第五章 線の向こう側
廊下の床は、同じ白ではなかった。
赤い線の手前にいた頃、蓮は施設全体が同じ白で塗り固められていると思っていた。壁も床も天井も、病院のような、研究所のような、墓の内側のような白。どこまでも続くその色に、少しずつ自分の輪郭が溶けていく気がした。
だが、線の向こう側の白は違った。
床には薄い光沢があり、足を置くたびに非常灯の赤が鈍く反射した。清掃されているだけではない。材質そのものが違う。隔離区域の床は滑り止めのためにざらついていた。こちら側は、靴裏の布越しにもなめらかさが伝わる。
壁の角には保護材が貼られていない。蓮たちの区域では、壁も家具も、角という角が丸くされていた。自傷防止。暴動防止。転倒時の負傷防止。そう説明された。ここにはそれがない。
人間として扱われている者が歩く場所。
そう思った瞬間、胃の奥が熱くなった。
真鍋医師は、蓮を振り返らずに歩いていた。
白衣の裾が、赤い非常灯の中でかすかに揺れる。歩き方は落ち着いていた。急いでいるが、慌ててはいない。職員用通路を歩くことに慣れた人間の歩幅だった。
蓮は、その二歩後ろを進んだ。
近すぎると不自然になる。遠すぎると、職員に見つかったときに言い訳ができない。三枝が何度も言っていたことを思い出す。
向こう側では、感情より先に距離を測れ。
職員との距離。
監視カメラとの距離。
扉との距離。
そして、死との距離。
廊下の先で、白い作業服の職員が二人、端末を覗き込んでいた。蓮は反射的に顔を伏せる。マスクで半分隠れているとはいえ、患者服を見られれば終わる。灰色の服は、この管理区域ではあまりにも目立つ。
真鍋は歩く速度を変えず、その職員たちの横を通った。
「処置室三、戻ります」
短く告げる。
職員の一人が顔を上げた。
「あれ、先生。六一八は?」
「鎮静下で安定。三十分後に再確認する」
「了解です」
職員の視線が、蓮のほうへ流れた。
蓮の背筋が凍った。
「そっちは?」
真鍋が立ち止まらずに答えた。
「廃棄リフト室へ。感染性リネン」
蓮が持っている布袋を、職員は見た。
「ああ、はい」
それだけだった。
職員は端末へ視線を戻した。
通過する。
蓮は息を吐きたいのをこらえた。
廊下の角を曲がったところで、真鍋が低く言った。
「息を止めすぎるな。倒れる」
蓮は返事をしなかった。
「君は医療者じゃない。ここの職員でもない。呼吸の仕方だけで目立つ」
「妹はどこだ」
蓮は問いを返した。
真鍋は答えなかった。
代わりに、通路右手の小さな扉を開けた。
「入れ」
蓮は扉の表示を見た。
廃棄リフト室。
扉の向こうは、狭い作業室だった。壁際に金属製の投入口があり、その上に赤いランプと黄色い注意書きが貼られている。感染性廃棄物搬送用。手動開閉禁止。保守点検時は管理官承認が必要。
部屋の隅には、折り畳まれた段ボール箱と、封のされた廃棄袋が積まれていた。空調の音は廊下より弱い。代わりに、壁の奥から機械が上下するような低い振動が聞こえた。
真鍋は扉を閉め、内側からロックをかけた。
「ここなら、午前五時までは誰も来ない」
「どうしてわかる」
「廃棄物の回収は五時十五分だ。負荷試験直後は、各部署がログ確認に追われる。こんな部屋を見る暇はない」
「あなたはなぜ俺を助ける」
「まだ助けているわけではない」
「さっきもそう言った」
蓮は布袋を床に置いた。
「なら、何をしている」
真鍋はマスクを外さなかった。顔の半分は隠れたままだ。目だけが蓮を見ている。疲れた目だった。夜勤明けの医師の目とは違う。もっと長い時間、眠ることを許されなかった人間の目だ。
「三枝さんから聞いたのか」
「あなたの名前だけは」
「菜月が、まだ生きているなら」
「生きてます」
「そうか」
真鍋は一瞬だけ目を伏せた。
それは安堵のようにも、罪悪感のようにも見えた。
「知り合いなんですか」
「昔、同じチームにいた」
「彼女は、あなたたちにこちら側へ落とされたと言っていた」
真鍋は反論しなかった。
「間違ってはいない」
「あなたも関わったのか」
「関わっていないとは言えない」
