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赤い線の向こう側―疫病隔離施設。地面に赤い線が引かれ、越えた者は射殺される。  作者: 二条理|アコンプリス


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6/11

第六章 処置室の記録

 午前九時を過ぎても、真鍋は戻ってこなかった。

 仮眠室には時計がなかった。蓮は時間を、休憩室から聞こえる音で測るしかなかった。職員の足音、電子レンジの起動音、紙コップが置かれる音、短い会話。誰かが「九時交代」と言ったのを聞いた。そのあと、別の声が「監視端末、引き継ぎ終わり」と答えた。

 真鍋は、午前九時前に戻ると言っていた。

 だが扉は開かない。

 蓮はベッドの端に座り、作業ガウンの内側にしまった紙を指で押さえていた。

 七〇二詳細。

 七〇〇過去。

 B2ログ。

 たった三つの言葉なのに、重かった。

 莉子の今を示す記録。母の死を示す記録。地下へ続く出入りの記録。どれか一つでも見つければ、状況は動く。逆に言えば、それがなければ蓮は何もできない。

 ここまで来た。

 赤い線を越えた。

 管理区域に侵入した。

 外のニュースを見た。

 莉子がB2保管庫へ移送されたことを知った。

 それでも、肝心なところにはまだ触れていない。

 施設の中心には、いつも扉がある。

 赤い線。処置ゲート。観察室。処置室。地下。どこへ行っても、次の扉が立ちはだかる。蓮たちは二年以上、扉の手前で止められてきた。

 今度は、止まるわけにはいかなかった。

 休憩室で、椅子が引かれる音がした。

「黒瀬管理官、今日こっち来るって?」

「午前中に巡回。東棟第七のログ確認だと」

「昨日の再判定絡み?」

「それもあるんじゃないか。ゲートの開閉履歴、変だったらしいし」

「まさか越境?」

「知らん。そうなら警報鳴ってるだろ」

「負荷試験中なら鳴らないこともあるって聞いたけど」

「余計なこと言うなよ」

 会話がそこで切れた。

 蓮は息を殺した。

 ゲートの開閉履歴。

 東棟第七のログ確認。

 黒瀬管理官。

 見つかるまでの猶予は、思っていたより短い。

 蓮は立ち上がった。

 仮眠室の中を見回す。隠れられる場所はない。ベッドの下は低すぎる。ロッカーはない。換気扇は人が通れる大きさではない。扉の向こうは休憩室。職員がいる。

 ここにいれば安全だと真鍋は言った。

 だが、その安全は午前九時までのものだったのではないか。

 蓮は扉に耳を近づけた。

 休憩室には少なくとも二人いる。声の距離からして、テーブルのあたりだ。扉から出ればすぐに見つかる。

 そのとき、仮眠室の奥の壁から、小さな音がした。

 こつ、こつ。

 蓮は振り向いた。

 壁だと思っていた場所に、細い隙間がある。古い点検パネルだった。白く塗られているため、遠目には壁と同化している。隙間の向こうで、もう一度音がした。

 こつ。

 蓮は近づき、パネルを押した。

 開かない。

 今度は横にずらす。

 わずかに動いた。

 隙間から、真鍋の目が見えた。

「声を出すな」

 真鍋は囁いた。

「こっちへ来い」

 蓮は点検パネルをさらにずらした。

 人ひとりが通れるほどの開口部が現れる。中は細い保守通路だった。配管とケーブルがむき出しになっている。床は金属製のグレーチングで、踏むと音が響きそうだった。

 蓮は身をかがめて中へ入った。

 真鍋がパネルを戻す。

 保守通路の中は薄暗かった。非常用の小さなランプが、数メートルおきに点いている。空気は温かく、埃っぽい。壁の向こうから休憩室の声がぼんやり聞こえた。

「遅い」

 蓮は低く言った。

「黒瀬が予定を早めた」

「来るのか」

「もう来ている」

 真鍋は先に進みながら言った。

「東棟第七区画の処置ゲート開閉履歴を確認している。職員はまだ越境者がいるとは断定していないが、時間の問題だ」

「俺を逃がすのか」

「逃がす先がない」

「では」

「監視端末室へ行く」

 蓮は足を止めかけた。

「今?」

「今しかない。黒瀬がログ確認に来たせいで、端末室の職員が会議室へ呼ばれている。数分だけ空く」

「危険すぎる」

「安全な選択肢は、もう残っていない」

 真鍋は振り返らなかった。

 蓮は、短く息を吐いた。

 その通りだった。

 保守通路は狭かった。

 真鍋は慣れた足取りで進む。蓮はその後を追いながら、できるだけ音を立てないようにした。金属床は布を巻いた靴底でもわずかに鳴る。真鍋が途中で振り返り、足を置く位置を指で示した。梁の近くを踏め、中央は鳴る。蓮はうなずき、その通りに歩いた。

