すべてが問われる」
「だから赤い線で閉じ込めた」
真鍋はうなずいた。
「感染を防ぐためだけではなくなった。薬害の証拠を外に出さないための線になった」
蓮は、画面の中の母の名前を見た。
佐伯美和。
処理済。
それが母の最後に貼られた言葉だった。
泣くことも、怒鳴ることもできなかった。
怒りが大きすぎると、人は声を失うのだと初めて知った。
真鍋が別のウィンドウを開いた。
「B2ログを見る」
操作が早い。
検索。
入退室記録。
B2保管庫。過去二十四時間。
画面に名前が並ぶ。
黒瀬修司。
真鍋悠介。
搬送担当A。
搬送担当B。
対象七〇二。
対象六一八。
処理班。
蓮の目が止まった。
「六一八も地下へ?」
「今朝、状態が悪化した」
「生きているのか」
「わからない」
真鍋はさらに画面を拡大した。
対象七〇二の行。
入室時刻、二十一時四十三分。
状態、鎮静下。
保管区画、B2西側低温室。
備考、追加採取予定。管理官承認待ち。
低温室。
「低温室とは何だ」
「検体と遺体の保管場所だ」
蓮の身体が固まった。
真鍋がすぐに言った。
「七〇二は遺体保管ではない。鎮静下と記録されている。少なくとも入室時点では生存していた」
「低温室に生きた人間を入れるのか」
「正確には低温管理区画だ。室温を下げて代謝を抑える。重篤な薬剤反応が出た対象を一時的に置くことがある」
「治療か」
「治療と呼べるかはわからない」
「あなたは医者だろ」
「だから、治療と呼べないものを治療とは言わない」
真鍋の声には、自己嫌悪が滲んでいた。
蓮はそれを聞いても、同情できなかった。
「莉子に追加採取とは何をする」
「血液と組織の再採取。R反応群の解析だ」
「人体実験じゃないか」
「そうだ」
真鍋は今度も否定しなかった。
蓮は、拳を端末の机に叩きつけそうになった。
だが、音を立てれば終わる。
彼は歯を食いしばった。
「B2へ行く方法は」
「今はない」
「ログがある」
「ログがあっても扉は開かない。地下エレベーターは黒瀬の認証が要る」
「黒瀬を捕まえればいい」
「無理だ」
「無理かどうかは――」
「警備が二人ついている。彼は常に管理カードを持っているが、生体認証も必要だ。力づくでは入れない」
「なら、どうする」
真鍋は画面を閉じ、別のフォルダを開いた。
「記録を外に出す」
蓮は目を細めた。
「莉子を助けるんじゃないのか」
「記録が外に出れば、施設は閉鎖できなくなる。外部監査が入る。B2を隠せなくなる」
「それまで莉子は?」
「だから急いでいる」
真鍋はファイル一覧を開いた。
死亡者リスト。
R反応群一覧。
投薬履歴。
内部通達。
赤線処分記録。
死亡記録修正履歴。
蓮は、その文字列を見た。
赤線処分記録。
坂井の名前があるのかもしれない。
母の記録も。
莉子のこれからの記録も、ここに書き加えられようとしているのかもしれない。
「これを外に送れるのか」
「端末室からは無理だ。外部通信は管理官権限で遮断されている」
「では」
「記録媒体にコピーする」
真鍋はポケットから、親指ほどの小型記録媒体を出した。
「これに入れる。ただし容量が限られている。全部は無理だ。最低限、七〇二、七〇〇、R反応群一覧、赤線処分記録、内部通達の一部」
「外に出す方法は」
「まだない」
「あなたは、ないことばかり言う」
「ないものをあるとは言えない」
真鍋は記録媒体を端末に差し込んだ。
コピーが始まる。
進行バーが表示された。
一パーセント。
二パーセント。
蓮はモニターの監視映像を見た。
赤い線のホール。共同スペース。廊下。洗濯室。
三枝が共同スペースに戻っている。透が彼女に何かを聞いている。三枝は小さく首を横に振った。
彼女は、蓮が生きていることを知らない。
いや、信じているのかもしれない。
五パーセント。
七パーセント。
廊下側の音がした。
真鍋が動きを止める。