蓮は、彼に掴みかかりたい衝動を抑えた。
今ここで真鍋を殴っても、莉子の居場所はわからない。三枝の言葉が頭の奥で響く。職員に触るな。医師に触るな。感情で動くな。
蓮は拳を握ったまま、低く言った。
「七〇二番。佐伯莉子。処置室三経由、B2保管庫へ移送と端末に出ていた。あれは何だ」
真鍋の目がわずかに細くなった。
「それを見たなら、すぐに忘れたほうがいい」
「忘れられると思うか」
「思わない」
「答えろ」
真鍋は廃棄リフトの投入口に背を向け、壁にもたれた。
「B2保管庫は、地下二階にある」
「保管庫という名前は何を意味する」
「施設側の分類名だ」
「人間を保管するのか」
真鍋は答えなかった。
その沈黙だけで、蓮の中にある何かが軋んだ。
「莉子は生きているのか」
「私が最後に確認した時点では、生きていた」
蓮の膝から力が抜けそうになった。
だが、その言葉にすがりきる前に、真鍋が続けた。
「ただし、状態はいいとは言えない」
「何をした」
「処置室三で、鎮静と検体採取を行った」
「検体採取?」
「血液、唾液、粘膜、皮膚反応。薬剤反応の確認だ」
「感染症の検査じゃないのか」
真鍋は、そこで初めてはっきりと視線を逸らした。
蓮は、その反応を見た瞬間、三枝の言葉を思い出した。
薬剤反応。
昨日、彼女が職員の前で口にした言葉。その瞬間、職員の動きが一瞬止まった。
「妹は、感染しているんじゃないのか」
「ここで話すには長すぎる」
「短くしろ」
「少なくとも、施設が君たちに説明しているような意味での感染者ではない」
蓮は言葉を失った。
真鍋は続けた。
「東棟第七区画にいる人間全員が、外に出れば社会を壊す病原体を持っている。そう説明されているはずだ」
「そう聞かされている」
「それは、もう事実ではない」
「もう?」
「当初は危険性が高かった。未知の病原体で、致死率も感染力も読めなかった。封鎖は必要だった。隔離も必要だった。少なくとも、最初の段階では」
「今は違うのか」
真鍋は答えなかった。
部屋の奥で、機械の振動が低く続いている。
「今は違うのか」
蓮はもう一度言った。
「違う」
短い答えだった。
その一言で、蓮が二年以上信じ込まされてきた世界が揺れた。
赤い線は、感染から外を守るために引かれている。
蓮たちは危険だから閉じ込められている。
処置室は治療の場所だ。
母は病気で死んだ。
莉子は陽性だから連れていかれた。
それらの前提が、音もなく崩れていく。
蓮は廃棄リフト室の壁に手をついた。
「外は」
声がかすれた。
「外はどうなっている」
真鍋はすぐには答えなかった。
蓮は彼の沈黙に苛立ち、視線を上げた。
「俺たちは、外の都市部は壊滅状態だと聞かされている。公共交通は止まり、学校も病院も機能していないと。感染拡大を防ぐため、俺たちを出せないと。外はどうなっている」
真鍋は、小さく息を吐いた。
「都市は動いている」
蓮は、その意味を理解できなかった。
「何?」
「完全に元通りではない。後遺症の問題もある。医療体制も再編された。だが、君たちが聞かされているような崩壊状態ではない。交通も動いている。学校も再開している。病院も通常診療に戻っている」
蓮の耳の奥で、血が鳴った。
外は動いている。
学校も。
病院も。
交通も。
莉子が通っていた高校も、もしかすると再開しているのかもしれない。クラスメイトたちは進級し、卒業し、別の場所へ進んでいるのかもしれない。その間、莉子は灰色の服を着て、赤い線の手前で栄養パックを飲まされていた。
母は。
母は何のために死んだ。
「なぜ、俺たちはここにいる」
蓮は言った。
真鍋は答えない。
「なぜ出さない」
「それを知るためには、君はもう少し生きていなければならない」
「今答えろ」
「答えれば、君は今すぐB2へ行こうとする」
「行く」
「だから答えられない」
蓮は真鍋に近づいた。
「あなたは医者だろう」
「そうだ」
「なら、妹を地下の保管庫に送った理由を説明しろ」
真鍋の目に、初めて苛立ちが浮かんだ。
「私が送ったわけではない」
「止めなかった」