「この通路は何です」

「古い空調点検用の通路だ。改修前から残っている」

「職員は知っているのか」

「保守担当は知っている。医療職員はほとんど知らない」

「なぜあなたは知ってる」

「昔、患者が一人ここに入り込んだ」

 真鍋の声は淡々としていた。

「その人は?」

「出てこなかった」

 蓮はそれ以上聞かなかった。

 通路の先に、縦長の点検扉があった。真鍋は耳を当て、廊下の音を確認する。数秒待ってから、扉を細く開けた。

 白い廊下。

 人影はない。

 蓮と真鍋は外へ出た。

 そこは昨日通った職員休憩室近くではなかった。廊下の壁に、監視端末室と表示がある。扉の横には認証パネル。黒いガラス窓の奥は見えない。

 真鍋は認証カードをかざした。

 短い電子音。

 赤いランプ。

 拒否。

 蓮は真鍋を見た。

「入れないのか」

「私は医療区画権限だ。監視端末室には入れない」

「ではどうする」

 真鍋はポケットから別のカードを出した。

 それは医師用ではなかった。青い縁取りのある職員カード。名前の部分は擦れて読めない。

「誰のカードだ」

「退職した保守担当者のものだ」

「盗んだのか」

「残されていた」

「使えるのか」

「使えなければ、ここで終わりだ」

 真鍋はカードをかざした。

 電子音。

 今度は黄色いランプが点いた。

 追加認証。

 蓮は緊張した。

 真鍋はパネル下の小さなカバーを開け、細い金属片のようなものを差し込んだ。数秒後、黄色いランプが青に変わる。

 扉が開いた。

「五分」

 真鍋が言った。

「それ以上は無理だ」

 監視端末室は、蓮が想像していたより狭かった。

 壁一面にモニターが並んでいる。赤い線の配給ホール、共同スペース、廊下、検査室前、処置ゲート、観察室前。見慣れた場所が、見慣れない角度で映っていた。

 蓮は思わず足を止めた。

 自分が二年以上暮らしてきた場所が、ここではただの画面だった。

 共同スペースでは、透が椅子に座っている。膝を抱え、誰かを待つように入口を見ている。三枝は洗濯室の前にいた。表情は読み取れないが、いつもより動きが硬い。

 赤い線のホールも映っている。

 そこに蓮はいない。

 もう、いない側の人間になった。

「見るな」

 真鍋が言った。

「端末はこっちだ」

 中央の机に、大型端末が三台並んでいた。うち一台はログイン状態のままになっている。画面には東棟第七区画の監視ログが表示されていた。

 真鍋は素早く操作した。

「七〇二番」

 検索欄に番号を入力する。

 画面が切り替わった。

 患者情報。

 番号:七〇二。

 氏名:佐伯莉子。

 区画:東棟第七。

 状態:保管対象。

 分類:R反応群。

 最新移送:B2保管庫。

 処置履歴:再判定、鎮静、採取、搬送。

 蓮は画面を見つめた。

 保管対象。

 R反応群。

 その言葉を見ただけで、胃が冷たくなる。

「R反応群とは何だ」

 真鍋は別の画面を開こうとした。

「待て。説明するより、見たほうが早い」

「説明しろ」

「時間がない」

 真鍋は検索条件を変更した。

 七〇〇。

 佐伯美和。

 蓮の母の名前が表示された。

 蓮は息を忘れた。

 患者情報。

 番号:七〇〇。

 氏名:佐伯美和。

 区画:東棟第七。

 状態:処理済。

 分類:R反応群。

 死亡記録:急性呼吸不全。

 内部記録:薬剤性多臓器障害疑い。

 処置履歴:再判定、投与継続、急変、記録制限。

 投与継続。

 急変。

 記録制限。

 蓮は画面に手をつきそうになり、止めた。

 真鍋は彼を見た。

「ここで止まるな」

「母は病気で死んだんじゃないのか」

「公式にはそうだ」

「本当は」

「薬剤性の反応が強く出た」

「薬って何だ」

 真鍋は画面を閉じようとした。

 蓮はその腕を掴んだ。

 触ってしまった。

 三枝の言葉が頭をよぎる。

 だが、離せなかった。

「答えろ」

 真鍋は蓮の手を振り払わなかった。

「初期治療薬だ」

「感染症の?」

「そうだ。未知の病原体に対して、緊急承認前の薬剤が投与された。最初は人道的使用という名目だった。重症化を防ぐため、隔離者に優先投与された」

「俺たちにも?」

「全員ではない。群分けされた」

「本人の同意は」

 真鍋は黙った。

 その沈黙で、蓮は理解した。

「母は、実験台だったのか」

「その言い方を否定できない」

 真鍋の声は苦かった。

「当初は、治療のつもりだった。少なくとも現場にはそう説明されていた。だが副反応が出始めた。発熱、皮膚症状、神経症状、臓器障害。さらに、一部の患者に特殊な反応が見られた」