足音。
複数。
端末室に近づいている。
「早い」
真鍋が呟いた。
「誰だ」
「黒瀬かもしれない」
蓮の身体がこわばる。
コピーはまだ十二パーセント。
「止めるのか」
「止められない。途中で抜くとファイルが壊れる」
「時間は」
「最低三分」
皮肉な数字だった。
三分。
赤い線を越えるのにも三分。
真実を盗み出すのにも三分。
いつも、足りない。
真鍋はすばやく操作し、画面を別の監視ログに切り替えた。コピー画面は背後で小さく表示されたままだ。
「君は机の下へ」
「嫌だ」
「今は議論するな」
真鍋の声が鋭かった。
蓮は机の下に身を隠した。作業ガウンの裾を押し込む。心臓が激しく鳴る。
扉の外で、認証音がした。
青いランプ。
扉が開く。
複数の足音が入ってきた。
その中の一人の声を、蓮は知っていた。
毎朝、放送で聞いていた声。
冷たく、平板で、感情の揺れがない声。
「真鍋先生」
黒瀬管理官。
蓮の指が床を掴んだ。
真鍋は落ち着いた声で答えた。
「管理官。処置室三のログ確認ですか」
「それもありますが、主目的は処置ゲートです」
黒瀬の靴が、机の近くで止まる。
蓮は息を止めた。
「負荷試験中に、処置ゲートが手動開閉されています」
「ログの乱れでは?」
「そうであればよいのですが」
黒瀬はゆっくり歩いた。
机の向こう側。
モニターの前。
蓮からは靴先だけが見える。磨かれた黒い靴。隔離区域の支給靴とは違う。
「東棟第七の七〇一番が、昨夜から姿を確認できません」
蓮の身体が硬直した。
真鍋の返答は、わずかにも遅れなかった。
「居住区にいないのですか」
「監視上は見当たりません。三枝菜月が何か知っている可能性があります」
三枝の名前が出た。
蓮の奥歯が鳴りそうになった。
黒瀬は続けた。
「先生は、七〇一番に心当たりは?」
「妹を連れていかれた青年ですね。昨日、処置ゲート前で見ました」
「それだけですか」
「それだけです」
「彼は、攻撃性を示していました」
「妹を移送されれば、誰でも動揺します」
「動揺と越境は違います」
黒瀬の声は静かだった。
「赤い線は、感情で越えてよいものではありません」
蓮は机の下で拳を握った。
赤い線。
その言葉を、黒瀬が口にすると、規則そのものが喋っているように聞こえた。
コピーはどうなっている。
蓮からは画面が見えない。
真鍋は言った。
「七〇一番が越境したとお考えですか」
「可能性としては」
「タレットは反応していない」
「負荷試験中でした」
「では監視映像を確認すべきですね」
「そのために来ています」
黒瀬が端末の前に立った。
蓮のすぐ上だ。
机の天板越しに、手の動く音が聞こえる。
もし黒瀬が少しでも身を屈めれば、蓮は見つかる。
真鍋の声がした。
「管理官。先に処置室三のバイタルログをご確認いただけますか。六一八番の状態が不安定です」
「六一八は高齢です。優先度は七〇二番でしょう」
莉子の番号。
蓮の心臓が跳ねた。
「七〇二番の追加採取は、予定通り本日午後に行います」
黒瀬は淡々と言った。
「R反応が確認された以上、サンプルは新鮮なうちに必要です」
サンプル。
妹を、サンプルと呼んだ。
蓮の視界が赤くなりかけた。
真鍋の足が、机の下で蓮の靴先に触れた。
動くな。
その合図だった。
黒瀬は続けた。
「佐伯美和の反応記録は、当時不完全でした。娘で同型反応が出たのは貴重です」
「彼女はまだ十七歳です」
「年齢は関係ありません」
「状態が安定していない」
「だからこそ必要です」
黒瀬の声に、悪意はなかった。
それが最も恐ろしかった。
この男は、残酷なことを残酷だと思っていない。必要な手続きとして話している。蓮たちの痛みも、母の死も、莉子の恐怖も、すべてデータの状態でしか見ていない。
「七〇一番がもし侵入しているなら、七〇二番に近づく可能性があります」
黒瀬は言った。