「止めれば、私も消される」
「だから黙って見ていたのか」
「そうだ」
真鍋は逃げなかった。
その即答が、蓮をさらに怒らせた。
「それを正直に言えば許されると思っているのか」
「思っていない」
「じゃあ何だ。罪悪感のために俺を助けているのか」
「罪悪感だけで人は動けない」
「なら」
「記録を残すためだ」
蓮は動きを止めた。
「記録?」
真鍋は廃棄リフト室の小窓から外を確認した。廊下に人影はない。彼はポケットから小さなカード型端末を取り出した。職員用の認証端末に似ているが、蓮の見たものより古い。
「この施設では、公式記録が何度も書き換えられている。死亡者の分類、処置内容、投薬量、転棟理由、すべてだ。だが、書き換え前の記録が一部残っている」
「あなたが残したのか」
「私だけじゃない」
「三枝さんも?」
「彼女は知らない部分が多い。知りすぎれば危険だった」
「もう危険だろ」
「そうだ」
真鍋は端末を握りしめた。
「君の妹は、その記録に関わる可能性がある」
「どういう意味だ」
「七〇二番は、薬剤反応が強い。症状が出たから処置室へ送られたのではなく、反応が出たから観察対象として選ばれた」
「薬剤反応って何だ」
真鍋が答えようとしたとき、廊下の向こうで電子音が鳴った。
真鍋はすぐに端末をしまった。
「時間だ。ここを出る」
「まだ何も聞いていない」
「ここに残れば、五時十五分に廃棄回収が来る。その時点で終わりだ」
「どこへ行く」
「職員休憩室の裏に、使われていない仮眠室がある。そこへ一時的に隠れる」
「B2へは」
「今は無理だ」
「俺は莉子を助けに来た」
「その言葉を捨てろ」
真鍋の声が低くなった。
「ここで助けるという言葉を口にする人間は、大抵最初に死ぬ。生きて探せ。生きて記憶しろ。生きて戻れ。助けるのはその後だ」
三枝と同じことを言う。
蓮は、それが悔しかった。
悔しいが、二人とも正しいのかもしれなかった。
真鍋は扉を開ける前に、蓮の灰色の服を見た。
「そのままだと目立つ」
彼は部屋の隅に積まれた廃棄袋の上から、薄い白い作業用ガウンを取った。未使用のものらしい。蓮に投げる。
「着ろ」
「職員に見えるか」
「遠目なら」
蓮は灰色の患者服の上からガウンを羽織った。袖が少し短い。だが、灰色が隠れるだけでましだった。
布袋はどうするか迷ったが、真鍋が首を横に振った。
「置いていけ。リネンを持ち歩く理由がない」
蓮は布袋を廃棄袋の陰に押し込んだ。
真鍋は扉を細く開け、廊下を確認した。
「私の後ろ。顔を上げるな。呼ばれても返事をするな」
蓮はうなずいた。
廊下に出る。
主電源は完全に復旧していた。白い照明が戻り、赤い非常灯の気配はない。天井のカメラも動いている。蓮は自分が監視されていることを強く意識した。白い作業ガウンの下に、汗が流れる。
真鍋は医師用の認証カードで扉を開け、通路を進んだ。
管理区域は、蓮が想像していたより広かった。
赤い線の向こうにあるのは、処置室と職員通路だけだと思っていた。実際には違う。廊下は幾つも枝分かれし、各所に部屋がある。検体準備室。清潔資材庫。職員更衣室。薬剤管理室。監視端末室。表示板の文字が目に入るたび、蓮はその位置を覚えようとした。
情報を取れ。
三枝の声がする。
覚えろ。
蓮は歩きながら、頭の中に地図を描いた。
処置室三から廃棄リフト室。右へ曲がり、短い廊下。薬剤管理室の前を通過。左に監視端末室。突き当たりを右。職員休憩室。
職員休憩室の扉が開いた瞬間、蓮は足を止めそうになった。
匂いが違った。
コーヒーの匂いがした。
それから、温められた食事の匂い。
電子レンジの前に紙製の弁当容器が置かれている。テーブルには飲みかけのペットボトル。壁には職員用の掲示板。勤務表、感染対策マニュアル、休憩時間の注意書き。小さな冷蔵庫の上には、誰かが持ち込んだ菓子の箱があった。
人間の生活があった。
蓮は、その光景に強い怒りを覚えた。
職員が温かい弁当を食べ、コーヒーを飲み、菓子をつまんでいる同じ建物の中で、莉子は栄養パックを飲み、微熱を隠し、処置室へ運ばれた。