「それがR反応群」

「そうだ」

「莉子も」

「佐伯莉子は、佐伯美和と同じ反応パターンを示した」

 蓮の中で、母と妹の名前が重なった。

 母が死んだ理由。

 莉子が連れていかれた理由。

 どちらも感染ではない。

 施設が投与した薬。

 その反応。

 隠された記録。

「なぜ今まで隠していた」

「薬剤の責任問題になる。施設の閉鎖判断の誤りも明るみに出る。誰が投与を決め、誰が継続を許可し、誰が死亡記録を書き換えたのか。すべてが問われる」

「だから赤い線で閉じ込めた」

 真鍋はうなずいた。

「感染を防ぐためだけではなくなった。薬害の証拠を外に出さないための線になった」

 蓮は、画面の中の母の名前を見た。

 佐伯美和。

 処理済。

 それが母の最後に貼られた言葉だった。

 泣くことも、怒鳴ることもできなかった。

 怒りが大きすぎると、人は声を失うのだと初めて知った。

 真鍋が別のウィンドウを開いた。

「B2ログを見る」

 操作が早い。

 検索。

 入退室記録。

 B2保管庫。過去二十四時間。

 画面に名前が並ぶ。

 黒瀬修司。

 真鍋悠介。

 搬送担当A。

 搬送担当B。

 対象七〇二。

 対象六一八。

 処理班。

 蓮の目が止まった。

「六一八も地下へ?」

「今朝、状態が悪化した」

「生きているのか」

「わからない」

 真鍋はさらに画面を拡大した。

 対象七〇二の行。

 入室時刻、二十一時四十三分。

 状態、鎮静下。

 保管区画、B2西側低温室。

 備考、追加採取予定。管理官承認待ち。

 低温室。

「低温室とは何だ」

「検体と遺体の保管場所だ」

 蓮の身体が固まった。

 真鍋がすぐに言った。

「七〇二は遺体保管ではない。鎮静下と記録されている。少なくとも入室時点では生存していた」

「低温室に生きた人間を入れるのか」

「正確には低温管理区画だ。室温を下げて代謝を抑える。重篤な薬剤反応が出た対象を一時的に置くことがある」

「治療か」

「治療と呼べるかはわからない」

「あなたは医者だろ」

「だから、治療と呼べないものを治療とは言わない」

 真鍋の声には、自己嫌悪が滲んでいた。

 蓮はそれを聞いても、同情できなかった。

「莉子に追加採取とは何をする」

「血液と組織の再採取。R反応群の解析だ」

「人体実験じゃないか」

「そうだ」

 真鍋は今度も否定しなかった。

 蓮は、拳を端末の机に叩きつけそうになった。

 だが、音を立てれば終わる。

 彼は歯を食いしばった。

「B2へ行く方法は」

「今はない」

「ログがある」

「ログがあっても扉は開かない。地下エレベーターは黒瀬の認証が要る」

「黒瀬を捕まえればいい」

「無理だ」

「無理かどうかは――」

「警備が二人ついている。彼は常に管理カードを持っているが、生体認証も必要だ。力づくでは入れない」

「なら、どうする」

 真鍋は画面を閉じ、別のフォルダを開いた。

「記録を外に出す」

 蓮は目を細めた。

「莉子を助けるんじゃないのか」

「記録が外に出れば、施設は閉鎖できなくなる。外部監査が入る。B2を隠せなくなる」

「それまで莉子は?」

「だから急いでいる」

 真鍋はファイル一覧を開いた。