「B2の警備を増やしてください。処置対象に接触された場合、記録の信頼性が下がります」
記録の信頼性。
妹の命よりも、記録の信頼性。
蓮の呼吸が乱れかけた。
真鍋が咳払いをした。
「管理官、端末室の空調が少し不安定です。昨日から私も喉に違和感があります」
黒瀬の靴が少し離れた。
「施設管理に連絡を」
「はい」
そのとき、端末から小さな電子音が鳴った。
コピー完了の音だった。
蓮は凍りついた。
黒瀬も気づいた。
「今の音は?」
真鍋が即座に言った。
「バイタルログの同期です」
「端末を見せてください」
黒瀬が近づく。
真鍋の動きが一瞬だけ遅れた。
その一瞬で、黒瀬は何かを見たのかもしれない。
沈黙。
「真鍋先生」
黒瀬の声が変わった。
「外部記録媒体が接続されていますね」
蓮の背中に冷たい汗が流れた。
真鍋は答えなかった。
「何をコピーしたのですか」
「患者記録です」
「権限外です」
「医師として必要でした」
「医師として?」
黒瀬は、初めてわずかに笑ったようだった。
「ここで医師という言葉を使うのは、ずいぶん久しぶりですね」
真鍋の声が低くなる。
「黒瀬さん。もう限界です」
「何がです」
「七〇二番は危険な状態です。これ以上の採取は――」
「先生」
黒瀬が遮った。
「あなたは、まだ自分が治療をしているつもりなのですか」
真鍋は黙った。
「この施設の目的は、感染拡大防止と記録保全です。個別の感情で運用を曲げることはできません」
「個別の命です」
「命は記録に含まれます」
蓮は、その言葉を聞いた瞬間、もう我慢できなかった。
机の下から飛び出そうとした。
だが真鍋の足が強く蓮の足を踏んだ。
動くな。
痛みが蓮を止めた。
黒瀬は言った。
「記録媒体を提出してください」
「拒否します」
「では、あなたを規定違反として拘束します」
複数の足音が動いた。
警備員がいる。
蓮は机の下から、真鍋の足が一歩下がるのを見た。
次の瞬間、部屋の照明が消えた。
完全な停電ではない。
端末の一部が落ち、モニターが暗転した。
「何だ」
黒瀬の声。
真鍋が叫んだ。
「今だ!」
蓮は机の下から飛び出した。
何が起きたのかはわからない。
だが、考える時間はない。
黒瀬の横をすり抜ける。
誰かが腕を掴もうとした。蓮は身体をひねり、机に肩をぶつけながら逃れた。モニターの一つが倒れ、床に落ちる。警告音。
真鍋が記録媒体を蓮へ投げた。
小さな銀色の粒のようなものが宙を飛ぶ。
蓮はそれを掴んだ。
「走れ!」
真鍋の声。
蓮は扉へ向かった。
警備員が立ちはだかる。蓮は正面からぶつからず、椅子を蹴った。椅子が床を滑り、警備員の足に当たる。その隙に扉を抜ける。
廊下へ。
背後で黒瀬の声が響いた。
「隔離者番号七〇一、佐伯蓮。管理区域への不正侵入を確認」
放送が施設全体に流れ始めた。
『隔離者番号七〇一、佐伯蓮。あなたはすでに赤い線を越えた。規定により、処分対象です』
その声は、廊下のスピーカーだけでなく、施設全体に響いていた。
『繰り返します。隔離者番号七〇一、佐伯蓮。規定により、処分対象です』
蓮は走った。
手の中に、記録媒体がある。
母の記録。莉子の記録。赤い線の記録。施設の嘘。
それがどれほどの力を持つのか、まだわからない。
外に出す方法もない。
B2へ行く方法もない。
だが、何も持たずに追われているわけではなかった。
廊下の角を曲がる。
白い作業ガウンが翻る。
背後から足音が迫る。
スピーカーの声が、何度も同じ言葉を繰り返す。
処分対象。
処分対象。
処分対象。
蓮はその言葉を聞きながら、初めてはっきりと理解した。
彼はもう、赤い線のこちら側へ戻ることはできない。
だが、戻るつもりもなかった。
莉子はB2にいる。
母の死は記録に残っている。
そして、この施設は嘘でできている。
蓮は記録媒体を握りしめ、白い廊下の奥へ走った。