赤い線一本で、世界はこれほど変わる。
「止まるな」
真鍋が言った。
休憩室には誰もいなかった。テーブルの上の端末が一台、スリープ状態で置かれている。壁際にはニュース映像を流すモニターがあった。
蓮は、その画面を見てしまった。
映っていたのは、朝のニュース番組だった。
見出しの文字。
首都圏鉄道、通常ダイヤへ完全復帰。
蓮は足を止めた。
映像には駅のホームが映っていた。マスク姿の人々が歩いている。学生服の少年少女。スーツを着た会社員。ベビーカーを押す母親。売店。自動改札。電光掲示板。
普通の朝。
少なくとも、蓮が覚えている外の朝に近い光景。
キャスターが何かを話している。音声は小さい。だが、画面下のテロップは読めた。
封鎖区域再編から一年。経済活動はほぼ平時水準に。
封鎖区域再編。
一年。
蓮たちは、その一年を知らされていない。
さらに別のニュースに切り替わる。
高校総体、三年ぶり全面開催へ。
制服姿の生徒たちが笑っている。
莉子と同じくらいの年齢の少女が、インタビューに答えている。声は聞こえない。だが、笑顔は見えた。
蓮は画面に近づきかけた。
真鍋が腕を掴んだ。
「見るな」
「外は」
「あとで話す」
「莉子は高校に戻れたはずだった」
「今は見るな」
「俺たちは何を」
蓮の声が震えた。
「何を、ここで」
真鍋の手に力が入った。
「壊れるな」
その言葉で、蓮は我に返った。
ここで立ち尽くしている場合ではない。
真鍋は休憩室の奥にある細い扉を開けた。物置のように見えるが、その先にさらに小部屋があった。古い仮眠室だった。ベッドが二つ。片方はマットレスが外され、もう片方には薄いシーツがかけられている。壁の換気扇は止まっていた。埃っぽい匂いがする。
「ここにいろ」
真鍋は言った。
「午前九時までは、この部屋に誰も来ない。休憩室を通る職員はいるが、奥までは入らない」
「あなたは」
「処置室へ戻る。私が長く消えると疑われる」
「莉子のところへ行けるのか」
「B2へは簡単には入れない。黒瀬管理官の承認が要る」
「黒瀬」
その名を、蓮は知っていた。
毎朝の放送。施設維持規定。処分命令。赤い線の規則。顔は見たことがない。だが、声と名前だけは嫌というほど聞いている。
「施設の管理責任者だ」
真鍋が言った。
「彼がすべてを決めるのか」
「すべてではない。だが、ここでは彼の承認なしに地下へは行けない」
「地下で何をしている」
「それを知るには、記録が必要だ」
「また記録か」
「そうだ」
真鍋は蓮の正面に立った。
「君が見た直近搬送リスト。それだけでは足りない。七〇二番がなぜB2へ送られたのか、どの処置を受けたのか、今どの分類に置かれているのか。それを確認しなければ、動けない」
「分類?」
真鍋はためらった。
「この施設では、患者は患者として管理されていない」
「何として」
「観察対象、反応対象、保管対象」
蓮の中で、何かが冷えていった。
「人間の分類じゃない」
「そうだ」
「母も?」
その問いは、ほとんど無意識に出た。
真鍋の目が揺れた。
「母の番号は七〇〇。佐伯美和。二年前の冬、処置室へ運ばれて戻らなかった」
真鍋は視線を落とした。
「覚えている」
蓮は、一歩近づいた。
「覚えている?」
「彼女は、記録に残っている」
「死因は」
「公式には急性呼吸不全」
「本当は」
真鍋は答えなかった。
「本当は何だ」
「今は言えない」
「言えないことばかりだな」
「言えば、君は今すぐ地下へ行く」
「当たり前だ」
「だから言えない」
蓮は真鍋の胸倉を掴みかけた。
だが、途中で手を止めた。
三枝の言葉。
触るな。
蓮は腕を下ろした。
「あなたは、俺を利用するつもりか」
「そうかもしれない」
真鍋は否定しなかった。
「君は赤い線を越えた。戻れない。施設側にとっては処分対象だ。だが、逆に言えば、君はもう規則の中にはいない」
「つまり、あなたができないことを俺にさせる」
「そうなる可能性はある」
「正直ですね」
「嘘をついて信用される段階ではない」
真鍋はポケットから、小さな紙を取り出した。職員用メモ用紙の裏に、いくつかの番号と部屋名が書かれている。