 死亡者リスト。

 R反応群一覧。

 投薬履歴。

 内部通達。

 赤線処分記録。

 死亡記録修正履歴。

 蓮は、その文字列を見た。

 赤線処分記録。

 坂井の名前があるのかもしれない。

 母の記録も。

 莉子のこれからの記録も、ここに書き加えられようとしているのかもしれない。

「これを外に送れるのか」

「端末室からは無理だ。外部通信は管理官権限で遮断されている」

「では」

「記録媒体にコピーする」

 真鍋はポケットから、親指ほどの小型記録媒体を出した。

「これに入れる。ただし容量が限られている。全部は無理だ。最低限、七〇二、七〇〇、R反応群一覧、赤線処分記録、内部通達の一部」

「外に出す方法は」

「まだない」

「あなたは、ないことばかり言う」

「ないものをあるとは言えない」

 真鍋は記録媒体を端末に差し込んだ。

 コピーが始まる。

 進行バーが表示された。

 一パーセント。

 二パーセント。

 蓮はモニターの監視映像を見た。

 赤い線のホール。共同スペース。廊下。洗濯室。

 三枝が共同スペースに戻っている。透が彼女に何かを聞いている。三枝は小さく首を横に振った。

 彼女は、蓮が生きていることを知らない。

 いや、信じているのかもしれない。

 五パーセント。

 七パーセント。

 廊下側の音がした。

 真鍋が動きを止める。

 足音。

 複数。

 端末室に近づいている。

「早い」

 真鍋が呟いた。

「誰だ」

「黒瀬かもしれない」

 蓮の身体がこわばる。

 コピーはまだ十二パーセント。

「止めるのか」

「止められない。途中で抜くとファイルが壊れる」

「時間は」

「最低三分」

 皮肉な数字だった。

 三分。

 赤い線を越えるのにも三分。

 真実を盗み出すのにも三分。

 いつも、足りない。

 真鍋はすばやく操作し、画面を別の監視ログに切り替えた。コピー画面は背後で小さく表示されたままだ。

「君は机の下へ」

「嫌だ」

「今は議論するな」

 真鍋の声が鋭かった。

 蓮は机の下に身を隠した。作業ガウンの裾を押し込む。心臓が激しく鳴る。

 扉の外で、認証音がした。

 青いランプ。

 扉が開く。

 複数の足音が入ってきた。

 その中の一人の声を、蓮は知っていた。

 毎朝、放送で聞いていた声。

 冷たく、平板で、感情の揺れがない声。

「真鍋先生」

 黒瀬管理官。

 蓮の指が床を掴んだ。

 真鍋は落ち着いた声で答えた。

「管理官。処置室三のログ確認ですか」

「それもありますが、主目的は処置ゲートです」

 黒瀬の靴が、机の近くで止まる。

 蓮は息を止めた。

「負荷試験中に、処置ゲートが手動開閉されています」

「ログの乱れでは?」

「そうであればよいのですが」

 黒瀬はゆっくり歩いた。

 机の向こう側。

 モニターの前。

 蓮からは靴先だけが見える。磨かれた黒い靴。隔離区域の支給靴とは違う。

「東棟第七の七〇一番が、昨夜から姿を確認できません」

 蓮の身体が硬直した。

 真鍋の返答は、わずかにも遅れなかった。

「居住区にいないのですか」

「監視上は見当たりません。三枝菜月が何か知っている可能性があります」

 三枝の名前が出た。