「午前九時半、監視端末室の担当が交代する。交代直後の五分間、端末が無人になることがある」
「そこに入れと?」
「まだ入るな。見ろ。配置を覚えろ。端末の位置、職員の数、扉のロック。必要なのは次の三つだ」
真鍋は紙を蓮に渡した。
蓮は受け取る。
「七〇二番の詳細記録。七〇〇番の過去記録。B2保管庫の入退室ログ」
「それがあれば莉子のところへ行ける?」
「行ける可能性が上がる」
可能性。
また、その言葉。
蓮は紙を握りしめた。
「俺は、隔離区域に戻れないのか」
「今は無理だ。赤い線の監視ログが残っている。処置ゲートの開閉も確認されている。君が戻ろうとすれば、線の上で撃たれる可能性が高い」
「三枝さんに情報を伝える方法は」
「考える」
「今考えろ」
「今は君を隠すのが先だ」
真鍋は仮眠室の扉へ向かった。
「九時前に戻る。それまでここから出るな。休憩室に人が来ても、音を立てるな。ニュースも見るな」
「なぜ」
「心を削られるだけだ」
蓮は返事をしなかった。
真鍋は扉を開ける前に、振り返った。
「七〇二番は、少なくとも処置室三を出た時点では生きていた」
「本当に?」
「本当だ」
「あなたは、俺の母のときもそう言ったのか」
真鍋は表情を失った。
しばらく沈黙した後、言った。
「言えなかった」
扉が閉まった。
仮眠室に、蓮だけが残された。
休憩室の向こうから、電子レンジの音が聞こえた。誰かが入ってきたらしい。職員の会話。眠い、夜勤きつい、来週のシフトがどうの。ごく普通の会話だった。
蓮はベッドの端に座った。
手の中の紙を見る。
七〇二詳細。
七〇〇過去。
B2ログ。
文字が滲んで見えた。
泣いているのではない。
そう思おうとした。
だが、目の奥が熱かった。
母の番号。
莉子の番号。
数字にされ、分類され、移送され、消される。
蓮は紙を折り、作業ガウンの内側にしまった。
ふと、休憩室のモニターの音声が少し大きくなった。
扉越しに、ニュースキャスターの声が聞こえる。
『……感染症特別措置の一部解除から一年を迎え、政府は残る観察区域についても段階的な縮小を検討していると発表しました』
蓮は顔を上げた。
観察区域。
段階的な縮小。
自分たちの施設のことなのか。
職員の一人が笑った。
「また外向きの発表か」
「縮小なんて無理だろ。東棟は特に」
「黒瀬さんが許さないって」
「まあ、あそこはな」
あそこ。
東棟第七区画のことだ。
蓮は、扉に近づきたい衝動を抑えた。
職員たちは、蓮たちが聞いたことのない言葉で、蓮たちの運命を語っている。
外では縮小が検討されている。
だが黒瀬が許さない。
なぜ。
何を隠している。
蓮は仮眠室の壁にもたれた。
目を閉じると、休憩室で見たニュース映像が浮かんだ。駅のホーム。学生服。通常ダイヤ。高校総体。
その中に、莉子がいるはずだった。
施設に来なければ。
赤い線がなければ。
母が記録表に正直に発熱を書かなければ。
いや、違う。
母が悪いのではない。
正直に書いた人間が消える場所が間違っている。
蓮は、ゆっくりと息を吐いた。
怒りがある。
恐怖もある。
後悔もある。
だが、今はそれらを一つずつ分けて置かなければならない。怒りのまま動けば死ぬ。恐怖に沈めば動けない。後悔に溺れれば、莉子まで届かない。
情報を取る。
記録を見る。
B2保管庫へ行く。
そのために生きる。
赤い線の向こう側は、死の場所ではなかった。
死よりも悪いものが整然と保管されている場所だった。
温かい弁当。
コーヒー。
ニュース映像。
職員の笑い声。
そのすぐ近くに、処置室があり、地下へ続くログがあり、莉子の番号がある。
蓮はベッドに横にならなかった。
仮眠室の扉を見つめたまま、午前九時を待った。
戻れないなら、進むしかない。
それは覚悟というより、単に他の道がなくなっただけだった。
だが、それでもいい。
線の向こう側に来て初めて、蓮は理解した。
赤い線は、こちらと向こうを分けていたのではない。
真実を見る者と、見ないまま死んでいく者を分けていたのだ。