 蓮の奥歯が鳴りそうになった。

 黒瀬は続けた。

「先生は、七〇一番に心当たりは?」

「妹を連れていかれた青年ですね。昨日、処置ゲート前で見ました」

「それだけですか」

「それだけです」

「彼は、攻撃性を示していました」

「妹を移送されれば、誰でも動揺します」

「動揺と越境は違います」

 黒瀬の声は静かだった。

「赤い線は、感情で越えてよいものではありません」

 蓮は机の下で拳を握った。

 赤い線。

 その言葉を、黒瀬が口にすると、規則そのものが喋っているように聞こえた。

 コピーはどうなっている。

 蓮からは画面が見えない。

 真鍋は言った。

「七〇一番が越境したとお考えですか」

「可能性としては」

「タレットは反応していない」

「負荷試験中でした」

「では監視映像を確認すべきですね」

「そのために来ています」

 黒瀬が端末の前に立った。

 蓮のすぐ上だ。

 机の天板越しに、手の動く音が聞こえる。

 もし黒瀬が少しでも身を屈めれば、蓮は見つかる。

 真鍋の声がした。

「管理官。先に処置室三のバイタルログをご確認いただけますか。六一八番の状態が不安定です」

「六一八は高齢です。優先度は七〇二番でしょう」

 莉子の番号。

 蓮の心臓が跳ねた。

「七〇二番の追加採取は、予定通り本日午後に行います」

 黒瀬は淡々と言った。

「R反応が確認された以上、サンプルは新鮮なうちに必要です」

 サンプル。

 妹を、サンプルと呼んだ。

 蓮の視界が赤くなりかけた。

 真鍋の足が、机の下で蓮の靴先に触れた。

 動くな。

 その合図だった。

 黒瀬は続けた。

「佐伯美和の反応記録は、当時不完全でした。娘で同型反応が出たのは貴重です」

「彼女はまだ十七歳です」

「年齢は関係ありません」

「状態が安定していない」

「だからこそ必要です」

 黒瀬の声に、悪意はなかった。

 それが最も恐ろしかった。

 この男は、残酷なことを残酷だと思っていない。必要な手続きとして話している。蓮たちの痛みも、母の死も、莉子の恐怖も、すべてデータの状態でしか見ていない。

「七〇一番がもし侵入しているなら、七〇二番に近づく可能性があります」

 黒瀬は言った。

「B2の警備を増やしてください。処置対象に接触された場合、記録の信頼性が下がります」

 記録の信頼性。

 妹の命よりも、記録の信頼性。

 蓮の呼吸が乱れかけた。

 真鍋が咳払いをした。

「管理官、端末室の空調が少し不安定です。昨日から私も喉に違和感があります」

 黒瀬の靴が少し離れた。

「施設管理に連絡を」

「はい」

 そのとき、端末から小さな電子音が鳴った。

 コピー完了の音だった。

 蓮は凍りついた。

 黒瀬も気づいた。

「今の音は?」

 真鍋が即座に言った。

「バイタルログの同期です」

「端末を見せてください」

 黒瀬が近づく。

 真鍋の動きが一瞬だけ遅れた。

 その一瞬で、黒瀬は何かを見たのかもしれない。

 沈黙。

「真鍋先生」

 黒瀬の声が変わった。

「外部記録媒体が接続されていますね」

 蓮の背中に冷たい汗が流れた。

 真鍋は答えなかった。

「何をコピーしたのですか」

「患者記録です」

「権限外です」

「医師として必要でした」

「医師として?」

 黒瀬は、初めてわずかに笑ったようだった。

「ここで医師という言葉を使うのは、ずいぶん久しぶりですね」

 真鍋の声が低くなる。

「黒瀬さん。もう限界です」

「何がです」

「七〇二番は危険な状態です。これ以上の採取は――」

「先生」

 黒瀬が遮った。

「あなたは、まだ自分が治療をしているつもりなのですか」

 真鍋は黙った。

「この施設の目的は、感染拡大防止と記録保全です。個別の感情で運用を曲げることはできません」

「個別の命です」

「命は記録に含まれます」

 蓮は、その言葉を聞いた瞬間、もう我慢できなかった。

 机の下から飛び出そうとした。

 だが真鍋の足が強く蓮の足を踏んだ。

 動くな。

 痛みが蓮を止めた。

 黒瀬は言った。

「記録媒体を提出してください」

「拒否します」

「では、あなたを規定違反として拘束します」

 複数の足音が動いた。

 警備員がいる。

 蓮は机の下から、真鍋の足が一歩下がるのを見た。

 次の瞬間、部屋の照明が消えた。

 完全な停電ではない。

 端末の一部が落ち、モニターが暗転した。

「何だ」

 黒瀬の声。

 真鍋が叫んだ。

「今だ!」

 蓮は机の下から飛び出した。

 何が起きたのかはわからない。

 だが、考える時間はない。

 黒瀬の横をすり抜ける。

 誰かが腕を掴もうとした。蓮は身体をひねり、机に肩をぶつけながら逃れた。モニターの一つが倒れ、床に落ちる。警告音。

 真鍋が記録媒体を蓮へ投げた。

 小さな銀色の粒のようなものが宙を飛ぶ。

 蓮はそれを掴んだ。

「走れ!」

 真鍋の声。

 蓮は扉へ向かった。

 警備員が立ちはだかる。蓮は正面からぶつからず、椅子を蹴った。椅子が床を滑り、警備員の足に当たる。その隙に扉を抜ける。

 廊下へ。

 背後で黒瀬の声が響いた。

「隔離者番号七〇一、佐伯蓮。管理区域への不正侵入を確認」

 放送が施設全体に流れ始めた。

『隔離者番号七〇一、佐伯蓮。あなたはすでに赤い線を越えた。規定により、処分対象です』

 その声は、廊下のスピーカーだけでなく、施設全体に響いていた。

『繰り返します。隔離者番号七〇一、佐伯蓮。規定により、処分対象です』

 蓮は走った。

 手の中に、記録媒体がある。

 母の記録。莉子の記録。赤い線の記録。施設の嘘。

 それがどれほどの力を持つのか、まだわからない。

 外に出す方法もない。

 B2へ行く方法もない。

 だが、何も持たずに追われているわけではなかった。

 廊下の角を曲がる。

 白い作業ガウンが翻る。

 背後から足音が迫る。

 スピーカーの声が、何度も同じ言葉を繰り返す。

 処分対象。

 処分対象。

 処分対象。

 蓮はその言葉を聞きながら、初めてはっきりと理解した。

 彼はもう、赤い線のこちら側へ戻ることはできない。

 だが、戻るつもりもなかった。

 莉子はB2にいる。

 母の死は記録に残っている。

 そして、この施設は嘘でできている。

 蓮は記録媒体を握りしめ、白い廊下の奥へ走った。



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